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2016年7月30日土曜日

「恋愛のみだらさ L'obscène de l'amour 」

・反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。

・世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)。

ニーチェの『反時代的考察 unzeitgemässe Betrachtung』は、仏語訳では旧訳が Considérations intempestivesで新訳は Considéra tions inactuelles となっている。

後者は、非アクチュアル的考察ということになる。

ドゥルーズは何度か、『反時代的考察』から引用しているが、たとえばその邦訳は次の如し。

能動的に思考すること、それは、「非現働的な仕方でinactuel、したがって時代に抗して、またまさにそのことによって時代に対して、来るべき時代(私はそれを願っているが)のために活動することである」。(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』江川隆男訳)
現在に抗して過去を考えること。回帰するためでなく、「願わくば、来たるべき時のために」(ニーチェ)現在に抵抗すること。つまり過去を能動的なものにし、外に出現させながら、ついに何か新しいものが生じ、考えることがたえず思考に到達するように。思考は自分自身の歴史(過去)を考えるのだが、それは思考が考えていること(現在)から自由になり、そしてついには「別の仕方で考えること」(未来)ができるようになるためである。(ドゥルーズ『フーコー』「褶曲あるいは思考の内(主体)」宇野邦一訳)

ところでサドは、時代に逆らって行動した作家だった。


作家というものはその職業上、しかじかの意見に媚びへつらわなければならないのであろうか? 作家は、個人的な意見を述べるのではなく、自分の才能と心のふたつを頼りに、それらが命じるところに従って書かなければならない。だとすれば、作家が万人から好かれるなどということはありえない。むしろこう言うべきだろう。「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ」。世論の馬鹿げた潮流が自分の生きている世紀を泥沼に引きずりこむなどということはしょっちゅうなのに、あのように自説を時流に合わせて曲げている哀れな輩は、世紀を泥沼から引き上げる勇気など決して持たないだろう。(マルキ・ド・サド「文学的覚書」、『ガンジュ侯爵夫人』)

サドはサドの時代に逆らって、当時にとっては「淫らなこと」を模範的な文体で書いた。

彼女は裸同然でわたしたちのそばに座っていました。彼女の見事な胸はほぼわたしたちの顔の高さにあって、彼女はそれをわたしたちに接吻させて面白がっておりました。彼女はわたしたちをじろじろと観察して、それからわたしたちの血に染まった受け皿を見ていました。わたしたちはまずクリトリスを、次に、玉門と尻の穴を手をかえ品をかえていじくりまわされました。わたしたちはこれら体の孔を両方ともクンニリングスされたのです。その後、わたしたちの両足を紐で結び直して持ち上げ、それを宙で支えると、まあだいたい人並みの男根が代わるがわるわたしたちの玉門と尻のなかに挿入されたのです。(サド『ジュリエット』)

だが我々の時代の「淫らなこと」とは何だろう。

1977年に出版されたロラン・バルトの「恋愛のみだらさ L'obscène de l'amour 」の項にはこうある。

・歴史的転倒。今や下品とされるものは性的なものではない。実際にはそれもまた別の道徳にほかならぬものによって非難された感傷性 la sentimentalité こそが、下品なのである。

・あらゆる侵犯行為に対して社会が課す税金は、今日、セックスよりはむしろ情愛の方に重い。Xが性生活について「深刻な問題」をかかえているのであれば、誰もが理解を示してくれるだろう。しかし、Yがその感傷的情熱についてかかえている問題には、誰ひとり関心をもとうとしない。恋愛がみだらなのは、それが、セックスのかわりに感傷をおこうとするからである。

・「わたしたち二人」――雑誌のタイトルーーは、サドにもましてみだらである。

・現代の世論は恋愛の感傷性ということに冷淡である。恋愛主体はこの感傷性を、わが身ひとりを衆人環視の中にさらすたぐいの、強度な侵犯行為として引き受けざるをえなくなっている。つまり、ある種の価値転倒により、今日では、この感傷性こそが恋愛のみだらさをなしているのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)


感傷性 la sentimentalité を記すことが「みだらなこと」だ、サドのように書くことよりも「わたしたち二人」を書くことが、より猥褻だ。1977年当時よりも現代ではますますそうではないだろうか、「非現働的な仕方でinactuel、したがって時代に抗して、またまさにそのことによって時代に対して、来るべき時代(私はそれを願っているが)のために活動する」ために「わたしたち二人」を書かなければならぬ・・・

ロラン・バルトの文は、思いがけなくも、ジジェクの次の文とともに読める。


(現在のわれわれの)状況のもとでとくに大切なことは、支配的イデオロギーと支配しているかに見えるイデオロギーとを混同しないように注意することだ。われわれは、これまで以上に、ヴァルター・ベンヤミンが遺してくれた注意事項を心に留めなければならない。その注意事項とは、ある理論(あるいは芸術)が社会闘争に関わる自分の立ち位置をどのように決定するかを訊ねるだけでは不十分であり、それが闘争においてどのようなアクチュアルな機能を発揮しているかもまた問われねばならない、というものである。 例えば、セックスで真のヘゲモニーを掌握している考え方は家父長制的な抑圧などではなく自由な乱交であり、また芸術で言えば、悪名高い「センセーショナル」展覧会と銘打ったスタイルでなされる挑発が規範に他ならなず、それは体制に完全に併合されてしまっている芸術の典型事例である。 (ジジェク『迫り来る革命 レーニンを繰り返す』)

ーーとネット上で拾ったのだが、ジジェクの翻訳の多くは誤訳がないかどうか確かめねばならない・・・みなさんドウゾたしかめてください・・・

one should be especially careful not to confuse the ruling ideology with ideology which SEEMS to dominate. More then ever, one should bear in mind Walter Benjamin’s reminder that it is not enough to ask how a certain theory (or art) declares itself to stay with regard to social struggles — one should also ask how it effectively functions IN these very struggles. In sex, the effectively hegemonic attitude is not patriarchal repression, but free promiscuity; in art, provocations in the style of the notorious “Sensation” exhibitions ARE the norm, the example of the art fully integrated into the establishment.

さて、サドの淫らさは、家父長的抑圧が支配的イデオロギーであったときには、反体制として機能した。

サド的淫蕩/家父長的抑圧
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   家父長的抑圧

だが、現在では家父長的抑圧は「支配しているように見えるイデオロギー」に過ぎず、実際は、自由な乱交が「支配的イデオロギー」である。「歴史的転倒」があったのだ。

すなわち、

侵犯行為/支配的イデオロギー
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支配的イデオロギー(自由乱交)

という形に母胎に自由乱交がある時代の侵犯行為とは何か?

感傷性/自由な乱交
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  自由な乱交

感傷性がこの時代の侵犯行為である。

感傷性が、《非現働的な仕方でinactuel、したがって時代に抗して、またまさにそのことによって時代に対して、来るべき時代(私はそれを願っているが)のために活動すること》である。

乱交やらサドマゾやら変態やらでは、この現代では、「支配的思想=支配階級の思想」(柄谷行人)の範疇に属する・・・それは、「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家ども」の振舞いである。


セクシャリティとエロティシズムの問題において、現在ーー少なくとも西側先進諸国のあいだではーーほとんど何でも可能だ。これは、この20年間のあいだに倒錯のカテゴリーに含まれる症状の縮小をみればきわめて明白だ。現代の倒錯とは、結局のところ相手の同意(インフォームドコンセント)の違反に尽きる。この意味は、幼児性愛と性的暴力が主である(それだけが残存する唯一の倒錯形式ではないにしろ)。実際、25年前の神経症社会と比較して、現代の西洋の言説はとても許容的で、かつて禁止されたことはほとんど常識的行為となっている。避妊は信頼でき安い。最初の性行為の年齢は下がり続けている。セックスショップは裏通りから表通りへと移動した。

この変貌の下で、我々は性的な楽しみの大いなる増加を期待した。それは「自然な」セクシャリティと「自然な」ジェンダーアイデンティティの高揚の組み合わせによって、である。その意味は、文化的かつ宗教的制約に邪魔されない性の横溢だ。ところがその代わりに、我々は全く異なった何かに直面している。もっとも、個人のレヴェルでは、性的楽しみの増大はたぶんある。それにもかかわらず、より大きな規模では、抑鬱性の社会に直面している。さらに、ジェンダーアイデンティティの問題は今ほど混乱したことはなかった。Paul Verhaeghe, (2005). Sexuality in the Formation of the Subject、私訳 ーーセックス戦争における最大の犠牲者たち

少なくとも、セクシャリティの領野で反時代的に振舞いたければ、幼児性愛と性的暴力を記さねばならぬ・・・

だがそれ以上に反時代的なのは、「わたしたち二人」である。

「わたしたち二人」とともに幼児性愛を書いたナボコフはなんと偉大だろう!

しかしあのときのミモザの茂み、靄に包まれた星、疼き、炎、蜜のしたたり、そして痛みは記憶に残り、浜辺での肢体と情熱的な舌のあの少女はそれからずっと私に取り憑いて離れなかった──その呪文がついに解けたのは、二四年後になって、アナベルが別の少女に転生したときのことである。(ナボコフ『ロリータ』)


見よ、谷川俊太郎の詩集『女に』1991における「わたしたち二人」は、なんと淫らなことだろう・・・




声はまわり道をした
あなたを呼ぶ前に声は沈んでゆく夕陽を呼んだ
森を呼んだ 海を呼んだ ひとの名を呼んだ
けれどいま私は知っている
戻ってきた谺はすべてあなたの声だったのだと



ーーというわけだが、どこかに論理的なあやまりはないだろうか・・・