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2016年1月30日土曜日

「言い得ぬもの」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない

主体性の空虚 $ は、「言い得るもの」の彼岸にある「言い得ぬもの」ではない。そうではなく、「言い得るもの」に固有の「言い得ぬもの」である。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,p.55 原文PDF)
何が主体を分割するのか? ラカンの答は、シンプルかつラディカルである。すなわち、それは(象徴的)アイデンティティだ。異なった精神構造(神経症、精神病、倒錯)のあいだで分割されるよりも先に、主体はすでに分割される。一方で、そのコギトの空虚(言表行為の厳密な純粋主体)と、他方で、大他者のなかに或は大他者にとっての主体を同一化する象徴的特徴(他のシニフィアンに対して主体を表象するシニフィアン)ーー、この二つのあいだで分割される。 (同上、ジジェク、2012,p.488)

ジジェクはここで何を言っているのか。ロレンツォ・キエーザの叙述が理解の助けになる。

父性隠喩が成立する以前に、言語(非統合的 nonsyntagmatic 換喩としての)は既に幼児の要求を疎外している。(……)

幼児が、最初の音素を形成し、自らの要求を伝え始めるとき、疑いもなく、ある抑圧が既に起こる。彼の要求することは、定義上、言語のなかに疎外される。…その要求は、必ず誤解釈される。したがって、常に増え続ける欲求不満に陥るよう運命づけられている。(ロレンツォ・キエーザ 『主体性と他者性』Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness、2007)

たとえば、乳幼児は、「寒い、温めて!」と喃語で要求したのに、母はお腹が減ったと誤解釈する。

人はこのように「言語」を使用することによって、「疎外」される。「言い得ぬもの」は、象徴界(快原理)の彼岸にあるのではなく、言語固有のものだ。こうして、$(分割された主体の空虚)は、《「言い得るもの」に固有の「言い得ぬもの」》だ、と語られることになる。これは言語を使用する人間の宿命である。

これは前回引用したが、現実界は、象徴界(言語)の行き詰まり・非一貫性にしかない、という考え方と同じことを言っている。

われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK、LESS THAN NOTHING、2012)
現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからだ。存在(現実)being (reality) があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためだ。というのは、現実界 the Real は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者的」重要性を与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり、よろめいたりするというだけではない。そうではなく、現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 (同ジジェク、2012)

今、2012年の書から抜き出したが、ジジェクは90年代の半ばからすでに同じことを言っている。

象徴界と現実界を分ける棒線は、厳密に象徴界の内部のものである。というのは、その棒線が、象徴界が「それ自身になる」のを妨げるのだから。シニフィアンにとっての問題は、現実界に触れ得ないことではなく、「それ自身に到達する」ことが出来ないことだ。シニフィアンに欠けているものは、特別な言語の対象ではなく、「シニフィアン」自身、棒線を引かれない、何物にも邪魔されない〈一者〉である。(ジジェク『為すところを知らざればなり』For They Know not What They Do; Enjoyment as a Political Factor - Slavoj Žižek 1996 私訳)
 ※ここにある「棒線」の議論は、「“A is A” と “A = A”」を参照のこと。

単純化するために、最初に私のテーゼをプレゼンしよう。大衆的な紹介、ことさらフェミニストによるラカンの紹介では、ふううこの公式にのみ焦点があてられこう言うんだな、「そうだわ、女たちのすべてが、ファリックな秩序(象徴秩序)に統合されるわけじゃないわ。女のなかには何かがあるのよ、まるで片足はファリックな秩序に踏み込み、もう一方の足はミステリカルな女性の享楽に踏み込んでいるのよね、それが何だかわからないけれど」。私のテーゼは、とても単純化して言うなら、ラカンの全体の要点は、われわれは女を統合化できないから、例外がないということなんだ。だから、別の言い方をすれば、男性の論理の究極の例は、まさに、女性のエッセンス、永遠の女性は、象徴秩序の外に除外されている、彼岸にあるという考え方なんだな。これは究極的な男性の幻想だね。そして、ラカンが「〈女〉は存在しない」というとき、私はまさにこう思うのだな、すなわち、象徴秩序から除外された言葉にあらわせない神秘的な「彼岸」こそが存在しない、と。わかるかい、私の言っていることが?(Zizek Connectionsof the Freudian Field to Philosophy and Popular Culture、1995,ーー「象徴界(言語の世界)の住人としての女」)


ほかの言い方もある。現実界は超越的ではない、つまり象徴界の彼岸にあるものではなく、超越論的(横にずれる場、アンチノミー)にある、と。

最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesaーー超越論的享楽(Lorenzo Chiesa))

これは、「現実界は分節化された象徴界の内部に外立ex-sistする」(Paul Verhaeghe)ということでもある。

現実界 [ le réel ] は外立 [ ex-sistence]である。(ラカン、Séminaire XXII R.S.I. 1975年2月18日)

※外立 [ ex-sistence]については、「ラカンのExtimité とハイデガーのExsistenz」を参照のこと。


これらは、柄谷行人によるカントの物自体解釈と同じである、すなわち、《物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない》。

『純粋理性批判』を出版した後、カントは、同書における記述の順序に関して、現象と物自体という区分について語るのは、弁証論におけるアンチノミーについて書いてからにすべきだったと述べている。

実際、現象と物自体の区別から始めたことは、彼のいわんとすることを、現象と本質、表層と深層というような、伝統的な思考の枠組みに引き戻す結果を招いてしまった。カント以後に物自体を否定した者は、そのようなレベルで考えているのである。また、ハイデガーのように物自体を擁護した者はそれを存在論的な「深層」として見いだしている。

しかし、物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。それは自分の顔のようなものだ。それは疑いもなく存在するが、どうしても像(現象)としてしか見ることができないのである。したがって重要なのは、「強い視差」としてのアンチノミーである。それのみが像(現象)でない何かがあることを開示するのだ。

カントがアンチノミーを提示するのは、必ずしもそう明示したところだけではない。たとえば、彼はデカルトのように「同一的自己」と考えることを、「純粋理性の誤謬真理」と呼んでいる。しかし、実際には、デカルトの「同一的自己はある」というテーゼと、ヒュームの「同一的自己はない」というアンチテーゼがアンチノミーをなすのであり、カントはその解決として「超越論的主観X」をもちだしたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』p81ーー

もちろん、カントの物自体やハイデガーの外立 Exsistenz の異なった解釈もあるのは言うまでもない。