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2016年4月30日土曜日

吸啜・把握・エロス(中井久夫/フロイト)

原エロス対象の植民地化としてのフェラチオ」からひきつづくが、ほんとうに母の乳房が原初のエロス対象なのだろうか。

子どもの最初のエロス対象は、彼(女)を滋養する母の乳房である。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子どもは乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子どもはたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給の部分と見なす。(フロイト『精神分析概説』草稿 ――死後出版1940)

これ以外にも、フロイトの『あるヒステリー患者の分析の断片』1905 において、「性器の吸啜」やら「指啜りっ子」という言葉が出てくるなか、《唇と口腔粘膜が一次的な性感帯と見なしうることには、誰も異論を差しはさまぬだろう》とあった。

ところで、子どもがこの世に生まれでる前にも、すでに指啜りっ子であるのはよく知られている。次ぎのものは、五ヶ月の胎児の指啜りの画像である。


(Development of Fetus)



新生児には、いくつかの原始反射があるそうだが(参照:赤ちゃんの8つの原始反射)、そのなかの代表的なものは、「吸啜反射」と「把握反射」 とされる。

だが、新生児どころか、上の画像のように、わずか五ヶ月の胎児のときから「吸啜」仕草があって、その行為は、母の乳房を吸うのに先行している。

中井久夫は、《指を口にくわえることは、単に自己身体の認識だけではない。その時、指が口に差し入るのか、指が口をくわえるのかは、どちらともいえ、どちらともいえない状態である。口―身体―指が作る一つの円環が安心感を生むもとではないだろうか》としている。

この行為がエロスの原型のひとつとはいわないでおくが、指を口にくわえることは、安心感の原型のひとつであることはほぼ間違いないだろう。

フロイト宛のロマン・ロランの書簡にあった「大洋的感情」ーーフロイトがいささか皮肉をこめて『文化の中の居心地の悪さ』で論評した言葉だがーーの起源でありうる。

乳児はまだ、自分の自我と自分に向かって殺到してくる感情としての外界を区別しておらず、この区別を、さまざまな刺激への反応を通して少しずつ学んでゆく。乳児にいちばん強烈な印象を与えるのは、自分を興奮させる源泉のうちのある種のものは――それが自分自身の身体器官に他ならないことが分かるのはもっとあとのことである――いつでも自分に感情を供給してくれるのに、ほかのもの――その中でも自分がいちばん欲しい母親の乳房――はときおり自分を離れてしまい、助けを求めて泣き叫ばなければ自分のところへやってこないという事実であるに違いない。

ここにおいてはじめて、自我にたいして「客体」が、自我の「そと」にあり、自我のほうで特別の行動を取らなければ現れてこないものとして登場する。感情の総体からの自我の分析――すなわち「非我」とか外界とかの承認――をさらに促進するのは、絶対の支配権を持つ快感原則が除去し回避するように命じている、頻繁で、多様で、不可避的な、苦痛感と不快感である。

こうして自我の中に、このような不快の源泉になりうるものはすべて自我から隔離し、自我のそとに放り出し、自我とは異質で自我を脅かす非我と対立する、純粋な快感自我を形成しようとする傾向が生まれる。この原始的な快感自我の境界線は、その後の経験による修正を免れることはできない。なぜなら、自分に快感を与えてくれるという理由で自我としては手離したくないものの一部は自我でなくて客体であるし、自我から追放したいと思われる苦痛の中にも、その原因が自我にあり、自我から引き離すことができないと分かるものがあるからである。

われわれは、感覚活動の意識的な統制と適当な筋肉運動によって、自我に所属する内的なものと外界に由来する外的なものとを区別することを学び、それによって、今後の発展を支配することになる現実原則設定への第一歩を踏みだす。この区別はむろん、現実の――ないしは予想される――不快感から身を守るという実際的な目的を持っている。自分の内部に由来するある種の不快な興奮を防ぐために自我が用いる手段が、外からの不快を避けるために用いるのと同じものだという事実は、のち、さまざまの重大な病的障害の出発点になる。

自我が外界とのあいだに境界を置くようになる過程は以上のようである。もっと正確に言えば、はじめは一切を含んでいた自我が、あとになって、外界を自分の中から排除するのである。したがって、今日われわれが持っている自我感情は、自我と外界の結びつきが今より密接であった当時にはふさわしかったはるかに包括的な――いや、一切を包括していた――感情がしぼんだ残りにすぎない。多くの人々の心にこの第一次的な自我感情が――多かれ少なかれ――残っているものと考えてさしつかえないならば、この感情は、それよりも狭くかつ明確な境界線を持った成熟期の自我感情と一種の対立をなしながらこれと並んで存続するだろうし、またこの感情にふさわしい観念内容とは、無限とか一切のものと結びついているとかいう、まさに私の友人が「大洋的な」感情の説明に用いたのと同じ観念内容であろう。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』(旧訳『文化への不満』より)。

ここでのフロイトの叙述は、遺稿である精神分析概説の叙述、《疑いもなく最初は、子どもは乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子どもはたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給の部分と見なす》と重ねて読むことができる。

つまり、乳幼児が乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない状態を 「大洋的感情」の起源だとしていると読んでいいだろう。だが、中井久夫は遠回しにーーフロイトの名を出さずにーーほんとうにそうだろうか、と問うているのではないだろうか。

胎内はバイオスフェア(生物圏)の原型だ。母子間にホルモンをはじめとするさまざまな微量物質が行き来して、相互に影響を与えあっていることは少しずつ知られてきた。母が堕胎を考えると胎児の心音が弱くなるというビデオが真実ならば、母子関係の物質的コミュニケーションがあるだろう。味覚、嗅覚、触覚、圧覚などの世界の交歓は、言語から遠いため、私たちは単純なものと錯覚しがちである。それぞれの家に独自の匂いがあり、それぞれの人に独自の匂いがある。いかに鈍い人間でも結婚して一〇日たてば配偶者の匂いをそれと知るという意味の俗諺がある。

触覚や圧覚は、確実性の起源である。指を口にくわえることは、単に自己身体の認識だけではない。その時、指が口に差し入るのか、指が口をくわえるのかは、どちらともいえ、どちらともいえない状態である。口―身体―指が作る一つの円環が安心感を生むもとではないだろうか。それはウロボロスという、自らの尾を噛む蛇という元型のもう一つ先の元型ではないだろうか。

聴覚のような遠距離感覚でさえ、水の中では空気中よりもよく通じ、音質も違うはずだ。母親の心音が轟々と響いていて、きっと、ふつうの場合には、心のやすらぎの妨げになる外部の音をシールドし、和らげているに違いない。それは一分間七〇ビートの音楽を快く思うもとになっている。児を抱く時に、自然と自分の心臓の側に児の耳を当てる抱き方になるのも、その名残りだという。母の心音が乱れると、胎児の心音も乱れるのは知られているとおりである。いわば、胎児の耳は保護を失ってむきだしになるのだ。

視覚は遅れて発達するというけれども、やわらかな明るさが身体を包んでいることを赤児は感じていないだろうか。私は、性の世界を胎内への憧れとは単純に思わない。しかし、老年とともに必ず訪れる、性の世界への訣別と、死の世界に抱かれることへのひそかな許容とは、胎内の記憶とどこかで関連しているのかもしれない(私は死の受容などと軽々しくいえない。死は受容しがたいものである。ただ、若い時とは何かが違って、ひそかに許しているところがあるとはいうことができる)。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」 『時のしずく』所収)

ここには、胎内にいるときからの「母子関係の物質的コミュニケーション」の可能性、あるいは「味覚、嗅覚、触覚、圧覚などの世界の交歓」、「母親の心音」の重要性などとの叙述さえある。

《母の心音が乱れると、胎児の心音も乱れるのは知られているとおり》なら、ひょっとしたら聴覚が、エロスの原型のひとつでさえありうる。

言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」『家族の肖像』1996所収)

ここでの中井久夫の叙述に従えば、、母の声は、母の乳房より、先行している。その母の声をエロスと呼ぶべきかどうかは、わたくしには、今のところはっきりしないが。

ただし、ラカン派にて、ララングが強調されるのも、実は、この母胎の中の母の声にかかわるのではないか、とさえ思いを馳せないでもない(もっとも正統的な解釈ではもちろん、出生後の身体の出来事とその刻印にかかわるのだが)。

いずれにせよ、ララング lalangue とはまずは、喃語 lalation と関係がある。そして、喃語の起源は、中井久夫の記すように、「母胎の中で母親の言語リズム」に相違ないだろう。

我々が掴みえないこの知は、経験の審級に属する。それはララング Lalangue に影響されている。ララング、すなわち、母の舌語 la langue dite maternelle、それが謎の情動として顕現する。「話す存在」が分節化された知のなかで分節しうるものの彼方にある謎めいた情動として。(ヴェルハーゲ、2001)

母の舌語は、母胎内から始まっている。

ほかにも中井久夫は。「無時間的なものの起源」は母胎内ですごした時間としている(この表現は、上に掲げた「大洋的感情」を想起させる)。ここにもフロイトの「母の乳房」はない。

母子の時間の底には無時間的なものがある。母の背に負われ、あるいは懐に抱かれたならば、時間はもはや問題ではなくなる。父子にはそれはない。父親と過ごす時間には過ぎゆくものの影がある。長い時間の釣りでさえ、ハイキングでさえ、終わりがある。終わりの予感が、楽しい時間の終末部を濃く彩る。

友人と過ごす時間には、会うまでの待つ楽しさと、会っている最中の終わる予感とがある。別れの一瞬には、人生の歯車が一つ、コトリと回った感じがする。人生の呼び戻せなさをしみじみと感じる。それは、友人であるかぎり、同性異性を問わない。恋人と言い、言われるようになると、無時間性が忍び寄ってくる。抱き合う時、時間を支配している錯覚さえ生じる。もっとも、それは、夫婦が陥りがちな、延びきったゴムのような無時間性へと変質しがちで、おそらく、離婚などというものも、この弾力性を失った無時間性をベースとして起るのだろう。

この無時間的なものの起源は、胎内で共有した時間、母子が呼応しあった一〇カ月であろう。生物的にみて、動く自由度の低いものほど、化学的その他の物質的コミュニケーション手段が発達しているということがある。植物や動物でもサンゴなどである。胎児もその中に入らないだろうか。生まれて後でさえ、私たちの意識はわずかに味覚・嗅覚をキャッチしているにすぎないけれども、無意識的にはさまざまなフェロモンが働いている。特にフェロモンの強い「リーダー」による同宿女性の月経周期の同期化は有名である。その人の汗を鼻の下にぬるだけでよい。これは万葉集東歌に残る「歌垣」の集団的な性の饗宴などのために必要な条件だっただろう。多くの動物には性周期の同期化のほうがふつうである。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」 『時のしずく』所収)


さらに中井久夫は、乳幼児の「吸啜反射」と「把握反射」を連想させる「指しゃぶり」と「粘土を握る」ことについても、統合失調症の治療の文脈のなかでだが、次のように語っている。

患者の自傷他害についてはどう考えるのかということですが、患者さんがそういう行為に出るという場合はいくるかありますね。全然医療いかかっていない時期、つまり発病の間際に行うことが意外に多いんですが、これはおそらく自己感覚が薄れてくるからだと思います。離人症という名前がついていますし、もっと広い意味でもいいんですが、そういうとき、自己感覚を強めるためにスリルを求める。いっときは自己感覚が取り戻せます。

例えば自分の手首を切るとか、中二階から飛び降りるとか、あるいは行きずりの人を殴るということがありますが、殴るという行為の瞬間は心身が一まとまりになるのです。乱暴する瞬間はいわば皮質下的な統一があるのですね。皆さんも壁でも叩いてみるとおわかりだと思います。(……)

こういう場合にどうするかということですけどね、私が使った手段は、なんと粘土の塊を渡すことでありました。まだ駆け出しの精神科医の頃にやったんですね。何かを握っているのは実在感があるんですよ。壁を叩くよりも、粘土をこねまわしているほうが実在感がよみがえってきます。赤ちゃんが最初に子宮の中で自分を認識するのは指しゃぶりであり、自分の身体を触ることなんですよね。そのような対象に粘土を使う。何も細工しなくていんです、粘土をこねていれば。(中井久夫「統合失調症の経過と看護」『徴候・記憶・外傷』所収 PP.215-216)

もちろん粘土も母の乳房のかわりだとする捉え方もあるだろう。それは、われわれの先史時代のことであり、誰にもわからない。

だが、三歳以前の記憶が、先史時代であるなら、乳幼児期と胎児期の区別は決定的なものなのだろうか。

私たちは成人文法性成立以前の記憶には直接触れることができない。本人にとっても、成人文法性以前の自己史はその後の伝聞や状況証拠によって再構成されたものである。それは個人の「考古学」によって探索される「個人的先史時代」である。縄文時代の人間の生活や感情と同じく、あて推量するしかない。これに対して成人文法性成立以後は個人の「歴史時代」である。過去の自己像に私たちは感情移入することができる。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー 一つの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』ーー「幼虫(ラルヴァ)と成虫(イマーゴ)」)

…………

飯島耕一に

にわかにいくつか詩みたいなもの書いたんだ
こういう文体をつかんでね一応
きみはウツ病で寝てるっているけど
ぼくはウツ病でまだ起きている
何をしていいか分からないから起きて書いてる
書いてるんだからウツ病じゃないのかな
でも何もかもつまらないよ
モーツァルトまできらいになるんだ
せめて何かにさわりたいよ
いい細工の白木の箱か何かにね
さわれたら撫でたいし
もし撫でられたら次にはつかみたいよ
つかめてもたたきつけるかもしれないが
きみはどうなんだ
きみの手の指はどうしてる
親指はまだ親指かい?
ちゃんとウンコはふけてるかい
弱虫野郎め


ーー谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』より