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2016年9月2日金曜日

人間の根源的な三つの次元:享楽・不安・欲望

◆言存在(語る存在 parlêtre)

『テレヴィジョン』1973のテキストにあたれば、あなたがたは「無意識」という言葉について私がラカンに質問しているのを見ることができます。私はシンプルに告げている、《無意識ーーなんと奇妙な言葉でしょう! L'inconscient - drôle de mot ! 》。

というのは、人はいざ知らず私には、この用語は実際のところ、ラカンがその教えで到った核心とはあまり合致しないように見えたからです。彼は応答した…きっぱりとした口調で取り下げた、《フロイトはそれ以上のものを見いださなかった。そしてそれについてとやかく言うことはない。Freud n'en a pas trouvé de meilleur, et il n'y a pas à y revenir》。

ラカンは認めはした、「無意識」は不十分だと。けれどもそれを変えるどんな試みも拒絶した。しかしながら二年のち翻意した。『Joyce le Symptôme』1975のテキストに当たれば見ることができます。そこには新造語が提出されている。…ラカンはフロイトの「無意識」という言葉を「言存在 parlêtre」に変えました。(L’INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT,LECTURE BY JACQUES-ALAIN MILLER,2014)

ーー《D'où mon expression de parlêtre qui se substituera à l'ICS de Freud (inconscient, qu'on lit ça)》(Lacan,AE.565)

parlêtre用語が実際に示唆しているのは主体ではない。存在欠如 manque à êtreとしての主体 $ に対する享楽欠如 manqué à jouir の存在êtreである。(コレット・ソレール, l'inconscient réinventé ,2009)

-ーー《では私たちは考えるべきなのだろうか、ラカンの教えにおける1970年代の享楽の効果は、1960年代の欲望の効果にとって変わったと?…全くそうではない。》(Du parlêtre  par Colette Soler,2008)


◆享楽の主体、欲望の主体、幻想の主体

「享楽の主体 sujet de la jouissance 」という表現は用心して使わなければならない。私が知る限り、ラカンは一度しかその表現を使用してない。問題はまさに享楽の主体のようなものがあるのかどうかだ。差し当たって、我々が知っていることの全ては、まさに問題含みの幻想のなかの主体の位置である。(ミレール、The Axiom of the Fantasm Jacques-Alain Miller

ーー欲望の主体 sujet du désir という表現は用心して使わなければならない。実際は、幻想の主体sujet du fantasme のことである。

ーー疎外された労働を乗りこえようとする革命的実践の主体と、疎外された欲望の主体Sujet du désir aliéné のあいだにはどんな関係があるのでしょうか。(……)

疎外された欲望の主体 Sujet du désir aliéné というのは、おそらく私が、「~の欲望は〈他者〉の欲望である」と表現することをおっしゃりたいのでしょう。それは正しいのですが、ただ、欲望の主体というものはありません il n 'y a pas de sujet du désirあるのは幻想の主体 Il y a le sujet du fantasme 、つまりある対象によって引きおこされた主体の分裂、つまり対象によって覆われた主体の分裂、より正確にいえば、この対象 l'objet petit aとは、その場所が原因というカテゴリーによって主体の中で占められるような対象なのですが、こうした対象によって覆われた主体の分裂です。

この対象は、哲学的考察には欠如しており、そのために哲学的考察は自らを位置づけることができなくなっている、つまり、自らが無意味であることを隠しているのです。 (ラカン、哲学科の学生への返答( Lacan,REPONSES A DES ETUDIANTS EN PIDLOSOPFIE,1966、向井雅明訳)

《皆さんは焦らないようにしてください。哲学のがらくたに肥やしを与えるものにはまだしばらくの間こと欠かないだろうからです。Méfiez-vous donc de votre précipitation: pour un temps encore, l’aliment ne manquera pas à la broutille philosophique.》(同上)

私はどの哲学者にも挑んでいる。シニフィアンの出現と享楽が存在にかかわる仕方とのあいだにある関係を、この今確認するために…どの哲学も、言わせてもらえば、今日、我々に出会えない。哲学の哀れな流産 ces misérables avortons de philosophie 。我々はその哲学を後ろに引き摺っているのだ、前世紀(19世紀)の初めから、ボロボロになった習慣として。あの哲学オタクとは、むしろこの問いに遭遇しないようにその周りを踊る方法にすぎない。この問いとは、真理についての唯一の問いである。それは、死の欲動と呼ばれるもの、フロイトによって名付けられたもの、享楽の原マゾヒズム…。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。( Lacan, Le séminaire, Livre XIII: L'objet de la psychanalyse,1966)

この1966年前後、ラカンはことさら哲学罵倒が際立ったようだ。数年後には、やや穏和になる。

私が哲学を攻撃してるだって? そりゃひどく大袈裟だよ!(ラカン、Seminar XVII、1969-1970)

とはいえ、対象a、すなわち剰余享楽、あるいはマルクスの剰余価値なしでどんな哲学ももはやない、ーー《ラカンの後、どんな哲学もない、もしラカンの「反哲学」の試練を経ないなら。》(バディウ、2005)

何でも対象aで解釈しやアがるだと? マルクスが剰余価値を発明したように、わしは剰余享楽(対象a)を発明したのだよ、マルクスの概念が永遠であるように、わしの概念も永遠だよ・・・

ーーもちろん意訳である。

《Ce plus-de-jouir est apparu, dans mes derniers discours, en fonction d'homologie par rapport à la plus-value marxiste. Homologie, c'est bien dire - et je l'ai souligné - que leur rapport n'est pas d'analogie, il s'agit bien de la même chose.

Cet objet(a), si en un certain sens je l'ai inventé… comme on peut dire que ce que le discours de MARX invente - qu'est-ce à dire ? - c'est la trouvaille de la plus-value …》(Lacan.S.16,27 Novembre 1968)

「そうだな、わしが真に理解されるようになるのは少なくとも50年ほどかかるのだよ、マルクスが真に理解されるようになったのにどれほどかかったのかに思いを馳せてみるべきだね」(参照

※ジジェク、2016による「快の獲得 Lustgewinn、剰余価値 Mehrwert、剰余享楽 plus-de-jouir」を参照のこと。

さて、いささか寄り道したがもとの文脈に戻る。

あなたは精神分析家として機能しないだろう。もしあなたが知っていること、あなた自身の世界が妄想的であることに気づいていないなら。ーー我々はこれを幻想的と言う。だが、幻想的という意味は、妄想的のことだ。分析家であることは次のことを知ることである。あなた自身の世界・あなた自身の幻想・あなたが「意味をなす make sense」仕方が妄想的であることを。この理由で、あなたはそれを捨て去らなければならない。あなたの患者の正しい妄想、患者の「意味をなす」仕方に、ひたすら気づくために。

これが、あなたがたにエラスムスの『痴愚神礼讃』を推奨する理由だ。この古典、彼自身の仕方で、エラスムスはまさにこう言う、ーーみな妄想的だ、と。私はこの話をこの文をもって終える。「意味をなすこと」は、それ自体妄想的である。すなわち、意味をなすことは、我々を現実界から引き離す。我々が現実界と呼ぶものは、「意味をなさない」何ものかだ。そして、この理由で、我々は現実界というカテゴリーを使用する。だから、意味をなすことに御用心! 私は気づいている、この一時間半、私が「意味をなした」ことを。だから、私が言ったことに御用心!(ミレール、Ordinary psychosis revisited,2008ーー「で、あなたは彼が神経症なのか精神病なのか決めたの?」)

ーーかつて神経症の主体は、幻想の主体と言われ、精神病の主体は、妄想の主体と言われたが、最後のラカンにとって結局、われわれは皆「妄想の主体」ということになるのだろうか。

人は皆妄想的である、« Tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant » (Lacan 1978)

欠如 している大他者という概念は、幻想への新しい接近の領野を開く。まさにこの大他者の欠如を満たす試み、大他者の一貫性を再構成するものとして捉えるかぎりにおいて。この理由で、幻想とパラノイア(妄想)は本来、その最も基本的なレベルでは、互いに繋がっている。パラノイアとは「大他者の大他者がある」という信念である。別の大他者、外部に現われた社会的現実の大他者の裏に隠れた大他者、社会的生活の不足の効果をコントロールし、その一貫性を保証してくれる「大他者の大他者」への信念である。((ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

さて、ここで唐突にこう引用しておこう。

私は相対的にはマヌケ débile mental だよ…言わせてもらえば、全世界の連中と同様にマヌケだな。というのは、たぶん私は、いささか啓蒙されている une petite lumière からな(ラカン、S.24,17 Mai 1977)

Comme je ne suis débile mental que relativement… je veux dire que je le suis comme tout le monde …comme je ne suis débile mental que relativement, c'est peut-être qu'une petite lumière me serait arrivée. (S.24)


…………


◆享楽、不安、欲望

ミレールが《ラカンは一度しかその表現を使用してない》というラカンの「享楽の主体」という用語は次のような形で現れる。その前段も含めての摘要。

ーーセミネールⅩ「不安」1962-1963より(Patrick Valas版(Staferla版PDF))

・セミネールⅩ、p.39



対象a とは、主体の構成の残余であり、大他者の他者性 l'altérité de l'Autre の唯一の証拠である。 cette preuve et seule garantie en fin de compte de l'altérité de l'Autre, c'est le petit(a). P.39

対象a とは、主体から喪われたもの・主体の落し物・言説の普遍性から締め出されたものである。

ーーもちろん、表現の仕方が異なるだけで、この「落し物」はまともな詩人なら(哲学者とは異なり)とっくの昔から知っている。

ふっと沈黙が訪れたときに
忘れ物をしてきたことに気づく
何かをどこかに置いてきてしまった

ーー谷川俊太郎「読まない」『詩に就いて』、2015年
あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

――「かなしみ」 『二十億年の孤独』 1952年

ポエジーだけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。…

«Il n'y a que la poésie, vous ai-je dit, qui permette l'interprétation. C'est en cela que je n'arrive plus, dans ma technique, à ce qu'elle tienne. Je ne suis pas assez poète. Je ne suis pas poâte-assez» (Lacan,S.24 du 17 mai 1977).


・セミネールⅩ、p.312-314






対象a とは、欲望の原因であり、主体の背後にあって主体に先立つ。対象a は、主体の動因であり、主体を衝迫し欲望の力動性をもたらす。

対象aとは、Ⱥから縦線によって分離されている。が、この他者Aの欠如に近接している。対象a とは、他者Aのなかに欠如しているものとして幻想のなかに現れる享楽の残余である。








・セミネールⅩp.336



人間には根源的な三つの次元がある。すなわち、享楽・不安・欲望 la jouissance, l'angoisse et le désir である。

主体になることとは、常に言語の主体になることである。主体化の過程は、既に存在しているシニフィアンを通して起こる。ここで架空の主体S(原主体・来るべき主体)を「享楽の主体」と呼ぶ。 sujet …mais mythiquement, nous l'appellerons …« sujet de la jouissance »


享楽の主体S は、他者A の領野に場所を見出さねばならない(S →A)。シニフィアンを提供する最初の〈他者〉は母であり、原享楽が位置づけられる場である。

この分割作用の結果は、Ⱥ ・他者A のなかの欠如によって決定づけられている。この結果は、主体は完全には他者Aのなかに入り込めないという事実から来る。すなわち、残余a がある。この残余は象徴化 la significantisation に抵抗するものであり、シニフィアンに還元され得ない享楽の部分・対象a である。

主体$ がこの対象a に直面するときとは、常に不安の瞬間である。それはシニフィアンが欠けている現実界に対する反作用としての不安である。

この作用において、対象a は原因-動因の場をとる。ここに主体の分割と欲望の起源が位置づけられなければならない。欲望の原因は、構造的に主体の分割・対象a と等価である。

欲望は何に向かうのか? 欲望は、シニフィアン、すなわち他者A のなかに入り込むことによって、不安を捨て去りたい。この点において、対象a は他者A への入口である。他者A への欲望は常に対象a への欲望である。ここでは不安は欲望と享楽とのあいだの仲介として機能する。l'angoisse fait le médium du désir à la jouissance

ここにおいて、 欲望にとっての支え・欲望のモデル化としての幻想がある(幻想の式:$ ◊ a)。幻想は、主体$ と他者A とのあいだに二重の拘束を作り上げる。主体$ の欲望は、他者Aの欠如に向かう。


ーー以上の摘要は、次の三つの論文を参照した。

1、‘Increasing Forms of Anxiety in Neuroses and Psychoses’ by Carmen Gallano PDF

2、ヴェルハーゲ,1999(DOES THE WOMAN EXIST? PAUL VERHAEGHE,PDF, pp.173-174)

3、Rapunzel APHORISMS ON LOVE,2015


ここでセミネールⅩⅨに現れる四つの言説の基礎となる形式的構造を示す次の図を掲げる。



一般的によく知られているのは、セミネールⅩⅦなどに現れる次の図である。





ここでは当面次のように読んでおこう。すなわち、Ⱥという真理の原動因に衝き動かされた見せかけ SEMBLANTの主体は、大他者Aの享楽に到ろうとするが、完全には他者Aのなかに入り込めない。ゆえに剰余享楽(対象a)が生み出される。


…………

◆不安と幻想


以下、ロレンツォ・キエーザによるやや難解版。(Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, 2007)

ーーこの文は、五種類の対象aについての記述の後に引き続いてある(参照:「対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa)」)。


【主体は大他者の欲望の対象aとは何?】
主体は大他者の欲望の対象a である、そしてこの条件は究極的には主体自身の幻想的欲望の核と見なされるべきだとラカンが言うとき、その正確な意味は何なのだろうか?

ラカンはセミネールX にて、根本幻想を《窓の枠組みの上に位置づけられた絵 un tableau qui vient se placer dans l'encadrement d'une fenêtre》として明瞭に叙述している。この《馬鹿げたテクニックTechnique absurde》は、まさに《人が窓から見るものを見ない ne pas voir ce qui se voit par la fenêtre》こと、斜線を引かれた大他者・大他者のなかの欠如Ⱥ を見ないことにある、と。

【分身と対象a】 
(……)我々は既に吟味した。子どもが大他者が斜線を引かれていることȺ を悟るずっと前に、彼は欲求不満の象徴的弁証法のなかに入り込む仕方を。すなわち始まりには、原象徴化の窓がある。それはエディプス・コンプレックスの最初の段階である。次にエディプスコンプレックスの第二段階の初めに、窓は深淵を枠組みしていることに子どもは気づく。彼は窓から容易に落ちる(母に呑み込まれる)かもしれない。したがって絵によって描写された光景は、深淵を覆い隠す機能を持っている。

さらに重要なのは、ラカンはセミネールX にて、そのような「防衛的」光景は、異なった諸主体にてどんな個別の特徴があろうとも常に、「分身」としての他者の非鏡像的 unspecularizable イマージュの肖像を描くことを暗に示している。言い換えれば、根本幻想のなかで、想像的他者は「欠如していないイマージュnonlacking image」として「見られる(観察される)」。このイマージュとは、主体から去勢され喪われた部分対象を所有している。したがって「分身」とは i′(a) + a、想像的他者プラス対象a である。

これが殊更はっきりと現れるのは、フロイトの名高い症例狼男においてである。ラカン曰く、彼の反復される夢は我々に《その構造のなかでヴェールを剥ぎ取られた純粋幻想 le fantasme pur dévoilé dans sa structure》の見事な事例を提供すると。窓が開かれ、狼たちが樹上に止まって患者を見詰める、彼自身の眼差しで(狼男自身の身体の非鏡像的残余にて)。ラカンはまたホフマンの『砂男』の物語において同様の光景に言及する。人形オリンピアは学生ナターニエルの目によってのみ完成されうる、と。

※ 《「人間は想像界から始まる」という通念は疑わしい》(ミレール、2008)


【ファルス化された対象aの機能】
これらの事例が示しているのは、喪われた部分対象a ・まずなによりもファルス化された眼差しは、いかに大他者のなかの空虚ーーȺとしての彼の純粋欲望ーーを覆い隠すものかであり、それがいかに無意識の根本幻想のなかで「分身」として現れるかということである。幻想のなかで、私は私たち自身を大他者のファルス化された欲望として見る。私は私自身を大他者のなかに見る、彼のリアルな欲望のなかに「崩れ落ちる」ことのないように。

したがって、もはや大他者の欲望としての主体の欲望について語るのは十分でない。我々がここでより明確に次のことを取り扱っている限り。《大他者のなかの欲望…私の欲望は空洞のなかに入り込む、私であるところの対象の形式(偽装)のなかにある空洞に。désir dans l'Autre…mon désir entre dans l'antre où il est attendu de toute éternité sous la forme de l'objet que je suis》(S.10)

ゆえに最も純粋には、私の幻想的欲望(防衛としての欲望)の対象は「私が私自身、対象である」という事態のなかの大他者の欲望である。これが説明するのは、なぜ幻想はーーシンプルに二次的同一化と個体化をもたらすものにも拘わらずーー本質的には《根源的脱主体化 désubjectivation en tout cas radicale》を基盤とした構造であるかということである。それは《主体が観客、単純には目の状態へと還元される le sujet n'est plus là que comme une sorte de spectateur réduit à l'état de spectateur, ou simplement d'œil》(S.4)ための脱主体化である。

この引用を解釈するとき、(観客の)個人化された行為としての視覚のようなものと我々はうっかりと考えてしまう危険を避けねばならない。ちょうど今、上に事例にて叙述したように、幻想はむしろ「相互受動的 interpassive」光景であり、そこでは人は「分身」のなかに位置する喪われた部分対象としての「彼の」眼差しによって「自分自身が見られる」。

この文脈においてのみ、我々はセミネールX にて提供された幻想の謎めいた定義を理解しうる、《私は言おう、a という$ の欲望 ・幻想の式 $ ◊ a は、この展望のなかで次のように翻訳しうる、と。je dirai que $ désir de (a), $ ◊ a formule du fantasme, ça peut se traduire, dans cette perspective 》、すなわち《大他者は姿を消してゆく、気絶する、私がそうであるところの対象の前で。私が己自身を見ることから差し引かれものの前で。 l'Autre s'évanouisse, se pâme, dirais-je, devant cet objet que je suis, déduction faite de ce que je me vois 》(S.10)

【リアルな対象aとは?】 
疑いもなく、幻想の視覚的な相互受動性において姿を消してゆくのは、リアルな欠如としての大他者の欲望・リアルな対象a(= Ⱥ)である。したがってラカンは次のように言うことができる、(神経症的)幻想のなかの対象a の想像化は、主体を不安から防御する、《[想像的] 対象a が人工的なもの postiche である限りにおいて》。

しかしながら同時にーー私は既に凍りついた恐怖映画の例にて描写したがーー「枠組みを嵌める framing」不安、《寄る辺なさHilflosigkeit を越えた最初の治療 le premier recours au-delà de l'Hilflosigkeit》であるところのものにおいて、根本幻想はまた、無意識の水準において、不安の現実界を効力化する、《それは敵対性自体の(主体の)構成である c'est la constitution de l'hostile comme tel》。フロイトが名付けた性的 erogenen マゾヒズム、ラカンが享楽 jouissanceと名付け直したものの誕生である。


【三つの不安】
したがって我々は、不安の三つの論理的時間をーー対象a と根本幻想に相対してーー区別すべきである。

① エディプス・コンプレックスの第二段階の開始における、前幻想的な「窓から首を出すこと leaning out of the window 」、リアルな対象a としての母なる大他者の欲望とのカオス的遭遇ーーそれは根本幻想の形成になかでそのカオスの鎮静後にのみ、それ自体として感知されるリアルな対象a(= Ⱥ)である。

ここにある不安は、ラカン曰く《何かの予兆 pressentiment de quelque chose》である。しかしまた全ての(象徴的)偽りの感情に先立つ《前感情« pré » du sentiment》・《おどろおどろしい確実性 affreuse certitude》(S.10)である。そしてそれに対する反応は、最初の疑念「母なる大他者は何を欲しているのか」を形成する。

この最初の意味で、《(構造化されていない)不安は鋭い切り傷 L'angoisse c'est cette coupure même》・Ⱥの原初的出現であり、それなしでは、リアルのなかのシニフィアンの現前・その機能・その登場・その徴は考えられもしない 《sans laquelle la présence du signifiant, son fonctionnement, son entrée, son sillon dans le réel est impensable.》(S.10)。

② 対象a の想像化による根本幻想の絵のなかの《不安の枠組み化 encadrement de l'angoisse》(S.10)。ここで敵対性 l'hostile は《飼い馴らされ、懐柔され、受け入れられる amadoué, apaisé, admis》。そして客 l'hôte になる。しかしながら、母なる大他者の欲望によって生み出された不安に枠を嵌めるために、主体は去勢されて大他者のなかの対象として現われなければならない。そして《これは堪え難いものである c'est là ce qui est intolérable 》。言い換えれば、この観点からは、幻想のなかで根本的に抑圧されるものは、主体の非自律性 la non-autonomie du sujet の顕現である。(……)

③ 厳密な意味での不安、それは、幻想のなかで不安に枠を嵌める責を負う欠如のシニフィアン S(Ⱥ)自体が喪われているときに起こる不安である。すなわち、(幻想の彼方にある)大他者のリアルな欲望の過剰な近接性のせいで去勢 (−ϕ)が宙吊りにされたときに起こる。これは、自己意識のなかで《欠如自体が欠けている le manque vient à manquer》(S.10)不気味な刻限に他ならない。

【欠如の欠如という自己喪失】
疑いもなく、要求の通時的次元は、アガルマという換喩の空虚の場によって特徴づけられる。すなわち欠如は想像的自己意識のなかに現前している。しかしながらこれは、我々が通常この欠如のイマージュをもっていることを全く含意しない。

不安が出現するのは、まさに主体が「陽画的positive」欠如のイマージュを得たときである、《C'est ce surgissement du manque, sous une forme positive, qui est source de l'angoisse.》--すなわち「窓」が、主体の鏡像的投影によって隠された空虚に向かって開かれたときであるーー、そしてアガルマ、鏡像の彼方にある《我々がいる場の不在 l'absence où nous sommes》は、このようにしてその真の特性のなかで曝露される。すなわち、《どこか別の場にある現前présence ailleurs》、《一ポンドの肉 la livre de chair》、私があるところの部分対象、私の幻想のなかの大他者の欲望にとっての部分対象(欠如のイマージュ)である。したがって不安とは、部分対象の束の間の浮上・主体自身の目にて主体を眼差す分身の出現に相当する。

言い換えれば不安とは、自己意識のなかでの私自身の幻想の「消滅の顕現 appearance of the disappearance 」であり、私の存在は大他者の幻想的対象以外の何ものでもないという堪え難さの顕現である。したがって、幻想の「意識的」顕現は、必然的に幻想の消滅と合致する。そしてそれに伴い自己意識の喪失をもたらす。

ここで強調すべき重要なことは、不安とは消滅のなかで経験された「感情 sentiment」ではないことだ。そうではなく、消滅する危険を上演する信号signalである。すなわち大他者に呑み込まれる危険の上演の信号。絶対的な脱主体化でありうるものの一時的な顕現……。

須臾の間、原初に部分対象a の喪失を引き起こした大他者Ⱥのリアルな欲望が部分対象とともに顕れる。須臾の間、対象a は同時に、欲望の対象であり欲望の原因である両方のものとして感知される。

…………

◆幻想をめぐる簡略版

幻想とは象徴界に抵抗する現実界の部分に意味を与えようとする試みである(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN、1998)
ラカンにとって、究極の幻想的な対象とはあなたが見るものというより、「眼差し」自体である。(ジジェク、Conversations with Žižek, with Glyn Daly、2004)
……幻想の中にあらわれた欲望は主体自身の欲望ではなく他者の欲望、つまり私のまわりにいて、私が関係している人たちの欲望だということである。

幻想、すなわち幻の情景あるいは脚本は、「あなたはそう言う。でも、そう言うことによってあなたが本当に欲しているものは何か」という問いへの答である。欲望の最初の問いは、「私は何を欲しているのか」という直接的な問いではなく、「他者は私から何を欲しているのか。彼らは私の中に何を見ているのか。彼ら他者にとって私は何者なのか」という問いである。

幼児ですら関係の複雑なネットワークにどっぷり浸かっており、彼を取り巻く人びとの欲望にとって、触媒あるいは戦場の役割を演じている。父親、母親、兄弟、姉妹、おじ、おばが、彼のために戦いを繰り広げる。母親は息子の世話と通して、息子の父親にメッセージを送る、子どもはこの役割をじゅうぶん意識しているが、大人たちにとって自分がいかなる対象なのか、大人たちがどんなゲームを繰り広げているのかは、理解できない。この謎に答を与えるのが幻想である。どんな単純な幻想も、私が他者にとって何者であるのかを教えてくれる。どんなに単純な幻想の中にも、この幻想の相互主観的な性格を見てとることができる。

たとえばフロイトは、苺のケーキを食べることを夢想する幼い娘の幻想を報告している。こうした例は、幻覚による欲望の直接的な満足を示す単純な例(彼女はケーキがほしかった。でももらえなかった。それでケーキの幻想に耽った)などではけっしてない。決定的な特徴は、幼い少女が、むしゃむしゃケーキを食べながら、自分のうれしそうな姿を見て両親がいかに満足しているかに気づいていたということである。苺のケーキを食べるという幻想が語っているのは、両親を満足させ、自分を両親の欲望の対象にするような(両親からもらったケーキを食べることを心から楽しんでいる自分の)アイデンティティを形成しようという、幼い少女の企てである。(ジジェク『ラカンはこう読め』鈴木晶訳,2005)

最後にロレンツォの注釈文の、 《幻想はむしろ「相互受動的 interpassive」光景であり、そこでは人は「分身」のなかに位置する喪われた部分対象としての「彼の」眼差しによって「自分自身が見られる」》を再掲し、上のジジェク文の《どんなに単純な幻想の中にも、この幻想の相互主観的 intersubjective な性格を見てとることができる》の前後と「ともに」読んでおくことにしよう。