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2016年6月28日火曜日

享楽に対する防衛

この投稿も前回に引き続き「在庫」整理の一環。

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欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。[ le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.](ラカン、E825)

ラカンの最初の教えは、存在欠如 manque-à-êtreと存在欲望 désir d'êtreを基礎としている。それは解釈システム、言わば承認 reconnaissance の解釈を指示した。(…)しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因を引き受ける別の方法がある。それは、防衛としての欲望、存在する existe ものに対しての防衛としての存在欠如を扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在 existeするのか。それはフロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたものである。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller)

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《Trieb(欲動・衝迫)。何かが主体を駆り立てる、己自身が行きたくない場にまで。≫(ヴェルハーゲ、1998)

いつかぼくはある話を聞いたことがあって、それを信じているのだよ。それによると、アグライオンの子レオンティオスがペイライエウスから、北の城壁の外側に沿ってやって来る途中、処刑吏のそばに屍体が横たわっているのに気づき、見たいという欲望にとらえられると同時に、他方では嫌悪の気持がはたらいて、身をひるがそうとした。そしてしばらくは、そうやって心の中で闘いながら顔をおおっていたが、ついに欲望に打ち負かされて、目をかっと見開き、屍体のところへ駆け寄ってこう叫んだというのだ。「さあお前たち、呪われたやつらめ、この美しい観物を堪能するまで味わうがよい!」(プラトン『国家』439c 藤沢令夫訳)

ーーもちろん、このプラトンの「欲望」という訳語はここでの文脈では、別の語に置き換えねばならない。

《過去には公開処刑と拷問は、多くの観衆のもとで行われた。…これは、ほとんどの我々のなかには潜在的な拷問者がいるということだ。≫ (ヴェルハーゲ、1998)

……残忍ということがどの程度まで古代人類の大きな祝祭の歓びとなっているか、否、むしろ薬味として殆んどすべての彼らの歓びに混入させられているか、他方また、彼らの残忍に対する欲求がいかに天真爛漫に現れているか、「私心なき悪意」(あるいは、スピノザの言葉で言えば、《悪意ある同情》)すらもがいかに根本的に人間の正常な性質に属するものと見られーー、従って良心が心から然りと言う! ものと見られているか、そういったような事柄を一所懸命になって想像してみることは、飼い馴らされた家畜(換言すれば近代人、つまりわれわれ)のデリカシーに、というよりはむしろその偽善心に悖っているように私には思われる。より深く洞察すれば、恐らく今日もなお人間のこの最も古い、そして最も根本的な祝祭の歓びが見飽きるほど見られるであろう。(……)

死刑や拷問や、時によると《邪教徒焚刑》などを抜きにしては、最も大規模な王侯の婚儀や民族の祝祭は考えられず、また意地悪を仕かけたり酷い愚弄を浴びせかけたりすることがお構いなしにできる相手を抜きにしては、貴族の家事が考えられなかったのは、まだそう古い昔のことではない。(ニーチェ『道徳の系譜』)

《あなたは義務という目的のために己の義務を果たしていると考えているとき、ひそかかに我々は知っている、あなたはその義務をある個人的な倒錯した享楽のためにしていることを。法の私心のない(公平な)観点はでっち上げである。というのは私的な病理がその裏にあるのだから。例えば義務感にて、善のため、生徒を威嚇する教師は、密かに、生徒を威嚇することを享楽している。≫ (『ジジェク自身によるジジェク』)

人はよく…頽廃の時代はいっそう寛容であり、より信心ぶかく強健だった古い時代に対比すれば今日では残忍性が非常に少なくなっている、と口真似式に言いたがる。…しかし、言葉と眼差しによるところの障害や拷問は、頽廃の時代において最高度に練り上げられる。(ニーチェ『悦ばしき知』)  

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我々のなかには抵抗できない何か起こる。理性と意志を超えた何かが。私のなかにある無思慮の気まぐれ。しかしながら、それは私の意志に反してして私を占領する。…欲動は現れるとき、意識・自己統御は占領されてしまう。…

欲動とは、何か別のものに駆り立てられて、そのなすがままになるということだ。統御不能の得体の知れないどこか別の場所から来るもの。欲動の領野は意識の外部に横たわっている。奇妙なしかし不可避の混淆、攻撃性とエロスの融合。 
いわゆる「非人間的振る舞い」、それはしばしば「動物的振る舞い」と叙述されるが、自然界における動物には決して現れない。それは人間に固有のものだ。…欲動は、主体によって欲望されない「快」の源泉である。…

欲望の主体は、欲動の主体のなかの己自身を認知しない。欲動の主体は、「彼の外部」にある。
誰が、あるいは何がここで快を楽しむのだろう? …自我にとって、この享楽の最初の出現は、不安・己れ自身の消滅の先触れ以外の何ものでもない。私は消滅する。何かに占領される。何の不思議でもない、享楽は自我が欲しないものであることは。代価は自我として存在することを辞めつつあることだ。この不安はエクスタシーへと変容される事実は、支払わなければならない代価を減らしはしない。

この光の下では、欲望は欲動と享楽に対する防衛として見られるべきである。人に快を提供する何かに対する防衛。もっとも、この文脈において「人」という語は全く明瞭ないし、「快」概念もまた奇妙である。(Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE ,1998,私訳)

「彼の外部」とあるが、正確には、「彼の外立」であるだろう(おそらくヴェルハーゲは、この一般向けに書かれた書物(八か国語に翻訳されている)では、そこまでの議論は不要としたのだろう)。

ラカン用語の外立ex-sistenceは、ハイデガーの Exsistenz からだが、起源はギリシャ語 έκστασηからであり、エクスタシーという意味(参照:ラカンのExtimité とハイデガーのExsistenz)。

また、ラカンの使用するex-sistenceの意味合いは、Extimité(外密)、あるいはフロイトのFremdkörper(異物)とほぼ同一と捉えうる(参照:防衛と異物 Fremdkörper)。

たとえばジジェクは、Extimité(ex‐timate)という語を次のように使う。これが現代ラカン派の「正規」の使用法だろう(ラカンの文が愉快なので併せて引用しておく)。

享楽の現実界とは、言語の外部に単純にあるものどころか(現実界は、むしろ言語に関して「外密 ex‐timate」である)、言語のなかで象徴化に抵抗する何かであり、言語のなかに異物の核として居残ったものである。現実界は、裂け目、切れ目、隙間、非一貫性、不可能性として現れる。《私はどの哲学者にも挑んでいる。シニフィアンの出現と享楽が存在にかかわる仕方とのあいだにある関係を、この今確認するために。…どの哲学も、言わせてもらえば、今日、我々に出会えない。哀れにも流産した哲学のオタクどもThe wretched aborted freaks of philosophy(仏原文 ces misérables avortons de philosophie) 。我々はその哲学を後ろに引き摺っているのだ、前世紀(19世紀)の初めから、ボロボロになった習慣として。あの哲学オタクとは、むしろこの問いに遭遇しないようにその周りを踊る方法にすぎない。この問いとは、真理についての唯一の問いである。それは、死の欲動と呼ばれるもの、フロイトによって名付けられたもの、享楽の原マゾヒズム…。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。(Jacques Lacan, seminar of June 8, 1966, in Le séminaire, Livre XIII: L'objet de la psychanalyse (unpublished).(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

とはいえ、ラカンは数年後、次のように言っていることを付け加えておこう・・・

《私が哲学を攻撃してるだって? そりゃひどく大袈裟だよ!≫(ラカン、Seminar XVII)