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2016年10月19日水曜日

社交・愛・感覚・芸術のシーニュ

ひとが失うところの時、失われた時、ひとが再び見出すところの時、見出された時。Temps qu'on perd, temps perdu, temps qu'on retrouve et temps retrouvé sont les quatre lignes du temps.(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

ドゥルーズ=プルーストはこの四つの時の局面を、signes mondains 社交のシーニュ signes amoureux 愛のシーニュ slgnes sensibles 感覚的シーニュ signes de l'art 芸術のシーニュと結び付けている。

すなわち、

① ひとが失うところの時=社交のシーニュ
② 失われた時=愛のシーニュ
③ ひとが再び見出すところの時=感覚的シーニュ
④ 見出された時=芸術のシーニュ

①と③はよくわかる気がする。

①とはたとえば、ヴァレリー曰くの次のようなことだろう。

公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼ぱ己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴ――大いなる個人的快楽―――になぞらえるにいたるのだ。(ヴァレリー『テスト氏との一夜』)

こうやってひとは時を失う。ツイッター「社交界」などでのインテリもしくはにわかインテリの振舞いはその典型例だろう。

③はプルーストの名高いレミニサンスである(参照:「 レミニサンス réminiscence」と「穴馬 troumatisme」)。

だが、②と④はどういうことなのか。失われた時=愛のシーニュ、見出された時=芸術のシーニュとは?

社交のシーニュの神経的興奮、愛のシーニュの苦悩と不安。感覚的シーニュの異常な歓び(しかし、そこではなお、存在と無との間で存続している矛盾として、不安が現われている)。芸術のシーニュの純粋な歓び。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

話が前後するが、感覚的シーニュは異常な歓びがあるにしろ、《存在と無との間で存続している矛盾 la contradiction subsistante de l'être et du néant 》とある。

事実これと似たような表現が、プルーストの名高い「心情の間歇」の章にあらわれる、《cette contradiction si étrange de la survivance et du néant entre-croisés en moi》。

手元の井上究一郎訳ではつぎのような訳文となっている。

私のなかで交錯する残存者と虚無とのそのようなふしぎな矛盾、 (「ソドムとゴモラⅠ」p.272)

ドゥルーズ自身、別に《感覚的シーニュは真実を語るが、その中には、残存 survivance と虚無 néant との対立が残っている》としているように、感覚的シーニュの異常な歓びのなかには「虚無」があるとしているわけだ。

ラカン派的には、無意志的記憶とは、トラウマ=穴(ブラックホール)との遭遇のことである。ここでのトラウマの意味合いには注意しなければならないが。

現実界とは、トラウマの形式として……(言語によって)表象されえないものとして、現われる。 …le réel se soit présenté …sous la forme du trauma,… ne représente(ラカン、S.11)
テュケーの機能、出会いとしての現実界の機能ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね」としての「現前」« présence » comme « rencontre manquée » [ in abstentia ]である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマという形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、セミネールⅪ、邦訳よりだが一部変更ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)
古代の Unerkannt (知りえないもの)としての無意識は、まさに我々の身体のなかで何が起こっているかの無知によって支えられている何ものかである。

しかしフロイトの無意識はーーここで強調に値するがーー、まさに私が言ったこと、つまり次の二つのあいだの関係性にある。つまり、「我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger 」と「円環を作る何か、あるいは真っ直ぐな無限と言ってもよい(それは同じことだ)」、この二つのあいだの関係性、それが無意識である。(S.23 le sinthome, 976)

※より詳しくは、「基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)」を見よ。

ーーだがここでは、ラカン派の観点に拘らずに、メモに徹する。

さて「愛のシーニュ」と「芸術のシーニュ」に話を戻せば、ドゥルーズは次のように説明している(社交のシーニュと感覚的シーニュもふくめての説明箇所である)。


【意味の性質、及び、シーニュとその意味とのつながり】
社交のシーニュは空虚 videsであって、行動と思考の代りをするものであり、行動と思考の意味としての価値があると主張される。

愛のシーニュは嘘をつくものである。愛のシーニュの意味は、そのシーニュが示すものと隠していると主張されるところのものとの矛盾の中に捉えられる。

感覚的シーニュは真実を語るが、その中には、残存 survivance と虚無 néant との対立が残っている。また、感覚的シーニュの意味はまだ物質的であって、それ自体とは別の物の中に存在している。

しかし、芸術の段階にまで昇るにつれて、シーニュと意味との関係は次第に接近し、親密なものになる。芸術は、非物質的なシーニュと、精神的な意味との、究極的な、美しい統一である。


【シーニュに含まれる時間的構造または時間の線、及び、対応する真理のタイプ】
ひとつのシーニュを解釈するには、常に時間が必要である。社交のシーニュの場合には、時は失われてしまうが、それは、社交のシーニュが空虚であり、それが展開されて出口で、接触されず、あるいは、同一のままで再び見出されるからである。怪物のように、らせんのように、それらのシーニュはメタモルフォーゼから再生する。そこには、おのれを以前と同じものとしては再び見出すことのない解釈者の成熟のように、失われた時の中にある。それは存在と物を変化させ、それらを経過させる時間である。ここにもまた、失われた時のひとつの真実、いくつかの真実がある。しかし、失われた時の真実は、単に数が多く、近似的で、あいまいであるのみではなく、われわれがそれを把握するのは、もはやわれわれがこの真実に対する関心を失い、解釈者の自我、愛していた自我がすでに消滅したときだけである。たとえば、それはジルベルトやアルベルチーヌについてあてはまる。

つまり、愛に関しては、真実はいつでも、あまりに遅く到着する la vérité vient toujours trop tard。愛の時間は失われた時間である Le temps de l'amour est un temps perdu。なぜならば、シーニュは、その意味に対応する自我が消滅して行くに従ってだけ発展するからである。

感覚的シーニュは、われわれに時間の新しい構造を示す。それは、失われた時そのもののなかで再び見出される時、すなわち永遠のイメージである。つまり、感覚的なシーニュは(愛のシーニュと反対に)、意味に対応する自我を、欲求と想像力によって喚起したり、無意志的記憶 mémoire involontaire によって再び喚起する力を持っているのである。

最後に芸術のシーニュは、再び見出された時を規定 définissent する。それは、意味とシーニュを統一する、絶対的な、初原的時間、真の永遠である temps primordial absolu, véritable éternité qui réunit le sens et le signe。(プルーストとシーニュ、ドゥルーズ、pp.106-109)

「芸術のシーニュ」があまりにも絶対的に顕揚されているのに異和をおぼえるひともいるかもしれない。

たとえば、《芸術は、非物質的なシーニュと、精神的な意味との、究極的な、美しい統一である》とある。芸術のシーニュが非物質的とはどういうことなんだと。

ドゥルーズは次のような説明をしている。

芸術のシーニュが他のあらゆるシーニュにまさっているのは何においてであろうか。それは、他のあらゆるシーニュが物質的だということである。それらはまず第一に、シーニュが発せられていることにおいて物質的であり、シーニュのにない手である事物の中に、なかば含まれている。感覚的性質も、好きな顔も、やはり物質である。(意味作用を持つ感覚的性質が特に匂いであり味であるのは偶然ではない。匂いや味は、最も物質的な性質である。また、好きな顔の中でも、頬と肌理がわれわれをひきつけるのも偶然ではない。) 芸術のシーニュだけが非物質的である。恐らく、ヴァントゥイユの短い楽節は、ピアノとヴァイオリンとから流れでてくるもので、非常によく似た五つのノートがあって、そのうちのふたつが反復される、というように、物質的に分解されるものであろう。しかし、プラトンの場合と同じように、三プラス二は何も説明しない。ピアノは全く別の性質を持った鍵盤の空間的イマージュとしてしか存在せず、ノートは、全く精神的なひとつの実体の《音声的な現われ》としてのみ存在する。《まるで演奏者たちは、その短い楽節が現われるのに要求される儀礼をしているようで、演奏しているようではなかった……》 この点において、短い楽節の印象そのものが、物質なし(シネ・マテリア Sine materia)である。

上の文節の最後に引用されているプルーストの文をもう少し長く引用すれば次の箇所である。

あたかも演奏者たちは、小楽節を奏しているというよりは、むしろ小楽節に強要されるままに、その小楽節が姿をあらわすに必要な聖なる儀式をとりおこなっているように見え、小楽節を呼びだす奇蹟に成功しそれをしばらくひきのばすために必要な呪文をとなえているように見えたので、スワンはーーその小楽節が紫外線の世界に属してしまったかのようにもはやそれを見ることもできず、またそれに近づいたとき、突然おそわれた一時の失明のなかで、変身の爽快な感覚にも似たものを味わっていたスワンはーーその小楽節が、彼の恋の秘密をきいてくれる守護女神であって、聴衆をまえにして彼のかたわらに近づき、彼を脇に連れていって話しかけようと、そうした楽の音に身をやつして現前しているのだ、と感じるのであった。そしてその女神が、彼に必要な言葉を告げながら、香水のように、軽く、心をやわらげ、そっとささやいて通りすぎてゆくあいだに、彼はその一語一語を玩味し、その言葉がそんなに早くとびさるのを惜しみながら、なだらかに、逃げて行くように過ぎさる、その調和あるからだに、無意識のうちに、くちづける動作をするのだった。(プルースト「スワン家のほうへ」 井上究一郎訳)

ドゥルーズの文にあらわれた「シネ・マテリア Sine materia」という表現については、プルースト自身は次のような文のなかで使用している。

そのまえの年、ある夜会で、彼はピアノとヴァイオリンとで演奏されたある作曲をきいたことがあった。最初彼はただ楽器からにじみでる音の物質的な性質だけしかたのしまなかった。それからヴァイオリンの、ほそくて、手ごたえのある、密度の高い、統率的な、小さな線の下から、突如としてピアノの部分の大量の音が、ざわめきながらわきたち、月光に魅惑される変記号に転調された波のモーヴ色の大ゆれのように、さまざまな形をとり、うちつづき、平にのび、ぶつかりあって、高まってこようとしているのを見たとき、それだけでもう彼は大きな快楽にひたったのであった。しかし、そのうちふとある瞬間から、スワンは、輪郭をはっきり識別することも、彼に快感をあたえているものをそれと名ざすこともできないままに、突如として魅惑された状態で、たそがれどきのしっとりした空気にただようばらの匂が鼻孔をふくらませるように、通りすがりに彼の魂を異様に大きくひらいたあの楽節かハーモニーかをーーそれが何であるかを彼自身も知らなかったがーー心のなかでまとめてみようとつとめたのだった。

スワンがそのように漠然として印象、しかしおそらく唯一の純粋に音楽的な印象、ひろがりをもたない、まったく独自な、他のどんな種類の印象にもまとめることができない印象の一つを感じることができたのは、たぶん彼が音楽を知らなかったからであろう。その種の印象は、しばらくのあいだは、いわば無実体 Sine materia である。なるほどそんな瞬間にわれわれが耳にする音は、その高低と長短とにしたがって、いちはやくわれわれの眼前でさまざまな次元の面を被い、アラベスクを描き、われわれに幅や薄さや安定性や気まぐれの感覚をあたえようとするものである。しかしそれらの音は、そうした感覚がわれわれのなかで十分な形をととのえないうちにうすれ、つづく音や、同時の音さえもがすでに呼びおこしている感覚によってかき消されてしまう。そして記憶が、波のなかに堅固な土台をすえてゆく労働者のように、消えやすいこれらの楽節の複写をつくって、われわれがその楽節とそれにつづく楽節とを比較し区別できるようにしないとすれば、そうした印象は、ときどきかすかにわかるほどそこから浮かびあがってはたちまち消えてゆくモチーフ、それがあたえる特殊な快感によって認められるばかりで、書きあらわすことも、思いだすことも、名づけることもできない名状しがたいモチーフを、この印象の流動性とたえまない「オーヴァラップ」とによって、いつまでも被いかくすであろう。そのようにして、スワンが味わったあの言いようもなく快い感覚が消えると、彼の記憶は時を移さずその感覚の簡略で一時的な転写をもたらしてくれたのであるが、しかし曲がつづいていたときスワンはあまりにもこの転写に注目しすぎていたので、同一の印象が突如としてもどってきても、その印象はもはやとらえられなかった。彼はその印象のひろがり、その均斉ある集合、その記譜法、その表現の力強さを思いだすことができた。彼は眼前に、もはや純粋の音楽には属さないもの、むしろ素描であり、建築であり、思想に属するものでありながら、しかも音楽を思いださせるもの、そのようなものをもっのであった。いまや、明確に彼は音の波の上に数分間浮かびあがった一つの楽節を識別したのであった。それは彼にただちに特殊な官能のよろこび、それを耳にする以前には考えられたこともない官能のよろこびを提供したのであり、その楽節よりほかの何物も、そうした官能のよろこびを彼に知らせることはできないだろうと感じられ、彼はその楽節に未知の恋のようなものをおぼえたのであった。

その楽節は、ゆるやかなリズムで、スワンをみちびき、はじめはここに、つぎはかしこに、さらにまた他のところにと、気高い、理解を越えた、そして明確な、幸福のほうに進んでいった。そしてその未知の楽節がある地点に達し、しばし休止ののち、彼がそこからその楽節についてゆこうと身構をしていたとき、突然、楽節は方向を急変し、一段と急テンポな、こまかい、憂鬱な、とぎれない、やさしい、あらたな動きで、彼を未知の遠景のかなたに連れさっていった。それから、その楽節は消えた。彼は三度目にその楽節にめぐりあいたいとはげしく望んだ。すると、はたして、その楽節がまたその姿をあらわしたが、こんどはまえほどはっきりと話しかけてくれなかったし、まえほど深い官能をわきたたせはしなかった。しかし、彼は家に帰ると、またその楽節が必要になった、あたかも彼は、行きずりにちらと目にしたある女によって生活のなかに新しい美の映像をきざみこまれた男のようであり、その名さえ知らないのにもうその女に恋をし、ふたたびめぐりあうてだてもないのに、その女の新しい美の映像がその男の感受性にこれまでにない大きな価値をもたらす場合に似ていた。(プルースト「スワン家のほうへ」pp.269-271)

もっとも何を「芸術のシーニュ」とするのか、「シネ・マテリア Sine materia」が何なのかについては、ここまで引用された文だけではなく、次のような文も参照しなくてはならない。

ソクラテスは、当然、次のように言うことができる。―――私は、友人である以上に愛であり、愛人である。私は哲学である以上に芸術である。私は、積極的意志であるよりも、しびれなまずであり、強制であり、暴力である、と。『饗宴』、『パイドロス』、『パイドン』は、三つの偉大なシーニュの研究である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』P.203からだが、一部変更)

Socrate peut dire à bon droit : je suis l'Amour plus que l'ami, je suis l'amant; je suis l'art plus que la philosophie; je suis la torpille, la contrainte et la violence, plutôt que la bonne volonté. Le Banquet, le Phèdre et le Phédon sont les trois grandes études des signes.

…………

一般にプルーストやドゥルーズが使用しているシーニュ signe という語彙は「記号」ではないことに注意しなければならない。

西欧語では、「徴候」と「記号」は同じsign という語が用いられるらしい。sign を「徴候」「記号」のいずれに訳するかに困ったことがある。「記号」とは、「記号するもの」と「記号されるもの」とが一組になったものであって、原則的には両者の間に明確な対応関係がある。これに対して「徴候」は、何か全貌がわからないが無視しえない重大な何かを暗示する。ある時には、現前世界自体はほとんど徴候で埋めつくされ、あるいは世界自体が徴候化する。

世界自体が徴候化する場合は「世界破滅感」という病理現象であるかおしれない。ムンクの有名な『叫び』においては、描かれているものはすべて、私のいう意味での徴候と化している。

一般に、世界が徴候化するのは、不安に際してである。私がその世界に安んじておれないということである。(中井久夫「「世界における索引と徴候」について」『徴候・記憶・外傷』所収)

ドゥルーズの『プルーストとシーニュ』には、次のような対比がなされている(参照:哲学と友情)。

・感受性 sensibilité/観察 observation
・思考 pensée /哲学 philosophie
・翻訳 traduction/反省 réflexion
・愛 amour/友情 amitié
・沈黙した解釈 interprétation silencieuse/会話 conversation
・名 noms/言葉 mots
・暗示的シーニュ signes implicites/明示的意味作用 significations explicites
シーニュ・症状の世界  monde des signes et des symptômes/属性の世界 monde des attributs
・パトスの世界 monde du pathos ロゴスの世界 monde du Logos
 象形文字・表意文字の世界 monde des hiéroglyphes et des idéogrammes/分析的表現・表音文字・合理的思考の世界 monde de l'expression analytiquc, de l'écriture phonétique et de la pensée rationnelle

ーー右辺がテリトリー(領土)の世界であるならば、左辺は脱領土化 déterritorialisation の世界であるとしてもよいかもしれない。

これらは簡潔にいってしまえば、詩と散文の対比でもある。

詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、散文とはその図式的側面を主にした使用である。(中井久夫『現代ギリシャ詩選』序文)

ーー《ポエジー poésie だけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。》(ラカン、S.24.1977ーーーー柿の木と梨の木).

ラカン派で次のように語られる文を変奏して、「詩あるいは脱領土化は、分節化された領土の非全体の領域に外立 ex-sistence する」とすることができる。

Fremdkörper(異物)は内部にあるが、この内部の異者である。現実界は、分節化された象徴界の内部(非全体pas-tout)に外立 ex-sistence する。(Paul Verhaeghe、2001ーー基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による))

ーーここに出てくる初期フロイト概念 Fremdkörper は、上に引用した晩年のラカンの「我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger 」(S.23)のことである。

ほかにもたとえば、ドゥルーズの『意味の論理学』には、ライプニッツが円錐曲線をめぐって語られる「曖昧な表徴」(曖昧なシーニュsigne ambigu)という概念が見られる。

ここでの文脈におけるドゥルーズ=プルーストが言いたいことが最もよく表れているのは次の文である。

ある種の民族は、文字をはじめは一連の表象としか見なさず、そのあとでやっと表意文字をつかうようになるのだが、私はこれまでの生きかたにおいて、そうした民族の逆をあゆんだのであった、すなわち私は、多年にわたって、人々が進んで私に提供した言表のなかにしか彼らの生活と思想の真実を求めようとしなかった。ところが真実は彼らのそんな直接の言表のなかにはないので、ついに私は、いままでとは逆に、真実の合理性、分析的表現ではないような証拠や教示にたいしてしか重要性をもたせなくなったのであって、発言そのものよりも、私に真実の教示となるのは、混乱した相手の顔にさっと血がのぼるとか、急にだまりこむとかで解釈される場合でなくてはならなかったのであった。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)

J'avais suivi dans mon existence une marche inverse de celle des peuples, qui ne se servent de l'écriture phonétique qu'après avoir considéré les caractères comme une suite de symboles ; moi qui, pendant tant d'années, n'avais cherché la vie et la pensée réelles des gens que dans l'énoncé direct qu'ils m'en fournissaient volontairement, par leur faute j'en étais arrivé à ne plus attacher, au contraire, d'importance qu'aux témoignages qui ne sont pas une expression rationnelle et analytique de la vérité ; les paroles elles-mêmes ne me renseignaient qu'à la condition d'être interprétées à la façon d'un afflux de sang à la figure d'une personne qui se trouble, à la façon encore d'un silence subit.
真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらく創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密の圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともに、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」の章)