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2016年9月23日金曜日

ネガ(le négatif)こそ創造されねばならない

・すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(徴 示)することができない il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.》(Lacan, S.14)

・常に「一」と「他」、「一」と「対象a」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)(Lacan,20)

オマエ、阿呆か、どうして「私」というシニフィアンが、この私と一致するんだい?

ヘーゲルが何度もくり返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということである。

もっと情動的 pathetic な言い方をするなら、私は話し出した瞬間、もはや即物的に具体性のある「私」ではない。というのは、私は非個人的メカニズムに囚われ、そのメカニズムは常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。

前期ラカンは「私は話しているのではない。私は言語によって話させれている」と言うのを好んだ。これは「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。すなわち、主体が「聖餐式における全質変化 transubstantiation」のために支払わなければならない代価。直かの動物的主体であることから、パッションの生気から引き離された話す主体への移行である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

最近のジジェクではなくても、四半世紀前から言ってるぜ、

《主体とはそれ自身を徴示する(シニフィアンする)表象の不可能性以外のなにものでもない》(ジジェク、1989ーー簡略版:四つの言説

別にラカン派じゃなくていいさ、ゴダールだって言ってるだろ






ゴダールは『JLG/自画像』で、二度、ネガに言及している。一度目は、湖畔でヘーゲルの言葉をノートに書きつけながら、「否定的なもの(le négatif)」を見すえることができるかぎりにおいて精神は偉大な力たりうると口にするときである。二度目は、風景(paysage)の中には祖国(pays)があるという議論を始めるゴダールが、そこで生まれただけの祖国と自分でかちとった祖国があるというときである。そこに、いきなり少年の肖像写真が挿入され、ポジ(le positif)とは生まれながらに獲得されたものだから、ネガ(le négatif)こそ創造されねばならないというカフカの言葉を引用するゴダールの言葉が響く。とするなら、描かれるべき「自画像」は、あくまでネガでなければならないだろう。(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』pp.82-83)

ネガってのは、対象a だよ、正確にいえば、分身=想像的自我+a(分身Doppelgänger =想像的自我+異物 Fremdkörper)だ

人生ってこのためにあるんじゃないのか、《ネガ(le négatif)こそ創造されねばならない》ことに。

で、ツイッターってのは最悪装置なんだよ、想像的自我とばかり睨めっこして、ネガほったらかすシステムだぜ、あれ

・反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。

・世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)。
能動的に思考すること、それは、「非現働的な仕方で inactuel(反時代的に)、したがって時代に抗して、またまさにそのことによって時代に対して、来るべき時代(私はそれを願っているが)のために活動することである」。(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』江川隆男訳)
現在に抗して過去を考えること。回帰するためでなく、「願わくば、来たるべき時のために」(ニーチェ)現在に抵抗すること。つまり過去を能動的なものにし、外に出現させながら、ついに何か新しいものが生じ、考えることがたえず思考に到達するように。思考は自分自身の歴史(過去)を考えるのだが、それは思考が考えていること(現在)から自由になり、そしてついには「別の仕方で考えること」(未来)ができるようになるためである。(ドゥルーズ『フーコー』「褶曲あるいは思考の内(主体)」宇野邦一訳)

やあ、ホント、あの装置には抵抗しなくちゃならない、あの阿呆生産機械には。

せめて俳句(詩)、引用、災害情報、安倍罵倒反復装置ぐらいに限らなくちゃな、
あるいはーー

ツイートというかたちは すくない字数で思いついたことを書きとめておくのによい と思っていた たとえばこんなことも 

どこにも属さず 組織に雇われてはたらかない できれば半分以上の時間をあけておく 瞬間の粒が希薄な時間に散らばる ひととおなじことをしない つよい絆をもたない 「糸ほどの縁を取りて付くべし」(芭蕉)(ことばを区切る、高橋悠治
ツイートの別な使い方。「ボット」のように、自由間接話法の、だれとも知れない声の仮の置き場所として使えないか(壁の向うのざわめき  高橋悠治

ところが、夜郎自大の「わたし」「ぼく」の跳梁跋扈、意味の過剰、湿って纏わりつく抒情を垂れ流すホモ・センチメンタリスばかりで眩暈がするぜ

語りたまえ、そうすればすべてが明らかになる。出来事と諸力に対するきみたちの位置、きみたちの盲目性、きみたちの操作の範囲、きみたちの暗黙の信仰、鏡のなかの自分自身を見るきみたちの仕方が …語りたまえ、そうすればいまにもきみたちは思わず本心を洩らすだろう。叙述したまえ、そうすればきみたちは、自分の思考で考えていることよりずっと多くを言うだろう。悪と関わるきみたちのやり方。ただひとつの悪、実存することの悪だ。全能なる羨望と嫉妬のなかで。一般化された大人の稚拙さのなかで。

(…… )わかりきったことだ。そいつは前面に出てくる。哲学者は旅の逸話のなかで馬脚をあらわす。政治家は物語の色合いの秩序のなかで。さあ、耳をそばだててよく聞くがいい。ヒステリーはその後ろ、すぐ後ろにある、聴診器なんかいらない、それはどんなにささいな文章をも際立たせ、最もささいな形容詞のなかでもそれがふつふつと沸き立っているのが聞こえる。途方もない無意識の退廃、そしてぼく、ぼくが、ぼくが、ぼくが。……(ソレルス『女たち』)

ーーいやあ、あの装置がそうさせるんだよ、
まさか世界はあんなやつらばかりじゃなかったはずだ・・・