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2016年8月6日土曜日

フロイトとマルクスにおける「形式」

労働生産物が商品形態を身に纏うと直ちに発生する労働生産物の謎めいた性格は、形態 Form そのものから来る。(マルクス『資本論』)
夢というのは、われわれの思考の一特殊形式 Form 以外のものではない。(フロイト『夢判断』)

…………

フロイトは『夢判断』第六章「夢の思考」(VI  DIE TRAUMARBEIT)の最後に(1925年版)、次の註を付け加えている。

私は昔、読者に夢の顕在内容と潜在内容との区別を納得してもらうのに大骨を折った覚えがある。記憶に残った未判断の夢(顕在内容)を基にした議論と抗議とはその跡を絶たず、夢判断の必要を唱えてもひとは耳をかそうとしなかった。

ところがすくなくとも精神分析学徒だけは顕在夢を分析して、その本当の意味をその背後に見つけることに慣れてはきたのだが、そうなると彼らのうちの若干の者は今度は別の混同を犯して、前と同じようにそれを頑固に執着しているのである。つまり彼らは夢の本質をもっぱらこの潜在的内容に求めて、そのさい、潜在夢思想と夢作業とのあいだに存する相違を見のがしてしまうのである。

夢というのは結局、睡眠状態の諸条件によって可能になるところの、われわれの思考の一特殊形式以外のものではない。この形式を作り出すのがほかならぬ夢作業である。そして、夢作業のみが夢における本質的なものであり、夢という特殊なものを解き明かしてくれるものなのである。

[Der Traum ist im Grunde nichts anderes als eine besondere Form unseres Denkens, die durch die Bedingungen des Schlafzustandes ermöglicht wird. Die Traumarbeit ist es, die diese Form herstellt, und sie allein ist das Wesentliche am Traum, die Erklärung seiner Besonderheit.]

私はこのことを、夢のかの悪評高き「予見的傾向」の評価のためにいっておく。

夢が、われわれの心的生活に与えられている諸課題の解決の試みに従事するということは、われわれの意識的な覚醒時生活がそれに従事することに比して決してひどく珍しいことえはないのであって、ただそこに、すでにわれわれに知られているように、夢の仕事は前意識のうちにおいても行われうるということを付け加えるにすぎないのである。(フロイト『夢判断』文庫 下 高橋義孝訳pp.255-256)

冒頭に掲げたマルクスの「形式(形態)」をめぐる箇所に引き続いて現れる文は、名高い「商品のフェティシズム」の叙述である。

…労働生産物が商品形態を身に纏うと直ちに発生する労働生産物の謎めいた性格は、それではどこから生ずるのか? 明らかにこの形態そのものからである。

[Woher entspringt also der rätselhafte Charakter des Arbeitsprodukts, sobald es Warenform annimmt? Offenbar aus dieser Form selbst.]

(… )

商品形態の謎めいた性格とは偏に次のことにある;

商品形態が彼ら自身の労働の社会的性格を、諸労働生産物自身がもつ対象的な諸性格、これら諸物の社会的な諸自然属性として、人の眼に映し出し、したがって生産者たちの社会の総労働との社会的関係を彼の外に存在する諸対象の社会的関係として映し出す。この置き換えに媒介されて労働生産物は商品、すなわち人にとって「超感覚的な物あるいは社会的な物 sinnlich übersinnliche oder gesellschaftliche Dinge」になる。

労働の社会的性格が商品の社会的性格に転化するという関係は、人が視神経に結ぶ物の像ーーそれは外部の物から視神経が受ける主観的な刺激にすぎないーーを物そのものの姿として認識するのに喩えることができる。

だが、物の像が人に見えるという現象が物理的関係--外部の物が発する光が別の物である眼に投射されるーーを表しているのに対して、商品形態とそれが表れる諸商品の価値関係は何らの物理的関係も含んでいない。

だから(商品がもつ謎めいた性格の)類例を見出すには宗教の領域に赴かなければならない。そこでは人間のこしらえた物 Produkt が独自の命を与えられて、相互に、また人々に対していつでも存在する独立に姿で現れるからである。同様に、商品世界では人の手の諸生産物が命を吹き込まれて、互いに、また人間たちとも関係する自立した姿で表れている。

これを私は商品の呪物崇拝と名づける。それは諸労働生産物が商品として生産されるや忽ちのうちに諸労働生産物に取り憑き、そして商品生産から切り離されないものである。

[Dies nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.]

(マルクス 『資本論』第1篇第四節「商品の物神的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)

ところで、形式とは具体的には何なのだろうーー。

それは次のフロイトの叙述がとてもわかりやすい。

この患者は、分析に必要な夢を、はじめのうちはどうしても私に向かって話そうとしなかった。理由は「その夢はとても曖昧で混乱しているから」というのであった。押し問答の末やっとこういことが判明した。つまりその夢の中にはたくさんの人物が入れかわりたちかわり現れてくる。彼女自身、彼女の夫、彼女の父親など。そして彼女には、夫が父なのかどうか、そのどれが一体全体父なのか、あるいは夫なのか、わからなくなっていたのである。この夢と、分析診療における彼女の思いつきをとを並置してみると、この夢の問題は、女中はみごもったが、「誰がいったい(お腹の子)の父親なのか」本人にも疑わしかったのである。だからしてこの夢が示した不明瞭性はこの場合もまた夢を惹き起こした材料の一部分なのであった。この内容の一部分が夢の形式で表現されたのである。

夢の形式ないし夢を見る形式は、じつに驚くほどしばしば、隠蔽された内容の表現のために利用される。[Die Form des Traumes oder des Träumern wird in ganz überraschender Häufigkeit zur Darstellung des verdeckten Inhaltes verwendet.]

(フロイト『夢判断』 下巻 高橋義孝訳 文庫 p.34)

《形式は内容の一部分であり、その抑圧された形式は回帰するという命題は、その反転によって補足すべきである。すなわち、内容はまた、究極的には、その形式の不完全性・その「抽象的」な特徴の効果に過ぎない、と。》(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

初期ジジェクも掲げておこう。

マルクスとフロイトの両者においては、ーーより正確にいえば、商品の分析と夢の分析とのあいだには、根本的相同性がある。どちらの場合も、核心は、形式の裏側に隠蔽されていると信じ込まれている「内容」へのフェティッシュな眩惑を避けることである。すなわち、分析を通してヴェールを剥がされる「秘密」は、形式(商品の形式、夢の形式)によって隠された内容ではない。そうではなく、この形式自体の秘密である。

夢の形式の理論的知恵は、顕在内容から「隠された核」・潜在夢思考へ入り込むことで成り立っているわけではない。そうではなく、次の問いへの応答で成り立っている。

すなわち、なぜ潜在夢思考はあのような形式を取ったのか、なぜ一つの夢の形式に変形されたのか。商品も同じである。真の問題は、商品の「隠された核」・生産過程のなかで使われた労働量による商品価値の確定に入り込むことではない。そうではなく、なぜ労働は商品の価値形式を取ったのか、なぜ生産物の商品形態のなかにのみ社会的性質を主張しうるのか、である。
フロイトは絶えず強調している。潜在夢思考のなかには「無意識」的なものは何もない、と。潜在夢思考は、日常の共通言語の統語法のなかで分節化されうる全く「正常な」思想である。トポロジー的には、意識/前意識のシステムに属する。主体は通常それを知っている。過度に知っているとさえ言える。潜在思考はいつも彼をしつこく悩ます…
構造は常に三重である。すなわち、「顕在夢内容」・「潜在夢内容あるいは夢思考」・「夢のなかで分節化される無意識の欲望」。この欲望は自らを夢に結びつける。潜在思考と顕在テキストとのあいだの内的空間のなかに自らを挿し入れる。したがって、無意識の欲望は潜在思考と比べて「より隠された、より深い」ものではない。それは、断固として「より表面にある」。(…)

言い換えれば、無意識の欲望の唯一の場は、「夢」の形式のなかにある。無意識の欲望は、「夢の仕事」のなか、「潜在内容」の分節化のなかに、自らをはっきりと表現する。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989、手元に邦訳がないので私訳)

ーーマルクスの商品分析概説については、「価値形態論(マルクス)とシニフィアンの論理(ジジェク=ラカン)」を見よ。


※付記


『ブリュメール一八日』にもどって考えるならば、われわれは特に精神分析を必要としない。なぜなら、ここでマルクスは、ほとんどフロイトの『夢判断』を先取りしているからである。彼は短期間に起こった「夢」のような事態を分析している。その場合、彼が強調するのは、「夢の思想」すなわち実際の階級的利害関係ではなく、「夢の仕事」すなわち、それらの階級的無意識がいかにして圧縮・転移されていくかである。フロイトはつぎのようにいっている。

《夢はいろいろな連想の短縮された要約として姿を現しているわけです。しかしそれがいかなる法則に従って行われるかはまだ解っていません。夢の諸要素は、いわば選挙によって選ばれた大衆の代表者のようなものです。われわれが精神分析の技法によって手に入れたものは、夢に置き換えられ、その中に夢の心的価値が見出され、しかしもはや夢の持つ奇怪な特色、異様さ、混乱を示してはいないところのものなのです。》(『精神分析入門続』高橋義孝訳)

フロイトは「夢の仕事」を普通選挙による議会になぞらえている。そうであれば、われわれは、マルクスの分析に精神分析を導入したり適用したりするよりは、『ブリュメール一八日』から精神分析を読むべきなのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』P.225)

柄谷)ドゥルーズは超越論的といいますが、これもまさにカント的な用法ですが、これを正確に理解している人はドゥルーズ派みたいな人にはほとんどいない。カントの超越論という観点は、ある意味で無意識論なんです。実際、精神分析は超越論的心理学ですし、ニーチェの系譜学も超越論的です。(中略)

ア・プリオリという言葉がありますけど、ア・プリオリというものは、実際には事後的なんです ―――無意識がそうであるのと同じように。それがほとんど理解されていない。さっき言った様相のカテゴリーはア・プリオリですが、それはたとえば可能性が先にあってそれが現実化されるというような意味ではまったくない。可能性とは事後的に見いだされるア・プリオリです。最近、可能世界論などといっている連中は、こんな初歩的なこともわかっていない。(『批評空間』1996Ⅱー9 共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津/蓮實/前田/浅田/柄谷行人)

二年近く前だが、このフロイトの「無意識」をまったく分かっていないドゥルーズ研究者(ひょっとして日本で最も著名らしい)をからかってみたことがある・・・すると、この「ジジェク馬鹿」との応答が、ツイッター上であるのにしばらくして気づいたが無視させていただいた(「夢の臍、あるいは菌糸体」)。

《ジジェク馬鹿にいいたいのは ○○はフロイトの夢判断が読めていない→そのとおりでございまして私はフロイトやラカンに関心をもったことはあり良くよんだことはありますが理解できず断念しました。理解できていない、そのとおりで全く自覚てきでず ちなみにラカンは嫌いですが偉いとおもっています》

ーーというわけで、このブログはおおむねジジェク馬鹿の記述なので、ヨイコは信用しないようにしてクダサイ