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2016年6月15日水曜日

家の敷居をまたぐようにして入り込むデルタ

そもそも、故郷の土地がふたつの断層(中央構造線と糸魚川一静岡構造線にはまされた土地)であることをいまごろ知り、それをなにやら客観的に記そうとするのは倒錯的である。

また、すこぶる非科学的な人間であることを自認しているこのわたくしがいくらか「科学的に」調べてみたことを記すのは、いまさらはしたない振舞いだ。だいたいそんな科学的なことを付け焼刃的に記しても穴だらけの知識に決まっている。

ましてや、断層の狭間とは、その地に住んでいれば、ひどく被害を及ぼす大地震の可能性のある土地であることを「客観的に」確認するわけで、通常、その地にいまだ愛着があるなら、感心する筋合いのものはなく、むしろ不安になるべきはずの話かもしれない。

それなのに、わたくしはなにやら感心したままなのは、すでにあの土地の外部の人間になってしまっており、ようは海外住まいのデラシネーー根所を失った人間の戯言で充分ありうる。

で、以下の文を投稿するのはやめようと思ったが、思っただけで、やっぱり公開しておこう。

少し前に次のように記したことがある。

…………

東京や京都から新幹線や自動車で故郷の町ちかくに来ると、光と風がちがう。樹木層がちがう。 風のにおいがちがう。熱海や静岡あたりの鬱陶しい町を通りすぎ、浜名湖にちかづくと、ああ実に、自分の家の敷居をまたいだ気がする。西からだったら西三河の岡崎近辺でさえいけない。重苦しいところだぜ、あのあたりは、--シツレイ!ーー、蒲郡に来ると、ああ海だ! 故郷の町に近づいた! という具合になる。光? 《私はほとんど「聴くべきだ」といいたい。それほど音楽的な光なのだ》!ーー「バイヨンヌ、バイヨンヌ、完璧な町」より

…………

通常、こういう感想は郷愁のなせるワザだったり、馴れ親しんだ風景に近づくのでそのような特別の地域と感じるだけであり、つまりたんなる寝言でありうる。わたくしの中学や高校時代の友人たちが似たような感想をもらしたことがあったが、そのときはただ微苦笑してやりすごしたことがなんどもある。

だが、この、ひどくいい加減に記した内容が、「中央構造線」と「糸魚川一静岡構造線」についていくらか学ぶと、「科学的根拠」があることがなんと分かってしまった!(参照:神の宿る所と中央構造線)、ーーとなぜだかウキウキしてしまう。オレは阿呆の骨頂なのかもしれぬ・・・

まあそれでもいいさーー。



さて、上の図のように橙色の中央構造線と水色の糸魚川一静岡構造線に挟まれた地質上の三角(デルタ)地帯があるのだ。この土地が特別な土地だとは言うまいーーくり返せば、いまさら故郷自慢は気恥ずかしいーー。ただし、東京と大阪にほぼ中間地帯にあるこのエリアは、風土上、異質の空間であり、植物相が異なる(わたくしの父方も母方の親族はすべてこの三角地帯で育っている)。

ただし上に「蒲郡に来ると」、と記してしまったのは、やや軽率だった。蒲郡よりももう少し東に、つまり豊川(稲荷)に中央構造線は通っている。







このデルタは、本来地質上は、紀伊半島の南と四国の南、九州の南半分につながる土地なのだが、東海道はそのように通っていない(下図の鶯色のエリア)。だからこのエリアだけ異なった「風が吹く」。






…………

故郷自慢をするつもりはない、と記したが、こうは引用しておこう。

……ある兆で私は自分が家の敷居をまたいで、幼児期の郷里に入ったことを知らされる。それは、道の脇の松林、家の中庭に立つ棕櫚の木、地面に影をおとして人間の顔のような表情を映し出す独特の雲の高さ。そこから南西部の大いなる光が始まる。高貴でありながら同時に繊細で、決してくすんだり淀んだりしない光(太陽が照っていないときでさえ)。それはいわば空間をなす光で、事物に独特の色あいを与える(もう一つの南部はそうだが)というより、この地方をすぐれて住み心地のよいものにするところに特徴がある。明るい光だ、それ以外にいいようがない。その光はこの土地でいちばん季節のいい秋にみるべきだ(私はほとんど「聴くべきだ」といいたい。それほど音楽的な光なのだ)。液体のようで、輝きがあり、心を引き裂くような光、というのも、それは一年の最後の美しい光だから。

(……)私は南西部をすでに《読んでいた》。ある風景の光やスペインからの風が吹く物憂い一日の気怠さから、まるまる一つの社会的、地方的言説の型へと発展していくそのテクストを追っていたのである。というのは、一つの国を《読む》ということはそもそも、それを身体と記憶によって、身体の記憶によって、知覚することだからである。私は、作家に与えられた領域は、知識や分析の前庭だと信じている。有能であるよりは意識的で、有能さの隙自体を意識するのが作家である、と。それゆえ、幼児期は、私たちが一つの国をもっともよく知り得る大道なのである。つまるところ、国とは、幼児期の国なのだ。(ロラン・バルト「南西部の光」1977『偶景』所収)


潮騒に伊良虞の島辺榜ぐ船に妹乗るらむか荒き島回を 〔巻一・四二〕 柿本人麿

引馬野ににほふ榛原いり乱り衣にほはせ旅のしるしに 〔巻一・五七〕 長奥麿 


引馬野は遠江敷智郡(今浜名郡)浜松附近の野で、三方原の南寄に曳馬村があるから、其辺だろうと解釈して来たが、近時三河宝飯郡御津町附近だろうという説(今泉忠男氏、久松潜一氏)が有力となった。(斎藤茂吉)

伊良湖はもちろんのこと、引馬野が浜松附近の野であろうが宝飯郡御津町附近であろうが、デルタの土地である。

よく知られているように三島由紀夫の『潮騒』の舞台「歌島」は、伊良湖岬の先にある「神島」であり、≪地形的には中央構造線の外帯に位置する≫(神島町の漁村景観)。




歌島は人口千四百、周囲一里に充たない小島である。

歌島に眺めのもつとも美しい場所が二つある。一つは島の頂きちかく、北西にむかつて建てられた八代神社である。(……)

八代神社は綿津見命を祀つてゐた。この海神の信仰は、漁夫たちの生活から自然に生れ、かれらはいつも海上の平穏を祈り、もし海難に遭つて救はれれば、何よりも先に、ここの社に奉納金を捧げるのであつた。(……)

眺めのもつとも美しいもう一つの場所は、島の東山の頂きに近い燈台である。

燈台の立つてゐる断崖の下には、伊良湖水道の海流の響きが絶えなかつた。伊勢海と太平洋をつなぐこの狭窄な海門は、風のある日には、いくつもの渦を巻いた。水道を隔てて、渥美半島の端が迫つてをり、その石の多い荒涼とした波打際に、伊良湖崎の小さな無人の燈台が立つてゐた。歌島燈台からは東南に太平洋の一部が望まれ、東北の渥美湾をへだてた山々のかなたには、西風の強い払暁など、富士を見ることがあつた。(三島由紀夫『潮騒』)


で、以下にまだながながと文を記していたのだが、それはなぜか削除しておだやか系の文章のみを残しておくことにする。

ああ、海がみたい。幼き日であれば浜名湖の遠浅の海であり、廊下に松の老樹が天井を突き抜けていたあの古い旅館の和座敷の前の松林のなかに拡がる砂の感触であり、あるいは蒲郡の海、鯔や蝦蛄手づかみしたり、浜辺で殻ごと火にかけた蛤やら浅蜊を立ち食いしたあの泥臭い海、さらに後年は、伊古部と赤羽海岸の荒い海、臆病な少年には到底泳げない波の高い潮風の強烈な海、海辺でテントを張って合宿し焚火を囲んで少女たちと輪になって踊り胸を高鳴らせた少年の股間のテントの海、あるいはもう少し足を伸ばせば伊良湖岬の崖の上から遠眺する神々の海、岬の高台では伯父たちが友人やらその女ともだち、ときには水商売の女の着物姿もまじえて正月三が日を過ぎたあと何部屋か借り切って麻雀三昧する習慣のあったあの眺望豊かなホテルから眺める海であり、母の一番下の弟である叔父が、若い女と腕をからみあわせたまま立ち上がりそのまま別室へとゆっくり横切っていって小一時間して戻ってきたってなんのことか分らずにひたすら宵闇の灯台の光やら夕暮れだったらはるか遠くに船が行き交うのを眺めていたあの海。夏休みだったら、伊良湖内湾の簀の子小屋のなかでサイダーをラッパ飲みしつつ傍らの女子着替え部屋のかすかな気配に動揺した少年の、あの波の静かな穏やかな海、さらに友とひそかに漁船で行き着いた漁村の軒下につるされた干物の魚と漁師の娘たちの海、三島由紀夫の神島の海。

漁師たちの下卑た歓声だって聞こえてくる「神島」。情熱の笏をむぎゅっと摑まれる感触だって残っているあの神島の海。

……喫茶店を抜け出して海岸へ行き、人気のない小さな砂原を見つけ、洞穴のような形をした赤茶けた岩が菫色の影をおとすなかで、私は、つかのまの貪婪な愛撫をはじめた。誰かがおき忘れたサングラスだけが、それを目撃していた。私が腹ん這いになって、愛する彼女をまさに自分のものにしようとした瞬間、髭をはやした二人の男、土地の老漁夫とその弟とは、海からあがってきて、下卑た歓声をあげて私たちをけしかけた。

(……)私が薄くひらかれた彼女の唇の端と熱い耳たぶに接吻したとき、彼女の体はふるえ、ひきつった。頭上の細長い葉の影絵のあいだから、星の群団が青白い光をのぞかせていた。顫動する空は、かるい室内着の下の彼女の肢体と同様、透きとおって見えた。そして、その空のなかに、彼女の顔が、それ自体かすかな光を放つかのように、妙にはっきりと浮かんでいた。彼女の脚、かわいらしいぴちぴちした脚は、あまりかたくはとじられず、私の手が求めていたものをさぐりあてると、よろこびと苦痛の相半ばした、夢みるような、おびえたような表情が、あどけない顔をかすめた。彼女は私よりもやや高い位置に腰をおろし、一方的な恍惚状態におそわれて私に接吻したくなると、彼女の顔は、まるで悲しみに耐えられなくなったように、弱々しく、けだるそうに私にしなだれかかり、あらわな膝は、私の手首をとらえて、しめつけては、またゆるめた。そして、何か神秘的な薬の苦さにゆがんで小刻みにふるえる唇が、かすれた音をたてて息を吸いこみながら、私の顔に近づいた。彼女は最初、愛の苦痛をやわらげようとするかのように、かわいた唇を、あらあらしく私の唇にこすりつけたが、やがて顔をはなし、神経質に髪の毛をうしろへはらってから、またそっと顔をよせて、かるくひらいた唇を私に吸わせた。一方私は、心も首も内臓もすべてを惜しみなく彼女にあたえたい一心から、彼女のぎごちない手に私の情熱の笏〔しゃく〕を握らせた。(ナボコフ『ロリータ』)

いやあ、それ以外にも「神の宿る所と中央構造線」で記した鳳来寺町というのはひどくなつかしい地名でね、高校のときに同級でその地出身の色の白い美少女がいた。下宿していたのだが、休みの日にはしばしば帰っていた。オレは一度招かれて彼女の両親の古い屋敷を訪れたことがある。じつに見事な屋敷だったな、背後には鬱蒼とした森を背後にひかえて居間には囲炉裏なんかもあってさ。

鳳来町というのはいまは新城市に合併されてるんだが、むかしは南設楽郡鳳来寺町といったんだな、設楽とはシタラと読む。当時はしばらく、シタラ、シタラ、シタラと悩まされたよ

(削除)

当時はそのリズムの反復の誘いにのるほど(究極的には)勇気がなかったのだが、彼女が津田塾にはいってから、武蔵野の奥地ーーようするに小平市ーーまで出かけて長年の鬱屈をはらそうとしたことがある・・・

(削除)

二つの断層のうなじーー背尻ーーの土地に生まれると東海道にはまれな南国系の「アツイ」女性が育つ、ということはないのだろうか。