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2016年1月16日土曜日

セックス戦争における最大の犠牲者たち

《男たちはセックス戦争において新しい静かな犠牲者だ。彼らは、抗議の泣き言を洩らすこともできず、継続的に、女たちの貶められ、侮辱されている。》.(Doris Lessing 「Lay off men, Lessing tells feminists

ーーははあ、そうかい? 最近の若い男たちは大変だな、おい!

セクシャリティとエロティシズムの問題において、現在ーー少なくとも西側先進諸国のあいだではーーほとんど何でも可能だ。これは、この20年間のあいだに倒錯のカテゴリーに含まれる症状の縮小をみればきわめて明白だ。現代の倒錯とは、結局のところ相手の同意(インフォームドコンセント)の違反に尽きる。この意味は、幼児性愛と性的暴力が主である(それだけが残存する唯一の倒錯形式ではないにしろ)。実際、25年前の神経症社会と比較して、現代の西洋の言説はとても許容的で、かつて禁止されたことはほとんど常識的行為となっている。避妊は信頼でき安い。最初の性行為の年齢は下がり続けている。セックスショップは裏通りから表通りへと移動した。

この変貌の下で、我々は性的な楽しみの大いなる増加を期待した。それは「自然な」セクシャリティと「自然な」ジェンダーアイデンティティの高揚の組み合わせによって、である。その意味は、文化的かつ宗教的制約に邪魔されない性の横溢だ。ところがその代わりに、我々は全く異なった何かに直面している。もっとも、個人のレヴェルでは、性的楽しみの増大はたぶんある。それにもかかわらず、より大きな規模では、抑鬱性の社会に直面している。さらに、ジェンダーアイデンティティの問題は今ほど混乱したことはなかった。Paul Verhaeghe, (2005). Sexuality in the Formation of the Subject、私訳 PDF


《現在の真の社会的危機は、男のアイデンティティである、――すなわち男であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。》(Élisabeth Badinter 、ジジェク、2012より孫引き)

 ーーだってよ、

とはいえ男たちだけじゃないさ、悲惨なのは。

…抑圧的な権威の没落は、自由をもたらすどころか、より厳格な禁止を新たに生む。この逆説をどう説明するのか。誰もが子供の頃からよく知っている状況を思い出してみよう。ある子が、日曜の午後に、友だちと遊ぶのを許してもらえず、祖母の家に行かなくてはならないとする。古風で権威主義的な父親が子供にあたえるメッセージは、こうだろう。

「おまえがどう感じていようと、どうでもいい。黙って言われた通りにしなさい。おばあさんの家に行って、お行儀よくしていなさい」。

この場合、この子の置かれた状況は最悪ではない。したくないことをしなければならないわけだが、彼は内的な自由や、(後で)父親の権威に反抗する力をとっておくことができるのだから。「ポストモダン」の非権威的主義的な父親のメッセージのほうがずっと狡猾だ。

「おばあさんがどんなにおまえを愛しているか、知っているだろう? でも無理に行けとはいわないよ。本当にいきたいのでなければ、行かなくていいぞ」。

馬鹿でない子どもならば(つまりほとんどの子供は)、この寛容な態度に潜む罠にすぐ気づくだろう。自由選択という見かけの下に潜んでいるのは、伝統的・権威主義的な父親の要求よりもずっと抑圧的な要求、すなわち、たんに祖母を訪ねるだけでなく、それを自発的に、自分の意志にもとづいて実行しろという暗黙の命令である。このような偽りの自由選択は、猥雑な超自我の命令である。それは子供から内的な自由をも奪い、何をなすべきかだけでなく、何を欲するべきかも指示する。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳)

例えば、リベラル社会において、女たちは途轍もない圧迫を被っている。《彼女たちは、セックスマーケットで生き残るために、形成外科手術、美容整形、ボトックス注射(しわ、皮膚のたるみ抑制施療)などを強いられている。》(ジジェク『暴力』私訳)

これが我々の自由だ。先進国女性たちは、骨の折れる美容整形を「選択する自由」がある。

圧迫感自体が、選択の自由の仮面にて、覆い隠されている、(「なにがあなたの不満なの? あなたはどうするのか自由に選択できるのよ」)。(同 ジジェク『暴力』)

…………

◆ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012より(私訳)


【「すべては許されている」社会の不安と不能】
倒錯が示しているのは、逸脱のシンプルな論理の機能不全だ。標準的な知恵は、我々に言うだろう、倒錯者はヒステリーがやってみたいと夢見るだけのことを実際にする、と。なぜなら、倒錯においては「すべては許されている」、そして倒錯者はすべての抑圧された内容を開けっぴろげに実現するから、と。しかしそれにもかかわらず、フロイトが強調するように、倒錯におけるほど抑圧が強い場はない。我々はそれを確証する豊富な実例を持っている。我々の後期資本主義社会の現実において、すべての性的自由放任主義は、自由の代わりに、不安と不能もしくは冷感症をもたらしている。


【内容と形式との間の相違】
こうして我々は余儀なくされる、抑圧された内容と抑圧の形式のあいだの相違を区別することを。内容がもはや抑圧されなくなった後にさえ、形式はいまだ作用する。要するに、主体は抑圧された内容を十分に手に入れる。しかし抑圧は残存したままなのだ。

患者の一人によって見られた短い夢のフロイトの注釈ーーその夢を見た女性は、最初は夢を明かすのを拒絶した。「だってとっても曖昧で混乱しているから」と--、この注釈にて明らかになったのは、患者は妊娠しているがお腹の子の父親が一体全体誰だか分からないことだった(すなわち、誰が父であるか「曖昧で混乱している」)。ここからフロイトは、鍵となる弁証法的結論を引き出している。

《夢が示した不明瞭性は、夢を引き起こした材料の一部分なのであった。すなわち、材料の一部分が夢の形式に表象されたのである。夢の形式ないし夢を見る形式は、じつに驚くほどしばしば、隠蔽された内容の表象のために利用される。》(フロイト『夢判断』 下巻 高橋義孝訳 文庫 p.34からだが一部変更)

形式と内容とのあいだの裂け目は、ここでは正しく弁証法的である。それは超越論的裂け目とは対照的で、後者の要点とは次の通り。すなわち、どの内容も、ア・プリオリな形式的枠組内部に現れ、したがって我々が知覚する内容を「構成している」目に見えない超越論的枠組に常に気づいていなければならない、というものだ。構造的用語で言えば、要素とその要素が占める形式的場とのあいだの識別をしなけれならない、ということである。


【内容の一部分としての形式】
反対に、唯一正当な形式の弁証法的分析を獲得しうるのは、我々がある形式的な手続きを、(発話の)内容の一定の側面の表現として捉えるのではなく、内容の一部分の徴づけあるいはシグナルとして捉えるときである。その内容の一部分とは、明示的 explicit な発話の流れからは排除されているものだ。こうして、ここには正当な理論的要点があるのだが、我々が発話内容の「すべて」を再構成したいなら、明示的発話内容自体を超えて行き、内容の「抑圧された」側面に対する代役として振舞う形式的な特徴を包含しなければならない。
注)形式は内容の一部分であり、その抑圧された形式は回帰するという命題は、その反転によって補足すべきだろう。すなわち、内容はまた究極的には効果以外の何ものでもなく、形式の不完全性、その「抽象的な」特性の表示に過ぎない、と。


【原抑圧という取り除きえない抑圧】
(……)ここにはカントからヘーゲルへの移行の鍵となる帰結がある。すなわち、内容と形式とのあいだの裂け目は、内容自体のなかに投影される(反映し返される reflected back into)。それは内容が全てではない not all ことの表示としてである。何かが内容から抑圧され/締め出されているのだ。形式自体を確立するこの締め出しが、「原抑圧」 (Ur‐Verdrängung)である。そして如何にすべての抑圧された内容を引き出しても、この原抑圧はしつこく存在し続ける。


【彼女は母ではないです!】
これをいかに説明したらいいのか? 即座の答は、抑圧と抑圧されたものの回帰の同一性である。その意味は、抑圧された内容は抑圧以前には存在せず、まさに抑圧過程によって遡及的に構成されるというこだ。否定あるいは回避(圧縮、置換、拒絶、否認…)という異なった形式を通して、抑圧されたものは、公けの意識的発話に浸透し、その谺を見出しうるようになる(最も直接的な例はフロイトにある。それは、患者の一人が「私は夢の中のこの女性が誰だか分かりません。でも確かに彼女は母ではないです!」と言ったときだ。抑圧されたものとしての母は、こうして発話のなかに入り込む)。

我々がここで手に入れるのは、別の種類の「否定の否定」だ。つまり、内容は否定あるいは抑圧されるが、この抑圧は、抑圧されたものの回帰の見せかけのなかで、それ自体同じ仕草で否定されている(この理由で我々はここで正当なヘーゲル流の「否定の否定」を取り扱っているわけでは全くない)。この論理は、聖パウロの罪と律法との関係における論理と同様にみえる。そこでは律法がなければ罪はない。律法自身が征服しようとする逸脱を作る。したがって律法を取り除けば、律法が「抑圧」しようとしたものを失う。ーーあるいはさらにフロイト用語で言うなら、「抑圧」を取り除けば、抑圧された内容をも喪失する。



【彼女は私の母です!】
この証拠は現在の典型的患者によって提供されていはしまいか。同じ夢へのこれらの患者たちの反応は次の如しだ、「私は夢の中のこの女性が誰だか分かりません。でも確かに彼女は私の母に何らかの関係があります!」。患者はこのように言う。けれども自由はない。真理の効果もなく、主体のポジションのどんな移行もない。ーーなぜか? 「抑圧」されたままのものは何か? 抑圧された内容へのアクセスを妨害する障壁が崩壊した後にさえ居残っているものは何なのか?


【形式自体を構成する根源的な「抑圧」】
最初の答はもちろん形式自体だ。つまり肯定的形式と否定的形式(「これは私の母です」と「これは私の母ではありません」)、この両方が同じ領域内部、象徴的領域内で移行する。そして我々が焦点を絞るべきことは、形式自体を構成するより根源的な「抑圧」である。それは、ラカンが(ある点において)象徴的去勢あるいは近親相姦の禁止と呼んだものーーまさに象徴的形式を支える否定的仕草だ。したがって我々が「これは私の母です!」と言ったにしろ、母は既に失われている。すなわちこの否定的仕草が、象徴界と現実界とのあいだの最低限の裂け目を支える。(象徴的)現実と不可能な現実界とのあいだの裂け目を。


【二重化された否定によって生まれるもの】
しかしながら、我々はここで、正当的に形式と内容とのあいだの弁証法的仲介 mediation を取り扱うかぎり、原抑圧を裂け目の形式に単純に還元すべきではない。何かが(己れを)強く主張する。過剰な「内容」不可思議な肯定性、それは否定を受け入れないだけでない。それだけではなく、その何かは二重化された(自己言及的な)否定の過程によって生み出されたものだ。したがって、この何かは、単純には象徴的否定に抵抗する前-象徴的な現実界の残余ではなく、幽霊的 X ーーラカンが対象a あるいは剰余享楽と呼んだものである。


【享楽のどんな断念も、断念の享楽を生む】
ここにラカンの鍵となる区分け、快楽 (Lust, plaisir) と享楽 (Geniessen, jouissance) が作用している。「快原理の彼岸」にあるものは享楽自体、欲動それ自体である。享楽の基礎的パラドックスは、不可能であると同時に避けられらないことだ。それは決して十分に獲得されず常に欠けている。しかし同時に決して享楽から免れ得ない。享楽のどんな断念も、断念の享楽を生む。欲望することのどんな障害も、障害への欲望を生む。等々。


【抑圧の廃棄による享楽の喪失】
この反転は剰余享楽の最低限の定義を提供してくれる。それはパラドキシカルな「苦痛のなかの快楽」を伴う。すなわち、ラカンが剰余享楽 plus‐de‐jouir という用語を使うとき、人は素朴だが決定的なもうひとつの問いをしなければならない。何だろう、この「剰余」が構成しているものは? と。たんに普通の快楽の量的増大なのだろうか? と。ここでは仏語表現の曖昧さが決定的である。それは「楽しみの剰余 surplus of enjoyment」という意味があると同時に、「楽しみは何もない no enjoyment」という意味がある。単なる快楽を超えた「楽しみの剰余」は、快楽のまさに反対物、すなわち苦痛によって生み出されるのだ。苦痛は享楽の部分である。それは、ホメオスタシス、快原理が含有するものに抵抗する。それは、「抑圧」自体によって生み出された快楽の過剰だ。この理由で、我々が抑圧を廃棄したとき享楽を喪失する。


…………


【フロイトの「原抑圧」】
「抑圧」は三つの段階に分けられる。

①第一の段階は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている「固着」である。

②「正式の抑圧(後期抑圧)」の段階はーーこの段階は、精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーー実際のところ既に抑圧の第二段階である。

③第三段階は抑圧の失敗、侵入という現象、「抑圧されたものの回帰」である。この侵入とは「固着」点から始まる。そしてその点へのリビドー的展開の退行を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』からだが、英訳より摘要)
原無意識はフロイトの我々の存在の中核あるいは臍であり、決して(言語で)表象されえず、固着の過程を通して隔離されたままであり、背後に居残ったままのもの a staying behind である。これがフロイトが呼ぶところの原抑圧である。このフロイトの臍が、ラカンの欲動の現実界、対象aだ。(Paul Verhaeghe, Beyond Gender. From Subject to Drive,2001,私訳)


【原症状としての対象a】
対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。

固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な性質をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは「純化された症状」の問題である。すなわち、《象徴的な構成物から取り去られたもの、言語によって構成された無意識の外側に外ー存在するもの、純粋な形での対象a、もしくは欲動》である。(J. Lacan, 1974-75, R.S.I., in Ornicar ?, 3, 1975, pp. 106-107.)

症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の個別の享楽を明示する。「私は、皆が無意識を楽しむ方法にて症状を定義する。彼らが無意識によって決定される限りに於て。“Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine”」ラカンは対象aよりも症状の概念のほうを好んだ。性関係はないという彼のテーゼに則るために。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)

ラカンは言明している、主体は二つの条件のみで享楽を経験し得ると(S.17)。その二つとは、享楽は刻印されなければならず、反復はその刻印を中心に置かねばならないということだ。

この理屈の胚芽はフロイトに見出される。彼はどの母親も子どもを世話するとき「誘惑する」と言っている。事実、世話をする行為は、常に身体の境界領域であり、享楽がある場と同じである(口唇、肛門、性器、肌、目、耳)。

セミネールXX(アンコール)で、ラカンは「享楽の実体」としてのリアルな身体を叙述しているp. 23。享楽の初期の経験(侵入)は同時に身体の上の刻印であると(p. 89)。(new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex、PAUL VERHAEGHE 2009)

※上に掲げたジジェクの「剰余享楽」としての対象aと、ここでヴェルハーゲのいう原症状としての対象aの意味は異なることに注意しておこう → 「対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa)


…………

 ところで、このなんでも許される社会において、男と女の基本構造は変わったんだろうか。

ーーどうでしょうか、ニーチェ先生? 《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」ということである》(『ツァラトゥストラ』)

男は自分の幻想の枠にフィットする女を欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底的に男のなかに疎外する(男のなかに向ける)。女の欲望は男に欲望される対象になることである。すなわち男の幻想の枠にフィットすることであり、女は自身を、他者の眼を通して見ようとするのだ。“他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?” という問いにたえまなく煩わせられている。しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ないのだ。というのは彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、ギャップ自体、パートナーからの距離なのだから。そのギャップ自体に、女性の享楽の場所がある。(ジジェク、2012,私訳)
男がカフェに坐っている。そしてカップルが通り過ぎてゆくのを見る。彼はその女が魅力的であるのを見出し、女を見つめる。これは男性の欲望への関わりの典型的な例だろう。彼の関心は女の上にあり、彼女を「持ちたい」(所有したい)。同じ状況の女は、異なった態度をとる(Darian Leader(1996)。彼女は男に魅惑されているかもしれない。だがそれにもかかわらずその男とともにいる女を見るのにより多くの時間を費やす。なぜそうなのか? 女の欲望への関係は男とは異なる。単純に欲望の対象を所有したいという願望ではないのだ。そうではなく、通り過ぎていった女があの男に欲望にされたのはなぜなのかを知りたいのである。彼女の欲望への関係は、男の欲望のシニフィアンになることについてなのである。(Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE ,私訳) 
男児はジェンダー的な意味での最初の愛の対象を維持できる。彼はただ母を他の女性に取り替えるだけでよい。これは次の奇妙な事実を説明してくれる。つまり結婚後しばらくすれば、多くの男たちは母に対したのと同じように妻に対するということを。

反対に、女児は愛の対象のジェンダーを取り替えなければならない。具体的にいえば、最初の愛の対象であった母を父に取り替えなければならない。最初の愛の関係の結果、女の子はいままでどおり母に同一化しており、それゆえ父が母に与えたのと同じような愛を父から期待する。これは同じように奇妙な次の事実を説明してくれる。多くの女たちは妻になり子供をもったら、女たち自身の母親のように振舞うということを。(同 ヴェルハーゲーー「古い悪党フロイトの女性論」)

ーー男が最初から赤子を養育するようになりさえすれば、男女の構造は変わるさ、最初の愛の対象が母でなくて、父ならな。

→「あの女さ、率先してヤリたがったのは(倒錯者の「認知のゆがみ」機制)