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2016年1月23日土曜日

L'Autre、c'est le corps ! (大他者とは身体のことである)

L'Autre, à la fin des fins et si vous ne l'avez pas encore deviné, l'Autre, là, tel qu'il est là écrit, c'est le corps ! (10 Mai 1967 Le Seminaire XIV)

L'Autre、c'est le corps ! と要約できるだろう、すなわち大他者は身体である。L'Autre とあるのように実のところ人でなくてもよい、<他>は身体である、としたほうがよいか?

そしてこの身体とは、前期ラカンの「身体のイメージ」などとは異なる(参照:ラカンの三つの身体)。

ラカンが象徴秩序の決定的な影響を強調していたあいだは、身体は、たんなる効果、すなわち、徴示された身体 signified body 、想像化された身体 imaginarised body と考えられていた。事実、我々は、言語の効果と、この言語によって作り上げられた距離の効果としての身体を持っている。だが、いったんラカンが「現実界」を本気で取り上げたとき、別の身体が思考され始めた。それは、「身体」というシニフィアンさえも、本当はふさわしくないものだ。もし現実界が我々の出発点なら、そこで作用しているのは身体ではなく、有機体、もしくは器官である。(ポール・ヴェルハーゲPaul Verhaeghe,  (2001). Subject and Body. Lacan's Struggle with the Real)

ラカン自身の言葉をいくらか抜き出せば次の通り。

主体と器官との関係が、我々の経験の核心である。《le rapport du sujet avec l'organe qui est au cœur de notre expérience》(セミネールⅩⅠ)
主体が囚われているのは意識ではない、身体である。(ラカン「哲学科の学生への返答」)

《Ce n'est pas à sa conscience que le sujet est condamné, c'est à son corps.》(Réponses à des étudiants en philosophie sur l'objet de la psychanalyse Jacques Lacan, 1966)
もし存在を基礎づける何かがあるなら、それは間違いなく身体である。《Qu'il y ait quelque chose qui fonde l'être, c'est assurément le corps》(セミネールⅩⅩ)


とはいえ、なぜラカンの、この大文字の他者の身体的側面がほとんど注目されない(あるいは、忘れられている)のだろう。

たとえばブルース・フィンクの“THE LACANIAN SUBJECT BETWEEN LANGUAGE AND JOUISSANCE,1995”ーー『後期ラカン入門: ラカン的主体について』と題され最近日本でもようやく訳出された(2013)ーーの用語解説にはこうある。

Glossary of Lacanian Symbols

A — The Other, which can take on many forms: the treasure-house or repository of all signifiers; the mOther tongue; the Other as demand, desire, or jouissance; the unconscious; God.

ーー他Aについて、mOther tongue、jouissance とあるのが救いだが、「身体」はない。


Aは根源的他者、真の主体、そしてサンボリックの秩序の場とされる。(Wo Es war, soll Ich werden. Wo Es war, soll Ich werden. Wo Es war, soll Ich werden. Wo Es war, soll Ich werden.、向井雅明 、1995)

ーーこれも根源的他者とあるのが救いか? 

比較的評判のよい(よかった)ディラン・エバンスの“An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis”(Dylan Evans 1996)にはこうある(今でも英語のwikiには彼の定義が頻用される)。

other/Other

(autre/Autre) The ‘other' is perhaps the most complex term in Lacan's work. (……)It is the mother who first occupies the position of the big Other for the child(……)The Other is also ‘the Other sex' (S20, 40). The Other sex is always WOMAN, for both male and female subjects; ‘Man here acts as the relay whereby the woman becomes this Other for herself as she is this Other for him' (Ec, 732).

長いので途中を省略しているが、body という語彙は出現しない。

ーーと引用して、「女は女自身にとっても大他者である」、とはこれも思いの外忘れがちなので、原文を抜き出しておこう。

L'homme sert ici de relais pour que la femme devienne cet Autre pour elle-même, comme elle l'est pour lui.

<女>とは男たちと女たち両方にとって<他者>なのである。

It is the Other sex both for men and women.(The Axiom of the Fantasm、Jacques-Alain Miller

…………

以前、ツイッターでセミネールをやっている小笠原晋也氏に、他者は身体であることを掴んでいるのか、と(ややイジワルく?)質問してみたことがあるが、その応答は次ぎの通り。

2015年8月3日 @ogswrs
ところで Lacan は1966-67年の Séminaire XIV La logique du fantasme[幻想の論理学]において,他 A の場処を身体と定義します.他 A は徴象的他であり,他 A の場処は徴示素の宝庫です.では身体は徴象的なものと定義し直されたのか? 
8月4日 @ogswrs・Bonsoir, mes amis ! 身体について続ける前に,そのものとしては未読だった1966-67年の Séminaire XIV La logique du fantasme を拾い読みして気づいたことに言及しておきます.

・Miller 版が未出版の Séminaire XII から XV までについては Autres écrits に収録されている Lacan による要約を読んだだけでしたが,身体について御質問をいただいた機会に Staferla 版の XIV を部分的に読んでみました.

・そこでは jouissance という用語が単独で「禁止された悦」の意味においてしばしば用いられていました.したがって,Lacan のテクスト全体においては単独で用いられた jouissance はもっぱら剰余悦を指すと以前言ったことを撤回して,次のように言い直したいと思います:

・jouissance も,a と同様,実在,徴在,影在の重ね合わせである.影在的悦は,autoerotisch な悦です.実在的な悦は,禁止された近親相姦的な悦,つまり「性関係は無い」ことにおける不可能な悦です.そして,徴在的な悦は,目標に関して制止された昇華の悦です.


聴衆には判然としないようにうまく誤魔化しているが、おそらく思いがけない質問だったのを白状しているという錯覚にわたくしは閉じこもりえている。

しかも、《jouissance はもっぱら剰余悦を指すと以前言ったことを撤回して》とは、jouissance は「禁止された悦」ではないと一週間以上、言い張っていた結果のこの応答である(参照:メモ:ラカンのセミネールⅩⅩⅡからⅩⅩⅢへの移行(JA→JȺ))。


そもそも彼は、身体としての欲動についてまったく分かっていないように思えて仕方がない。そうでなければこんなツイートをするはずはない。

Freud が死の本能と呼んだものは,我々の学素では φ barré です.Lacan の概念では,欲望です.(2014.9.4) 

あるいは次の解釈は、ジャック=アラン・ミレールの解釈とまったく相反する(参照:資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより))。

9月13日小笠原晋也@ogswrs
『フロイトの "本能" と精神分析家の欲望とについて』にこうあります:Le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose. 「欲望は他 A に由来し,そして,悦は物の側にある」.

ここでは欲望と悦とが対置されています.Lacan の欲望の概念は Freud の本能(欲動)の概念の取り上げ直しであり,悦の概念は Lust の概念を再検討することによって作られました.Freud は,本能の満足は Lust に満ちている,と公式化しています.それに照合すれば,

悦は,欲望の満足です.ただし,全的な満足ではなく,部分的な満足です.精神分析においてかかわる「本能」は常に「部分本能」ですから.ところで,欲望の満足は客体において達成されます.さきほどの命題では Lacan は客体を「物」と呼んでいます.そして,欲望は manque à être

存在欠如,他 A の場処のなかの欠如,つまり,欠如せる徴示素ファロス φ barré です.かくして,やはり a / φ barré の構造に準拠することによって,欲望は φ barré として signifié の座に位置づけられ,悦は徴示素の座の a です.

次に,欲望は imaginaire であるか?欲望のグラフでは確かに,欲望 d は幻想 ($◊a) と対にされて imaginaire な項として措定されています.しかし,1958-59年の Séminaire VI 『欲望とその解釈』にはこの命題が見出されます:

La chose freudienne, c'est le désir. 「フロイト的な物,それは欲望である」.先ほどの命題では「物」は客体 a でしたが,ここでは違います.「フロイト的な物」は,主体の存在の真理であり,四つの言説の構造において左下の真理の座に位置します.

つまり,欲望は φ barré です.この解釈は,欲望は manque à être 存在欠如である,という命題と合致します.かくして,欲望は,imaginaire ではなく,而して,不可能としての実在 le réel である,と言わねばなりません.

ミレール解釈が絶対というつもりはないが、この欲望と享楽についての小笠原晋也氏の解釈は、わたくしには絶句ものである。

欲望と享楽との区別でいえば、欲望は従属したグループです。法を破る諸幻想においてさえ、欲望がある点を越えることはありません。その彼岸にあるのは享楽であり、また享楽で満たされる欲動なのです。(ミレール)

このミレールの解釈は、たとえば、ラカンのエクリから次ぎの文を抜き出して裏付けることができる。

La castration veut dire qu'il faut que la jouissance soit refusée, pour qu'elle puisse être atteinte sur l'échelle renversée de la Loi du désir.

いずれにせよ、これらはラカン解釈の「不幸」とでもいうべきものであり、もちろんラカンにもその原因がないわけではない。

享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「〈他者〉の享楽」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「〈他者〉の享楽」)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに汚染があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる〈他者〉the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介としての享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009、私訳)


《我々のリアルな有機体は、最も親密な異者》とあるように、ヴェルハーゲの叙述から読み取ったわたくしの今のところの理解では、フロイトのFremdkörper(異物としての身体)が核心である。


心的外傷、ないしその想起は、Fremdkörper異物〈それは、体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ〉のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』の予備報告、(1893年)
Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe " Mind your Body & Lacan´s Answer to a Classical Deadlock."、2001)

かつまた、ラカンの「サントーム」のセミネールⅩⅩⅢの、”un corps qui nous est étranger”は「異物としての身体Fremdkörper」として理解できるだろう。


l'inconscient n'a rien à faire avec le fait qu'on ignore des tas de choses quan qu'on sait est d'une toute autre nature. On sait des choses qui relèvent du signifiant. (...) Mais l'inconscient de Freud (...) c'est le rapport qu'il y a entre un corps qui nous est étranger et quelque chose qui fait cercle, voire droite infinie - qui de toutes façons sont l'un à l'autre équivalents - quelque chose qui est l'inconscient." (Seminar XXIII, Joyce - le sinthome, lesson of 11th May 1976

…………

ポール・ヴェルハーゲ PAUL VERHAEGHE の“new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex”2009がネット上から無料PDFでダウンロードすることができる(ただし、この無料版は、頁毎の画像PDFであり、文字変換する必要があるだろう)。

いくらかの箇所を何度か私訳して掲げているが、この小さな本は実に見事な書き物で(しかも冒頭近くに掲げたいくつかの専門的論文とは異なり、一般向けに記されている)、エディプス・コンプレックスとは実際は何なのか、父とは、母とは実際には何なのか、を知るだけでなく、ラカンの享楽、アイデンティティ、サントームとは何なのかを捉えるためには、またとない手引きである。

エディプス・コンプレックスの核心の問いとは何だったか。それは、アイデンティティと欲動ーーすなわち、人の欲動興奮と結合した欲望--をいかに統合するかである。主体にとって、通常の解決法は、誰か他の人に責任を負ってもらうことだ。普通は、享楽に関して女-母に。禁止に関して男-父に。

ふたたび強調しよう。このような解決法は、大部分が、底に横たわる問題を隠蔽している。それは、自身の欲動興奮の統御と結びついた、人の自己アイデンティティの獲得の問題だ。親たちとの奇妙な共謀において、精神分析家と精神分析理論は、典型的な神経症的解決法を支持してしまっている。(ヴェルハーゲ、2009)

ーーこうやって、フロイトとある時期までのラカン(1969年前後までのラカン)さえ批判にさらされる。

モーセはヤハウェを設置し、キリストも同じくヤハウェを聖なる父として設置した。ムハンマドはアラーである。この三つの宗教の書は同時に典型的な男-女の関係性を導入する。そこでは、女は統御されなければならない人格である。なぜなら想定された原初の悪と欲望への性向のためだ。

フロイトもラカンもともに、この論拠の少なくとも一部に従っている。それ自体としては、奇妙ではない。患者たちはこの種の宗教的ディスクールのもとで成長しており、結果として、彼らの神経症はそれによって決定づけられていたのだから。

奇妙なのは、二人ともこのディスクールを、ある範囲で、実情の正しい描写と見なしていることだ。他方、それは現実界の脅迫的な部分ーー欲動(フロイト)、あるいは享楽(ラカン)--の想像的なエラボレーション、かつその現実界に対する防衛として読み得るのに。

ラカンだけがこの陥穽から逃れた。とはいえ、それは漸く晩年のセミネールになってからである。私の観点からは、このように女性性を定義するやり方は、男自身の欲動の男性的投影以外の何ものでもない。それは、女性を犠牲にして、欲動に対する防衛システムが統合されたものである。(同、ヴェルハーゲ)


ラカンの英訳者としてまずは知られているだろう Russell Grigg ーーフロイト・ラカンのエディプス理論の秀逸な解釈者としても知られるーーは次ぎのように評している。

“Verhaeghe takes one of the fundamental issues in psychoanalysis, the Oedipus complex, and with the conceptual precision and clarity of exposition we have come to expect from him, effortlessly exposes the paradoxes in the work of Freud. This is a fantastic little book which brings clarification to a field where so often there has been confusion.” – 

もちろんーーくり返しておくがーー、全面的に信用する必要は毛頭ない。

…………

わたくしの理解では、ラカンの身体としての大他者、器官としての大他者は、欲動としての大他者は、アルトーの「器官なき身体」に限りなく近似している、《我々のリアルな有機体は、最も親密な異者である》、《我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで》(ヴェルハーゲ)。

人間に器官なき身体をつくってやるなら、人間をそのあらゆる自動性から解放して真の自由にもどしてやることになるだろう。(アントナン・アルトー  「神の裁きと決別するため」)
いまや勝利を得るには、語-息、語-叫びを創設するしかない。こうした語においては、文字・音節・音韻に代わって、表記できない音調だけが価値をもつ。そしてこれに、精神分裂病者の身体の新しい次元である輝かしい身体が対応する。これはパーツのない有機体であり、吸入・吸息・気化といった流体的伝勤によって、一切のことを行なう。これがアントナン・アルトーのいう卓越した身体、器官なき身体である。(ドゥルーズ『意味の論理学』「第十三セリー」)

 もっとも「有機体」や「器官」、あるいは「身体」という用語の意味内容をいささか変換して読まなければならないのは当然である。

われわれはしだいに、CsO(器官なき身体:引用者)は少しも器官の反対物ではないことに気がついている。その敵は器官ではない。有機体こそがその敵なのだ。CsOは器官に対立するのではなく、有機体と呼ばれる器官の組織化に対立するのだ。アルトーは確かに器官に抗して闘う。しかし彼が同時に怒りを向け、憎しみを向けたのは、有機体に対してである。身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要としない。身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ。CsOは、器官に対立するのではなく、編成され、場所を与えられねばならない「真の器官」と連帯して、有機体に、つまり器官の有機的な組織に対立するのだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)P182)