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2016年8月2日火曜日

マルクスとラカンの三角形

一商品の価値は他の商品の使用価値で表示される。(マルクス『資本論』)
一つのシニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を表象する[ un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant ]》(ラカン、E.819)

➡ 一商品は他の商品に対して価値を表象する。


【単純な価値形態(マルクス)】

20エレのリンネル = 1着の上着
(相対的価値形態) (等価形態)

マルクスがここでいっているのは、「亜麻布は上衣と等価である」ということではなく、「亜麻布の価値は上衣の使用価値で表示される」ということなのである。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』)

➡ 1着の上着(等価形態)は、20エレのリネン(相対的価値形態)に対して価値を表象する。

…………




➡ あるシニフィアン「20エレのリンネル」に対して、他のシニフィアン「1着の上着」が主体(価値)を表象する。




➡ 1着の上着(等価形態=S1)は、20エレのリネン(相対的価値形態 = S2)に対して価値(主体$)を表象する(シニフィアン S1は、シニフィアン S2 に対して、主体 $ を表象する。[ un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant ])。



シニフィアンとは、主体に代わって対象を表象する何かではなく、他のシニフィアンに代わって主体を表象するものである。そして主体とはシニフィアンの内的な裂け目である。(ジュパンチッチ、「剰余享楽が剰余価値と出会うとき」、2002、私訳)

➡ 価値とは、「商品」自体の内的裂け目である

貨幣の呪物崇拝の謎は、ひるがえっていえば、商品自身には価値は内在せず、他の商品(貨幣)と交換されるほかに価値を与えられないという条件にもとづいている。(柄谷行人『探求Ⅰ』P.97)

➡ 価値とは、己を徴示する表象の不可能性以外の何ものでもない。

主体とは、それ自身を徴示する signifying 表象の不可能性以外の何ものでもない。(Žižek, The Sublime Object of Ideology, 1989、私訳)

ラカンはセミネールⅩⅦ(「精神分析の裏面」)の冒頭からおおよそ次ぎのようなことを言っている。

主体の発生以前に、世界には既に S2s(シニフィアン装置 batterie des signifiants)が存在している。S2s に介入するものとしての S1 (主人のシニフィアン)は、しばらく後に、人と世界のゲームに参入するが、その S1 は、主体のポジションの目安となる。この S1 の導入とは、構造的作動因子 un opérateur structural としての「父の機能」 la fonction du père のことだ。S1とS2s との間の弁証法的交換において、反復が動き始めた瞬間、主体は分割された主体 $ (le sujet comme divisé )となる。


ーー以上、「試作品」(?)なので、そのうち修正するかもしれない。

→「価値形態論(マルクス)とシニフィアンの論理(ジジェク=ラカン)

…………

(……)そのときはそれでよかった
ぼくは若かったから
だがいまだにこんなふうにして「何か」を書いていいのだろうか
ぼくはマルクスもドストエフスキーも読まずに
モーツアルトを聴きながら年をとった
ぼくには人の苦しみに共感する能力が欠けていた
一生懸命生きて自分勝手に幸福だった

ーー谷川俊太郎、そよかぜ 墓場 ダルシマー 

 
昨晩、読み返しよ(少しばかり)、『資本論』をね‼ ぼくはあれを読んだ数少ない人間の1人だ。ジョレス〔当時代表的な社会主義者〕自身は--(読んでいないように見える)。(…)『資本論』といえば、この分厚い本はきわめて注目すべきことが書かれている。ただそれを見つけてやりさえすればいい。これはかなりの自負心の産物だ。しばしば厳密さの点で不十分であったり、無益にやたらと衒学的であったりするけれど、いくつかの分析には驚嘆させられる。ぼくが言いたいのは、物事をとらえる際のやり方が、ぼくがかなり頻繁に用いるやり方に似ているということであり、彼の言葉は、かなりしばしば、ぼくの言葉に翻訳できるということなんだ。対象の違いは重要ではない。それに結局をいえば、対象は同じなんだから!(ヴァレリー、1918年5月11日、ジッド宛書簡、山田広昭訳)

というわけで、ほんの少しばかり、マルクスの『資本論』読んじゃったよ、第一章冒頭のわずかばかりだけど。そして《彼の言葉は、かなりしばしば、ぼくの言葉に翻訳できる》な。

さらにわれわれは二つの商品、例えば小麦と鉄をとろう。その交換価値がどうであれ、 この関係はつねに一つの方程式に表わすことができる。そこでは与えられた小麦量は、なんらかの量の鉄に等置される。例えば、1クォーター小麦= a ツェントネル鉄というふうに。この方程式は何を物語るか?

二つのことなった物に、すなわち、1クォーター小麦にも、同様に a ツェントネル鉄にも、同一大いさのある共通なものがあるということである。

したがって、両つのものは一つの第三のものに等しい。この第三のものは、また、それ自身としては、前の二つのもののいずれでもない。両者のおのおのは、交換価値である限り、こうして、この第三のものに整約しうるのでなければならない。
一つの簡単な幾何学上の例がこのことを明らかにする。

一切の直線形の面積を決定し、それを比較するためには、人はこれらを三角形に解いていく。三角形自身は、その目に見える形と全くちがった表現-その底辺と高さとの積の2分の1―に整約される。これと同様に、商品の交換価値も、共通なあるものに整約されなければならない。それによって、含まれるこの共通なあるものの大小が示される。



この共通なものは、商品の幾何学的・物理的・化学的またはその他の自然的属性であることはできない。商品の形体的属性は、ほんらいそれ自身を有用にするかぎりにおいて、したがって使用価値にするかぎりにおいてのみ、問題になるのである。しかし、他方において、商品の交換価値をはっきりと特徴づけているものは、まさに商品の使用価値からの抽象である。この交換価値の内部においては、一つの使用価値は、他の使用価値と、それが適当の割合にありさえすれば、ちょうど同じだけのものとなる。あるいはかの老バーボンが言っているように、「一つの商品種は、その交換価値が同一の大いさであるならば、他の商品と同じだけのものである。このばあい同一の大いさの交換価値を有する物の間には、少しの相違または差別がない。(マルクス『資本論』第1章 岩波文庫 pp.71-72)

…………


わたくし自身はマルクスもほとんどまともに読まず、柄谷行人、岩井克人の解釈におおむね依拠していたのだが、ひとつだけ(両者ともに)気になる点がある。それは相対的価値形態と等価形態をソシュール図式(シニフィアン/シニフィエ)に依拠して解釈しているようにみえる点だ。




そして両者は、ときにまったく逆のことを言っているように見えてしまう場合がある(わたくしの勘違いでなければ)。

柄谷行人、1978】

相対的価値形態=シニフィエ
等価形態=シニフィアン(上衣という使用価値は、シニフィアン)

【岩井克人、1993】

リンネル(相対価値形態)=価値を表現する「主体」の役割
上着(等価形態)=価値を表現される「客体」の役割(参照


ラカン的にどちらとも(相対的価値形態と等価形態とも)シニフィアンとして扱うなら、よりすっきりと語ることができたのではないだろうか?

そしてそうすれば剰余価値 a の地位も容易に見えてくる。

〈一〉と他 autre との関係の不十分性 l'inadéquat du rapport de l'Un à l'autre. (LACAN,S.20)

ーーシニフィアン « Un » には、常に残余としての対象 a(剰余享楽)がある(マルクスには「剰余価値a 」があるように)。

シニフィアンのそれ自身に対するこの不十分性とは、二つの名を持っている。言わば、二つの異なった実体 entities において現われるのだ。それはラカンのディスクール理論のシューマにおける二つの非徴示的要素 nonsignifying elements である。すなわち主体 $ と対象 a (剰余享楽)である。(ジュパンチッチ、「剰余享楽が剰余価値と出会うとき」、2002、私訳)




…ラカンの公式、《シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する》。これは現代思想の偉大な突破口だった。…この概念化にとって、再現前(表象 representation)は、「現前の現前 presentation of presentation」、あるいは「ある状況の状態 the state of a situation」ではない。そうではなく、むしろ「現前内部の現前 presentation within presentation」、あるいは「ある状況内部の状態」である。

この着想において、「表象」はそれ自体無限であり、構成的に「非全体 pas-tout」(あるいは非決定的 non-conclusive)である。それはどんな対象も表象しない。思うがままの継続的な「関係からの分離 un-relating 」を妨げはしない。…ここでは表象そのものが、それ自身に被さった逸脱する過剰 wandering excess である。すなわち、表象は、過剰なものへの無限の滞留 infinite tarrying with the excess である。それは、表象された対象、あるいは表象されない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に固有の「裂け目」、非一貫性から生み出される過剰である。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、表象のまさに裂け目である。 (アレンカ・ジュパンチッチ“Alenka Zupancic、The Fifth Condition”2004)

《貨幣の無限性。それは(……)有限に対する無限定ではなく、閉じられた現実的無限である。》(柄谷行人『探求Ⅱ』p。305)