このブログを検索

2016年9月30日金曜日

にたにた笑い grin としかめっ面 grimace

「まあ! にたにた笑いをしない猫なら何度も見たことがあるけれど」とアリスは思う、「猫のいないにたにた笑いなんて!こんな妙ちくりんなもの見たのは、生まれて初めてだわ!」

“Well! I've often seen a cat without a grin,” thought Alice; “but a grin without a cat! It's the most curious thing I ever saw in my life!”

…………

人間はひとつの構造、つまり言語の構造、-構造とは言語を意味するのですが-この構造が身体を分断することによって思考するのであり、そしてこの身体は解剖学とは何の関係もありません。ヒステリー者がそれを証明してくれます。構造という裁断機が魂にやってくると強迫症状が生ずるのであって、強迫症状とは魂が持てあまし、魂を途方に暮れさせる思考なのです。

魂にかんして、思考は不調和です。ギリシャ語のヌース神話であって、この迎合は世界、魂が責任を持っている世界(環境世界[Umwelt])に適ったものなのでしょうが、じつは、この世界は思考を支える幻想 fantasmeでしかありません。それもひとつの現実 réalitéには違いないかもしれませんが、現実界の顰め面 grimace du réel として理解されるべき現実 réalité です。(ラカン『テレヴィジョン』)


あら、しかめっ面ばかりの現実なんて! 
でも生垣に穴を開けたらしかめっ面なしの現実みられるわ

「ただ この子の花弁がもうちょっとまくれ上がってたら いうことはないんだがね」(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』)

まあ、あなたひょっとして噂の érotomanie、あの docteur Lなの? 
生垣の先には《欠如が欠けている le manque vient à manquer》(S.10)
とか言ってたあのひと?

それともポエットY かしら?

人々の妄想の鏡のなかですでにアリスの靴や靴下そして下着まで濡れているんだ(吉岡実「人工花園」 ) 

でもたとえ話じゃぜんぜんないのよ

人生の通常の経験の関係の世界はあまりいろいろのものが繁茂してゐて永遠をみることが出来ない。それで幾分その樹を切りとるか、また生垣に穴をあけなければ永遠の世界を眺めることが出来ない。要するに通常の人生の関係を少しでも動かし移転しなければ、そのままの関係の状態では永遠をみることが出来ない。(西脇順三郎「詩情」)

エロトマニアだと
生垣に穴開けても
シッポを落としちゃうだけなのかしら

トカゲの自傷、苦境のなかの尻尾切り。享楽の生垣での欲望の災難 l’automutilation du lézard, sa queue larguée dans la détresse. Mésaventure du désir aux haies de la jouissance(Lacan,E 853)

向うにはアリアドネがいるのにーー

まさに、ごくわすかなこと、こくかすかなこと、
ごく軽やかなこと、ちょろりと走るとかげ、
一つの息、一つの疾過、一つのまばたきーー
まさに、わずかこそが、最善のたぐいの幸福をつくるのだ。

静かに。――(ニーチェ「正午」)

スモモだってあるわ

この正午、……
トカゲも壁の割れ目にもぐり、
墓守ヒバリも見えない時刻なのに。
……
実もたわわなスモモの枝が
地面に向かってしなだれる。

――テオクリトス『牧歌(Idyllia)』

ねえ地獄ってどんなとこかしら?

この小径は地獄へゆく昔の道
プロセルピナを生垣の割目からみる
偉大なたかまるしりをつき出して
接木している(西脇順三郎)

きっと道を間違えたのよ

ラカンは道に迷ったことを、しかと示しうるかもしれない、と娘婿は自問した。
je me disais que je pourrais me faire fort de montrer que Lacan a perdu sa route(Miller,Les objets a dans l’experience analytique)


2016年9月29日木曜日

ゲーデルの不完全性定理とラカンの Ⱥ

科学が主体をどうしても「縫合 suture」しえないのは、メタ言語はないからである。言語を統合する真理はないからである。というのは、言語とそれが作り出す象徴構造は構造的に不完全であるから。

これがラカン派にとっての「ゲーデルの不完全性定理 Gödelscher Unvollständigkeitssatz」の使用法である。すなわち大他者A は斜線を引かれている:Ⱥ (大他者の大他者はない Il n’y a pas d’Autre de l’Autre =メタランゲージはない il n'y a pas de métalangage)。

※参照元

1、Richard Klein、Lacan and Gödel、2016
2、Chiesa, L., ‘Hyperstructuralism's Necessity of Contingency',2010,PDF

すなわち、

Gödel's theorem asserts that there is a lack in the Other, that the Other is incomplete and inconsistent, which is why Lacan writes it as the barred Other: A.(Richard Klein、2016)
Crucially, Lacan concludes that, if science at last does not manage to saturate the subject, it is because there is no metalanguage, no totalizing truth of language, since language and the symbolic structures it creates are structurally incomplete.(Lorenzo Chiesa,2010)

を混淆させて、いくらか補いつつ記述した。

以下、後者のロレンツォ・キエーザの論の一部を私訳(上の摘要記述がある前段箇所)。

「科学と真理 (La science et la vérité)」 (1966)のラカンによれば、近代科学は科学の主体を「縫合 suture」ーーその主体を、経験に基づいて、閉じられた知の集合として統合ーーしようと試みる。しかしそれは失敗する。たとえばゲーデルの「不完全性定理」やカントールの「無限」概念が形式化したまさにその可能性によって。《le dernier théorème de Godel montre qu'elle y échoue》(E.861)

したがって、《(科学の)主体は、科学の相関物でありつつも、アンチノミー的相関物である。というのは、科学は主体を縫合するための行き詰まった試みによって定義されることが判明しているから。 le sujet en question reste le corrélat de la science, mais un corrélat antinomique puisque la science s'avère définie par la non-issue de l'effort pour le suturer. 》(E.861)

(…)近代科学によって決定づけられている方法を超越している構造的属性としての科学の主体は、科学の「アンチノミー的相関物 corrélat antinomique」である。より明確にいえば、経験上の偶然的対象の「アンチノミー的相関物」である。言い換えれば、それはまさに、主体を「縫合」することの科学の失敗である。よりよく言えば、主体を「飽和(浸透)」することの失敗ーーラカンは『科学と真理』で二種類の動詞を使用している(suturer、saturé)--、この失敗が精神分析の主体の出現を可能にする。

ゆえに精神分析の主体とは、その主体が「縫合」されていないーー「浸透」されていない non saturé ーー限りで、科学の主体である。精神分析の主体、すなわち無意識の主体と科学の主体は両方とも、知と真理とのあいだの歴史的に限定された分割の帰結である。それ自体、次のことを前提としているのである。すなわち、より構造的な、シニフィアンの論理のなかへの主体の「内的排除 exclusion interne」(E.861)の前提がある。

科学の主体と精神分析の主体は同じコイン裏表である。すなわち近代科学は、歴史のなかで真理を排除する。しかしそのとき真理は、徴示化 signifying 構築のなかの構造の水準で再出現する。精神分析は、徴示化 signifying 構築のなかに症状と他の無意識の形成物を見出す。 (ロレンツォ・キエーザ、 2010, Chiesa, L., ‘Hyperstructuralism's Necessity of Contingency',PDF)

※「内的排除 exclusion interne」

Topologie de l'exclusion interne, de « l'extimité » de la chose. « L'a-chose »(Isabelle Dhonte,PDF)

→「外密 l'extimité」

・私の最も内にある親密な外部、モノ=対象a としての外密。《extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》(ラカン、S.7)
・外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité(参照))

ーー〈モノ das Ding(Chose〉とは、結局、≪対象aの初期ヴァージョン≫(フィンク、1997

シンプルに言おう。主体 $ は、ネガティヴなマグニチュード、あるいはネガティヴな数 negative magnitude or negative number としての裂け目である。それが、ラカンによるシニフィアンの定義におけるまさに正確な意味である。シニフィアンとは、主体に代わって対象を表象する何かではなく、他のシニフィアンに代わって主体を表象するものである。すなわち主体とはシニフィアンの内的な裂け目なのである。そしてそれがその参照の動き referential movement を支えているのだ。他方、対象a は、この動きによってもたらされたポジティヴな残滓である。そしてそれがラカンが剰余享楽 plus-de-jouir と呼んだものである。剰余享楽 のほかには享楽enjoyment はない。すなわち享楽はそれ自体として本質的にエントロピーとして現われる。 (ジュパンチッチ、Alenka Zupancic, When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value、参照





対象a(剰余享楽 plus-de-jouir )を除いて言えば次の通り(X=S1,Z=S2,Y= $)。

主体は鎖の内在的属性になる…。すなわちどの徴示化連鎖もそれ自体、主体を含有している。しかし主体自体は、Xが一つのシニフィアン、Zが他のシニフィアンという三組の関係におけるYとしてのみ定義されうる。(ジャン=クロード・ミルネール,Jean-Claude Milner,Le périple structural,2002)

これはマルクスの価値形態論の思考過程そのままである。

ここでは「単純な、個別的な、また偶然的な価値形態」の箇所のさわりのみを引用しよう。

x 量商品 A = y 量商品 B 、あるいは x 量の商品 A は y 量商品 B に値する。(亜麻布 20エレ=上衣 1着、または、20エレの亜麻布は 1着の上衣に値する)。(マルクス『資本論』)


つづいて分析される「拡大された価値形態」、「一般的価値形態」(貨幣形態)は柄谷行人の記述を掲げる。

「すべての概念は、等しからざるものを等置するところに発生する」と、ニーチェはいっている。しかし、ウィトゲンシュタインにとっては、事物の多様性が問題なのではない。むしろ、「等置する」ということの実践的な盲目性・無根拠性が忘れさられることが問題なのだ。

理解を助けるために、マルクスの価値形態論を引例しよう。価値形態は、ある商品がべつのものと「等置された」がゆえに付与される形態である。そこに根拠も「共通の本質」もない。そのような商品関係の連鎖を、マルクスは「拡大された価値形態」とよんでいる。これはファミリー・リゼンブランス(家族的類似性)と同じである。そのような関係の連鎖(交錯)が、一つの商品を排他的に中心とするように組織されると、「一般的価値形態」(貨幣形態)が生じる。貨幣形態の下では、すべての商品は何か「共通の本質」があるゆえに等置されるのだと考えられてしまうだろう。

マルクスの考えでは、「ひとは意識しないが、そう行う(等置する)」のであって、この無根拠性・盲目性こそが「社会的」とよばれている。かくして、社会的関係が、貨幣形態の下では、あるいはわれわれの「意識」のもとでは隠蔽されてしまう。この意味で、ファミリー・リゼンブランスは、「社会的」関係性にほかならない。(柄谷行人『探求Ⅰ』1986年、PP.69-70)

「家族的類似性」は、ラカンの「象徴構造は構造的に不完全である」の別の言い方、象徴的構造は非一貫的(非全体pas-tout)であることを示す(参照)。

柄谷行人の叙述に「無根拠性・盲目性」とあるように、マルクスは交換(コミュニケーション)の「不完全性定理」をすでに示していたということがいえる。すなわち象徴的交換を支えるものはなにもない。つまりは、大他者の大他者はない Il n’y a pas d’Autre de l’Autre(Ⱥ)

主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって表象されうるものであるUn sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体は何に対して表象されるのか? ーー使用価値である。 le sujet de la valeur d'échange est représenté auprès - de quoi ? - de la valeur d'usage

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値と呼ばれるものである。この喪失は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。(ラカン、セミネールⅩⅥ、D’un Autre à l’autre,1968-1969ーー偉大なるフェティッシュ分析家マルクス

次に若きジジェク、1991の明晰な解説を掲げておこう。

シニフィアンの二個一組内部において、一つのシニフィアンは常にその潜在的不在の背景に対して現れる。この不在は、その対立物の現前のなかで、物質化されたものーーポジティヴな存在として想定された不在である。ラカンによるこの不在のマテームは、もちろん、斜線を引かれたシニフィアン $ である。

すなわち、一つのシニフィアンはその対立物の不在を埋め合わせる。それは、その対立物の場を「表象」し所有する。…こうして、我々は既にシニフィアンの定式を生み出した。《一つのシニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を表象する[un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant.]》。

ゆえに我々は理解できるだろう、ラカンにとってなぜ主体のマテーム $ が必要なのかを。すなわち、一つのシニフィアン S1 は、他のシニフィアン S2 に対して、その不在・その欠如 $ を表象する。

ここでの決定的な要点は、シニフィアンの二個一組において、一つのシニフィアンはその反対のシニフィアンの直の片割れでは決してなく、一つのシニフィアンは常にその潜在的不在を表象(具現)するということだ。二つのシニフィアンは、三番目の用語である「空虚」を通してのみ「差異的 differential」関係性に入る。シニフィアンが差異的であるという意味は、主体を表象するどんなシニフィアンもない、ということである。(ジジェク『為すところを知らざればなり』(Slavoj Žižek For They Know Not What They Do、1991、私訳ーー価値形態論(マルクス)とシニフィアンの論理(ジジェク=ラカン)


もちろんラカンのシニフィアンの論理の起源の重要なひとつは、フロイトの公式、「私は自分の家の主人ではない(dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus)」にもある。



2016年9月28日水曜日

私は詩人ではない、だが私は詩である。

《私は詩人ではない、だが私は詩である。》(ラカン、1976)

je ne suis pas un poète, mais un poème. (Lacan,17 mai 1976 AE.572)

どうして踊り手と踊りを分つことができようか。

How can we know the dancer from the dance? (イェイツ)

ポール・ド・マンは、「踊り手と踊りをどのように区別するのか(教えてくれ)」ともとれるじゃないか、と言ったらしい(柄谷行人『隠喩としての建築』P.50)


1、どうして詩人と詩を分かつことができようか
2、詩人と詩をどのように区別するのか(教えてくれ)」


世間知ラズ  谷川俊太郎

自分のつまさきがいやに遠くに見える
五本の指が五人の見ず知らずの他人のように
よそよそしく寄り添っている

ベッドの横には電話があってそれは世間とつながっているが
話したい相手はいない
我が人生は物心ついてからなんだかいつも用事ばかり
世間話のしかたを父親も母親も教えてくれなかった

行分けだけを頼りに書きつづけて四十年

おまえはいったい誰なんだと問われたら詩人と答えるのがいちばん安心
というのも妙なものだ
女を捨てたとき私は詩人だったか
好きな焼き芋を食ってる私は詩人なのか
頭が薄くなった私も詩人だろうか
そんな中年男は詩人でなくてもゴマンといる

私はただかっこいい言葉の蝶々を追っかけただけの
世間知らずの子ども
その三つ児の魂は
人を傷つけたことも気づかぬほど無邪気なまま
百へとむかう

詩は
滑稽だ

…………

自由詩における改行の意味はどういうところにあるだろうか? 散文詩とどこが違うのであろうか。これには、十分な説明を聞いたことがない。私はこう考えている。読む速度をひそかに規定しているのであろう、と。長い行は速い速度で、短い行はゆっくりした速度で読みように、という指示を下しているのである。散文詩とは、ほぼ同じ速度で読まれる詩である。音韻的には、散文とはそういうものであるというのが、私だけの定義である。同じエリティスの詩でも「狂ったザクロの木」は「エーゲ海」よりも速い速度で読まれるのが自然だと私は思い、私の翻訳では、そのように訳してある。思い入れたっぷりの現代日本詩の朗読法は私の好みではない。現代ギリシャ詩の朗読のように、もっと速い速度で、過度の抑揚を付けずに、ほとんど散文的に、しかし行の長さによって速度を変えるか、行間休止時間を変え、頭韻や脚韻に注意して読まれるべきである。そうすれば、日本語においても、母音と母音、子音と子音の響き合いによる美しさが現れるはずである。

ついでにいえば、私にとって、詩とは言語の徴候的使用であり、散文とは図式的使用である。詩語は、ひびきあい、きらめき交わす予感と余韻とに満ちていなければならない。私がエリティスやカヴァフィスを読み進む時、未熟な言語能力ゆえに時間を要する。その間に、私の予感的な言語意識は次の行を予感する。この予感が外れても、それはそれで「快い意外さ la bonne surprise」がある。詩を読む快楽とは、このような時間性の中でひとときを過ごすことであると私は思う。(中井久夫「私と現代ギリシャ文学」)


2016年9月26日月曜日

芸術とは言語活動である

芸術とは言語活動である。

絵画とは、他の言葉では表現することができない言語活動なのです。(バルテュス(=バルタザール・クロソウスキー)

人間とは言語活動である。

私はここで、Jean-Louis Gault の談話に言及しようと思う。それは、主体のパートナーに関するものだ。彼は言う、主体の生活の真のパートナーは、実際は、人間ではなく言語自体である、と。あなたがたは、主体のなかに、他者たちの世界の独自の谺を観察しうる。…しかし、あなたがたは、それらの他者たちによって生み出された烙印のような何かを持っている。とすれば、事実上、それは言語との基本的な関係のような何かである。人間との関係ではない。(Ordinary Psychosis Revisited Jacques-Alain Miller ,2008、PDF
本源的なアタッチメントは、身体の上に言語の痕跡を刻印することである。根本的出来事・情動の痕跡化の原理は、誘惑ではない。去勢の脅かしでもなく、愛の喪失でもない。両親の性交の目撃でもなく、エディプスでもない。そうではなく、言語との関係である。 (Miller, J.-A. (2001). The symptom and the body event.)

現象(現れるもの)は「言語」で構成されている。

カントが主観の能動性として考えていたのは、実際には言語の問題である。彼が感性の形式や悟性のカテゴリーによって現象が構成されるといったのは、言語によって構成されるというのと同じことである。実際、それらは新カント派のカッシーラーによって「象徴形式」といいかえられている。(柄谷行人『トランスクリティーク』、P101)

ーーここは「言語」ではなく「現れるものの条件」とすべきか(たとえば、プロトパシーprotopathy原始感覚性)。

…………

※付記

《科学が物理学においてわれわれに捉えさせてくれた現実の構造はもはや知覚理論には関与しないということを、なぜ認めようとしないのだろうか。…あらゆることが示しているのは、ガリレオの動力学が天体を大地に組み込むことは重さに関するものや impetus(弾み、推進力、起動力)の知覚的直感の拒否によって得られたのだということである。》(ラカン、メルロポンティ追悼 Merleau-Ponty: In Memoriam)

カントの哲学は超越論的――超越的と区別されるーーと呼ばれている。超越論的態度とは、わかりやすくいえば、われわれが意識しないような、経験に先行する形式を明るみにだすことである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P17)
カントは、『純粋理性批判』における新たな企てを「コペルニクス的転回」と呼んだ。この比喩は、それまでの形而上学が、主観が外的な対象を「模写」すると考えていたのに対して、「対象」を、主観が外界に「投げ入れ」た形式によって「構成」するというふうに逆転したことを意味している。(同上、P52)
カントは、経験論者が出発する感覚データはすでに感性の形式によって構成されたものであると述べた。そして、われわれが知るのはそのような「現象」であって、物自体ではない、と(柄谷行人『トランスクリティーク』P312)
「コペルニクス革命」が…重要なのは、地動説か天動説かではなく、コペルニクスが、地球や太陽を、経験的に観察される物とは別に、或る関係構造の項としてとらえたことである。(……)

同様に、カントは、経験論のように感覚から出発するか、合理論のように思惟から出発するかという対立をすり抜けている。彼がもたらしたのは、感性の形式や悟性のカテゴリーのように、意識されない、カントの言葉でいえば超越論的な構造である。感性や悟性という言葉は昔からある。それは「感じる」や「考える」という働きを概念にしたものである。しかし、カントは完全にそれらの意味を変えている。それは、コペルニクスにおいて、地球や太陽と呼ばれるものが、或る構造の中の項として見出されたのと同じである。われわれは別にカントがいう感性や悟性といった言葉をそのまま用いる必要はない。重要なのは、カントが提示した超越論的な構造である。柄谷行人『トランスクリティーク』p54-59)
コペルニクス以前にも以後にも太陽はある。それは東に昇り、西に沈む。しかし、コペルニクス以後の太陽は、計算体系から想定されたものである。つまり、同じ太陽でありながら、われわれは違った「対象」をもっているのである。(トラクリ p61)


◆前田秀樹「悟性と感性の「性質の差異」について』(「批評空間」1996Ⅱ-9)より(一部編集).


【伝統的な哲学】
哲学にとって、光は精神の側にあるもので、意識と呼ばれるものは、さまざまな事物をそれらが本来住んでいる暗闇から引き出してくる光の束である。意識という内面の光が。外側の暗闇に潜んでいる事物を照らし出す。

ドゥルーズによれば、現象学でさえこうした考えに哲学的伝統には忠実だったのであり、ただ現象学はかつて内面性の光とされていたものを、まるで電灯の光線のようにすべて外側に向けて開いていったに過ぎない。

【ベルクソンの哲学】
これに対して、ベルクソンは、事物というのはどんな光によって照らされているわけでもない、すでにそれ自体が光なのである、と。では意識とは何かというと、この光を屈折させ、停止させ、遮断するもの、言わば光にとっての障害物にほかならない。事物のイマージュは、意識の光によって照らし出されて浮かび上がるのではなく、意識をとおした光の屈折や遮断によって、つまり光の部分的な否定によって視えるものとなる。

したがって、視えている事物のイマージュは、内面的な光が作り出している形象といったものではなくて、部分的に制限を受けた光であり、この光は事物そのものの側にあることになる。
…………


◆箭内匡「映像について何を語るか -ジル・ドゥルーズ『シネマ』をめぐる考察」、PDF)より

ドゥルーズにとっての、 カントによる根本的な思考の変革とは、 具体的には何だろうか。それは、 『シネマ』の全体に関わる点からいえば、次の三点になるだろう。

第一にカントが、プラトン以来の「本質」(essence)と「仮象」(apparence)の対立と訣別し(つまりこの世界の背後に、この世界を根拠付けるような「真の世界」を前提することを廃止して) 、ただ「現れるもの」(ce qui apparaît)のみを、その「現れるものの条件」(conditions de ce qui apparaît)ととともに思考したこと。

第二に、この「現れるものの条件」の根底にあるものとして、 新しい、 真に近代的な 「時間」 の概念――いかなる宇宙的リズムをも前提としない、つまり、いかなる「動き(運動) 」の蝶番からも解放された、純粋な「時間」――を導入したこと。

第三に、この純粋な「時間」の概念を、同時にいかなる心理的リズムにも依拠しないものとして考えることを通じ、 「私の存在」が「私は他者である」(“Je est un autre”)というパラドックスを内包する形でのみ綜合されうること、 そして、 この綜合作用の根底に 「自己の自己による変様」としての「時間」があること、を見出したことである。

註):《 「現れるもの」 に相当するカントの原語はErscheinung であり、 これは通常は phénomèneと仏訳される言葉だが、ドゥルーズはドイツ語のニュアンスを生かす形で ce qui apparaît あるいは apparition という言葉を使っていると思われる。「現れるものの条件」については、「現れるも のの意味(sens)」と言ってもよい、とも述べている。》

(……)カントが行なった第一の根本的変革は、 プラトン以来の伝統である、 我々の経験の世界( 「仮象」の世界)の彼方に真実の世界( 「本質」の世界)が見出される、という考え方を打破して、ただ「現れるもの」 (あるいは「現象」 )のみが知りうる、としたことである。ここにおいて哲学的思考は、はじめて、もはや隠れた「真実の世界」に存在論的根拠を求めることの一切ない、 真に近代的なものとなったわけである。 「現れるもの」 のみを、そしてそれ自体において捉えてゆこうとする、 広い意味での 「現象」 学的アプローチは、 まさにここに始まるのであり、ベルクソンが『物質と記憶』において、 「私が感官を開けば知覚され、閉ざせば知覚されない」ものをすべて「イメージ」(image)という言葉で捉えようとした時も、またパースが「それが実在の事物に対応するか否かに全く関係なく、どんなしかたにおいてであれまたどんな意味においてであれ、 心に現れるいっさいのものの総合的全体」を「現象」(phaneron)という言葉で捉えようとした時も(パース 1985[1935]) 、そしてベルクソンとパースを引き継ぎつつドゥルーズが 『シネマ』 で、 目の前に現れる映像をも含めた全ての現れるものを 「イメージ」 として捉えようとした時も、 このカントのアプローチが出発点になっていることになる。

さて、こうして「本質」と「仮象」を同時に排除した以上、 「現れるもの」 について言いうることはただ、 「主体に向かって一定の仕方で現れる」ということのみであるだろう( 「一定の仕方で」というのは、もし変幻自在に現れるのであれば、人間は自らの経験を思考できなくなってしまうだろうからである) 。周知のようにカントは、この「一定の仕方」を、一連の条件(人間経験の可能性の条件)の形で整理する。つまり、 「現れるもの」は、一方で「時間」と「空間」の形式において主体に現前するのであり、他方で一連の「カテゴリー」 (あるいは「概念」 )を通じて表象として規定可能となるのである。
(……)カントが到達した答えは、ドゥルーズによれば、次のようなものである。第一に、 「我思う」における「私」 (Je)の思考の自発性、能動性は、それ自体、何かの前提的存在の属性として把握されうるものではなく、入り組んだ言い方になるが、 「時間」のなかで変様する受動的な「自我」 (Moi)の上での効果としてのみ ――それ自体受動的な「自我」が、自らの上 において 「他なるもの」 として生きるところの能動性の現われとしてのみ――把握されうるものであること。 「私の存在」は、このようにして、 「私は他者である」(“Je est un autre”)というランボーの詩句に従うかのように、 ただ、 他者としての 「私」 (Je)の効果を受動的な 「自我」(Moi)へ、 「時間」の形の中で結び付けることによってのみ、綜合されうるのである。そして第二に、この受動的な「自我」が変様する形が、とりもなおさず「時間」の形――つまり自己の自己による変様(affection de soi par soi)――であり、 この 「時間」 の形は、 存在 ( 「我あり」 ) と思考 ( 「我思う」 ) とをア・プリオリに関係させる、 超越論的な、 内的な差異(Différence)であること。ここで切り開かれるのは、 「時間」も「私の存在」も、もはや外部の超越的な何かに存在論的根拠を与えられるのではなく、 純粋に内的な差異の生産の形式によって捉えられるという、徹底的に内在的(immanent) な思考の地平である。

註):《「超越論的」とは、あらゆる(可能な)経験の条件に関わるということである。付言すれば、 内在的な思考を貫こうとするドゥルーズ哲学の文脈においてはとりわけ、「超越論的」 (transcendantal)と「超越的」(transcendent)の二つの形容詞を混同しないことは重要である。後者 が、 経験しうるものの彼方にあるという意味でまさに超越的なのに対し、 前者は、 経験を根底か ら規定しつつも経験と同じレベルに位置するという意味で、内在的とみなしうるものである。》


【カントのいう「現れるものの条件」の生物学版】

ところで、 ユクスキュルのこの生物学的=哲学的理論 (「環境世界」(Umwelt)の理論 )の中で、 映像との関係においてとりわけ興味深いのは、 各々の生物が認識可能な最小限の時間 (瞬間) を持っているという指摘である(ユクスキュル 1990[1934, 1940]: 49-53)。 この考えに基づくなら、 映画が我々の眼に連続的な「動き(運動) 」として映るのは、ただ単に人間の視覚が1/18秒以下の時間を捉えられないからだけではなく、もっと一般的に、人間のあらゆる感覚(聴覚、触覚等)がそれ以下の時間を捉えられないからであって、 いうなれば、 人間の知覚の全体がそれ自体、 1/18秒ごとのぶつ切れの経験から成り立っている、ということになるだろう。

註) 《ユクスキュルによれば、これに対してカタツムリの世界は、1/4~1/3秒ごとの経験か ら成っており、 反対にトウギョという魚の一種は、 1/30秒以上の速さのみを知覚することに よる世界を生きていることになる。鈴木光太郎は、ユクスキュル以降の実験的データに基づき、 視覚によって認識可能な最小限の時間の具体的数値は、 状況により、 また個体によって多少揺れ 動くものとしつつも、認識可能な最小限の時間(「生物学的一瞬」)という考え方自体は肯定し ており、それはその生物の代謝速度と関係づけられるとしている(鈴木 1995: 163-191)》。

すると、翻ってみるなら、自然知覚によって我々が捉える「動き(運動) 」もまた、実は、 (映像とまったく同様に) 一種の心的努力によって我々が再構成しているものだということになり、 その点では、 自然知覚の経験と映像 (写真も含めて) を見る経験の間の差異は、 結局のところ、かなり相対的なものだということになる。 フィルム上の映像がしばしば我々に対して、 自然知覚によって捉えられる現実に劣らないほど影響力を及ぼしうるという、 我々の日常的経験も、このように見れば、きわめて納得のゆくものになる。

そして、こうしてみるなら、ベルクソンが『物質と記憶』において、カントの「現れるもの」 の現象学を受け継ぎつつ、 それを 「事物と表象の中間に位置する存在」 であるところの「イメージ」 と呼んだこと、 そして 『シネマ』 におけるドゥルーズがこのベルクソンのアイデアに映像へのラディカルなアプローチを見出したことは、 実に正当であることが了解されてくる。 確かに我々を取り囲む事物と映像は、 ある局面においてははっきり区別されるべきものであるだろうが、 しかし、 映像と現実との複雑な絡まりあいを正確に把握するためには、それらをまず 「イメージ」 として同列に捉えることが不可欠なのであり、 そのための根拠は十分に存在するのである。


ーーやあ、すべてやや古い論文からだが、最近は変わったんだろうか。それともカント以前に「退行」しちまったんだろうか? そこのおまえさんよ

私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。 (中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」2000年初出『時のしずく』所収)




2016年9月25日日曜日

実在性 Realität と現実性 Wirklichkeit

《ある語の意味は、言語[ゲーム]におけるその語の使用である。》(ウィトゲンシュタイン『探求』)

…………

以下、メモ

◆「実在性 Realität(reality, Realität, réalité)」の項目(木田元執筆)、『岩波哲学・思想事典』1998年より)。

通常「実在」ないし「実在性」と訳され、日常用語では「現実」ないし「現実性」と訳される actuality(〔独〕Wirklichkeit, 〔仏〕 actualité)と等価的に使われるが、哲学用語としては両者は異なった文脈に属する。

つまり actuality が possibility(可能性)、necessity (必然性) と共に事物の存在様相を意味する存在論的概念であるのに対して、reality は ideality (観念性)と対をなし、ideality が意識のうちに観念としてあるあり方を意味するのに対比して、reality は意識とは独立に事物・事象としてあるあり方を意味する認識論的概念である。

もっとも、中世から近代初頭にかけて哲学的用語として使われたラテン語 realitas やその元となった形容詞  realis には「実在性」「実在的」という意味はなかった。realis はres(物)に由来し、その物が実在するか否かに関わりなしに、〈物の事象内容に属している〉という意味であり、realitas も可能的な事象内容を意味した。

「第二省察」においてデカルトは realitas objectiva と realitas actualis とを区別しているが、この 場合も前者は心に投射( objectiva) された事象内容、つまり可能的事象内容を、後者は現実化された(actu)事象内容を意味している。

ライプニッツも realitas と possibilitas(可能性)と等置しているし、カントが omnitudo realitatis と言う場合も、それは実在物の総体のことではなく、およそ可能な事象内容の総体のことであった。また彼が神の存在の存在論的証明を論駁しようとして提唱する「存在する〉ということは real な述語ではない」という命題における real も〈事象内容を表わす〉という意味である。

その Realität が「実在性」という意味をもつようになったのは、カントの objektive Realität(客観として現実化された事象内容)という概念を介してであり ー カントのもとでsubjektiv の意味に対応してobjektiv の意味も変質した-、次第に Realität だけで〈現実に存在する事象〉を意味するようになったのである。

木田元氏のとても明晰な解説であるようにみえるが、カントをめぐる箇所は誤謬だという見解がある(檜垣良成、Realitätの二義性 : 中世から近世へと至る哲学史の一断面、2015,PDF)。

檜垣良成氏のその見解の出処の核心部分(のひとつ)は、次の文にある。

カントの講義を記録した或る筆記ノートに次のように書かれている(Johann Friedrich Vigilantiusによって筆記された一七九四-九五年のカントの形而上学講義のノート。アカデミー版カント全集第XXIX 巻にMetaphysik K3として収録されている)。

…………

Realitaet〔ママ〕という言葉は二重の意味で使用される。

(一)〔すなわち〕形容詞的に〔adjective〕使用される。その場合、それは客観の形式のみを意味し、したがって形式的に〔formaliter〕適用され、しかもその場合、それは単数形でのみ使用されうる。例えば、諸表象、諸概念は客観的な Realitaet をもつ。……

(二)あるいは名詞的に〔substantive〕使用される。その場合、Realitaet はの質料的なものへ関係づけられ、複数形でのみ使用される。なぜなら、物の諸々のRealitaetがそれ自体そのもので考察されるからである。(XXIX 1000)

このテクストは、カント自身が Realität の二義性に自覚的であったことを示すものである。ここで Realität の名詞的使用と言われているものは、ドゥンス・スコトゥスに由来しデカルトの realitas obiectivaで有名になった realitas の用法につらなるものであり、「各々の«res» 〔物〕の Wesen (essentia)〔本質〕ないし、よりよく言えば、 Wesenhaftigkeit(essentialitas)〔本質性〕を意味するrealitas を継承するものである。

ーーということで、ああなんという厄介な、ということ「だけ」が分かった。

木田氏の解説にWirklichkeitという語が出現しているので、ここでラカンが依拠することの多いヘーゲルの「現実性 Wirklichkeit」 についてもついでにメモしておくことにする。

現実性(Wirklichkeit)とは、本質と現存在、あるいは内的なものと外的なものとの統一が直接的なものとなったものである。現実的なものの発現は、現実的なものそのものである。そこでそれは、発現の内にあっても同様に本質的なものにとどまり、そして直接的な外的な現存在の内にある限りにおいてのみ、本質的なものである。(ヘーゲル『小論理学』)

実際、ラカンはセミネールⅣで、Wirklichkeit symbolique などというこれまた厄介な言い方をしており、わたくしの依拠することの多いロレンツォ・キエーザは、Real-of-the-Symbolic と訳している。

しかもロレンツォは次のように記している。

all of the Real is nothing but the Real-of-the-Symbolic.(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、2007)

すなわち、ロレンツォにとっては(おそらくジジェクにとっても)、Wirklichkeit symbolique が現実界 Réel の別の言い方であるということになるはずだ。

最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesaーー超越論的享楽)
われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012)

Real-of-language も Wirklichkeit symbolique である。

子どもは、エディプスコンプレックス(その消滅)を通して象徴界への能動的な入場をする前に、文字 letter としての言語、言語のリアルReal-of-language に関係する。人は原初の要所を思い描くことを余儀なくされる、要所、すなわちペットのように言語のなかに全き疎外されている状態を。これはたんに神話的な始まりを表すだけに違いないとはいえ、それにもかかわらず、子どもは、いかに話すかを学んだのちも、(文字としての)言語によって話され続ける。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007ーー「人間は想像界から始まる」という通念は疑わしい

ここでの「文字 letter 」とは、「もの」としての言葉(中井久夫)、あるいは純シニフィアンのことである。

我々は強調しなければならない、ラカンがいかに無意識を理解したかを。彼は二つの用語を使っている。記号 symbole 、意味作用の原因としてのシニフィアン、そして、文字 lettre 、純シニフィアン signifiant pur としてのシニフィアンの二種類である。(ロレンツォ・キエーザ Lorenzo Chiesa 『主体性と他者性』Subjectivity and Otherness、2007ーー純シニフィアンの物質性


2016年9月24日土曜日

まぁ、 世界というのはその程度のものだと思います

リアルな対象への主体の無意識的欲望…それは究極的に、根本幻想 $ ◊ a の想像的機能に依拠する。すなわち無意識的欲望は、スクリーン/ヴェールが現前している限りでのみ、スクリーン/ヴェールの彼方の欠如を欲望しうる。 (ロレンツォ・キエーザ、2007、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)

…………

《……メイヤスーによる「原化石」や「祖先以前性」の概念は、このカント的前提を切り崩す(参照)》

メイヤスーの決定的側面…、彼のなかにはある幻想の支えが見出される。すなわちまさに、我々を救済する《大いなる外部》幻想ーーだが結局、何から救済するのか?

……《大いなる外部》は幻想である、と言うことは、それが本当は存在しないリアルReal の幻想だという意味ではない。…

むしろ厳密に精神分析的意味での幻想である。すなわち論弁的現実 reality 自体が、亀裂があり・矛盾し・その削減されえない裏面としてのリアルに巻き込まれているという事実を覆い隠すスクリーン。言い換えれば、《大いなる外部》は、既にまさにここにあるリアルを覆い隠す幻想である。
メイヤスーの観点…すべては偶然的だ、この偶然性の必然性以外は。このように彼は主張することにより、メイヤスーは事実上、不在の原因 absent cause を絶対化してしまっている。(……)

我々は、メイヤスーに不在の〈原因〉absent Cause を絶対化しないですますことができない無神論的構造を見る。…「無神論者の神」のような何か、つまり「神がいないことを保証する神」を。(ジュパンチッチ、2014,Realism in Psychoanalysis Alenka Zupancic、PDF)

《現実界とは形式化の袋小路である。 Le reel est un impasse de formalization》(ラカン、S.20ーー基本版:現実界と享楽の定義)

…………

《まぁ、 世界というのはその程度のものだと思います。》(蓮實重彦)

あらゆる「制度」に蔓延している怠惰な事実誤認、それは、「未知」なるものはいま、この瞬間にここにはなく、したがって見えてはいないと信ずることであり、そんな「貧しい」確信が、「未来」だの「彼方」だの「深さ」だのを捏造してもっと奥、もっと遠くへと困難な距離を踏破して進まんとするあまたの擬似冒険者を生み落すのであり、そうした楽天的な魂たちは、自分に最もふさわしい仕草を、「未知」なるものを「既知」なるものへと移行させんとする「発見」の旅だと信じて疑わない。だが、存在が真に有効な視線を欠いているのは、まさしく、いま、この瞬間に、ここにあるものをめぐってなのであり、そのとき瞳を無効にされた存在は、「彼方」を見やって視力の回復をはかるのではなく、むしろ自分自身の瞳を積極的に放棄して、「既知」と思われた領域の一劃に不意に不可解な陥没点を現出せしめ、そこで、いま、この瞬間に、ここにあるものと接しあいながら、もはや自分自身には属さない非人称的な瞳を獲得して、世界を新たな相貌のもとに把えることになるだろう。(蓮實重彦『表層批判宣言』「言葉の夢と「批評」」)

2016年9月23日金曜日

ネガ(le négatif)こそ創造されねばならない

・すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(徴 示)することができない il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.》(Lacan, S.14)

・常に「一」と「他」、「一」と「対象a」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)(Lacan,20)

オマエ、阿呆か、どうして「私」というシニフィアンが、この私と一致するんだい?

ヘーゲルが何度もくり返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということである。

もっと情動的 pathetic な言い方をするなら、私は話し出した瞬間、もはや即物的に具体性のある「私」ではない。というのは、私は非個人的メカニズムに囚われ、そのメカニズムは常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。

前期ラカンは「私は話しているのではない。私は言語によって話させれている」と言うのを好んだ。これは「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。すなわち、主体が「聖餐式における全質変化 transubstantiation」のために支払わなければならない代価。直かの動物的主体であることから、パッションの生気から引き離された話す主体への移行である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

最近のジジェクではなくても、四半世紀前から言ってるぜ、

《主体とはそれ自身を徴示する(シニフィアンする)表象の不可能性以外のなにものでもない》(ジジェク、1989ーー簡略版:四つの言説

別にラカン派じゃなくていいさ、ゴダールだって言ってるだろ






ゴダールは『JLG/自画像』で、二度、ネガに言及している。一度目は、湖畔でヘーゲルの言葉をノートに書きつけながら、「否定的なもの(le négatif)」を見すえることができるかぎりにおいて精神は偉大な力たりうると口にするときである。二度目は、風景(paysage)の中には祖国(pays)があるという議論を始めるゴダールが、そこで生まれただけの祖国と自分でかちとった祖国があるというときである。そこに、いきなり少年の肖像写真が挿入され、ポジ(le positif)とは生まれながらに獲得されたものだから、ネガ(le négatif)こそ創造されねばならないというカフカの言葉を引用するゴダールの言葉が響く。とするなら、描かれるべき「自画像」は、あくまでネガでなければならないだろう。(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』pp.82-83)

ネガってのは、対象a だよ、正確にいえば、分身=想像的自我+a(分身Doppelgänger =想像的自我+異物 Fremdkörper)だ

人生ってこのためにあるんじゃないのか、《ネガ(le négatif)こそ創造されねばならない》ことに。

で、ツイッターってのは最悪装置なんだよ、想像的自我とばかり睨めっこして、ネガほったらかすシステムだぜ、あれ

・反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。

・世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)。
能動的に思考すること、それは、「非現働的な仕方で inactuel(反時代的に)、したがって時代に抗して、またまさにそのことによって時代に対して、来るべき時代(私はそれを願っているが)のために活動することである」。(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』江川隆男訳)
現在に抗して過去を考えること。回帰するためでなく、「願わくば、来たるべき時のために」(ニーチェ)現在に抵抗すること。つまり過去を能動的なものにし、外に出現させながら、ついに何か新しいものが生じ、考えることがたえず思考に到達するように。思考は自分自身の歴史(過去)を考えるのだが、それは思考が考えていること(現在)から自由になり、そしてついには「別の仕方で考えること」(未来)ができるようになるためである。(ドゥルーズ『フーコー』「褶曲あるいは思考の内(主体)」宇野邦一訳)

やあ、ホント、あの装置には抵抗しなくちゃならない、あの阿呆生産機械には。

せめて俳句(詩)、引用、災害情報、安倍罵倒反復装置ぐらいに限らなくちゃな、
あるいはーー

ツイートというかたちは すくない字数で思いついたことを書きとめておくのによい と思っていた たとえばこんなことも 

どこにも属さず 組織に雇われてはたらかない できれば半分以上の時間をあけておく 瞬間の粒が希薄な時間に散らばる ひととおなじことをしない つよい絆をもたない 「糸ほどの縁を取りて付くべし」(芭蕉)(ことばを区切る、高橋悠治
ツイートの別な使い方。「ボット」のように、自由間接話法の、だれとも知れない声の仮の置き場所として使えないか(壁の向うのざわめき  高橋悠治

ところが、夜郎自大の「わたし」「ぼく」の跳梁跋扈、意味の過剰、湿って纏わりつく抒情を垂れ流すホモ・センチメンタリスばかりで眩暈がするぜ

語りたまえ、そうすればすべてが明らかになる。出来事と諸力に対するきみたちの位置、きみたちの盲目性、きみたちの操作の範囲、きみたちの暗黙の信仰、鏡のなかの自分自身を見るきみたちの仕方が …語りたまえ、そうすればいまにもきみたちは思わず本心を洩らすだろう。叙述したまえ、そうすればきみたちは、自分の思考で考えていることよりずっと多くを言うだろう。悪と関わるきみたちのやり方。ただひとつの悪、実存することの悪だ。全能なる羨望と嫉妬のなかで。一般化された大人の稚拙さのなかで。

(…… )わかりきったことだ。そいつは前面に出てくる。哲学者は旅の逸話のなかで馬脚をあらわす。政治家は物語の色合いの秩序のなかで。さあ、耳をそばだててよく聞くがいい。ヒステリーはその後ろ、すぐ後ろにある、聴診器なんかいらない、それはどんなにささいな文章をも際立たせ、最もささいな形容詞のなかでもそれがふつふつと沸き立っているのが聞こえる。途方もない無意識の退廃、そしてぼく、ぼくが、ぼくが、ぼくが。……(ソレルス『女たち』)

ーーいやあ、あの装置がそうさせるんだよ、
まさか世界はあんなやつらばかりじゃなかったはずだ・・・



ヘルダーリン・プルースト・ラカン あるいはシニフィアンの論理

シニフィアン signifiant は記号 signe とは逆に、誰かに何かを表象するものではなく、主体をもうひとつのシニフィアンに対して表象する représente précisément le sujet pour un autre signifiant ものである。私の犬はご存知のように、私の印、記号を探し、そして話す。なぜこの犬は話す時に言語を使わないのであろう。それは、私はこの犬にとって記号を与えるもので、シニフィアンを与えることはできないからである。前言語的に存在し得るパロールと言語の違いはまさにこのシニフィアンの機能の出現にかかっているのである。(ラカン、セミネールⅨ、向井雅明訳)

《記号とは、つねにある固定された意味を示す。赤信号は「停まれ!」の意味である。シニフィアンとは、底に横たわる絶え間なく変化するシニフィエを示す。結果として固定された意味について語るのは困難である。意味は、この個別のシニフィアンが使用される、より大きな言語学的かつ社会文化的なコンテクストによって決定される。》(ヴェルハーゲ、2004、Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disordersーーラカン派の「記号」と「シニフィアン」

① 《シニフィアンはどんな対象とも関係しない記号である》(S.3)。それは《他の記号と関係する記号であり、それ自体、他の記号の不在を徴示するように構造化されている。言い換えれば、二つ組で己に対立する》(S.3)。さらにシニフィアンは必ずしも(文のなかの)言葉に相当しない。音素から文までの言語のあらゆる階層的レヴェルでの対立するユニットはシニフィアンとして機能しうる。人のボディランゲージもーー例えば、頭を振ったり頷いたり手を振ったり等々ーーそれが多義的である限りにおいてシニフィアンとして働きうる。

② 記号とは、厳密に言えば、コード概念、あるいは「生物学的な記号」と重なり合う何かである。索引と指示物とのあいだのとゲシュタルト的/想像的なーー両一義的な bi-univocal ーー関係である。これは動物のコミュニケーションの領域である(思い起こしてみよう、例えば動物においてある色の出現はそのパートナーにおけるある性的反応を惹き起こす仕方を)。このように動物のコミュニケーションは「(特別の)意味をもつ significant」。他方、人間のコミュニケーションは「徴示する signifying」。その意味はけっして「両一義的」でないことである。というのは根絶できない虚偽の可能性ーー象徴的局面の精髄ーーが間違いなくあるのだから。

③「主体性のどんな科学的定義もない、次ぎのように考え始める以外は。すなわち意味する先ではなくnot significant ends、純粋に徴示するものpurely signifyingに対するシニフィアンを扱うことの可能性から始めること。これは、欲求の秩序とのどんな直接の関係性もないことを言っている」(Seminar. III, p. 189) この定義はすでに1960年代初めのラカンの名高い公式の基本を提示している。その公式によれば、主体はほかのシニフィアンに対するシニフィアンによって表象される。主体はシニフィエに還元され得ない。シニフィエの主体the subject of the signified とは自我egoに相当する。他方、主体はシニフィアンにさえ同一化できない。というのはシニフィアンの行為そのものが言表内容と言表行為のあいだで主体を分裂させるからだ。どんなシニフィアンも主体を十分に徴示することはない、それが「特権的なシニフィアン」であってさえも。(ロレンツォ・キエーザ、2007、Lorenzo Chiesa.、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan)

シニフィアンとは、《他の記号と関係する記号であり、それ自体、他の記号の不在を徴示するように構造化されている。言い換えれば、二つ組で己に対立する》(ラカン、S.3)とあった。

つまり、次の図となる。



最も基本的なところから始めよう。何がシニフィアンの「差異的 differential」性質を構成しているのかと。S1 とS2 、シニフィアンの二個一組の用語(男-女、天-地、明-暗、陰-陽、等々)は、単純には同じレヴェルで現れるわけではない。…「差異性 differentiality」はもっと精密な関係性を示している。

その関係性のなかでは、一つの用語、その現前の対立物は、すぐさま他の用語ではなく、最初の用語の不在・それが記銘された場における空虚である(記名の場と合致する空虚)。そして、他の対立的用語の現前が、最初の用語の不在の空虚を埋め合わせる。これが、典型的二項対立おける、よく知られた「構造主義者」の命題ーー《一つの用語の現前は対立した用語の不在と等価である》--をいかに読まなければならないかのあり方である。
ここで、「昼(日中 day)」と「夜 (night)」という二個一組のシニフィアンの例を取り上げる。この二組は、単純には補完的シニフィアンではない。二つが組み合わされば(「昼」+「夜」)、全体を形作るものではない。むしろ、核心は次の通り。

《人間は「昼」をそれ自体として置く。それによって、昼は、夜という具体的な背景ではなく昼の潜在的不在ーーこの不在のなかに夜が位置づけられるーー という背景に対して、昼として現れる。もちろん逆もまた真である。》(ラカン、S.3.p.331)
したがって、シニフィアンの二個一組内部において、一つのシニフィアンは常にその潜在的不在の背景に対して現れる。この不在は、その対立物の現前のなかで、物質化されたものーーポジティヴな存在として想定された不在である。ラカンによるこの不在のマテームは、もちろん、斜線を引かれたシニフィアン $ である。

すなわち、一つのシニフィアンはその対立物の不在を埋め合わせる。それは、その対立物の場を「表象」し所有する。…こうして、我々は既にシニフィアンの定式を生み出した。《一つのシニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を表象する[un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant.]》。

ゆえに我々は理解できるだろう、ラカンにとってなぜ主体のマテーム $ が必要なのかを。すなわち、一つのシニフィアン S1 は、他のシニフィアン S2 に対して、その不在・その欠如 $ を表象する。

ここでの決定的な要点は、シニフィアンの二個一組において、一つのシニフィアンはその反対のシニフィアンの直の片割れでは決してなく、一つのシニフィアンは常にその潜在的不在を表象(具現)するということだ。二つのシニフィアンは、三番目の用語である「空虚」を通してのみ「差異的 differential」関係性に入る。シニフィアンが差異的であるという意味は、主体を表象するどんなシニフィアンもない、ということである。(ジジェク『為すところを知らざればなり』(Slavoj Žižek For They Know Not What They Do、1991、私訳ーー価値形態論(マルクス)とシニフィアンの論理(ジジェク=ラカン)

上に掲げた図は、四つの言説のなかのひとつ主人の言説の図として展開される(参照:「四つの言説」(ラカン)概説)。



この主人の言説(あるいはヒステリーの言説、大学人の言説、分析家の言説)の形式的構造はつぎの通り。




以下、Serge Lesourdによる説明。

話し手は他者に話しかける(矢印1)、話し手を無意識的に支える真理を元にして(矢印2)。この真理は、日常生活の種々の症状(言い損ない、失策行為等)を通してのみではなく、病理的な症状を通しても、間接的ではありながら、他者に向けられる(矢印3)。

他者は、そのとき、発話主体に生産物とともに応答する(矢印4)。そうして生産された結果は発話主体へと回帰し(矢印5)、循環がふたたび始まる。 (Lesourd, S. (2006) Comment taire le sujet? )

さらに次のような説明もなされる。




最初の要素は次の通り。他 Autre は、言説の主体としてではなく、主体のパートナーとして発話環境のなかに包含されている。

事実、人間のコミュニケーションは二人の個人のあいだの均等な交換ではない。そうではなく、コミュニケーションとは言説(ディスクール)なのであり、そこでは主体は主体自身によって構築された別の者 へ話しかける。それはこの他 autre が友人であっても変わらない。

それゆえコミュニケーションとは二人の主体のあいだの間主体的なものではない。二人の人物のあいだにおいて、主体Aーー〈私〉と呼ぼうーーは主体Bではない或る主体に話しかける。そして主体Aに応答する〈あなた〉と呼ばれる主体Bは本当は彼の言説の《他〉に応答するのだ。

間主体性という誤解に満ちた特徴の全てのダイナミズムはこの論述構造の特異性から来る。

〈私〉は〈あなた〉に話しかけるのではない。そして〈あなた〉がこの〈私〉に応答するとき、〈あなた〉が応じているのは実際はこの〈私〉ではないのだ。

これがフロイトが転移的反復において発見したことである。すなわち私が話しかける人は「内部の他」、彼自身の言説の他であり、現実の他者ではない。(同、Lesourd, 2006)

ここで柄谷行人の叙述を抜き出してみよう。

たとえば、一人称が聞き手との関係によって違っているような日本語では、一人称と「主体」が混同されることはけっしてなかった。しかし、日本語に「主語がない」ことは、日本語で語る人間に「主体」が無いことをすこしも意味しない。逆にいって、そうした文法的条件は、近代的な主観を乗り越えることをも意味しない。今日、日本語では、文法上の subject と、理論理性としての subject、実践理性としての subject は、それぞれ主語、主観、主体と区別されている。そうしたのは、西田幾多郎であった。この区別は、日本語の性質から直ちに来るものではない。そこに、こうした語が混同されている西洋哲学への「批判」がある。(柄谷行人「非デカルト的コギト」1992『ヒューモアとしての唯物論』所収 p.87ーー「人間の思考はその人間の母語によって決定される」より)

《文法上の subject と、理論理性としての subject、実践理性としての subject は、それぞれ主語、主観、主体》とある。

この柄谷行人と、Serge Lesourd との解釈をーー厳密さをきさずに(つまり柄谷の叙述をそのままシニフィアンの論理に移行させるには牽強付会にすぎるが)ーー混淆させて図示すれば次のようになる。




主体とは、分裂した主体 $(無意識の主体)
主語とは、発話を担う代理人(見せかけsemblant の主体)
主観とは、主体が構成した「内部の他」

ーーここでの主観の定義はあえてこのような意味で使用した、ということである。

「意味」という語が用いられる――全ての場合ではなくとも――多くの場合に、次 のように説明することが出来る:ある語の意味は、言語[ゲーム]におけるその語の使用である。(ウィトゲンシュタイン『探求』)

実際、人は他者に話しかけるときには主体が構成した「内部の他者」であることは、すでにプルーストが指摘しているとさえ言える。

「知った人に会う」とわれわれが呼んでいる非常に単純な行為にしても、ある点まで知的行為なのだ。会っている人の肉体的な外観に、われわれは自分のその人についてもっているすべての概念を注ぎこむ。したがってわれわれが思いえがく全体の相貌のなかには、それらの概念がたしかに最大の部分を占めることになる。そうした概念が、結局相手の人の頬にそれとそっくりなふくらみをつくり、その鼻にぴったりとくっつけた鼻筋を通してしまい、その声に、それがいわば振動する二つの透明な膜にすぎないかのように、さまざまなひびきのニュアンスを出させることになるのであって、その結果、われわれが相手の人の顔を見、その声をきくたびに、目のまえに見え、耳にきこえているのは、その人についての概念なのである。(プルースト「スワン家のほうへ」井上究一郎訳)

主体の分裂については、もっと遡ってヘリダーリンを引用してもよい。

私が、私は私だというとき、主体(自己)と客体(自己)とは、切り離されるべきものの本質が損なわれることなしには切り離しが行われえないように統一されているのではない。逆に、自己は、自己からのこの切り離しを通してのみ可能なのである。私はいかにして自己意識なしに、「私!」と言いうるのか?(ヘルダーリン「存在・判断・可能性」

ラカン派では、言表内容の主体 sujet de l'énoncé と言表行為の主体 sujet de l'enonciation が一致している思い込んでいるらしき人々のことを「私は私自身の主人maîtreである」という妄想的(パラノイア的)信念の言説、--《m'être à moi même》(Lacan,S.17)ーーの主体と言う。

ラカンのシニフィアンの定義、「シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を代表象する(Le signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant)」とは、フロイトの公式、「私は自分の家の主人ではない(dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus)」の発展形にすぎない。

ところが、「私は自分の家の主人」だと思い込んでいる言説、つまりはパラノイア的言説の主体のなんという跳梁跋扈!

象徴的権威の崩壊後の世界において、《きみたちは言いうるだろう、もはやどんな恥もないと。vous pouvez dire qu'il n'y a plus de honte. 》(Lacan,S.17, 17 Juin 1970)

ロラン・バルトの穏やかな言い方ならこうなる。

私は、「私」という語を口にするたびに想像的なもののうちにいることになる。(ロラン・バルト『声の肌理』)
人称代名詞と呼ばれている代名詞。すべてがここで演じられるのだ。私は永久に、代名詞の競技場の中に閉じこめられている。「私〔je〕」は想像界を発動し、「君〔vous〕」と「彼〔il〕」はパラノイアを発動する。(『彼自身によるロラン・バルト』)

もっとも蓮實重彦変奏であるところの「大量の馬鹿が書くようになった時代」であるから致し方がないともいえる・・・

だが、ヘルダーリンはこう言っていることもつけ加えておこう、《わたしは聴く耳をもつ者たちに警告の歌をうたってきかせる。》(「ヘルダーリン『あたかも- 祝祭の日に…』)



2016年9月22日木曜日

地球における最悪の病原菌

地球から見れば、ヒトは病原菌であろう。しかし、この新参者はますます病原菌らしくなってゆくところが他と違う。お金でも物でも爆発的に増やす傾向がますます強まる。(中井久夫「ヒトの歴史と格差社会」2006.6初出『日時計の影』所収)



地球にとってもっともよいのは、三分の二の人間が死ぬような仕組みをゆっくりとつくることではないだろうか。 (ジジェク『ジジェク、革命を語る』2013)

わたくしはおおむね「科学者」という種族をあまり好まなかったのだがーーさらにいっそう福島原発災害のときのツイッターでの「理系専門家」の木瓜の華の百花繚乱ぶりにあきれ果てたーー、最近は、彼らは実のところ近未来、地球に最も貢献する種族かもしれないと思い返すようになり、いままでの蔑視に忸怩たる思いを抱いている。

ラカンは、芸術=ヒステリー、宗教=強迫神経症、科学=パラノイアとして、人間の昇華形式の三様式[…l'hystérie, de la névrose obsessionnelle et de la paranoïa, de ces trois termes de sublimation : l'art, la religion et la science(Lacan,S.7)]と言っているが、次の文はたぶんそれにかかわるはずだ。

1、科学は、象徴界内部で形式化されえないどんなリアルもないという仮定に基づいている。すべての「モノ das Ding 」は徴示化 signifying 審級に属するか翻訳されるという仮定である。言い換えれば、科学にとって、モノは存在しない。モノの蜃気楼は我々の知の(一時的かつ経験上の)不足の結果である。ここでのリアルの地位は、内在的であるというだけではなく手の届くもの(原則として)である。しかしながら注意しなければならないことは、科学がモノの領野から可能なかぎり遠くにあるように見えてさえ、科学はときにモノ自体(破局に直に導きうる「抑え難い」盲目の欲動)を体現するようになる。…

2、宗教は、リアルは根源的に超越的な・〈大他者〉の・排除されたものという仮定に基づいている。リアルは、不可能で禁じられており、超越的で手の届かないものである。

3、芸術は、リアルは内在的で手かないものという想定に基づいている。リアルは、表象に常に「突き刺さっている」、表象の他の側あるいは裏側に、である。裏側は、定められた空間に常に内在的でありながら、また常に手が届かない。どの動きも二つの物を創造する。目に見えるもの/見えないもの、聞こえるもの/聞こえないもの、イメージ可能なもの/不可能なもの。このように、芸術は常に境界と戯れる。境界を創造・移動・越境する。境界の彼方に「ヒーローたち」を送り込むのだ。しかしまた、鑑賞者を境界の「正しい」側に保つ。(ジュパンチッチ、Alenka Zupančič、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan、PDF)

いささか図式的すぎる説明であるにもかかわらず、科学の時代ーーエビデンス主義などということがまことしやかに語られる時代ーーの現在においては、豊かな示唆をもっている。

いやわたくしはエビデンス主義というものの実態をよく知らないのだが、たとえば「科学史家」トーマス・クーンの半世紀ほど前の指摘をどうやって処理しているのだろう?

T.S.クーンは、観察そのものが「理論」に依存していること、理論の優劣をはから客観的基準としての「純粋無垢なデータ」が存在しないことを主張する。つまり、経験的なデータが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわり認識論的パラダイムで見出される、とする。(柄谷行人『隠喩としての建築』)

ジュパンチッチの文に戻れば、《科学はときにモノ自体(破局に直に導きうる「抑え難い」盲目の欲動)を体現するようになる》とは、ハイデガーやラカンの「科学と真理」論文などに依拠する考え方である。

はじめて意志が、全面的に技術のうちに整備されて、大地を力づくで疲弊させ、濫用しつくし、人工のものに変えてしまうのである。技術は大地を、それにとって〈可能なもの〉という元来の圏域を超えて、もはや〈可能なもの〉ではなく、したがって〈不可能なもの〉であるようなものへと強いる。(ハイデガー『技術への問い』)

これらは現在なら、まずは環境汚染、原子力開発、あるいは遺伝子工学やクローン技術などを想起すればよいだろう。

このような「無頭の」知の範例的ケースは、(死の)欲動の「盲目的執拗性」を例証している現代科学によって提供されているのではないだろうか?

現代科学(微生物学や遺伝子操作や粒子物理学)はコストを度外視してその道を歩んでいる――満足はここで知それ自体によって提供されており、科学的知はいかなる倫理や公共の目的にも奉仕していない。遺伝子操作や医学実験などについての適正な運営のルールを定めようとしている「倫理委員会」が近頃増えつつあるが、それらのすべての「倫理委員会」は、究極的には、内在的な限界付け(簡潔に言えば、科学的態度に内在的な倫理)を知らない科学の無尽蔵な欲動的-発展を再び刻み付けようとする必死の試みではないだろうか?

「倫理委員会」は人間の目的を制限し、科学に「人間の顔」という限界付けを与えようとしているのだ。近頃の凡庸な叡知(commonplace wisdom)は「科学装置を通して自然を操作する私たちの並外れた力は、生きがいのある存在を導いたり、この強大な力を使うための私たちの能力をしのいでいる」と言っている。このように「欲動を追う」現代倫理は、伝統的倫理と衝突する。そこで人は、適切な基準というスタンダードにしたがって人生を送るよう指導され、人生ののすべての側面を、《善》というすべてを包み込む考えに従属させられてしまう。

もちろん、問題は、倫理についての二つの考えがバランスをとれないということにある。科学的欲動を生命の制限へと再び刻み付けるという考えは、最も純粋にファンタスム的なものである――これはおそらくファシストの基本的ファンタスムであろう。この類の制限はすべて、科学に内在的な論理とはまったく無縁なものである――科学は現実的なものに属しており、享楽の現実界の一つのモードとして、象徴化のモダリティにはそぐわないし、社会生活に影響を与えるようなやり方にもそぐわないのだ。(ジジェク『欲望:欲動=真理:知』

あるいは次のようにゴダール=蓮實重彦を引用することもできる。

ゴダールは)、「20世紀の夜明け」に起こったこととして「テクノロジーは、生を複製することに決め、そこで写真と映画が発明された」ともいっているが、すぐさま「喪の色である黒と白とともに、映画術が生まれたのだ」とつけ加えることをゴダールは忘れない。(……)さらに「映画は生命の動きを模倣しようとしたのだから、映画産業がまず最初に、死の産業に売り渡されたのは、当然で、理に適ったことだった」と語りなおされることになるだろう。(……)

テクノロジーが知らずにいたのはこのことだ。すなわち、生の模倣が死の模倣と同じ仕草におさまるしかないことを、技師者たちはいまなお知ろうとしないのである。

そのことの傍証であるかのように、ゴダールは、「1B」(『(複数の)映画史』)の「ただ一つの歴史」で、『ラ・シオタ駅への列車の到着』のしばらく後、アウシュヴィッツへと人々を運ぶ列車のイメージをフラッシュのようにごく短く挿入してみせる。あたかも、公共機関としての鉄道は、強制収容所へと無数のユダヤ人を運ぶ装置として発明されたといわんとするかのように。

どこで読んだのか定かではないが、デジタル技術の映画への貢献は何かと聞かれたゴダールが、それはイメージの質を向上させるための技術ではいささかもないと断言していたことが思いだされる。それは、イメージを圧縮してまとめて運ぶために考案された技術にほかならず、それは貨車いっぱいに人をつめこんで移送するようなものだと彼はいっていたはずだ。この比喩は明らかに強制収容所へと犠牲者を運ぶ列車のイメージを思わせる……(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』)

いずれにせよ20世紀に人口爆発だけではなくとんでもないことが起こってしまったということに無自覚な「科学者」たち、とくに工学的な頭の無頭の acéphale の死の欲動が、今度は逆に、ヒトというとんでもない病原菌の猖獗を近未来亡ぼしてくれるに違いない。

繰り返すが、ヴィリリオを引くまでもなく科学技術の問題はきわめて重要だし、「あくまで現実的に何が可能かを見極めようとする工学的な思考」はとことん徹底されなければならない。しかし、それがすべてだ、それ以外のいわゆる哲学的(あるいはもっと広く人文学的)な思惟などと いうのはノンセンスな夢想に過ぎない、という実証主義的批判は、それ自体、大昔から繰り返されてきた紋切型に過ぎず、受け入れることができない。必要なのは、すべてを工学的思考に還元することではなく、人文学的なものを工学的に思考すると同時に工学的なものを人文学的に思考することなのだ。私は「事故の博物館」の頃から(いや、もっと以前から)現在にいたるまで、そのような立場を一貫して維持してきたつもりである。そして、それが最初に示唆するのは、地球 環境問題が、もとより主観的な良心の問題(「やるだけやったし、まいっか」)ではないと同時に、客観的な工学の問題に尽きるものでもなく(現在をはるかに 凌ぐ計算力をもったシミュレータが出現しても、最終的にすべてを明確な因果関係によって把握することはできないだろうが、問題は、むしろ、そうした不完全 情報の下でいかに判断するかということなのだ)、文明のあり方そのものにかかわる思想的・政治的・社会的な問題だということなのである。。(浅田彰『続・憂国呆談』ーー「理系/文系」、あるいは「超越論的」をめぐる備忘

工学的なものを人文学的に思考などしなくてもよろしい、どうせ次のようになるに決まっているのだから。

浅田)アルチュセールがおもしろいことをいっている。科学者は最悪の哲学を選びがちである、と(笑)。細かい実験をやってて、そこではすごくハードな事実に触れているのに、それを大きなヴィジョンとして語り出すと、突然すごく恥ずかしい観念論になっちゃうことがあるわけ。それこそアニミズムとかね。 (浅田彰ーー村上龍との対談、2000)

いうまでもなく「科学者」たちの使命は「三分の二の人間が死ぬような仕組み」作りとその実現であり、優秀な科学者であればあるほどその資質がよりいっそう備わっているのは、彼らの真摯なる破廉恥、その無頭の知、その剰余価値ならぬ剰余知の顕現ぶりが証している。

もちろんここでの「科学者」というのは冒頭近くに掲げたように比喩であり、ようはラカンの言う通り、パラノイド的人格者たちのことである。パラノイド的人格者とは、非去勢の主体、あるいは「病理的ナルシシスト」とも言い換えられるのは周知の通り。

……「病理的ナルシシスト」の出現は、それ以前の二形態の根底に共通してあった自我理想の枠と絶縁する。象徴的法を自分の中に取り入れるのではなく、複数の規則、すなわち「いかに成功するか」を教えてくれる便利な規則がいろいろ与えられる。ナルシスト的な主体は、他者たちを操るための「(社会的)ゲームの規則」だけを知っている。社会的関係は、彼にとってはゲームのためのグラウンドである。彼はそこで、本来の象徴的任務ではなく、さまざまな「役割」を演じる。本来の象徴的同一化を含んでいる、自分を縛るような関わりはいっさい持とうとしない。彼は根源的に体制順応者でありながら、逆説的に、自分を無法者(アウトロー)として経験する。(ジジェク、1991)

これは精神分析だけではなく、心理学の分野で既に1989年前後ーーすなわち最後の「父」の死の後ーーから言われ続けていることももちろんご存じであろう。そしていまでは病理的ナルシシストでない人物を探すのが困難になってしまった。

ツイッターなどでまがおで、一人称単数代名詞を使ってーーいや仮に使っていなくても言表内容の主体 sujet de l'énoncé と言表行為の主体 sujet de l'enonciationが一致している思い込んでいるつもりの連中は、ほとんどすべて病理的ナルシシストである。

すなわち、「私は私自身の主人maîtreである」という妄想的(パラノイア的)信念の言説、--《m'être à moi même》(Lacan,S.17)ーーを振り撒いている連中のことである(参照)。

もっともこのたぐいの錯誤を抱く人間はかねてより多数存在しはしたが、やはり「神の死」にひきつづく「父の死」が決定的であった。

どんなケースにせよ、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、ということが起こるならば、われわれは服従する者としては、強制、拘束、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。しかし他方でまたわれわれは〈私〉という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「欲する」ということに関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』)

わたくしはーーもちろんこの一人称単数代名詞はフィクションの「わたくし」であるーー、みなさんの仲間入りできなくて残念だが、どちらかといえば「倒錯者」ではないかと疑っている・・・


2016年9月21日水曜日

ドゥルーズ派諸氏の訳文 réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits

réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits(Proust,Le Temps retrouvé)

ーーこのプルースト文の訳文ヴァリエーション。

現時でなくて現実的であり、抽象的ではなく観念的(プルースト「見出された時」井上究一郎訳,p.325)
現実的ではないが実在的であり、抽象的ではないが観念的である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』宇波彰訳 p.76)
実在的ではあるがアクチュアルではなく、観念的ではあるが抽象的ではない」(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)
現実的 (actuel) であることなしに実在的 (réel) 、 抽象的 (abstrait) であることなしに観念的(ideal)](ドゥルーズとガタリの思想の同一性と差異ーブルースト『失われた時を求めてJ の解釈をめぐって、増田靖彦、PDF)
Real without being present, ideal without being abstract.(Gilles Deleuze, Proust and Signs, Translated by Richard Howard)

いやあ、マジでなんとかしてくれないかな、この文ってのはドゥルーズの「潜在的なもの」の核心の定義(のひとつ)ではないのか。

潜在的なものは、実在的なものには対立せず、ただアクチュアルなものに対立するだけである。潜在的なものは、潜在的なものであるかぎりにおいて、或る十全な実在性を保持しているのである。潜在的なものについて、まさにプルーストが共鳴の諸状態について述定していたのと同じことを述定しなければならない。すなわち、「実在的ではあるがアクチュアルではなく、観念的ではあるが抽象的ではない」ということ、そして、象徴的ではあるが虚構ではないということ。(ドゥルーズ『差異と反復(下)』財津理訳,河出文庫,2007年,p.111)

Le virtuel ne s'opposent pas au réel, mais suelement à l'actuel. Le virtuel possède une pleine réalité, en tant que virtuel. Du virtuel, il faut dire exactement ce que Proust disait des états de résonance : « réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits » ; et symboliques sans être fictifs .

《現実的ではないが実在的であり、抽象的ではないが観念的である。》――この観念的な実在的なもの、この潜在的なものが本質である。本質は、無意識的に記憶されたものの中に実在化または具体化される 。ここでも、芸術の場合と同じく、包括と展開は、本質のすぐれた状態として留まっている。そして、無意識的に記憶されたものは、本質の持つふたつの力を保持している。それは、過去の時間での差異作用と、現在の時間の中での反復作用である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』宇波彰訳 P.76)
« Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits. » Ce réel idéal, ce virtuel, c'est l'essence. L'essence se réalise ou s'incarne dans le souvenir involontaire. Ici comme dans l'art, l'enveloppement, l'enroulement, reste l'état supérieur de l'essence. Et le souvenir involontaire en retient les deux pouvoirs : la différence dans l'ancien moment, la répétition dans l'actuel. (Gilles Deleuze, Proust et les signes, ROLE SECONDAIRE DE LA MÉMOIRE )

宇波彰訳は、1977年という最初期の訳なので、それほど文句を言うつもりはないが、失礼ながら英訳を付記させていただく。

"Real without being present, ideal without being abstract." This ideal reality, this virtuality, is essence, which is realized or incarnated in in voluntary memory. Here as in art, envelopment or involution remains the superior state of essence. And involuntary memory retains its two powers: the difference in the past moment, the repetition in the present one.Gilles Deleuze, Proust and Signs, Translated by Richard Howard )

いずれにせよ「象徴的ではあるが虚構ではない symboliques sans être fictifs」もの、「この観念的な実在的なもの、この潜在的なものCe réel idéal, ce virtuel」がエッセンスなんだろ?

ーーオレはドゥルーズは知らないから、すくなくともこの時期のドゥルーズは、と言っておくが。

オレの愛するプルーストをずたずたにしないでくれたまえ、ドゥルーズ派諸君!

以下の文が「潜在的なもの」の定義の核心だよ、チガウカイ?


◆プルースト「見出された時」(井上究一郎訳)

ーーこの箇所は今まで何度も引用してきたが、ここでは仏文もあわせて資料として引用する。

単なる過去の一瞬、それだけのものであろうか? はるかにそれ以上のものであるだろう、おそらくは。過去にも、そして同時に現在にも共通であって、その二者よりもさらにはるかに本質的な何物かである。これまでの生活で、あんなに何度も現実が私を失望させたのは、私が現実を知覚した瞬間に、美をたのしむために私がもった唯一の器官であった私の想像力が、人は現にその場にないものしか想像できないという不可避の法則にしばられて、その現実にぴったりと適合することができなかったからなのであった。

Rien qu'un moment du passé ? Beaucoup plus, peut-être ; quelque chose qui, commun à la fois au passé et au présent, est beaucoup plus essentiel qu'eux deux. Tant de fois, au cours de ma vie, la réalité m'avait déçu parce que, au moment où je la percevais, mon imagination, qui était mon seul organe pour jouir de la beauté, ne pouvait s'appliquer à elle, en vertu de la loi inévitable qui veut qu'on ne puisse imaginer que ce qui est absent.
ところが、ここに突然、そのきびしい法則の支配力が、自然のもたらした霊妙なトリックによって、よわまり、中断し、そんなトリックが、過去と現在とのなかに、同時に、一つの感覚をーーフォークとハンマーとの音、本のおなじ表題、等々をーー鏡面反射させたのであった。そのために、過去のなかで、私の想像力は、その感覚を十分に味わうことができたのだし、同時に現在のなかで、物の音、リネンの感触等々による私の感覚の有効な発動は、想像力の夢に、ふだん想像力からその夢をうばいさる実在の観念を、そのままつけくわえたのであって、そうした巧妙な逃道のおかげで、私の感覚の有効な発動は、私のなかにあらわれた存在に、ふだんはけっしてつかむことができないものーーきらりとひらめく一瞬の持続、純粋状態にあるわずかな時間――を、獲得し、孤立させ、不動化することをゆるしたのであった。

Et voici que soudain l'effet de cette dure loi s'était trouvé neutralisé, suspendu, par un expédient merveilleux de la nature, qui avait fait miroiter une sensation – bruit de la fourchette et du marteau, même inégalité de pavés – à la fois dans le passé, ce qui permettait à mon imagination de la goûter, et dans le présent où l'ébranlement effectif de mes sens par le bruit, le contact avait ajouté aux rêves de l'imagination ce dont ils sont habituellement dépourvus, l'idée d'existence et, grâce à ce subterfuge, avait permis à mon être d'obtenir, d'isoler, d'immobiliser – la durée d'un éclair – ce qu'il n'appréhende jamais : un peu de temps à l'état pur.
あのような幸福の身ぶるいでもって、皿にふれるスプーンと車輪をたたくハンマーとに同時に共通な音を私がきいたとき、またゲルマントの中庭の敷石とサン・マルコの洗礼堂との足場の不揃いに同時に共通なもの、その他に気づいたとき、私のなかにふたたび生まれた存在は、事物のエッセンスからしか自分の糧をとらず、事物のエッセンスのなかにしか、自分の本質、自分の悦楽を見出さないのである。私のなかのその存在は、感覚機能によってそうしたエッセンスがもたらさえない現在を観察したり、理知でひからびさせられる過去を考察したり、意志でもって築きあげられる未来を期待したりするとき、たちまち活力を失ってしまうのだ。意志でもって築きあげられる未来とは、意志が、現在と過去との断片から築きあげる未来で、おまけに意志は、そんな場合、現在と過去とのなかから、自分できめてかかった実用的な目的、人間の偏狭な目的にかなうものだけしか保存しないで、現在と過去とのなかの現実性を骨ぬきにしてしまうのである。

L'être qui était rené en moi quand, avec un tel frémissement de bonheur, j'avais entendu le bruit commun à la fois à la cuiller qui touche l'assiette et au marteau qui frappe sur la roue, à l'inégalité pour les pas des pavés de la cour Guermantes et du baptistère de Saint-Marc, cet être-là ne se nourrit que de l'essence des choses, en elles seulement il trouve sa subsistance, ses délices. Il languit dans l'observation du présent où les sens ne peuvent la lui apporter, dans la considération d'un passé que l'intelligence lui dessèche, dans l'attente d'un avenir que la volonté construit avec des fragments du présent et du passé auxquels elle retire encore de leur réalité, ne conservant d'eux que ce qui convient à la fin utilitaire, étroitement humaine, qu'elle leur assigne.
ところが、すでにきいたり、かつて呼吸したりした、ある音、ある匂が、現在と過去との同時のなかで、すなわち現時ではなく現実的であり、抽象的ではなく観念的である Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits アクチュアルではなくリアルなもの、抽象的ではなく観念的なものである」二者の同時のなかで、ふたたびきかれ、ふたたび呼吸されると、たちまちにして、事物の不変なエッセンス、ふだんはかくされているエッセンスが、おのずから放出され、われわれの真の自我がーーときには長らく死んでいたように思われていたけれども、すっかり死んでいたわけではなかった真の自我がーーもたらされた天上の糧を受けて、目ざめ、生気をおびてくるのだ。時間の秩序から解放されたある瞬間が、時間の秩序から解放された人間をわれわれのなかに再創造して、その瞬間を感じうるようにしたのだ。それで、この人間は、マドレーヌの単なる味にあのようなよろこびの理由が論理的にふくまれているとは思わなくても、自分のよろこびに確信をもつ、ということがわれわれにうなずかれるし、「死」という言葉はこの人間に意味をなさない、ということもうなずかれる。時間のそとに存在する人間だから、未来について何をおそれることがありえよう?
Mais qu'un bruit déjà entendu, qu'une odeur respirée jadis, le soient de nouveau, à la fois dans le présent et dans le passé, réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits, aussitôt l'essence permanente et habituellement cachée des choses se trouve libérée et notre vrai moi qui, parfois depuis longtemps, semblait mort, mais ne l'était pas autrement, s'éveille, s'anime en recevant la céleste nourriture qui lui est apportée. Une minute affranchie de l'ordre du temps a recréé en nous pour la sentir l'homme affranchi de l'ordre du temps. Et celui-là on comprend qu'il soit confiant dans sa joie, même si le simple goût d'une madeleine ne semble pas contenir logiquement les raisons de cette joie, on comprend que le mot de « mort » n'ait pas de sens pour lui ; situé hors du temps, que pourrait-il craindre de l'avenir ?


ジジェクは、ドゥルーズの「潜在的なもの」は、ラカンの現実界である、と言っている(2012)。現実界の定義のいくらかは「基本版:現実界と享楽の定義」を見よ。

もちろんジジェクは virtuel(潜在的なもの)の語源がvirtus(力能)にあることを知らないわけではない。そして、ニーチェの「力への意志」とは、欲動の現実界のことであるのもわかっている。

力への意志が原始的な情動(Affekte)形式であり、その他の情動(Affekte)は単にその発現形態であること、――(……)「力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)

で、もちろんドゥルーズ派諸氏はジジェクは「もちろん誤謬」だというのだろうが、で、貴君たちの「潜在的なもの」はいったい何なんだい? 

オレの潜在的なものとは上のプルーストの文だけどさ、これってラカンの現実界に近似してるぜ

…………

※付記

ドゥルーズは「潜在的対象(対象=x) l'objet virtuel (objet = x)」を語るなかで、フロイトの原抑圧の用語を出している、un refoulement dit « primaire »と。

反復は、ひとつの現在からもうひとつの現在へ向かって構成されるのではなく、むしろ、潜在的対象(対象=x)に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成されるのだ。潜在的対象は、たえず循環し、つねに自己に対して遷移するからこそ、その潜在的対象がそこに現われてくる当の二つの現実的な系列のなかで、すなわち二つの現在のあいだで、諸項の想像的な変換と、 諸関係の想像的な変容を規定するのである。潜在的対象の遷移は、したがって、他のもろもろの偽装とならぶひとつの偽装ではない。そうした遷移は、偽装された反復としての反 復が実際にそこから由来してくる当の原理なのである。反復は、実在性(レアリテ)の〔二つの〕系列の諸項と諸関係に関与する偽装とともにかつそのなかで、はじめて構成される。 ただし、そうした事態は、反復が、まずもって遷移をその本領とする内在的な審級としての潜在的対象に依存しているがゆえに成立するのだ。したがってわたしたちは、偽装が抑圧によって説明されるとは、とうてい考えることができない。反対に、反復が、それの決定原理の特徴的な遷移のおかげで必然的に偽装されているからこそ、抑圧が、諸現在の表象=再現前化に関わる帰結として産み出されるのである。

La répétition ne se constitue pas d'un présent à un autre, mais entre les deux séries coexistantes que ces présents forment en fonction de l'objet virtuel (objet = x). C'est parce qu'il circule constamment, toujours déplacé par rapport à soi, qu'il détermine dans les deux séries réelles où il apparaît, soit entre les deux présents, des transformations de termes et des modifications de rapports imaginaires. Le déplacement de l'objet virtuel n'est donc pas un déguisement parmi les autres, il est le principe dont découle en réalité la répétition comme répétition déguisée. La répétition ne se constitue qu'avec et dans les déguisements qui affectent les termes et les rapports des séries de la réalité ; mais cela, parce qu'elle dépend de l'objet virtuel comme d'une instance immanente dont le propre est d'abord le déplacement. Nous ne pouvons pas, dès lors, considérer que le déguisement s'explique par le refoulement. Au contraire, c'est parce que la répétition est nécessairement déguisée, en vertu du déplacement caractéristique de son principe déterminant, que le refoulement se produit, comme une conséquence portant sur la représentation des présents.
そうしたことをフロイトは、抑圧という審級よりもさらに深い審級を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる〈「原」抑圧〉と考えてしまってはいたのだが。 ひとは、抑圧するから反復するというのではなく、かえって反復するから抑圧するのである。 また、結局は同じことだが、ひとは、抑圧するから偽装するのではなく、偽装するから抑圧するのであり、しかも反復を決定する焦点〔潜在的対象〕の力によって偽装するのだ。偽装は反復に対して二次的であるということはなく、それと同様に、反復が、究極的あるいは起 源的なものと仮定された固定的な項〔古い現在〕に対して二次的であるということもない。 なぜなら、古い現在と新しい現在という二つの現在が、共存する二つの系列を形成しており、しかも、それら二つのなかでかつ自己に対して遷移する潜在的対象に即して、それら 二つの系列を形成しているのであってみれば、それら二つの系列のどちらが根源的でど ちらが派生的だ、などと指示するわけにはいかないからである。それら二つの系列は、〔ラカン的な〕複雑な相互主体性のなかで、様々な項や様々な主体を巻き込んでおり、しかも それら主体のそれぞれは、おのれの系列におけるおのれの役割とおのれの機能とを、お のれが潜在的対象に対して占めている非時間的な位置に負っているのである。この〔潜在的〕対象そのものに関して言うなら、それを究極的あるいは根源的な項として扱うのは、 なおさら不可能なことである。もしそんなことをすれば、その対象が本性の底の底から忌み嫌う同一性と固定した場所を、その対象に引き渡すことになってしまうだろう。その対象が ファルスと「同一化」されうるのは、ファルスが、ラカンの表現を用いるならば、あるべき場所につねに欠け、おのれの同一性において欠け、おのれの表象=再現前化において欠けているかぎりのことなのである。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)

Freud le sentait bien, quand il cherchait une instance plus profonde que celle du refoulement, quitte à la concevoir encore sur le même mode, comme un refoulement dit « primaire ». On ne répète pas parce qu'on refoule, mais on refoule parce qu'on répète. Et, ce qui revient au même, on ne déguise pas parce qu'on refoule, on refoule parce qu'on déguise, et l'on déguise en vertu du foyer déterminant de la répétition. Pas plus que le déguisement n'est second par rapport à la répétition, la répétition n'est seconde par rapport à un terme fixe, supposé ultime ou originaire. Car si les deux présents, l'ancien et l'actuel, forment deux séries coexistantes en fonction de l'objet virtuel qui se déplace en elles et par rapport à soi, aucune de ces deux séries ne peut plus être désignée comme l'originelle ou comme la dérivée. Elles mettent en jeu des termes et des sujets divers, dans une intersubjectivité complexe, chaque sujet devant son rôle et sa fonction dans sa série à la position intemporelle qu'il occupe par rapport à l'objet virtuel. Quant à cet objet lui-même, il ne peut pas davantage être traité comme un terme ultime ou originel : ce serait lui rendre une place fixe et une identité à laquelle toute sa nature répugne. S'il peut être « identifié » au phallus, c'est seulement dans la mesure où celui-ci, selon les expressions de Lacan, manque toujours à sa place, manque à son identité, manque à sa représentation.

この「潜在的対象(対象=x) l'objet virtuel (objet = x)」というのは、どうみても対象aのことである(参照:基本的な二種類の対象a (ラカン、ドゥルーズ))。

ここで、「この観念的なリアル、この潜在的なもの Ce réel idéal, ce virtuel」(ドゥルーズ=プルースト)の「観念的なリアル réel idéal」という言葉に拘ってみよう。

ラカンはセミネール11(1964-1965)でこう言っている。

抑圧、原初に抑圧されたもの、この抑圧されたものはシニフィアンである。…抑圧と症状は同種のものであり、シニフィアンの機能に還元される。

Le refoulé, le refoulé primordial, ce refoulé est un signifiant… Refoulé et symptôme sont homogènes et réductibles à des fonctions de signifiants.(Lacan,S.11) 
抑圧されたものは、欲望の表象されたもの・意義(意味作用)ではなく、表象代理である。

…que ce qui est refoulé, ce n'est pas le représenté du désir, la signification, que c'est le représentant de la représentation (Vorstellungsrepräsentanz)(S.11)

ラカンは上の文で、抑圧、原初に抑圧されたもの Le refoulé, le refoulé primordial と並列しているように、ここでは、抑圧と原抑圧を同じものとして扱っているように読める。

もうひとつの核心は、抑圧されたものは、欲望の表象されたもの・意義(意味作用)ではない ce n'est pas le représenté du désir, la signification と言っていることだ。

そして次に続いてある「表象代理 le représentant de la représentation」という用語は、フロイトのVorstellungsrepräsentanzである。

フロイトの「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz」とは、仏語では représentant-représentation、英語では ideational-representative と訳される。この表象代理とは、主体の生活史をつうじて欲動の固着の対象となり、また心的現象への欲動の記載のための媒介となる表象ないしは表象群のことと一般には定義される。

ラカンは「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz」を別に tenant lieu de la représentation とも訳している。tenant lieu とは、英訳ではplaceholder と訳され、つまりは実際の内容を後から挿入するために、とりあえず仮に確保した場所ということだ。

この場所、この形式が原抑圧にかかわる(原抑圧とは何ものも抑圧しない。抑圧の形式である)。

原抑圧とは、何かの内容を無意識のなかに抑圧することではない。そうではなく、無意識を構成する抑圧、無意識のまさに空間を創出すること、「システム意識・前意識」 と「システム無意識」 とのあいだの間隙を作り出すことである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

そしてドゥルーズの文脈からは、「この観念的なリアル、この潜在的なもの Ce réel idéal, ce virtuel」ーー、これも原抑圧にかかわる。そして上にみたように、フロイトの表象代理は、観念的表象  ideational-representative のことである。

そしてこの観念的表象は、「非抑圧的無意識 nicht verdrängtes Ubw」(フロイト『自我とエス』)ーーあるいはジジェクの上の文にある「システム無意識 System Bewußt (Bw)」にかかわる。

フロイトは、「システム無意識あるいは原抑圧」と「力動的無意識あるいは抑圧された無意識」を区別した。

システム無意識は欲動の核の身体への刻印であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、まずは過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。

他方、力動的無意識は、「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的エラボレーションを表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。フロイトはこれをAbkömmling des Unbewussten(無意識の後裔)と呼んだ。これらは欲動の核が意識に至ろうとするさ遥かな試みである。この理由で、ラカンにとって、「力動的あるいは抑圧された無意識」は無意識の形成と等価である。力動的局面は、症状の部分はいかに常に意識的であるかに関係する、ーー実に口滑りは声に出されて話されるーー。しかし同時に無意識のレイヤーも含んでいる。(ヴェルハーゲ、2004、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics)

ーーというわけだが、潜在的なものは現実界じゃなかったらなんなんだろ?

…………

ついでに在庫から悪訳で名高い宇波彰訳から貼り付けておく(くりかえせば最初期の訳だからやむえない)。


◆ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』(宇波彰訳)より


【意志的な記憶 mémoire volontaire】

意志的な記憶には、過去の即自存在 l'être en soi du passé という本質的なものが欠けているのは明らかである。意志的な記憶は、過去が以前に現在であったのちに、過去が過去として構成されたかのようにふるまう。(……)確かに、われわれは過去を現在として経験しているその同じときに、何かを過去として把握することはない(……)。しかしそれは、意識的な知覚と、意志的な記憶との結合された要求によって、もっと深いところで両者の潜在的な共存が存在しているところに、実在的な両者の連続が作られるからである。Mais c'est parce que les exigences conjointes de la perception consciente et de la mémoire volontaire établissent une succession réelle là où, plus profondément, il y a une coexistence virtuelle.


【一気に、過去そのものの中に自らを置くこと qu'on se place d'emblée dans le passé lui-même】(蓮實重彦はドゥルーズ追悼文でこの文を連発している)。

もしもベルクソンとプルーストの考え方にひとつの類似があるとすれば、それはこのレヴェルにおいてである。つまり、持続のレヴェルにおいてではなく、記憶のレヴェルにおいてである。現実の現在から過去にさかのぼったり、過去を現在によって再構成したりしてはならず、一気に、過去そのものの中に自らを置かなくてはならない。この過去は、過去の何かを表象するものではなく、現在存在するもの、現在としてそれ自体と共存する何かだけを表象する。Que ce passé ne représente pas quelque chose qui a été, mais simplement quelque chose qui est, et qui coexiste avec soi comme présent.


【ベルクソンの潜在的なもの】

過去はそれ自体以外のものの中に保存されてはならない。なぜならば過去はそれ自体において存在し、それ自体において生き残り、保存されるからである。――これが『物質と記憶』の有名なテーゼである。過去のこのようなそれ自体における存在をベルクソンは潜在的なもの virtuel と呼んだ。同様にプルーストも、記憶のシーニュによって帰納された状態について、《現実的ではないが実在的であり、抽象的ではないが観念的である Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits》と言っている。


【ベルクソンとプルーストの相違】

確かにそこを出発点として、プルーストとベルクソンとでは問題が同じではなくなる。ベルクソンにとっては、過去がそれ自体で保存されることを知れば足りる。(……)これに対してプルーストの問題は、それ自体において保存される過去、それ自体において生き残るような過去をどのように救うかという問題である。(……)この問題に対して、無意識的な記憶のはたらきという考え方が解答を与える。


【無意志的な記憶 La mémoire involontaire】

無意識的な記憶のはたらきは、まだ第一に、ふたつの感覚、ふたつの時間の間の類似性に依存しているように思われる。しかし、もっと深い段階では、類似性からわれわれは厳密な同一性へと導かれる。それは、ふたつの感覚に共通な性質の同一性か、あるいは、現在と過去というふたつの時間に共通な感覚の同一性である。たとえば味であるが、味は、同時にふたつの時間に拡がる、或る量の持続を含んでいる。しかしまた逆に、同一の性質である感覚は、何か差異のあるものとのひとつの関係を含んでいる。マドレーヌの味は、それに含まれたものの中に、コンブレーを閉じこめ、包んでいる。われわれが意識的知覚に留まっている限り、マドレーヌはコンブレーと全く外的な接近関係しか持たない。われわれが意識的記憶に留まる限り、コンブレーは、過去の感覚と不可分のコンテクストとして、マドレーヌに対して外的なままである。しかし、ここに無意志的記憶の特質がある。無意志的記憶はこのコンテクストを内在化し、過去のコンテクストを、現在の感覚と不可分なものにする。


【内在化された差異性 différence intériorisée】

ふたつの時間の間の類似性が、もっと深い同一性へとおのれを越えて行くのと同時に、過去の時間に属している接近性は、もっと深い差異性へとおのれを越えて行く。コンブレーは現在の感覚の中に再現され、過去の感覚とその差異は、現在の感覚の中に内在化される。したがって、現在の感覚は、異なった事物とのこの関係とはもはや分離できない。無意志的記憶における本質的なものは、類似性でも、同一性でさえもない。それらは、無意志的記憶の条件にすぎないからである。本質的なものは、内的なものとなった、内在化された差異性である。想起が芸術と類比的で、無意志的記憶 réminiscence が隠喩と類比的であるというのは、この意味においてである。無意志的記憶 la mémoire involontaire における本質的なものは、《ふたつの異なった事物》を、たとえば、その味をともなったマドレーヌと、色と気温という性質をともなったコンブレーを把握する。それは一方を他方のなかに包み、両者の関係を、何らかの内的なものにする。C'est en ce sens que la réminiscence est l'analogue de l'art, et la mémoire involontaire, l'analogue d'une métaphore: elle prend « deux objets différents », la madeleine avec sa saveur, Combray avec ses qualités de couleur et de température; elle enveloppe l'un dans l'autre, elle fait de leur rapport quelque chose d'intérieur.

ーー上の文では、réminiscence と la mémoire involontaire が共に「無意志的記憶」と訳されている。


【呼びかけられて再び現われるコンブレー(純粋過去 passé pur)】

マドレーヌの味、ふたつの感覚に共通な性質、ふたつの時間に共通な感覚は、いずれもそれ自身とは別のもの、コンブレーを想起させるためにのみ存在している。しかし、このように呼びかけられて再び現われるコンブレーは、絶対的に新しいかたちになっている。コンブレーは、かつて現在であったような姿では現われない。コンブレーは過去として現われるが、しかしこの過去は、もはやかつてあった現在に対して相対するものではなく、それとの関係で過去になっているところの現在に対しても相対するものではない。それはもはや知覚されたコンブレーでもなく、無意識的記憶の中のコンブレーでもない。コンブレーは、体験さええなかったような姿で、実在(リアリティ)においてではなく、その真実において現われる Combray apparaît tel qu'il ne pouvait pas être vécu: non pas en réalité, mais dans sa vérité。コンブレーは、純粋な過去 passé pur の中に、ふたつの現在と共存して、しかもこのふたつの現在に捉えられることなく、現在の無意識的記憶と過去の意識的知覚の到達しえないところで現われる。それは、《純粋状態での短い時間 Un peu de temps à l'état pur》である。つまりそれは、現在と過去、現実的な(アクチュアルな)ものである現在 présent qui est actuel と、かつて現在であった過去との単純な類似性ではなく、ふたつの時間の同一性でさえもなく、それを越えて、かつてあったすべての過去、かつてあったすべての現在よりもさらに深い、過去のそれ自体における存在〔即自存在〕である。《純粋な状態での短い時間 Un peu de temps à l'état pur》とは、局在化した時間の本質である。


【差異と反復】

現実的ではないが実在的であり、抽象的ではないが観念的である。Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits 》――この観念的な実在的なもの、この潜在的なものが本質である Ce réel idéal, ce virtuel, c'est l'essence。本質は、無意識的に記憶されたものの中に実在化または具体化される L'essence se réalise ou s'incarne dans le souvenir involontaire。ここでも、芸術の場合と同じく、包括と展開 l'enveloppement, l'enroulement は、本質のすぐれた状態として留まっている。そして、無意識的に記憶されたものは、本質の持つふたつの力を保持している。それは、過去の時間での差異(作用)と、現在の時間の中での反復作用である la différence dans l'ancien moment, la répétition dans l'actuel。

上の文にある「包括と展開 l'enveloppement, l'enroulement 」における「包括l'enveloppement」は、ロラン・バルトやラカン派にとっては、もうひとつの鍵言葉である。もちろんドゥルーズにとっても。

友情は、観察と会話とで育って行くことができるが、愛は、沈黙した解釈から生まれてそれを養分とする。愛される者は、ひとつのシーニュとして、《魂》として現われる。そのひとは、われわれにとっては未知の、ひとつの可能な世界を表現する。愛される者は、解読すべきひとつの世界、つまり解釈すべきひとつの世界を含み、包み、とりこにしている implique, enveloppe, emprisonne。(…)

…愛するということは、愛される者の中に包まれたままになっているこの未知の世界を展開し、発展させようとすることである。われわれの《世界》に属していない女たち、われわれのタイプにさえ属していない女たちを容易に愛するようになるのはこのためである。愛される女がしばしば次のような風景と結びついているのもそのためである。…たとえばアルベルチーヌは、《浜辺と砕ける波》を含み、まぜ合わせ、化合させる enveloppe, incorpore, amalgame 。もはやわれわれが見ている風景ではなく、逆に、その中でわれわれが見られているような風景に、どのようにして到達できるだろうか。《もしも彼女が私を見たとして、私は彼女に何を示すことができたのか。どのような世界の内部から、彼女は私は見わけるのか。》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』p.8-9)



2016年9月20日火曜日

基本版:現実界と享楽の定義

慣用上、表題を「現実界と享楽の定義」としたが、ラカンの教えには「定義」などというものはない。「メタランゲージはない」。これは「大他者の大他者はない」ということでもある。

Ce que nous formulons à dire qu'il n'y a pas de métalangage qui puisse être parlé, plus aphoristiquement : qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre..(LACAN,SUBVERSION DU SUJET ET DIALECTIQUE DU DÉSIR)

ようはラカン理論を支えるものはなにもない。すなわち「定義」=メタ言語はない。ただしメタ言語は外立する。《ディスクールによって位置づけられた言表行為は真理に外立する[ex-siste」。》(Lacan, L'étourdit, 1973)

もちろんこれはラカン理論に限らない、《どのような論理学も、命題論理学でさえ、自らの支えと頼れるような「メタ言語はない」(それぞれの論理には固有の愚劣さが残る)》。(同上、エトゥルディ)

ーー外立する[ex-siste」をめぐっては以下の文を読めばわかるだろう。

かつまた以下の文は、何人かの注釈者による「現実界」と「享楽」の定義めいたものに過ぎず、異なった解釈があるのはいうまでもない。

 …………

【現実界】

現実界 The Real は、象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立が象徴界自体に内在的なものであるという点、内部から象徴界を掘り崩すという点にある。すなわち、現実界は象徴界の非全体 pas-tout である。一つの現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからである。

存在(現実) [being (reality)] があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためである。なぜなら、現実界は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者」的重みを与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり躓いたりするというだけではない。現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

《物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。それは自分の顔のようなものだ》(柄谷行人→ 「言い得ぬもの」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない

…………

・現実界は快原理の障害(物)である le réel, à savoir l'obstacle au principe du plaisir (ラカン、S.11)

・現実界は見せかけのなかに穴を開けるものである。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(S.18)

・現実界とは形式化の袋小路である。 Le reel est un impasse de formalization(S.20)

・現実界 [ le réel ] は外立 [ ex-sistence]である。(Séminaire (S.22)

・現実界は全きゼロの側に探し求められるべきである。Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu(S.23)

我々はラカンの断言「象徴的大他者の大他者はない」を思い起こす必要がある。この意味は何よりもまずなによりも、象徴的大他者はどんな〈他〉の外部の支え(〈父の名〉の普遍的法)によっても正当化されないということであり、象徴界が非全体 pas-tout である限り、象徴界に関するリアルな〈他者性〉はもはやあり得ないことである。

言い換えれば、倫理のセミネールVII に反して、最後のラカンにとっては、「根源的な〈一者〉は存在しない」ーー、それは象徴界によって原初に「殺された」のである。すなわち、「純粋な」根源的〈リアル〉はない(真の現実界はない)。象徴界の〈リアル〉Real-of-the-Symbolic の次元を超えた現実界はない。すなわち、象徴界に(想像界に接合しつつ)「穴を開ける」現実界の残余の側面を超えた現実界はない。

さらに私は強調しなければならない。ラカンにとって、「「根源的な〈一者〉」ーー真の現実界ーーは「非一」not-one である。まさにそれが《「一」として数えられる》ことが出来ない限りで。すなわち、現実界はゼロに相当する。セミネールXXIIIの鍵となる一節にて、ラカンは指摘している、《現実界は全きゼロの側に探し求められなければならない》と。というのは、《燃えている火(「渦巻く」享楽の蜃気楼)はたんに現実界の仮面》なのだから、と。(S.23 Le sinthome,)

我々はこのゼロを遡及的にのみ考えうる。「まやかしのfake」象徴的/想像的〈一者〉(ラカンが見せかけ semblant と呼んだものだ)の立場からのみ。(…)ゼロは全く何物でもない。しかし「まやかしの」〈一者〉の限定された観点からのみの何かである。モノ自体は無-物であるとラカンは言う。それは l'achoseだと。(ラカンは、l'achose を l'insub-stanceと同じものとしている。(S.17)(ロレンツォ・キエーザ、2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)


…………

 【享楽 JOUISSANCE】

では正確に、享楽概念は何を意味するのだろう? ラカンは決してはっきりとは定義しない。ただ漠然と示唆するだけだ。この不明瞭さは故意のものである。ラカンにとって、享楽は定義上、定義されない。それは象徴化を逃れるものだから(Lacan, S.17)。もっともフロイトにも類似の概念を見出せないではないが。快原則の彼岸についての叙述に、ラカンは享楽の考え方の示唆を見出している。快原則の「彼岸」(jenseits) に何かがあるに相違ない。フロイトはそう結論する。…奇妙な反復があるのだ。奇妙なというのは、反復されるものが、快と呼ばれるものでは必ずしもないからだ。実際、享楽は快の反対物かもしれない。すなわち、"Unlust" あるいは" déplaisir"である(S.17)。 (Paul Verhaeghe, Enjoyment and Impossibility: Lacan's Revision of the Oedipus Complex,2006,私訳)

《――享楽 Lust はあまりにも富んでいるゆえに、苦痛を渇望する。地獄を、憎悪を、屈辱を、不具を、一口にいえば世界を渇望する、――この世界がどういうものであるかは、おまえたちの知っているとおりだ。》(『ツァラトゥストラ』)手塚富雄訳、ただし悦楽 Lust を享楽に変更)

Lustgewinn(快の獲得)は、フロイトの最初の概念的遭遇、--後に快原理の彼方、反復強迫に位置されるものとの遭遇である。そして、精神分析に M–C–Mʹ(貨幣– 商品–貨幣'[貨幣+剰余価値])と同等のものを導入した。(Samo Tomšič,The Capitalist Unconscious,2014)ーー「快の獲得 Lustgewinn、剰余価値 Mehrwert、剰余享楽 plus-de-jouir」)

享楽の現実界とは、言語の外部に単純にあるものどころか(現実界は、むしろ言語に関して「外密 extimité」である)、言語のなかで象徴化に抵抗する何かであり、言語のなかに異物の核として居残ったものである。現実界は、裂け目、切れ目、隙間、非一貫性、不可能性として現れる。《私はどの哲学者にも挑んでいる。シニフィアンの出現と享楽が存在にかかわる仕方とのあいだにある関係を、この今確認するために。…どの哲学も、言わせてもらえば、今日、我々に出会えない。哀れにも流産した哲学のオタクどもThe wretched aborted freaks of philosophy(仏原文 ces misérables avortons de philosophie) 。我々はその哲学を後ろに引き摺っているのだ、前世紀(19世紀)の初めから、ボロボロになった習慣として。あの哲学オタクとは、むしろこの問いに遭遇しないようにその周りを踊る方法にすぎない。この問いとは、真理についての唯一の問いである。それは、死の欲動と呼ばれるもの、フロイトによって名付けられたもの、享楽の原マゾヒズム…。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。》(Lacan,S.13: L'objet de la psychanalyse)(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

※註:「外立 ex-sistence」≒「外密 extimité」

・私の最も内にある親密な外部、モノ=対象a としての外密。《extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》(ラカン、S.7)

・外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité

・Fremdkörper(異物)は内部にあるが、この内部の異者である。現実界は、分節化された象徴界の内部(非全体pas-tout)に外立 ex-sistence する。(Paul Verhaeghe、2001,PDF)

享楽自体の地位は、ある意味で、二重化された見せかけ semblance の地位である。享楽はそれ自体としては存在しない。享楽は象徴的過程、そこに内在する非一貫性と反作用の過程の残余あるいは生産物として、ただ己れを主張するだけである。言い換えれば、象徴的見せかけ semblances は、ある揺るぎない実体的な現実界自体に関する見せかけではない。この現実界は(ラカン自身が定式化しているように)、ただ象徴化の袋小路を通してのみ識別できる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)
享楽は「苦痛のなかの快 pleasure in pain」である。もっとはっきり言えば、享楽とは対象aの享楽と等しい。対象a は、象徴界に穴を引き裂く現実界の残留物である。大他者のなかのリアルな穴real hole としての対象aは、次の二つ、すなわち剰余-残余のリアルの現前としての穴、そして全体のリアル Whole Real の欠如(原初の現実界 primordial Real は、決して最初の場には存在しない)、すなわち享楽不在としての穴である。

リアル real な残余のこの現前は、実際のところ、何を構成しているのか? 最も純粋には、剰余享楽(部分欲動)としての「a」の享楽とは、享楽欠如を享楽することのみを意味する。というには、享楽するものは他になにもないのだから。(ロレンツォ・キエーザ、2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)

※註:「苦痛のなかの快」→「Schmerzlust 苦痛のなかの快」

……この女性的マゾヒズムは、原初の、性的(催情的) erotogenicマゾヒズム、苦痛のなかの快である。Der beschriebene feminine Masochismus ruht ganz auf dem primären, erogenen, der Schmerzlust, (フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924 )

《ニューヨークには「私どもは奴隷です」と呼ばれる団体があって、人のアパートの部屋を無料で掃除し、その家の主婦に乱暴に扱われたいという人を提供している。この団体は、掃除をする人を広告を通して集める(その謳い文句は「隷従そのものが報酬です」である)、応募してくる人の大半が,高い報酬を得ている重役や医者や弁護士で,彼らは動機を聞かれると,いつも責任を負っていることがいかに気分が悪いかを力説する――乱暴に命令されて仕事をし、どなりつけられることをこよなく楽しむのだ。》(ジジェク『サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性』)




ーー享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌から。

享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「〈他者〉の享楽  la jouissance de l'Autre 」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者(異物)である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「〈他者〉の享楽  la jouissance de l'Autre 」)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに混淆があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる〈他者〉the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介として享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009、私訳,PDF

《他者〉、それは身体である!L'Autre, …c'est le corps ! 》(S.14)

ーー前期ラカンのように想像的他者でないことに注意(参照:ラカンの身体概念の移行)

※註:《我々のリアルな有機体は、最も親密な異者(異物)》
→ 《我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger 》(ラカン、S.23)= 異物 Fremdkörper (フロイト、1893ーー基本的なトラウマの定義)

すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的紐帯の現実界は、性関係の不在であり、無意識の現実界は話す身体である。tout n'est pas semblant, il y a un réel. Le réel du lien social, c'est l'inexistence du rapport sexuel. Le réel de l'inconscient, c'est le corps parlant. (ミレール『無意識と話す身体』2014、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER

※註:《話す身体 le corps parlant》


人は、ファルス享楽を超えても、いまだ性関係はない。というのは、ファルス享楽の彼方には、ジェンダーの差異はなく、《ファルスの彼方には Au-delà du phallus…身体の享楽 la jouissance du corps》(S.20)があるだけだから。

私はこれを次のように解釈する。すなわち、ファルスを超えた男と女とのあいだの関係は、主体と身体の享楽とのあいだの関係、あるいは、ファルス享楽と他の享楽とのあいだの関係とと同じものになる、と。

しかし、この「彼方」はそれ自体、目的地ではない。逆に、これに対する主体の最初の反応は、不安でありうる。そして、ファルス享楽は、有機体としての身体の享楽に対する防衛として理解されなければならない。事実、この享楽の形式は、象徴界を離れることを意味する。したがって、消滅、すなわち、主体の死である。《死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない》 [le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance] (Séminaire, XVII)。したがって、これは死の欲動と関連している。(Paul Verhaeghe, Subject and Body. Lacan's Struggle with the Real. 2001,私訳)

…………

【享楽欠如の享楽】

ラカンの最初の教えは、存在欠如 manque-à-être と存在欲望 désir d'être を基礎としている。それは解釈システム、言わば承認 reconnaissance の解釈を指示した。(…)しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因を引き受ける別の方法がある。それは、防衛としての欲望、存在する existe ものに対しての防衛としての存在欠如を扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在 existeするのか。それはフロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたものである。(ミレール、2011,L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain millerーー「欲動と享楽の相違

コレット・ソレールも。後期ラカンを、存在欠如 manque à être から享楽欠如 manque à jouir への移行としている(参照)。

欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象」と呼んだもの、ラカンが欠如しているものとしての「対象a」と呼んだものです。それにもかかわらず、複合的ではあるけれど、人は享楽欠如を楽しむことが可能です on peut jouir du manque à jouir。それはラカンによって提供されたマゾヒズムの形式のひとつです。(Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », Brésil, 10/09/2013ーー基本版:現代ラカン派の考え方

※やや難解版→ 人間の根源的な三つの次元:享楽・不安・欲望


【享楽欠如の享楽=剰余享楽】

まさに享楽の喪失が、その自身の享楽、剰余享楽(plus‐de‐jouir)を生み出す。というのは享楽は、いつも常に喪われたものであると同時に、それから決して免れる得ないものだからだ。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この現実界の根源的に曖昧な地位に根ざしている。それ自身を反復するものは、現実界自体である。それは最初から喪われており、何度も何度もしつこく回帰を繰り返す。 (ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)
……問題は、原初の享楽の残余は何かということだ。ふたたびラカンは曖昧な表現で答える、「剰余享楽le plus-de-jouir」と。仏語では、これを二つの仕方で理解され得る、「もはや享楽しないnot enjoying any more」と「もっと享楽をmore of the enjoyment」である。防御的なエラボレーションの後に、主体にとって残っている享楽は、原初の形式未満の異なったものであり、決して十分に満足を与えない。(ポール・バーハウ、new studies of old villains,2009)

…………

もうおわかりのように、途中に貼り付けた途轍もなく豊かな示唆をふくむGIFーー肛門や口唇欲動だけでなく眼差し、声の欲動までにも思いを馳せさせる画像が以上のまとめ文の臍である・・・

ーー欲動は《享楽の漂流 la dérive de la jouissance》(Lacan,S.20)である。

享楽 jouissance、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。« la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive. 》このように主体を踏み迷わせうるものを適切に言いあらわすことばは、神秘主義者たちにたずねるほかない。たとえばライスブルックのことば、「私が精神の陶酔と呼ぶものは、享楽が、欲望によって垣間見られていた可能性を越えてしまう、あの状態である。」(『彼自身によるロラン・バルト』)

…………

【付記】

ーー私には享楽などない、と考える人版。

ラカンの鍵となる区分け、快楽 (Lust, plaisir) と享楽 (Geniessen, jouissance) ……。「快原理の彼岸」にあるものは享楽自体、欲動それ自体である。享楽の基礎的パラドックスは、不可能であると同時に避けられらないことだ。それは決して十分に獲得されず常に欠けている。しかし同時に決して享楽から免れ得ない。享楽のどんな断念も、断念の享楽を生む。欲望することのどんな障害も、障害への欲望を生む。等々。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)
あなたが義務という目的のために己の義務を果たしていると考えているとき、密かにわれわれは知っている、あなたはその義務をある個人的な倒錯した享楽のためにしていることを。法の私心のない(公平な)観点はでっち上げである。というのは私的な病理がその裏にあるのだから。例えば義務感にて、善のため、生徒を威嚇する教師は、密かに、生徒を威嚇することを享楽している。 (『ジジェク自身によるジジェク』2004)



2016年9月19日月曜日

確かめるべきは、むしろ目ではないのか?

125 “両手はあるか?”と盲人に聞かれ、両手が見えたから確信できるのか? なぜ、自分の目が確かだと信じうるのか。確かめるべきは、むしろ目ではないのか? 両手が見えているかどうか。(ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』――ゴダール『JLG/自画像』より→Godard JLG JLG II Wittgenstein leeres Blatt

…………







【ウサギとアヒル】




…… 人はこれをウサギの頭とも、アヒルの頭とも見ることができる。

すると私は、一つの相の「恒常的な見え」と、一つの相の「閃き(アウフロイヒテン)」とを区別しなければならない。

像はすでに私に示されていたが、私はそこにウサギ以外の何ものをも見てはいなかったということがありうるのだ。  (ウィトゲンシュタイン『哲学探究』)


【ネッカー・キューブ】―――”Optical Illusion Images

キューブはいくつあるだろうか。6個か10個か?







【マネとティツィアーノ】





なぜマネの《オランピア》はスキャンダラスな作品となったのか。当時のブルジョワたちが抵抗なく受け入れていたティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》のほうが艶かしく卑猥ではないのか。





オランピア=娼婦という画題、あるいは犬が猫(女性器の隠語)に置換されているせいだけなのか。黒人のメイドが〈あなた〉からの花束を渡そうとしているせいなのか?

わたしは手に、一冊の書物を持っていた。ジョルジュ・バタイユの『マネ』だ。

マネの描く女性はみな、あなたが何を考えているかわかってるわ Je sais à quoi tu penses、と言っているようだ。おそらくそれは、この画家に至るまでは、--このことを私はマルローから学んだのだがーー内的な現実(réalité intérieure)が宇宙[コスモス]よりもまだ捉え難かったからだ。(ゴダール『(複数の)映画史』「3A」)




ダ・ヴィンチやフェルメールの有名な物憂い微笑みは、まず、私、と言う。私、それから、世界。ピンクのショールを纏ったコローの女性さえ、オランピアの考えることを考えていない。ベルト・モリゾの考えることも、フォリー・ベルジュールの女給の考えることも。なぜなら、ついに世界が、内的世界が、宇宙[コスモス]とともに、近代絵画が始まったからだ。つまり、シネマトグラフが。つまり、言葉へと通じてゆく形式が。より正確を期すれば、思考する形式(une forme qui pense)が。映画は最初は思考するために作られたということは、すぐさま忘れられるだろう。だがそれは別の話だ。炎はアウシュヴィッツで決定的に消えてしまうだろう。この考えには、いささかの価値がある。(ゴダール『(複数の)映画史』「3A」)


「内的な現実(réalité intérieure)」や「思考する形式(une forme qui pense)」とは何を意味するのか。映画とはイマージュではなかったのか。

確かにイマージュとは幸福なものだ。だがそのかたわらには無が宿っている。そしてイマージュのあらゆる力は、その無に頼らなければ、説明できない。(ゴダール『(複数の)映画史』「4B」)





【ボロメオ結び】





(想像界 I =イマージュ、現実界 R =無、象徴界 S =フォルム)




イマージュの環は無の環を蔽っている(イマージュは無を支配しようとする)。フォルムの環はイマージュの環を蔽っている(イマージュはフォルムに従属する)。だがフォルム自体は無に(一部)被われている(フォルムは無との関係において欠如がある)。したがって、フォルムに従属したイマージュは無の支えが必要である。





【ベラスケスとバルテュス】

なぜラカンはフーコーの名高いベラスケス解釈をめぐって、フーコーとひと悶着おこしたのか(フーコーはラカンのセミネールに「穏やかな殴り込み」をしている)。


(Las Meninas,Diego Velázquez)

それはおそらく、この絵のなかでも、この絵がいわば本質をあきらかにしているあらゆる表象関係におけると同様、見えているものの底知れぬ不可視性がーー鏡や反映や模倣や肖像にもかかわらずーー見る人の不可視性と固く結びあっているということであろう。(ミシェル・フーコー『言葉と物』)

1,Thomas Brockelman、Lacan flips Foucault over Velázquez、
2,Lacan,L’objet de la psychanalyse S XIII, 1965-1966.PDF






なぜラカンは、バルテュスの「街路」にはベラスケスの「侍女たち」があると言ったのか。

« Voilà Les Ménines. »



(Dans la rue de Balthus)


…………

※付記

以下の訳文は regard に相当する言葉が「視線」と訳されているが、現在ではおおむね「眼差し」と訳される、「目と眼差し L’œil et le regard」という形で(だが敢えて変更はしない)。

現代思想に精通している読者は、おそらく「視線」や「声」を、デリダ的な脱構築作業の第一の標的とみなす傾向があるに違いない。視線とは、「物自体」をその形式の厳然の中で、あるいはその現前の形式の中で捉えるテオリアでなくして何であろう。声とは、話す主体の、それ自体-への-現前を可能にする純粋な「自己作用」の媒体でなくして何であろう。声とは、話す主体の、それ自体-への-現前presence- to-itselfを可能にする純粋な「自己作用auto-affection」の媒体でなくして何であろう。「脱構築」の目的は、ほかでもない、視線がつねに・すでに「下部構造の」ネットワークによって決定されていることを暴露して見せることである。何が見え、何が見えないか、その境界を設定するのはそのネットワークである。見えないということはつまり、視線――「自己反省的」再専有によっては説明できない縁〔マージン〕あるいは枠――による捕獲から必然的に逃れるもののことである。それと同様に、脱構築は、声の自己現前がつねに・すでに書記writingの痕跡によって引き裂かれ/引き延ばされていることを暴露する。

しかしここで、われわれが注目しなければならないのは、ポスト構造主義的脱構築とラカンの間には何の共通点もないことである。ラカンは視線と声の機能を脱構築とはほとんど正反対の方法で説明する。ラカンにとって、これらの対象は主体の側ではなく対象の側にある。視線は、対象の中の(絵の中の)ある一点に刻印を押す。対象を見つめている主体は、すでにその点から見つめられている。つまり対象が私を見つめているのである。視線は、主体とその視野の自己現前を保証するどころか、絵の中の染み・汚点として機能する。その染みは明白な可視性を侵害し、私と絵との関係に、埋めることのできない亀裂を導入する。絵が私を見つめている点からは、私は絵を見ることができない。つまり、眼と視線とは本質的に非対称的なのである。対象としての視線は染みであり、その染みが、私が安全で「客観的な」距離から絵を見ることを阻止し、私はその絵を自分の視線しだいでどうにでもなるようなものとして枠取りすることを妨害する。視線とは、いわば、(私の視線の)枠がすでに絵の「内容」の中に書き込まれているような点である。そして、このことはもちろん、対象としての声についてもあてはまる。声はーーたとえば特定の発声者に付属せずに私に語りかけてくる超自我の声はーーやはり一つの染みとして機能し、その染みは目立たない形で現前することによって、異物strange body として介入し、私が自己同一性を確立するのを邪魔する。(ジジェク『斜めから見る』1991年原著出版、鈴木晶訳 PP.234-235)


《ほかでもないが、わたしがいま書いたことの中で、何か一つでも自分で信じることができたら、どんなにいいかしれない。諸君、誓っていうが、わたしはいま書き散らしたことを、ひと言も、それこそただのひと言も信じてはいないのだ! というより、信じているのかもしれないけれど、どういうわけか、自分ではずうずうしいほらを吹いているような感じがする、そんな気がしてしようがないのだ。》(ドストエフスキー『地下室の手記』米川正夫訳)