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2016年9月10日土曜日

基本版:現代ラカン派の考え方

表題を「基本版:現代ラカン派の考え方」としたが、寡聞であるわたくしの知る限りでの基本的考え方である。

ラカンは三つの重要な点にて現実界を特徴づけた。〈女〉は存在しない。大他者の大他者は存在しない。性関係はない。私の要約では、この三つのすべては欲動に帰着する。より具体的に言えば、決して表象され得ない欲動のトラウマ的部分に。それは文字通り、想像不能、思考不能、夢にさえ現れない。(Paul Verhaeghe、The function and the field of speech and language in psychoanalysis.” A commentary on Lacan's ‘Discours de Rome'. ,2013

ーートラウマについてのいくらかは、次を参照のこと→「基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)

すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的紐帯の現実界は、性関係の不在であり、無意識の現実界は話す身体である。tout n'est pas semblant, il y a un réel. Le réel du lien social, c'est l'inexistence du rapport sexuel. Le réel de l'inconscient, c'est le corps parlant. (ミレール『無意識と話す身体』2014、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER

ここで臨床家ではないジジェクの見解も、ミレールの引用があるので挿入する。

ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、《我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien]》。

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

ーージジェクはおおむねミレールのラカンに従っているのだが、次のような難詰もあるので参照のこと→「何かが途轍もなく間違っている(ジジェク 2016→ ミレール)

さてミレールに戻る。

ファルスは繋辞である。そして、繋辞は大他者に関係がある。

対象a は繋辞ではない。これが、ファルスとの大きな相違だ。対象a は、享楽のモードを刻んでいる。しかし、大他者との関係から切り離された享楽だ。

人が、対象a と書くとき、正当的な身体の享楽に向かう。正当的な身体のなかに外立 ex-sistence する享楽に。

ラカンは対象a にて止まらない。なぜか? 彼はセミネールXX、ラカンの教えの第二段階の最後で、それを説明している。対象a はいまだ幻想のなかに刻まれた sens joui (享楽する意味)である。

我々が、この機能について、ラカンから得る最後の記述は、サントームの Σ である。S(Ⱥ) を Σ として記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」(参照)の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。((ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de Lacan' (‘Lacan's later teaching'、2002)




人にはファルス≒父の名の代わりに、見せかけ semblant としての対象aがある。あるいはS(Ⱥ) =Σ(サントーム)がある。


(ラカン、セミネールⅩⅩ)


神経症においては、我々は「父の名」を持っている、正しい場所にだ。「父の名」は、太陽の下に、その場がある。太陽とは「父の名」の表象だ。

精神病においては、我々が古典的ラカン派の仕方でそれを構成するなら、代わりに「穴」を持っている。これははっきりした相違だ。(…)

「ふつうの精神病」において、あなたは「父の名」を持っていないが、何かがそこにある。補充の仕掛けだ。 (…)とはいえ、事実上それは同じ構造だ。結局、精神病において、それが完全な緊張病 (緊張型分裂病catatonia)でないなら、あなたは常に何かを持っている。その何かによって、主体は逃げ出したり生き続けたりすることが可能になる。ある意味、この何かは、「父の名」と同じようなものだ。ぴったりした見せかけの装いとして。(Miller, J.-A. (2009). Ordinary psychosis revisited.、私訳,PDF
父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎない。(Thomas Svolos、Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant、2008

…………

わたくしは最近読んだなかでは、仏女流ラカン派分析家の第一人者といわれるコレット・ソレールのインタヴュー記事に一番感心した(専門家ではないがラカンにいくらか関心があって、かつ哲学的ラカン派を読むのには抵抗があるという大半の方にはこの程度の「知識」を手始めにすればまずはいいのではないだろうか)。

◆Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », Brésil, 10/09/2013

ーー質問1、欲望は無意識の発見と精神分析の核心にあります。…欲望は最初の言葉です。でも、それは無意識と精神分析の最後の言葉なのでしょうか?

コレット・ソレール)シンプルなことです。精神分析の始まりにおいて、欲望は最初のものであり、フロイトの解釈の唯一の言葉だった。最後において、ラカンとともに、欲望は相変わらずある。でもそれは完全には唯一のものではない。
ーー質問2、精神分析、哲学、広告が基盤としているのは、欲望は欠如に向けられるという原則です。けれども欲望を享楽から、そして満足から分けることは可能なのでしょうか?

ソレール)享楽と満足はとても異なった概念です。享楽は身体を想定しています。満足は、この身体をもった主体の現象です。一般的に、享楽は満足しません。それは苦痛と関係さえします。不調和・不満足なのです。というのは、享楽は大他者と繋がっていないから。大他者から分離さえします。

欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象」と呼んだもの、ラカンが欠如しているものとしての「対象a」と呼んだものです。それにもかかわらず、複合的ではあるけれど、人は享楽欠如を楽しむことが可能です on peut jouir du manque à jouir。それはラカンによって提供されたマゾヒズムの形式のひとつです。
ーー質問3、エディプス、無意識の欲望の原理、それは70年代にとても賛否両論の議論があったのですが、いまも通用するのですか? それは新しい家族の配置に釣り合うのでしょうか?

ソレール)いいえ、フロイトが私たちに提供したエディプスはもはや通用しません。それは、ラカンが言ったように たんなる「hystoriole」です。言ってしまえば、精神分析の「ファミリーロマンス le roman familial 」だった。

最初期のラカンは、アンチエディプスではなくエディプスの彼方を提唱しました。つまりエディプスに異議を申し立てるのではなく再考しようとした。それは、決定的な問いを犠牲にしないでなされました。つまり話す主体にとってのエディプスの機能を知るという問いです。リビドーの方向づけの原理として、それに伴った可能なる社会的紐帯 liens sociaux の原理としてのエディプスの機能です。

というのは、次のことを理解するのは必要不可欠なことだからです。すなわち、定義上、欲望は構造的欠如を基盤としており、言語の効果です。それゆえ欲望は享楽に向けられる。欲望は享楽を目指すのです。欲望は享楽を繋ぎとめる、享楽を抑制しないままで、です。私たちは、欲望/享楽の二項対立をお終いにしなければなりません。確かに、欲望しないままで享楽することは可能であり、享楽なしで欲望することさえ可能です。もしそれが単純な欠如の享楽はでないなら。けれどもすべての欲望は、欠如の穴埋めに向かうのです。

「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel 」というとてももしばしば繰り返される見解において、実に私たちは、父の機能の普遍性への挑戦を観察することができます。それが性的欲望の方向づけに言及している限りで。

これは、ラカン自身が生み出した父の隠喩への挑戦です。(…)この隠喩にて、ラカンははっきりと「父」からシニフィアンを作りました。大他者のなかにある一つのシニフィアンは、大他者のシニフィアン、大他者の法のシニフィアンだった。けれどもラカンはすばやく正反対の結論を言い放ちました、「大他者の大他者は存在しない il n'y a pas d'Autre de l'Autre」と。大他者は斜線が引かれており、享楽の問いには応答しません。

一方で、各人にとって、自らの欲望の通路を取り仕切るものを知る問いがあります。それは父のモデルでありうる。けれども、それは他の可能な解決法のなかのひとつに過ぎません。他方で、父の機能は症状のひとつのヴァージョンだという定式があります。すなわち père-version(父のヴァージョン=倒錯)です。

もっと一般的に言えば、幻想はモンタージュであり、それを通して、欲望は対象a を分節化します。その分節化は、父の機能のモデルを必らずしも通さずになされます。そして欲望に適用される換喩は、欠如の換喩であると同程度に剰余享楽の換喩です。

この点において、ラカンは、彼のエディプスの彼岸 au-delà de l'Œdipe の考え方を以って、感動的な仕方にて世紀の進化の先鞭をつけました。精神分析に、現在の社会の状態を考える最初の概念的道具を提供したのです。

(……)

ーー質問6、ラカンは欲望の様相への病理に言及しています。ヒステリーの不満足な欲望、強迫神経症の不可能な欲望、恐怖症の警告された欲望、倒錯のマゾヒスティックな欲望。すべての人間は、欲望によって病んでいるのでしょうか? 欲望にかんして精神病のポジションはどうなのでしょう?

ソレール)欲望は、それがどんな形式であれ、病理ではありません。主体が欲望について不平を言っていてさえ、病理ではない。それは私たちに想定させてくれます、欲望の形式は、多かれ少なかれ、社会的言説の規範に従っていることを。すなわち、欲望自体は、その多寡はあれ、私たちが「標準」と呼ぶもの、ラカンが「人間の規範 (Norme-mâle)」と呼ぶものーー言説によって構築され、言わば欲望あるいは標準的享楽を捏造することを目指された規範ーーに関わる反対物なのです。(…)

精神病における欲望の問題は別の話です。それはいかに誤った(身丈に合わない)教義が臨床的事実の無視に導くかを示すよい例です。

父は去勢不安にて欲望を生みだすために必要不可欠であるという前提から始めて、私たちは他の分析家が、精神病は欲望を締め出すという結論してしまうのを見ます。けれども、精神病の最も顕著な人物像を観察すれば、彼らが欲望を欠如させているなどということがどうやって支持しうるというのでしょう? むしろ、欲望概念を再検討することが必要不可欠です。(…)
ーー質問7、あなたが欲望概念の再検討を促すなら、欲望は去勢の効果だけではなく、話す主体の原因、言葉それ自体さえの原因だということなのでしょうか?

ソレール)そうです。欲望の原因を生みだすのは言語です。「父」ではありません。父の機能は別物です。それは欲望と享楽のひとつのヴァージョンを表します。この理由で、ラカンは “père-version”、父のヴァージョンと言いました。
ーー質問8、現代の世界は欲望に苦しんでいるのでしょうか、それとも享楽の障害に苦しんでいるのでしょうか? 「すべては可能だ。すべては許される」。21世紀において、これは欲望の終焉ということなのでしょうか?

ソレール)あなたは、資本主義によって提供される剰余享楽は満足をもたらすと想定しているように見えます。それは間違っています。現実では何が起っているのか見てみなさい。全ては許される。そして欲望から、私たちは権利を生んだ。全ては可能だ。私たちはそれを試みた。そして、この land of plenty において、欲望の不満足から生じる叫喚は、享楽の報酬に比して上昇しています。
ーー質問9、ラカンの教えの最後は、いまだ次の主張を許容するのでしょうか、つまり「欲望は大他者の欲望」を? ラカンの最後の教えの帰結は何なのか。リアルな無意識の位置は欲望についてなにかを変化させたのでしょうか?

ソレール)「欲望は大他者の欲望 Le désir est désir de l'Autre」が意味したのは、欲求との相違において、欲望は、言語作用の効果 un effet de l'opération du langage だということです。それが現実界を空洞化し穴をあける évide le réel, y fait trou。この意味で、言語の場としての大他者は、欲望の条件です。(…)そしてラカンが言ったように、私はひとりの大他者として欲望する。というのは、言語が組み入れられているから。けれども、私たちが各々の話し手の欲望を道案内するもの、精神分析家に関心をもたらす唯一のものについて話すなら、「欲望は大他者の欲望」ではありません。それは、私があなたの二番目の質問の答えのなかで言ったように。

欲望の概念と構造のなかにある欲望の場は、ラカンの教えにおいて絶え間ず変貌しています。そしてそれは、どの段階においても、すべての分析的概念の構造を変更しています。隠喩に疑念を投げかけることは、そこにある何かを変化させることでした。対象の概念を提案することは、別の一歩でした。

リアルな無意識 l'inconscient réel、ララング lalangue への言及、そしてサントーム le sinthome によるボロメオ結びへの言及は、そうです、さらに別の一歩です。……

…………

以上のまとめは、日本にはいまだ次のようなことをーー40年もラカンを読み続けていながらーー真顔で言っている人物が存在し、しかも「ツイッターセミネール」なるものをし続けているありさまなので、以前の繰返しになるが、敢えて掲げた。

@ogswrsLacan の教えにおいて欲望という用語が pulsion[本能]という用語より如何に重要視されているかは,Écrits の目次を眺めるだけで見てとれます.

◆ミレール、ラカンのテキストについての注釈1994

ーー「フロイトの欲動精神分析家の欲望について」についての読解

ラカン理論の綿密な練り上げのすべての期間において、ラカンは欲望における生きた機能を支えようとしました。しかし、ひとたび欲動を欲望から区別すると、欲望の価値の引き下げがおこり、ラカンは欲望が依拠する「否定[not]」をとりわけ強調するように なります。そして反対に、享楽を生産する失われた対象に関係した活動としての欲動が本質的なものになり、二次的に幻想が本質的なものになります。

ミレールは、2011年のセミネールでも、同様に「欲望のデフレune déflation du désir」を語り、《承認から原因へと移行したとき、ラカンはまた精神分析の適用の要点を、欲望から享楽へと移行した》と言っている。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller )

ミレールにも間違いはあるだろうが、欲望→欲動 pulsion の移行というのはミレールはすくなくとも20年言い続けており、(通常は)誰も反駁しえないラカン理論の基本のはずである・・・

……欲望の主体というものはありません il n 'y a pas de sujet du désir。あるのは幻想の主体 Il y a le sujet du fantasme 、つまりある対象によって引きおこされた主体の分裂、つまり対象によって覆われた主体の分裂、より正確にいえば、この対象 l'objet petit aとは、その場所が原因というカテゴリーによって主体の中で占められるような対象なのですが、こうした対象によって覆われた主体の分裂です。 ( Lacan,REPONSES A DES ETUDIANTS EN PIDLOSOPFIE,1966、向井雅明訳ーー人間の根源的な三つの次元:享楽・不安・欲望