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2016年5月1日日曜日

心音音楽がなければ人生は一つの錯誤であろう

幸福に必要なものはなんとわずかであることか! 一つの風笛の音色。――音楽がなければ人生は一つの錯誤であろう。(ニーチェ『偶像の黄昏』「箴言と矢」33番)

というわけで(吸啜・把握・エロス)、究極のエロス対象は、母の心音(60~70)のテンポの母の声に近似した音楽じゃないか? 母の乳房なんかじゃないさ。

ニーチェ死後出版の『この人を見よ』の「序言」につづく「なぜわたしはこんなに賢明なのか」第三節が妹によって原稿差し替えがなされていることを最近知った(参照)。

これはすでに1969年に「本来」の原稿に戻されたらしいので、現在の『この人を見よ』邦訳も、新しい「正規の」もので訳されているのかもしれない。だが、わたくしの手元の手塚富雄訳は、旧版の訳のままだし、須藤訓任氏の指摘では西尾幹二訳もそのままである。

ニーチェの「本来の」原稿から抜き取られた箇所は次の通り。

「わたしに最も深く敵対するものを、すなわち、本能の言うに言われぬほどの卑俗さを、求めてみるならば、わたしはいつも、わが母と妹を見出す、―こんな悪辣な輩と親族であると信ずることは、わたしの神性に対する冒瀆であろう。わたしが、いまのこの瞬間にいたるまで、母と妹から受けてきた仕打ちを考えると、ぞっとしてしまう。彼女らは完璧な時限爆弾をあやつっている。それも、いつだったらわたしを血まみれにできるか、そのときを決してはずすことがないのだ―つまり、わたしの最高の瞬間を狙って in meinen höchsten Augenblicken  くるのだ…。そ のときには、毒虫に対して自己防御する余力がないからである…。生理上の連続性が、こうした 予定不調和disharmonia praestabilita を可能ならしめている…。しかし告白するが、わたしの本来の深遠な思想である 「永劫回帰」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ。―」 (KSA(Friedrich Nietzsche Sämtliche Werke Kritische Studienausgabe, dtv/de Gruyter), 1980, Bd. 6, S.268)

母胎内だったら、いまだ母の性格の悪さーーというか構造的な貪り食う母(元来彼女のものであったものを奪い返す存在)ーーはしらないからな。やっぱり同じ母でも乳房じゃなくて、心音の方さ。


◆Monteverdi - L' Incoronazione di Poppea ("Adagiati, Poppea - Oblivion soave")

 


もちろん人間の声でない音楽に母の声・心音を聴く場合だってあるさ。

フルトヴェングラーは、ベートンヴェン OP.130 弦楽四重奏曲のカヴァティーナを愛したようだ。

◆FURTWANGLER & Beethoven-'Cavatina'

 


ーーそのあたりのヘボ弦楽四重奏団の演奏では失われているものがここにある(フォルテが過度ではなかったり、クレッシェンドも穏やかであったり、あるいは呼吸のとり方、テンポのずらし方…)。

もちろんグールドのラルゴだって、母の心音に近いだろうよ。

◆Bach - Keyboard Concerto No. 5 in F minor, Largo - Glenn Gould




ラルゴやアダージョじゃなくて、アンダンテだってぎりぎり母の心音さ。あなたの母のテンポにもよるし、演奏の仕方にもよるけどさ。



聴覚のような遠距離感覚でさえ、水の中では空気中よりもよく通じ、音質も違うはずだ。母親の心音が轟々と響いていて、きっと、ふつうの場合には、心のやすらぎの妨げになる外部の音をシールドし、和らげているに違いない。それは一分間七〇ビートの音楽を快く思うもとになっている。児を抱く時に、自然と自分の心臓の側に児の耳を当てる抱き方になるのも、その名残りだという。母の心音が乱れると、胎児の心音も乱れるのは知られているとおりである。いわば、胎児の耳は保護を失ってむきだしになるのだ。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」)

オレは母胎内で、心音や声だけじゃなくて血液の流れもじっくり聴いていたタイプでね・・・

◆Faure - String Quartet in Em,Op.121-02 Andante.




◆Anton Webern: 5 Sätze Für Streichquartett, Op. 5 - 4. Sehr Langsam





もっとも心音の倍速音楽だって、半分に調整しながら聴いてるのか、もともと突発的に心音が倍速になることが重なった母だったのか、それとも当地の胎児がそうであるように、妊娠中の母親がモーターバイクを乗りまくっていたのか、判然としないが、プレストだっていいさ。どうもオレはモデラートのような中途半端な速度がいけない。




ーーやあ、こういった鼻息が荒そうなオカアサンにプレスト演奏されるとウットリしちまうよ。


さて、もうすこし一般受けそしそうな、心音音楽だったら、BWV1016のアダージョなんてどうだろう? (わたくしの趣味からすると、やや速すぎる感はなきにしもあらずだが)。この曲は、だれもいまだスウィングル・シンガーズのようには魅力的に演奏していないんじゃないか(スウィングル・シンガーズ+MJQ のバッハは、ときにうるさく感じられる演奏があるが、これはMJQが慎ましく後ろに控えていてとってもよい)。

もっとも若い頃のメニューヒン兄妹のものはわるくない。

◆les swingle singers - JAZZ SEBASTIEN BACH 20/23 - Adagio: Sonata per Violino MiM BWV 1016 (1968)




やあ、バッハは何を聴いてもすばらしい。

次のも心音系だ。

バッハのロ短調ミサの最も「崇高な」箇所のひとつと少年時代思い込んでいた Crucifixus(キリストは十字架に磔にされた)が、どちらかといえば庶民的で下品な作曲家だと馬鹿にしていたヴィヴァルディ、ーーその世俗的な愛のカンタータ「泣き、嘆き、憂い、怯え」(Piango, gemo, sospiro e peno)のパクリであるのを知ったときには衝撃をうけたね(参照)。

◆J. S. Bach - Mass in B Minor BWV 232 - 14. Crucifixus (14/23)





◆Antonio Vivaldi: Piango, gemo, sospiro e peno




この「下品」ということになっているヴィヴァルディの「泣き、嘆き、憂い、怯え」が、冒頭に掲げた「高貴」ということになっているモンテヴェルディの「すべてをお忘れなさい Oblivion soave 」に劣るかどうかを判断するのは、〈あなた〉の耳しだい。

バッハはパクリの天才だった。ニーチェが、「受容の天才」、「盗みの天才」(マンフレート・エーガー)だったと同じように。

《あらゆる『創造』の九九パーセントは、音楽であれ思想であれ、模倣だ。窃盗、多かれ少なかれ意識して》(ニーチェ、遺稿)

…………

平素以上に埋葬の多い場合には収入もそれにつれて増加しますが、ライプチヒは空気がすこぶる快適なため、昨年の如きは、埋葬による臨時収入に百ターレルの不足を見たような次第です。(バッハの手紙ーーデュアメル『慰めの音楽』尾崎喜八訳より)