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2016年6月25日土曜日

母性愛というコルク栓

…女は性関係において母としてのみ機能している。それは全体的に言って真実 vérités massives である。しかし我々はもっと先に導かれてゆく。(…)女の享楽 la jouissance de la femme は、非全体の穴埋め une suppléance de ce « pas-toute » を基礎としている。彼女は、非全体であるという事実を基礎にして、この享楽にとってのコルク栓 le bouchon を見出す。言い換えれば、子供によって構成された対象a のなかで ce (a) que sera son enfant、何処かにある 彼女自身から彼女を不在にする、主体として不在にする。(ラカン、 セミネールⅩⅩ、アンコール)

さて、ラカンは何を言っているのだろうか・・・

ここでは、わたくしの趣味からすれば、子供としてのコルク栓のみがまず印象的ではあるが。




これがラカンのいうコルク栓だとすれば、このストッパーの役目をするのが子供ということになる。とはいえ穴を塞いでも、母の享楽はときに噴出してしまうではないか・・・

ラカンは後年こうも言っている。

欠如の欠如が現実界を作る。それはただそこに、コルク栓としてのみ顕われる。このコルク栓は、不可能という語によって支えられる。我々が現実界について知る僅かなことが示すのは、全ての本当らしさへのそのアンチノミーである。(私訳)

Le manque du manque fait le réel, qui ne sort que là, bouchon. Ce bouchon que supporte le terme de l'impossible, dont le peu que nous savons en matière de réel, montre l'antinomie à toute vraisemblance.( Lacan17 mai 1976 AE.573)

これもひどく難解な文である・・・

とはいえ、二つの文から解釈されうるのは、母性愛とは、「本当らしさの見せかけ」としてのシャンパン栓の程度のものである、ということではないか。

…………

理性的には、もちろん、わたしたちはみんなが子供をもつ必要はないし、みんなが子供をほしくないというのは知っているわ。子供がいない生活はまったく妥当でありうるし、楽しいのかもしれない。でもわたしたちの多くは、子どもをもっていない女性をかわいそうに感じたり、見下していたり、わかってあげようとしていないんじゃないかしら? わたしたちは決めてかかっていない? 彼女たちは深い失望感を勇敢にもやりすごしているだけだって。こんなふうに思っていない? 彼女たちは、現状のままではしあわせじゃないかもしれないって。彼女たちの心の底には、なにか脆さや虚ろなものがあるんじゃないかって。これがフランスのフェミニスト、エリザベート バダンテールの議論で、わたくしもたぶん正しいと思うわ。

タブーは強くて、あからさまだわ。わたしたちが子供なしについてどんなふうに感じているのかについてね。もっとはっきりと言ってしまえば、タブーがなにを示唆しているのか、より鋭利に、より巧妙な形で言えば、なにか憐れみに近いものがあるんじゃないかしら。まるで子供のない女性はなんだか落ち着くことができず、まるで彼女たちは傷ついたり、さもなければ挫折している、と。とくに子供がいない女性が、わたしたちのクリシェの語り口にぴったりするときだわ。犬か猫、犬と猫、たくさんの犬と猫なんてね。ふうつの解釈では、彼女たちは淋しいってことね、他人と違ったことをしているというんじゃないわ。

わたしたちはもちろん子供のないようなほかの女性をそうなふうに判断なんかしていないと思い込んでいる。でも実際はいつも判断しているのよ。……
( Katie Roiphe、Do We Secretly Envy the Childfree? Or is childlessness still a taboo?、2012)

エリザベート バダンテールElisabeth Badinterという名が出てくる。Katie Roipheが言っている議論については無知だが、バダンテールははやくから次のようなことを指摘したフェミニストである。

いわゆる母性愛は本能などではなく、母親と子どもの間で育ってゆくものであり、母性愛を本能だとするのは一つのイデオロギーである。このイデオロギーは女性が自立した人間存在であることを認めようとせず、母親の役割だけに押し込める。さらには、子どもにたいして母親としての愛情を感じることのできない女性を「異常」として社会から排除しようとする》(エリザベート・バダンテール『母性という神話(L'Amour en Plus)』(1980)訳者鈴木晶「あとがき」)

さて冒頭のラカンに戻ろう。

…いわゆる「去勢されていない」全能の貪り喰う母、すなわちリアルな母について、ラカンは注意を促している、《不満足な母というだけではなく、またあらゆる権力をもつ母。そして、ラカンの母のこの形象のおどろおどろしい側面は、彼女はあらゆる権力をもつのと同時に不満足であるということだ》(ミレール “Phallus and Perversion”2009)

ここにはパラドックスがある。母が「全能」として現れれば現れるほど、彼女は不満足(その意味は、欠如している)なのだ。《ラカンの母は「誰かを食い尽くそうと探し廻っているquaerens quem devoret」に相当する。そしてラカンは彼女を鰐として提示する。口をあんぐり開けた主体として》(ミレール“The Logic of the Cure,” 2009)

この貪り喰う母は(愛の徴を求める子どもの要求に)応答しない。そしてそれ自体、全能として現れる。《母は応答しない…それゆえ彼女はリアルな母に変容する。すなわち、権力へと…。もし大他者が応答しなければ、彼は貪り喰う権力と化すのと同様に》(ミレール、同上)

これらすべてから得られる教訓は、驚くべきことにフェミニストの教えである。すなわち、母であることは、女の実現の運命、あるいは道ではない。そうではなく、二次的代替にすぎない。母であることは、女を「所有する者」にする。彼女の欠如を煙に巻く。しかし母の背後には、常にメドゥーサがいる。

これは常に可能性の審級にある。そして母が模範的であろうとも、子どもは代替物にすぎない。人はここに現れている問いを背負わなければならない点に至る。すなわち、母性とは女性の実現の唯一の道、あるいは特権化された道なのだろうか、と。《ラカンははっきりと母性はその道ではないという考えを持っていた。母性は女の隠喩的部分である。私は考えている。精神分析の倫理は、実際にはこの理想を課しえない。それは代替の側面にあるものであり、フロイト自身にとってもそうだ。》(ミレール、同上)

「良い」母は、子供-フェティッシュを以って彼女の欠如を埋める。「悪い」母は、おどろおどろしくもぞっとする形象を以って欠如を埋める。…(ジジェク、LESS THAN NOTHING、私訳)

子供とはフェティッシュなのである。たんなる穴塞ぎであり、蚊居肢とかわらない。すなわち男が女の内股を刺す蚊に魅せられるフェティッシュと。おわかりだろうか?

おわかりでない方々のためにこう引用しておくことにする。

スカートの内またねらふ藪蚊哉(永井荷風)

秋の蚊に踊子の脚たくましき(吉岡実)

みんなは盗み見るんだ
たしかに母は陽を浴びつつ
 大睾丸を召しかかえている
……
ぼくは家中をよたよたとぶ
大蚊[ががんぼ]をひそかに好む(吉岡実「薬玉」)


ところでボール・ヴェルハーゲは冒頭のラカン文に次のようなコメントをしている。

ラカンにとって、男たち、女たち、そして子供たちはシニフィアン以外の何ものでもない。これらの事において前言説的な現実性は何もない。女が他者性にかかわる何かがある限りで、それは女の主体性を超えたところに横たわっている。したがって、それについて何かを言う彼女の能力の彼方にある。

女性の享楽についてのポストラカニアンの「大騒ぎ hype」は、その特性上、掴み戻しえないものを掴み戻そうとするヒステリックな試みにすぎない。ラカンは、女たちにおける「他の享楽=女性の享楽」の発生について、たった一度だけ、はっきりとした言述を提示している。もっともほとんど何気なくだが。この言述にて、ラカンは暗黙に、他のところで言った見解をふたたび取り上げている。他の享楽が、再生産を通した死と組み合わさった生にかかわる影響へのコメントである。

この他の享楽が女たちに現れるかぎりで、それは彼女たちの子どもにかかわる。《彼女はこの享楽にとってのコルク栓を見出す(…)子どもによって構成された対象a のなかに》(S.20)。私の意見では、次のことの明瞭な示唆である。すなわち女性の倒錯を再考しなければならず、そして母性愛の神話の彼方を考慮しなければならないことの。(Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER. From subject to drive,2001)

※ここに出てくる「他の享楽=女性の享楽」については、「ラカンの身体概念の移行」を見よ。

さて、ヴェルハーゲの文にも≪女性の倒錯を再考しなければならず、そして母性愛の神話の彼方を考慮しなければならない≫とある。ミレールは子供-フェティッシュという。倒錯とはまずフェティッシュにかかわるとすれば、これはほとんど同じ問いである。

標準的には倒錯は男性のものだとされてきた。

ラカンは倒錯は男性的剥奪であり、男と女の二項構造を神経症・精神病・倒錯の三つ組みと結合させるとさらに複雑になると言っています。私たちが言いうるのは、倒錯は男性的剥奪であり、本物の精神病のすべては女性であろうということです。 (ミレール「ラカンの臨床パースペクティヴへの導入」:参照

だが後期ラカンでは、女性の倒錯を再考しなければならない、ということになる。

いずれにせよ、母性愛とは神話なのである。最近はコルク栓どころか、シャンパン瓶に近似したものにより子供の代替の穴塞ぎとして多用される時代でもあるのだから、なおさら当然である。









とはいえ、わたくしはこの手のコルク栓にはもはやあまり興味はない。むしろつぎのほうが品があり自然である。それはおそらく齢を重ねて発泡酒よりも穀物の純粋なエキスを好むようになったことにかかわるのだろう・・・





「若い方、――素朴なもの! 神聖なもの! 結構、あなたは私のいうことがおわかりです。一瓶のブドウ酒、湯気の立つ卵料理、穀物の純粋なエキス、――私たちはこれをまず初めに生かし、味わいましょう、それを十分に汲みつくし、十二分に味わい、それから初めてーー。だんぜん、あなた。決着。私はさまざまな人間を知ってきました、男と女を、コカイン常用者、ハシーシ常用者、モルヒネ中毒者をーー。結構、あなた! 完全! かれらの好きなように! 私たちは裁くなかれです。しかし、それらに閃光させるべきもの、素朴なもの、偉大なもの、神の直接の賜ものにたいして、その人々はすべてーー。決着、あなた。有罪。唾棄。かれらはみんなそれをおろそかにしました! あなたはなんというお名前であっても、若い方、――結構、私はお名前を存じていましたが、そのをまた忘れてしまいました、――コカインそのもお、阿片そのもの、悪習そのものがいけないのではないのです。ゆるすべからざる罪、それはーー」(トーマス・マン『魔の山』ーーペーペルコルンとその飲み仲間たち





ーー《「わめきなさい、わめきなさい、マダム!」と彼はいった。「きいきいと生気にあふれたひびきが、喉のずっと奥からーー》(同、トーマスマン)


ところで、皆さんご存知だろうか、打たれないとイケない女性がいるのを。

――ファンタジー(幻想)の役割はどうなのでしょう?

女性の場合、ファンタジーは、愛の対象の選択よりもジュイサンス(享楽)の立場のために決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりすることを想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女だと想像したり、ほかの場所にいる、いまここにいないと想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。 (Jacques-Alain Miller: On Love:We Love the One Who Responds to Our Question: “Who Am I?”


最初は興味深くても、度重なるとひどく重労働であることをご存じだろうか・・・

…笑い話の一つに、サディストとマゾヒストが遭遇する自体が語られているのだ。マゾヒストが、「いためつけてくれ」という。するとサディストが、「ごめんこうむる」というものである。およそ笑い話といわれているもののうちで、この話はことのほか愚かしい。たんにそんな事態が起こりえないという理由からばかりでなく、そこには倒錯的世界を評価するにあたっての間がぬけた気取りが充ち充ちているからである。そんな事態が起こりえないからだという理由も、やはり理由としては根拠があろう。真のサディストは、マゾヒストの犠牲者を断じてうけつけないであろう(僧侶たちの犠牲に給された一人が『美徳の不幸』の中でいっている。「あの人たちは、自分が罪を犯せば必ず涙が流されねばならぬと確信したがっています。自分から進んであの人たちの犠牲になろうとするような女は、はねつけてしまうに違いありません」)。だが、マゾヒストとて真のサディストの拷問者をうけつけたりはしまい。たしかに、マゾヒストには女の拷問者に一定の性質がそなわっていなければならぬという。だがその「性質」を、マゾヒストは調教し、訓育し、内奥に深く隠されたおのれに企てに従って説得しなければならず、まだその企ては、サディストの女性との遭遇によって、ことごとく失敗に帰してしまうにちがいないものなのだ。ワンダ・ザッヒェル=マゾッホは、自分の女友達の一人であるサディストに夫がほとんど食指を動かさなかった事実におどろいているが、それはワンダが考え違いをしているというものだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳)