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2015年12月22日火曜日

わが仏尊しと地獄の釜の蓋

またきみか? もうオレはラカンはしばらくおりるつもりだからさ、--たぶん四つの言説理論くらいはいつまでも生き残るだろうが、他は専門家ではないのだから、あまりもうゴタゴタ言いたくないというのがあるーー、いずれにせよ、すこし前記したことと見解はなにも変わっていない。

文句があるなら、ほかにどういう立場があるのか、逆に教えてくれないかね?

…………

理論というものは、その信奉者を「わが仏尊し」といわせるように追い込む性格を持っている。これはそれだけで陥穽である。精神療法家も、この陥穽を免れるとは限らない。実際、いかに平凡な事実ながら、おのれの対象の重大性を、すべての専門家はそれぞれ強調するものである。さらに、治療者の場合、対象とする事態の悲劇性を過度に感受することも、悲劇の実現性を高める副作用を持つであろう。(中井久夫「分裂病の陥穽」1992年初出『家族の深淵』所収)
サリヴァンは、フロイトがあれほど讃美した昇華を無条件な善ではないとして、それが代償的満足である以上、真の満足は得られず、つのる欲求不満によって無窮動的な追及に陥りやすいこと、また「わが仏尊し」的な視野狭窄に陥りやすいことを指摘している。それは、多くの創造の癒しが最後には破壊に終る機微を述べているように思われる。 (中井久夫「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」初出1996『アリアドネからの糸』所収)

で、やはり理論の(無批判に近い)信奉者はヤバイのだよ、私はラカンに転移しています、などと「留保なしに」公言しているオッチャンはとくにな。

Lacan を読むためには,Lacan を愛していることが必要です.聖書を読むためには,神を愛していることが必要です.「愛している」,つまり転移において初めて,テクストは単なる文字の羅列ではなく,生きた言葉として語り始めます.(小笠原晋也ツイート、2015年04月12日)

もちろんこのツイート自体だけを取れば、間違いではない。

最初に、教えること。教育とは、要するにつねに送り届けるシニフィアンpassing signifiers、知の過程ということになる。教師から生徒への、である。この送り届けることは、陽性転移があるという条件の下でのみ効果的である。人は愛する場所で学ぶ。これは完全にフロイト派のタームで理解できる。主体は〈他者〉のシニフィアンに自らを同一化する。すなわち、この〈他者〉に陽性転移した条件の下に、この〈他者〉によって与えられた知に同一化する。ラカン派の観点からなら、この同一化はつねに疎外である。〈他者〉によってもたらされたシニフィアンを取り入れることは、主体を、存在論的に、自らの異邦人strangerに変える。この疎外は、獲得と喪失をともに意味する。もちろん知の獲得がある。しかしこの過程はよりいっそう先に進む。主体によって取り入られた数々のシニフィアンに依存することによって、その外的な現実が同様に成長する。というのは、この現実は、まさに象徴的秩序によって決定づけられたものだからである。他方、われわれは喪失に捉われる。それは構造的に決定づけられており、先ずは現実界にかかわる。さらに具体的にいえば、存在-の-喪失"le manque-à-être"にかかわる。次に象徴界である。より具体的に言えば選択の喪失である。すなわち自らの欲望は〈他者〉の欲望につねに疎外される。

これらの影響は生徒たちに適用される。教えることは、避けがたく、結合と集団の形成の効果をもたらす。そこではおのおのの個性ある主体が消滅する。教師にとっては、教えるという行動、――シニフィアンを生み出すことーーは、避けがたく、彼の知の限界に直面する。かつまた言語化を超えて横たわる真理の部分に直面する。これが、教えることは不可能な職業だと考えられる構造的な理由である。(「教えることと精神分析」Paul Verhaegheーーラカンの四つのディスクール論

だが彼には文字通り「前科」があるわけでね。

・わたしが殺人罪で服役した経歴を持ちながらも敢えて精神分析家として仕事を続けるのは,精神分析がわたしの lifework だからです.Lifework とは,存在 barréが請求していることです.

・他殺であれ自殺であれ,それは,死そのものである φ barré が a を破壊し,呑み込んでしまうことです.わたしは身をもってその極限状態を経験しました.文字どおり,突然足もとに穴が開いて,そこに呑み込まれてしまう感覚でした.実存構造の突然にして急激な解体が起きた場合,そのようなことが起こり得ます.

かつまた、ラカン理論を根本的に捉え損なっているいるように、わたくしには見える、ーー それについては、「旧態依然の破廉恥な精神分析家」に批判の対象の固有名詞を掲げずに書いた。

肝腎な点はラカンの「主体の解任destitution subjective」の捉え方だ。これは一歩間違えると地獄の釜の蓋を開けっ放しになる。

フロイトは、エロスという性(生)への傾斜とともに「タナトス」という死への傾斜を人間の心の深層にかいま見たけれども、このフロイトの「タナトス」は、どうも血の匂いのする、攻撃性の基盤になるようなイメージのものではなかろうか。それは強迫という現象と結びつけてフロイトが考えたからであろう。一般に強迫症的な取り澄ましたきちんとした表層の一枚下には血みどろの幻想が渦を巻いている。うっかり精神分析でこの地獄の釜の蓋を開けないようにという警告が精神療法家の間では行き渡っている。(中井久夫「きのこの匂いについて」1986初出『家族の深淵』所収)
最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」2006初出『日時計の影』所収 )


「地獄の釜の蓋」を開けるとは次ぎのようなことを意味するとわたくしは理解している。専門家ではないわたくしの理解であり、誤解があるかもしれないことは断わっておこう。

◆「エディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論」より
精神分析による治療は抑圧を除去し、裸の欲動の固着を露わにする。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq).2002)
ラカンは、分析は終結する、ということをはっきりと確信していた。…精神分析は結局のところ治癒不可能なものを前景化させてしまうことになる。しかしラカンは、逆説的にも、症状のこの治癒不可能な部分…を肯定し、これこそが分析の終結を可能にすると考える(松本卓也『人はみな妄想する』)

…………

で、ラカン理論尊しのラカン派、とくに前中期のラカン理論で固まってしまっているように見受けられるあの人物は、下にロレンツォが驚くべき誤解として掲げる《半永久的な「主体の解任 subjective destitution」》を主張しているわけではないだろうが、無からの創造などと文学的=神学的に主張することに終始していて、ほとんど具体性がない。

小笠原晋也@ogswrs さらに,救済と無関係のように見えますが,もうひとつ:無からの創造.また,罪の赦しは,対立ないし差異の和解とも言い換えられます.死からの復活,罪の赦し(差異の和解),無からの創造:それらは,キリスト教だけでなく,精神分析の究極目標です.そしてそれらをすべて包括する語が「救済」です.2015年10月27日(火)

肝腎なのはヴェルハーゲの次の見解であるはずだ。

(これはまた)精神分析実践の目標が、人を症状から免がれるように手助けすることではない理由である。正しい満足を見出すために症状から免れることではない。目標は享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置 install することだ。(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009ーーエディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論

ヴェルハーゲはミレール派ではないが、ミレール派もこの点については同様と、わたくしは読む→①《症状のない主体はない》(ラカン)、②「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない」


以下、ロレンツォ・キエーザの凡庸なラカン派への罵倒文。


◆「象徴界のなかの再刻印・再象徴化(ジョイス=サントーム)」より

ここで、私はことさら強調しなければならない、ラカンが JȺ ーーそれを彼はまた名高いサントームとも呼んでいるーーの出現と、現実界の名付け、かつ享楽の徴付けmarkingの話を結びつけて考えていることを。これは長いあいだ据え置かれたままの問いだった。これが関わっているのは、主体が象徴界のなかに再刻印すること、そして象徴界の再象徴化a reinscription in and a resymbolization of the Symbolic を成し遂げるやり方である。それは主体が〈他者〉におけるリアルな欠如 Ⱥ を一時的に引き受けた後のことだ。ラカンにとって、ジョイスは実に“Joyce-le-sinthome.”だった。

もし一方で、ジョイスが「シンボルを破棄した」こと…が本当なら、他方、それは同様に当てはまるのだ、(人の現実界の名付けとしての)「サントームとの同一化」、ーーラカンが精神分析の目標としての最後の仕事において提唱したそれーーは決して半永久的な「主体の解任 subjective destitution」、精神病的な象徴界の非機能 nonfunctioning にはならないことが

このような誤った結論に対して、私は次のことを強調しなければならない。

(1) ジョイスはーーDarian Leader によって提案された公式を採用するならーー「引き金を引かれていない non-triggered」精神病である。彼はもともと神経症と精神病との「どっちつかずの in between」状態にあった。そして引き続いて(部分的な)個人化された象徴界をなんとか生み出した。

(2) 神経症者はいつかは彼らのイデオロギー的症状ーー支配的な根本的幻想によって課された享楽ーーを非精神病的サントームに変えることができる。無論「幻想の横断」を経た時の話である。すなわちそれは、象徴界からの「分離」の瞬間、そしてそれに引き続いた過程、新しい個人的な「主人のシニフィアン S1」を通した象徴的再刻印の過程による。これがまた意味するのは、ジョイスははっきりとした「精神病者」ではなかったにもかかわらず、彼はもともとどんな「根本的幻想の横断」をする必要なかったということだ。

神経症者と異なり、ジョイスは既に象徴界から分離されていた。その代わりに、彼は彼を基礎づける主人のシニフィアン S1を創造する必要があった。 ( 『Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 』2007 )

ところできみはあのおっちゃんに転移気味じゃないのかね?

オレは中井久夫のように、私の見解を信じ込んではいけない、というメッセージを常に送ってくれる作家に「転移」する程度の凡人だからな

まことに、わたしは君たちに勧める。わたしを離れて去れ。そしてツァラトゥストラを拒め。いっそうよいことは、ツァラトゥストラを恥じることだ。かれは君たちを欺いたかもしれぬ。(ニーチェ)

きみは、せいぜい神の救済とか存在論的深淵とかなんたらとまぐわっていたらいいのだよ、そうすれば答えが見つかるらしいからな

中井久夫先生の或る文章に関連して御質問をいただきましたが,あの手の心理学的言説に捕らわれないようにしましょう.そこにおいては適切に問いを立てることができませんから,答えも見つかりません.(小笠原晋也、2014.6.04)

ハイデガー信者のあのおっちゃんの「存在論的深淵」なるものが寝言系である(ありうる?)のは、「“A is A” と “A = A”」などでいくらか触れた。

まあ好きなようにしてくれたまえ! オレはごめんこうむる、というだけさ、最近はツイートもみてないからな、

というわけで、アバヨ!