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2015年12月4日金曜日

本当ノ事ヲイオウカ

「原発批判を口にしている私自身の心理の奥底に、原子力事故の到来を歓迎する危険な心理が潜んでいることを、私は正直に告白します。平生から〈きっと事故が起こる〉と警告している者にとっては、事故の発生はアタリですから〈それみたことか〉と快哉を叫びたくなる気持ちは抑えがたいものがあります。きわめて不道徳なことであることは百も承知でありつつも、危篤状態の大内さん〔臨界被曝したJCOの職員 〕の容態が持ち直すことを望まない心理すら、私自身の内部で頭をもたげることがなかったとはいえない。自分の手落ちで人が瀕死におちいればワラにもすがる思いで回復を神に祈るにちがいありませんが、自分自身に落ち度がなく〈向こう側〉の失策であるという事情が、つい良心を鈍らせます。これは俗人の業のようなものかもしれません。」(清水修二『臨界被曝の衝撃』、2000年)

「私は正直に告白します。シリア空爆をしている国々やその仲間たちの国で、テロ事件がふたたび発生するのを期待していることを」


ーーオレハ本当ノ事ヲイッタ

鳥羽1 谷川俊太郎

何ひとつ書く事はない
私の肉体は陽にさらされている
私の妻は美しい
私の子供たちは健康だ

本当の事を云おうか
詩人のふりはしているが
私は詩人ではない

私は造られそしてここに放置されている
岩の間にほら太陽があんなに落ちて
海はかえって昏い

この白昼の静寂のほかに
君に告げたい事はない
たとえ君がその国で血を流していようと
ああこの不変の眩しさ!

ーー「本当ノ事ヲイッタ〈私〉」は、そこの〈あなた〉のことでもあるのをわたくしはよく知っている。

2001年9月11日後の数日間、われわれの視線が世界貿易センタービルに激突する飛行機のイメージに釘づけになっていたとき、誰もが「反復強迫」がなんであり、快楽原則を越えた享楽がなんであるかをむりやり経験させられた。そのイメージを何度も何度も見たくなり、同じショットがむかつくほど反復され、そこから得るグロテスクな満足感は純粋の域に達した享楽だった。(ジジェク『 〈現実界〉の砂漠へようこそ』)

とはいえ上の「本当ノ事ヲイッタ」はごくごく常識的な(?)本当ノ事だ
本当の「本当ノ事」をいったなら、「まったく出口なし」になる、
ーーそういったたぐいの本当ノ事ではまったくない。

〈あなた〉には出口なしになる「本当ノ事」はあるか?

……それからかれは、ニューヨークで僕の友人におなじ言葉を話したのは、この声によってだったにちがいないと思わせる声で、

「本当の事をいおうか」といった。「これは若い詩人の書いた一節なんだよ、あの頃それをつねづね口癖にしたいたんだ。……その本当の事は、いったん口に出してしまうと、懐にとりかえし不能の信管を作動させた爆裂弾をかかえたことになるような、そうした本当の事なんだよ。蜜はそういう本当の事を他人に話す勇気が、なまみの人間によって持たれうると思うかね?」

「本当の事をいおうか、と絶体絶命のところで決意する人間はいるだろう。しかしかれは、その本当の事をいったあと、殺されもせず、自殺もせず、発狂して怪物になることもなしに、なお生きつづける方途を見つけだすだろうさ」と僕は鷹四の不意の饒舌の意図を模索しながら反駁した。

「いや、そこが不可能犯罪的に困難なところだ」とこの命題を永く考えつづけてきたことの明瞭な断乎たる口調で鷹四は僕の思いつきの意見を一蹴した。「もし、本当の事をいってしまった筈の人間が、殺されもせず自殺もせず、なんだか正常の人間とはちがう極度に厭らしく凶々しいものに変ることなしに、なお生きつづけることができたとしたら、それは直接に、かれがいってしまった筈の本当の事が、じつはおれの考える意味での、発火しつつある爆発物みたいな本当の事とは違うものであったことを示すだけなんだ。それだけだよ、蜜」

「それでは、きみのいわゆる本当の事をいった人間は、まったく出口なしというわけかい?」とたじろいで僕は折衷案を提出した。「しかし作家はどうだろう。作家のうちには、かれらの小説をつうじて、本当の事をいった後、なおも生きのびた者たちがいるのじゃないか?」

「作家か? 確かに連中が、まさに本当の事に近いことをいって、しかも撲り殺されもせず、気狂いにもならずに、生きのびることはあるかもしれない。連中は、フィクションの枠組でもって他人を騙しおおす。しかし、フィクションの枠組をかぶせれば、どのように恐しいことも危険なことも、破廉恥なことも、自分の身柄は安全なままでいってしまえるということ自体が、作家の仕事を本質的に弱くしているんだ。すくなくとも、作家自身にはどんな切実な本当の事をいうときにも、自分はフィクションの形において、どのようなことでもいってしまえる人間だという意識があって、かれは自分のいうことすべての毒に、あらかじめ免疫になっているんだよ。それは結局、読者にもつたわって、フィクションの枠組のなかで語られることには、直接、赤裸の魂にぐさりとくることは存在しないと見くびられてしまうことになるんだ。そういう風に考えてみると、文章になって印刷されたものの中には、おれの想像している種類の本当の事は存在しない。せいぜい、本当の事をいおうか、と真暗闇に跳びこむ身ぶりをしてみせるのに出会うくらいだ」(大江健三郎『万延元年のフットボール』文庫p.229-230)