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2016年5月26日木曜日

女に甘え、女に依存し、女につけこみ、女をなめきり………いいかげんにしろ!

@ueno_wan: 男のお守りはもうたくさんだ。女に甘え、女に依存し、女につけこみ、女をなめきり、それができないと逆ギレする。いいかげんにしろ、と言いたい。(上野千鶴子)

ーー実に痛い言葉だ。オレはこういうことをやってきた。標準的な男以上におそらくやってきたのではないか。こうやって恥じ入いることさえも、たんなる「ふり」でありうる。忸怩たる思い、--と記すほどにいまだ忸怩しているのかさえ疑わしい。

以下は、以前訳出したものだが、これを上野千鶴子の言葉とともに掲げるのはいささか言い訳めくのではないかと思うが、ーーと先に言い訳しておこう。


◆ When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe  2010、PDFより(私訳)


【幼児の標準的な発達(受動ポジション→能動ポジション)】
幼児の避けられない出発点は、受動ポジションである。すなわち、母の欲望の受動的対象になる羽目になる。そして母なる〈他者〉(m)Other から来る鏡像的疎外 mirroring alienation を通して、自己のアイデンティティの基盤を獲得する。いったんこの基盤のアイデンティティが充分に安定化したら、次の段階において観察されるのは、子どもは能動ポジションを取ろうとすることである。

中間期は過渡的段階であり、子どもは「過渡的対象」(古典的には「おしゃぶり」)の使用を通して、安定した関係にまだしがみついている。このようにして、母を失うことについての不安は、なんとか処理されうる。標準的には、エディプス局面・父の機能が、子どものいっそうの発達が起こる状態を作り出す。ただしそれは、母の欲望が父に向かっているという事実があっての話である。


【受動ポジションのままの倒錯者(マゾヒスト)】
倒錯の心的作用においては、これは起こらない。母は子どもを受動的対象、彼女の全体を作る物に還元する。このミラーリング mirroring のため、子どもは母のコントロール下にいるままだ。こうして、子どもは自己の欲動への表象的参入(欲動の象徴化能力)を獲得できない。もちろん、それに引き続く自身の欲望のどんな加工 elaborations もできない。

これは、構造的用語で言えば、ファルス化された対象aに還元されるということであり、母は、それを通して、彼女自身の欠如を埋める。だから分離の過程は決して起こらない。第三の形象としての父は、母によって、取るに足らない無能な観察者に格下げされる。この権威としての〈他者〉の陳腐化はのちに回帰するだろう。それは、倒錯者が、その行為を享楽と見なして自らに制裁を加えるときである。

このようにして、子どもは自らを逆説的ポジションのなかに見出す。一方で、母の想像的ファルスとなり、それは子どもにとっての勝利である。他方で、彼ががこのために支払う犠牲は大きい。分離がないのだ。自身のアイデンティティへとのいっそうの発展はいずれも塞がれてしまう。代わりに、子どもはその獲得物を保護しようと試みて個性的反転を演じる。彼は、自ら手綱を握って、受動ポジションを能動ポジションへ交代させようとする。同時に特権的ポジションを維持したままで、である。

臨床的用語では、これは明白なマゾヒズムである。マゾヒストは自らを他者にとっての享楽の対象として差しだす。全シナリオを作り指揮しながら、である。これは、他者の道具となる側面であり、「能動的」とは「指導的」として解釈される条件の下で、はっきりと受動-能動反転を示している。倒錯者は受動的に見えるかもしれないが、そうではない。


自身の享楽に都合のよい規則システムに従わせる倒錯者】
(……)倒錯者は自らを〈他者〉の享楽の道具に転じるだけではない。彼はまた、この他者を自身の享楽に都合のよい規則システムに従わせるのだ。

倒錯者の不安は、しばしばエディプス不安、つまり去勢を施そうとする父についての不安として解釈されるが、これは間違っている。不安は、母なる超自我にかかわる。彼を支配しているのは最初の〈他者〉である。そして倒錯者のシナリオは、明らかにこの状況の反転を狙っている。

これが、「父の」超自我を基盤とした行動療法が、ふつうは失敗してしまう主要な理由である。それらは見当違いであり、すなわち、倒錯者の母なる超自我へと呼びかけていない。不安は、はるかな底に横たわっており、〈他者〉に貪り食われるという精神病的な不安に近似している。父の法の押し付けに対する反作用は、しばしば攻撃性発露である。


【犠牲者さ、率先してヤッたのは】
倒錯者における否認は性的関係のみに限定されるわけではない。それは象徴的〈他者〉、すなわち権威や享楽に対する全関係を決定づける。倒錯者自身の世界においては、欠如はない。彼自身の法が〈他者〉に課される。慣習世界においては、法は外面的には守られるだろう。すなわち、倒錯者は他者たちが慣習規則に従うだろうという想定の下に振舞い、この知を十全に活用する。

実に、原初の関係が繰り返されるのだ、最初の〈他者〉(母)と第二の〈他者〉に対する成人後の生活での後継者たちに。もっとも受動-能動反転がある。倒錯的主体は、「最初の」〈他者〉の後継者に向けて道具的ポジションに立つ。この〈他者〉の享楽に仕えるためだ。これは神経症者の観点からは、パラドックスである。倒錯者は、〈他者〉の享楽のために死に物狂いで奉仕していることを確固に信じている。このように、犠牲者は「それを求めたのだ」、彼らは「ほら、それをまさに楽しんだのだよ」等々という根強い考えを倒錯者は持つ。その考え方は、確かに原初の最初の〈他者〉(母)にとっては本当だ。この帰結は、還元されたヴァージョン、いわゆる「認知の歪み」においても、同様に見出される。何度も繰り返して証言されるのだ、犠牲者は「協力的だったよ」、あるいはさらに「犠牲者さ、率先してヤッたのは」と(Hall, 1995; Kennedy & Grubin, 1992; Ward, Hudson, Johnston, & Marshall, 1997)。

…………

ポール・ヴェルハーゲ(&Jochem Willemsen)は、上の文で、標準的な発達と倒錯の生じる環境を対比させて語っている。

倒錯といえば、90年前半の柄谷行人の言葉を思い出しておこう。柄谷は、日本人の精神構造は、≪去勢の否認≫のようなものがありはしないかと言っている(参照)。この「否認」とは、ラカン派では、倒錯にかかわる用語である。もっとも柄谷行人は、ラカン理論にはそれほど詳しくはなく、否認といったり排除といったりしている(排除とは精神病にかかわる用語である)。だが、細かい用語使いはこの際どうでもいい。柄谷の言っていることは、日本人は神経症的でない、ということであり、1992年段階でこう言い放ったのは、すぐれた洞察である。実際、ジャック=アラン・ミレールは、最近になって≪倒錯は疑問に付される用語だ≫(2008)と言っている。

ところで柄谷はこうも言っている。

日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収)

この文は、中井久夫の次の記述と同時に読むとより意味深くなる。

かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。その分、母親もいくぶん超自我的であった。財政を握っている日本の母親は、生活費だけを父親から貰う最近までの欧米の母親よりも社会的存在であったと私は思う。現在も、欧米の女性が働く理由の第一は夫からの経済的自立――「自分の財布を持ちたい」ということであるらしい。

明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。戦前の父はしばしば政府の説く道徳を代弁したものだ。そのために、父は自分の意見を示さない人であった。自分の意見はあっても、子に語ると子を社会から疎外することになるーーそういう配慮が、父を無口にし、社会の代弁者とした。日本の父が超自我として弱かったのは、そのためである。その弱さは子どもにもみえみえであった。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003 『時のしずく』2005所収)

ヴェルハーゲの記述を再掲すれば、倒錯的な子どもが生じやすい環境において、≪第三の形象としての父は、母によって、取るに足らない無能な観察者に格下げされる≫とあった。

つまり、上記の三者の文から、日本的環境は、かつてから神経症的環境ではなかったと言いうる(神経症とは「父」、あるいは象徴的権威を信じることである)。

ところで、倒錯をめぐってではなく、より一般的に語っているヴェルハーゲの講演 2007がある。これも以下に掲げるが、そこには、倒錯ではなく、現実神経症という言葉が出てくる。

この概念はもともと初期フロイト用語だが、後に次のように語っている。

精神神経症と現実神経症は、互いに排他的なものとは見なされえない。(……)精神神経症は現実神経症なしではほとんど出現しない。しかし「後者は前者なしで現れるうる」(フロイト『自己を語る』1925)。

フロイトは、『制止、症状、不安』(1926)にて、「後期抑圧」と「最初期の抑圧 (frühesten Verdrängungen )」とを比較して、第二の場合(原抑圧Urverdrängung)は、現実神経症 Aktualneuros の原因、第一の場合(後期抑圧 Nachdrängung)は精神神経症 Psychoneuros の特徴としている(参照:原抑圧・原固着・原刻印・サントーム)。

さらに、現実神経症は、現在のラカン派の「ふつうの精神病」概念と重なる部分があり、ふつうの精神病も現実神経症も倒錯も含むといってよい(参照:ふつうの妄想・ふつうの父の名・原抑圧の時代) 。

この前提で以下の文を読もう。

◆“Chronicle of a death foretold”: the end of psychotherapy. Paul Verhaeghe – Dublin, September 2007,PDF

(この数十年のあいだに徐々に変化があります。…)ラカン派のタームであるなら、鏡像段階のあいだに何かがうまく行っていないのです。鏡像段階、すなわち、アイデンティティの形成が欲動の規制と共同して始まる時期です。まるで現代の大他者――その意味するところは、両親だけではなく、また象徴的秩序ですがーー彼/彼女の鏡像的機能を果たすことにますます失敗しているかのようです。その結果、子供は心理的に発達しません。すなわち、欲動やそれに伴う興奮を取り扱う表象的な方法に欠けているのです。さらにアイデンティティ自体の形成さえも狂わされています。結果として、欲動の処理は、ソマティック(身体的な)レベル、すなわち原初の現実界のレベルに立ち往生してしまっています。

これは、なぜ症状が、なにものにも媒介されず、さらにはパフォーマティヴな仕方で身体に差し向けられるを説明してくれます。同様に意味の欠如をも説明してくれます。それらは、防衛メカニズムのたぐいではなく、意味のない「解除反応Abreaction」により近づいています。私の考えの流れでは、これはフロイトが命名した「現実神経症」へと導いてくれます。時間がないので、フロイト理論の現代的解釈を詳しく述べることはしませんが、こういうだけで充分でしょう、すなわち、「現実神経症」の主な特徴とは、表象を通しての欲動興奮を処理することの失敗である、と。

ラカンの鏡像段階の理論とフロイトのアイデンティティ発達の理論の光の下では、表象能力の失敗とは、最初の大他者との関係における失敗として理解されなければなりません。ごく一般的には、そうなのです。古典的な精神神経症では、欲動興奮は表象的なオブラートをもっており、意味があふれた古典的に分析されやすい症状を通して、象徴的な表現を見出せます。

現実神経症の場合では、この表象の処理がひどく妨げられています。臨床像に関する帰結は、「意味豊かな」症状の不在です。そこにはソマティックな現象にかかわるパニックな攻撃と不安が伴っています。不安とは原初の興奮の表現なのです。結果として、興奮状態が過剰な比率を占めることになります。そして行動をとおした捌け口を見出すのです。それは自らの身体に向けてであったり、他者に向けてであったりします。

 象徴的権威の崩壊により、すくなくとも先進諸国の人間はしだいに(精神)神経症的でなくなっている。倒錯的であったり、ふつうの精神病的であったり、現実神経症的になっている。そういいうる。そして一神教的社会でない日本はその先進国である。

あるいは三者関係的から二者関係的な人間関係になっている、といってもよい。

重要なことは、権力 power と権威 authority の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。

明らかなことは、第三者がうまくいかない何かがあり、われわれは純粋な権力のなすがままになっていることだ。(社会的絆と権威、Paul Verhaeghe,1999

そして日本語は言語構造そのものが二者関係言語であるとは、70年代にすでにしばしば強調されていた。

《日本人は相手のことを気にしながら発言するという時、それは単に心理的なものである以上に、人間関係そのもの、言語構成そのものがそういう構造をもっているのである》(森有正全集12)

日本語においては、一応三人称を文法的主格にしている文章でも、「汝―汝」の構造の中に包み込まれて陳述される。それは助動詞(これを動助詞という人もあるらしいが、そしてここで助動詞あるいは動助詞というのはverbe auxiliaireのことではなく、フランスの日本語学者のいうsuffixe fonctionnelであることは言うまでもない)が凡ゆる陳述に伴っていることからも理解される。そういうわけで日本語が本質的に二項関係の内閉性をもっており、そういう意味で閉鎖的(原文は傍点)な会話語であるのに対してヨーロッパ語は、会話の部分でも、その二人称は、いつでも、一人称―三人称に変貌することが出来る開放的超越的会話語であるということが出来る(森有正ーー「人間の思考はその人間の母語によって決定される」)

いや、こういった森有正などの主張以前に、時枝誠記が、日本語は本質的に「敬語的」だと言っている。敬語的とは、すなわち二者関係的である、ということだ。

…………

最後に、ノーベル賞作家でありかつまたかつてのフェミニストのアイコンのひとりだったドリス・レッシングの自伝から、次の文を引用しておこう。

子どもたちは、常にいじめっ子だったし、今後もそれが続くだろう。問題は私たちの子どもが悪いということにあるのではそれほどない。問題は大人や教師たちが今ではもはやいじめを取り扱いえないことにある。(ドリス・レッシングーー「The Collapse of the Function of the Father and its Effect on Gender Roles」 Paul Verlweghe 2000より孫引き))