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2016年4月20日水曜日

お父さんのようにはならないで下さいお願いだから

Not like your father!

---とラカン派女流臨床家の Geneviève Morel の ‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009、PDFで数日前読んで、刺さった槍が揺れ続けている。

幼い頃から、お父さんのようになっちゃだめよ、と母に言い続けられてきた子どもはどうなるのか。

お父さんのようにはならないで下さいお願いだから(谷川俊太郎「ザルツブルグ散歩」『モーツァルトを聴く人』)
父母の結婚は見合いであるが、お互いに失望を生んだ。父親と母親は文化が違いすぎた。そこに私が生まれてきたのだが、祖父母は、父の付け焼き刃の大正デモクラシーが大嫌いで、早熟の気味があった私に家の将来を托すると父の前で公言して、父親と私の間までが微妙になった。 (中井久夫「私が私になる以前のこと」『時のしずく』2005所収)

谷川俊太郎や中井久夫が実際にどうであったかは関係はない。わたくしが彼らの文章をそうであった人ではなかったか、と「共感」して読んだことが肝要だ。ほかにも安岡章太郎や中上健次などがある。

ところで、Geneviève Morelはこの論文で何を書いているのか。

母の舌語を学ぶことで、我々は母の享楽に遭遇する。人はその母の刻印を生涯持ち歩くかもしれない。この享楽に呑み込まれないために、我々に課された「法」ーー我々が従属している無分別で特異な法ーーから己れを分離しなければならない。

しかしこの「母の法」から分離するのは、高くつく。すなわち、我々は、分離を与えてくれる症状をでっち上げる。その症状とは、実際は、精神分析が認める唯一の普遍的法の覆いだ、すなわち近親相姦禁止の覆い(ここで、ラカンに le bouchon〔コルク栓]〕という用語があるのを想起しておこう:引用者)。したがって、この角度から見れば、症状とは避け難く「法」の病理として観察されうる。(……)

《ララング、すなわち、母の舌語 la langue dite maternelle、それが謎の情動として顕現する。「話す存在」が分節化された知のなかで分節しうるものの彼方にある謎めいた情動として。》(ヴェルハーゲ、2001ーー話す存在 l'être parlant / 話す身体 corps parlant)

法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。

事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話されている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。

そして、我々は、母の舌語のなかで、話すことを学ぶ。この言語へに没入によって形成され、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。(Geneviève Morel、2009,私訳)

彼女はセミネール17のラカンを引用している。

たんに禁止についての話の問題ではない。そうではなく、単純に母としての女の支配 である。[Il ne s'agit pas seulement de parler des interdits, mais simplement d'une dominance de la femme en tant que mère]

これだけではないが、以下は仏文のまま掲げる。

 -mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.

La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. La femme ici se présente en ce qu'elle est, comme institution de la mascarade, elle apprend à son petit à parader, le porte vers le plus de jouir, parce qu'elle plonge ses racines… elle, la femme, comme la fleur …dans la jouissance elle-même.

母の享楽の法とはなにか?


ジャック=アラン・ミレールは、次ぎのように言っている(THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)。

超自我とは、確かに、法(象徴的なもの)である。しかし、鎮定したり社会化する法ではない。むしろ、思慮を欠いた法である。それは、穴、正当化の不在をもたらす。その意味作用を我々は知らない、「一」unary のシニフィアン、S1 としての法である。…超自我は、独自のシニフィアンから生まれる形跡・パラドックスだ。というのは、それは、身よりがなく、思慮を欠いているから。この理由で、最初の分析において、我々は超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。

ミレールは「母なる超自我」( surmoi mère) ーー1938年の初期ラカンの記述を捉え直した概念ーーの問いを明瞭化するパラグラフで、こうつけ加えている。

思慮を欠いた法としての超自我S(Ⱥ) は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望とは、父の名によって隠喩化され、支配さえされする以前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。


あなたが大他者の眼差しに曝されていると感じるなら、「父の法」の人物である。あなたがもし大他者の誘惑的なに導かれてしまう傾向があるなら、父の法の彼方にある「母の法」の人物である。

……眼差しと声は、それでは、いかにして社会的領野に刻み込まれるのか。まずは、恥と罪である。過剰に視る・裸の私を見詰める〈他者〉の恥。他者たちが私について言っていることを聞くことにより引き起こされる罪。声と眼差しは、このように、超自我と自我理想の対照にかかわるのではないか? 超自我は、主体に纏いつき、主体の罪を見出す声である。他方、自我理想は、主体がその前で恥じ入る眼差しである。このようにしてトリプルな同等物の連鎖がある。「眼差しー恥ー自我理想」、そして「声ー罪ー超自我」である。(ジジェク ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012ーー精神病、あるいは「父の名の周囲のシニフィアンたちがどんどん自力で歌い出す」症状


ところで、Geneviève Morelの文に「母の享楽の聖痕」と訳した箇所は、実際は、the stigmata of her jouissance である。聖痕と訳したのはやや誇張気味かもしれない。

……この「現場に染まっている」感覚は、その後、何度もくり返し現われることで、外界と存在との特権的な一体感を語るこの小説のライトモチーフとさえなっており、そこに病的な不自然さは含まれていないかにみえるのだが、このやわらかな通底性、あるいはむしろ解放感の表現とさえうけとめるこの相互感染性は、まぎれもなく一つの宿命的な聖痕として秋幸を冒してゆくのである。というのも、たんに外界の光りや色彩のみならず、あたりにゆきかっている言葉にも感染することで、秋幸は、徐々に身動きのとれない状態へと自分を追いこむことになるからであり、その意味で、「染まりやすさ」は、積極的な資質というより、まさしくそれは、受動的な生の消耗と無関係でないばかりか、危険な徴候だとさえいえる脆い均衡であって、断じて調和ある安定性ではない。そもそも日雇いの人夫たちをてきばきと働かせ、義父の繫蔵から「組をもったら、文昭よりええ親方になる」と頼もしがられる状態そのものが、秋幸のかかえこんだ超=感染性という受動的な資質の現われにほかならず、本来であれば自死や狂気の誘惑に身をまかせても不思議ではない不幸で複雑な家系を背負ったものとしては、むしろ不自然な振舞いだとさえいうべきだろう。また、そうでない限り、『枯木灘』の物語は進展しないはずであり、だから、川の水の青さを瞳から体内にとりこみ、シャベルの先で、土の反応に自分をなぞらえようとする秋幸の振舞いは、世界の物質的な表情と快く一体化せんとするための汎神論的な恍惚の表現というより、自分には解消しがたい弱さの現われにほかならないわけだ。((蓮實重彦『小説から遠く離れて』ーー「人工的捏造物」として「聖痕」を抱えた『枯木灘』の秋幸

もうひとつ、Geneviève Morelの文のなかにある《我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている》とは、いろんな読み方があるだろう。たとえば、我々は母胎内にいるときから、母の欲望の対象である(生まれる以前から、母の、あるいは家族の象徴的物語の想像的ファルスである)。

だが、わたくしはなりよりもまず、次の文と「ともに」読む。

言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」『家族の肖像』1996所収)

…………

※附記

1、ジャック=アラン・ミレール2001より

本源的なアタッチメントは、身体の上に言語の痕跡を刻印することである。根本的出来事・情動の痕跡化の原理は、誘惑ではない。去勢の脅かしでもなく、愛の喪失でもない。両親の性交の目撃でもなく、エディプスでもない。そうではなく、言語との関係である。
情動の痕跡を生みだす出来事の総合的定義は、フロイトがトラウマと呼んだものである。トラウマ化とは、それが快原理の失敗した効果によって生みだされる限りで、快原理の規範に従って消し去りえない要素である。すなわち、トラウマは、快原理の統制の失敗を引き起こす。情動の痕跡の根本的出来事は、次のようなものだ…それは、身体のなか、精神のなかに、興奮の過剰を持続させるもの・再吸収されえないもの。我々は、ここで、トラウマ的出来事の総合的定義を得る。それは、言存在 parlêtre のその後の人生において痕跡を残すものである。

言存在 parlêtre にとって、言語への従属化はトラウマ的だ。そしてシニフィアンは、享楽と身体を結びつける。すなわち、情動を運ぶ痕跡は、現実界のなかのリビドーの固着と身体的へと享楽の局地化を構成する。
シニフィアンは、徴示する効果を持つだけではなく、身体に情動の効果を生む。我々は、「情動」という用語にあらゆる一般性を授けねばならない。それは、混乱させるもの、身体に痕跡を作るものである。情動の効果はまた、症状の効果・享楽の効果を含んでいる。そして主体の効果さえもある。だが、それは「身体」のなかに位置づけられる主体の効果であり、ただの(シニフィアン)論理の純粋効果としてではない。それが、耐久性がある効果・永続的効果であるとき、人は痕跡について正当に話しうる。 (Miller, J.-A. (2001). The symptom and the body event)  

2、フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse 、1938)よりーー1940年出版であり、死後(1939)出版。以下、英訳よりの粗訳。

子どもの最初のエロス対象は、乳幼児を哺乳する母の乳房である。愛の起源は、栄養欲求が満たされることへの愛着にある。乳幼児は最初は疑いもなく、乳房と自らの身体とのあいだの区別をしていない。乳房が身体から離れ「外部」に移行されなければならないときーー子どもはたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼は対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給の一部と見なす。

のちに乳房という最初の対象は、子どもの母という人物のなかへと統合される。その母は、子どもに哺乳するだけではなく世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子どもに引き起こす。子どもの身体を世話することにより、母は子どもにとっての最初の「誘惑者」となる。この二者関係に、母の重要性の根源がある。

人の全人生にとって、独自で、比べもののなく、変わりようもなく確立されている母の重要性。それは男女どちらの性にとっても、最初の最も強い愛-対象として、のちの全ての愛-関係性の原型としての母である。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse 、1938)よりーー英訳よりの粗訳)