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2015年12月20日日曜日

「ヒペルムネジー」(過剰記憶)

エリオットは、詩の意味とは、読者の注意をそちらのほうにひきつけ、油断させて、その間に本質的な何ものかが読者の心に滑り込むようにする、そういう働きのものだと言っているそうだが(中井久夫による)、これはハタと膝を打ちたくなるような定義だ。

詩はなんというか夜の稲光りにでもたとえるしかなくて
そのほんの一瞬ぼくは見て聞いて嗅ぐ
意識のほころびを通してその向こうにひろがる世界を

(谷川俊太郎「理想的な詩の初歩的な説明」より)
人生の通常の経験の関係の世界はあまりいろいろのものが繁茂してゐて永遠をみることが出来ない。それで幾分その樹を切りとるか、また生垣に穴をあけなければ永遠の世界を眺めることが出来ない。要するに通常の人生の関係を少しでも動かし移転しなければ、そのままの関係の状態では永遠をみることが出来ない。(西脇順三郎「あむばるわりあ あとがき(詩情)」より)

中井久夫の詩(と散文)の定義、《詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、散文とはその図式的側面を主にした使用である》もエリオットの定義の変奏とすることができるだろう。

もちろん散文にも詩的散文というものがある。ふつうの散文にみえるようなものでさえ、そこに徴候を読むときもあるし、図式的にしか読まない場合もある。

午前一時。皆、寝静まりました。カフェー帰りの客でも乗せているのでしょうか、たまさか窓の外から、シクロのペダルをこぐ音が、遠慮がちにカシャリカシャリと聞こえてくるほかは、このホテル・トンニャット全体が、まるで深海の底に沈んだみたいに、しじまと湿気とに支配されています。(辺見庸『ハノイ挽歌』)

ごくふつうの散文に読めるかもしれない。だが、わたくしはまず最初に固有名詞に惹かれた、シクロ、ホテル・トンニャット、ハノイと。比較的馴れ親しんだ思い出がある名だからだ。なんだか魅力的な文章だな、オレには、とまずは感じる。

次に読み返してみる、かすかに呟くようにして。

すると、「シクロ」、「深海」、「沈んだ」、「しじま」、「湿気」、「支配」、あるいは「寝静まり」の、シ音が心地よい。「カフェー帰り」、「客」、「遠慮がちにカシャリカシャリ」も「カ」音の連鎖もある。

とはいえ、こういうことに気づくのは、文学のたいした読み手ではまったくないわたくしには偶然であることが多い(はずだ)。

……それをしかとききとるために、私は仮面=人間〔マスク〕たちがまわりでがやがややっている会話の雑音をきかないようにつとめなくてはならなかった…… (プルースト「見出された時」)

たまたまわたくしの心に滑りこむようにして--おそらくシクロなどの固有名詞に触発されーー、意味の雑音をきかない僥倖にめぐまれ、詩人辺見庸の声の悦楽を聴きとりえただけだ。

ここで告白しておくが、多くの詩好きが(とくに最近は)称賛する宮澤賢治がわたくしにはいまひとつなのだ、美しい詩句がないではない。だが彼の詩を読んでいると、どこかぎこちなくなって立ち止まってしまい長くは読み進められない。明らかに賢治の影響を受けている中原中也は好むのに。

彼は幸福に書き付けました。とにかく印象の生滅するままに自分の命が経験したことのその何の部分だつてこぼしてはならないとばかり。それには概念を出来るだけ遠ざけて、なるべく生の印象、新鮮な現識を、それが頭に浮ぶままを、--つまり書いている時その時の命の流れをも、むげに退けてはならないのでした。(……)彼にとつて印象といふものは、或ひは現識といふものは、勘考さるべきものでも翫味さるべきものでもない、そんなことをしてはゐられない程、現識は現識のままで、惚れ惚れとさせるものであつたのです。それで彼は、その現識を、出来るだけ直接に表白さへすればよかつたのです。(中原中也「宮沢賢治の死」昭10.6)

そして最近の若い詩人暁方ミセイもひどく好むのに(彼女は明らかに賢治の影響を受けているはずだ)。

不安がもだえそうに淡い炎がゆだっている
道端の青い小さな花を煮る六月十日は、
(ひそひそと話をしている)
(柑子の木のあたり、雨に濡れそぼって、ふたりで、小声で)
(おおそのうえ古語で、)
(聞き取れない話をしている。雨の庭の古い濡れた柑子の木のあたりで)
((ちがうよ、あれは鳩だよ))
(人の様な、くぐもってずっと話している。何十羽もいる。)
何十羽も鳩がいる。茂みのなかで鳴いている。
遠く潰れた緑のうえに、
誰かの面影が、こんもりと盛られて、動かないでいる。
今は時々きらっと反射して、
もうすぐ隠れて
見えなくなる。
暁方ミセイ「極楽寺、カスタネアの芳香来る」より)

ーー何度も引用しているが、なんとステキな詩だろう、過剰な繊細さの息吹に圧倒されつつも若い女性のやわらかな人恋しさの感覚がわたくしの心に滑り込んでくる。

話をもどせば、また次ぎのようなこともある。詩や散文があなたの眼にあう眼鏡ではない、ということが。

私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレーのめがね屋が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段を提供する、そういうものでしかないだろうから。

したがって、私は彼らに私をほめるとかけなすとかいうことを求めるのではなくて、私の書いていることがたしかにその通りであるかどうか、彼らが自身のなかに読みとる言葉がたしかに私の書いた言葉であるかどうかを、私に告げることを求めるだけであろう(その点に関して、両者の意見に相違を来たすこともありうる、といってもそれは、かならずしも私がまちがっていたからそういうことが起こるとはかぎらないのであって、じつはときどきあることだが、その読者の目にとって、私の書物が、彼自身をよく読むことに適していない、ということから起こるのであろう)。

本を読むとき、読者はそれぞれに自分自身を読んでいるので、それがほんとうの意味の読者である。作家の著書は一種の光学器械にすぎない。作家はそれを読者に提供し、その書物がなかったらおそらく自分自身のなかから見えてこなかったであろうものを、読者にはっきり見わけさせるのである。書物が述べていることを読者が自分自身のなかに認めることこそ、その書物が真実であるという証拠であり、すくなくともある程度、その逆もまた真なりであって、著者のテキストと読者のテキストのあいだにある食違は、しばしば著者にでなくて読者に負わせることができる。

さらにつけくわえれば、単純な頭の読者にとって、書物が学問的でありすぎ、難解でありすぎることがある、そんなときはくもったレンズしかあてがわれなかったように、読者にはよく読めないことがあるだろう。しかし、それとはべつの特殊なくせ(倒錯のような)をもった読者の場合には、正しく読むために一風変わった読みかたを必要とすることもあるだろう。著者はそれらのことで腹を立てるべきではなく、むしろ逆に、最大の自由を読者に残して、読者にこういうべきである、「どれがよく見えるかあなたがた自身で見てごらん、このレンズか、あのレンズか、そちらのレンズか。」(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)  

わたくしはどちらかというと人のことを「ニブイ」と言い勝ちな不遜な性格をもっているが、--ツツシマナケレバナラヌ・・・

しかしながら世の中には「詩」にまったく不感症だとしか思えない連中も多いデハナイカ、ようするに徴候感覚がまったくない、肌がプラスチックでできているようなヤツラが。

それは聡明さにやや劣るのがーーシツレイながらーー明らかな種族ではなくて、たとえばツイッターでなにやらしきりに時事的なことをつぶやいている「インテリ」ボウヤやオジョウチャンたちにことさらそう感じてしまうのだ。

古義人も、ニュースショーの司会者や、吾良が映画に使った俳優、女優ら、若い世代の言葉がよくわからなかいのは予期していた。ところが自分とはほぼ同年の映画監督やシナリオライター、さらに芸能および社会一般のコメンテーターの言葉が、理解しにくいのだ。集中すればするほど、かれらの言葉の内包するものは、了解しうる範囲から遠ざかった。古義人は自分が、慣れ親しんできた書物によって読み、それによって自分で書きもする、特殊な言葉の孤島に住んでいたのか、と疑った。いなまお小説家という職業を続けているつもりでいたが、じつは言葉の大陸に生きる人とつながってはいなかったのだ。(大江健三郎『取り替え子』)

あれらの種族は、「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」(菊池寛=小林秀雄)というわけでもあるまい、とすれば、わたくしが特殊な言葉の孤島に住みつつあるということになるのか? どうもジャーナリスト系がわたくしには一番始末がわるいのだがーー。

いずれにしろ彼らには彼らなりの幸福があるのだろうと最近は思うことにしている・・・

あまり徴候感覚がありすぎても人生生き辛いからな、いいんじゃないかそれで。


しらばっくれる性質の人たちの家系でよくあることだが、表立った理由もなく弟が兄を訪ねにきて、帰りぎわにドアのところで、ちょっと挿入句のような形でひとことものをたずね、べつにその答をきいているようすもないが、そのためかえって兄には、そのひとことこそ弟の訪問の目的なのだということがぴんとくる、なぜなら、本筋から切りはなされたようにつくろうようす、括弧つきのようにしてもちだされる言葉は、兄には十分身におぼえがあるからであり、兄自身何度もその手をつかったことがあるからである。さてはまた、病理学的家系、血縁の感受性、兄弟をつなぐ気質といったものがあり、暗黙のうちに共通の言語をさずけられていて、それで一家の内部ではたがいに言葉を交わさなくても意志が通じあるのである。してみると、神経質な者にも増してはたの神経をいらいらさせる者がありえようか? そして、まさにそのようなケースにおいて、私の行動には、おそらくいっそう普遍的な、いっそう深い、一つの原因があったであろう。それは、われわれが愛する人をにくむこの短い避けがたい瞬間にあってーーこのような瞬間は愛していない人々とならときには一生涯つづくのだーーわれわれは相手からあわれみをかけられたくないために自分を気立のいい人間のように見せたがらないという点である、むしろこの上もなくいじわるであると同時に、できるだけ幸福な人間であるように見せたがり、われわれのその幸福をじつににくらしいものにし、一時的にもせよ永続的にもせよわれわれが敵視する相手の心に、うらみの念を起こさせようとするのである。(プルースト「囚われの女」)

というわけで、ここではほんとうは次ぎの文を引用したかっただけである。徴候感覚の鋭敏な方はきっと途中で気づいたことだろう・・・

昨日、私は京都から帰って来た。カゼをこじらせ、咽喉を腫らせ、肩をひどく凝らせて。いつも楽に上がれる最寄りの地下鉄の駅の階段がピラミッドのようにそそり立って見えた。

京都は、いつも私を過剰な影響で圧倒しようとする。この三年、身体が急に弱くなったのも京都に往診を繰り返した一カ月の翌月からだった。その病からは二年掛かって回復したが、依然、京都に接近するたびに私には何かの故障が起こる。おそらく初老になって形に現われるようになっただけで、この街との不適合性は私の若い時から存在しつづけていたはずだ。

(……)私には、この街で行うことはすべて挫折を約束されていた。私は初め内的に反抗し、ついで二度脱出を試みた。一度は大阪に、二度目は東京に。そして二度目に脱出は成功した。

もっとも私が、依然、京都との「接触の病い」から本復していないことは冒頭に述べた通りである。京都に数時間留まることは、ほとんどプルースト的な、しかしはるかに悪魔的な記憶のバンドラの箱を開けることである。それは、精神病理学で「ヒペルムネジー」(過剰記憶)といわれるものであり、たまたま私には、年齢に従って衰えるはずのこの能力が依然あるために、数カ月分の健康が一日で破壊されるのであろう。

(……)精神科医が都市を論じる資格があるとすれば、それは単に、その職業によって、他の人々の立ち入れない地下水脈を知るからだけではないと私は思う。それは隠し味にはなるだろうが、ほとんどすべて書くことができないか書きたくない。その他に、職業ゆえか、その職業を選ばせた個人的特性かは知らず、“過剰な影響”に身を曝す習性があると思う。精神科医の第一の仕事はまず感受することである。

過剰な影響といったが、それは特別なものではない。おそらく、普通の人ひとっては、意識のシキイ以下で作用しているものであろう。

精神科医は「穿鑿する人」ではないと思う。「まず感受するこおt」といったが、「観察」と「感受」との差が非常に近いということだ。望遠鏡でも顕微鏡でもなく、さりとて音叉でもなく、アンテナのように、あるいはその原義(昆虫の触覚)のようにーー。(中井久夫「神戸の光と影」『記憶の肖像』) 
三十五、六歳であったと思うが、米国のある財団からの奨学金でレポートを書いていた時、それは非常に難しいテーマであったが、私の本棚の本の表紙を眼にすると、それだけでその本の内容が思い出されて、邪魔になってしかたがなく、ついに(当時の家は狭かったので)本を裏向きにして表紙を見えないようにしなければならないことがあった。このヒペルムネジー(想起力昂進)はいささか危ない状態であったと思うが、本の表紙が読んだ内容の想起を促すサブリミナルな刺激を与え続けていることに早くから私は気づいていた。本を売るとてきめんに内容を忘れるからである。大学の私の部屋から、私が読み込んで書き込みをしていた、入手困難な本が何冊かなくなったことがあって、犯人はついにわからなかったが、私に残った感覚は「ロボトミーをされたらこうもあろうか」という感覚であって、そのもどかしい欠落感は十年後の今も生々しい。(中井久夫「記憶について」『アリアドネからの糸』所収)
文字がそれぞれの色を持っていることに気づいたのは五歳前後のことであった。以来、私には、仮名も漢字もアルファベットもおのずと色と結びついて記憶されてきた。それらを組み合わせるとまた独自の色となる。英語もフランス語もドイツ語も、単語にそれぞれ色がある。英語らしくない、フランス語らしくない単語は「色が英語らしくない」あるいは「フランス語らしくない」と直覚して、だいたい当っている。これが共感覚といわれ、百人に一人以下の珍しい存在であることはずっと遅れて知った。(……)

欧米人では、言語にまつわる共感覚は発音を聞いて色を感じるのであるが、私の場合には主に、形態と色彩との連合という視覚内部のことである。「主に」といったのは、口蓋の触覚、舌を初め発声筋の運動感覚が影のようにつきまとっているらしいからである。この能力の代償として私は完全な音痴である。これは、しかし、音楽に関する限りであって、詩にせよ、散文にせよ、音の響き合いや文のリズムなど、聴覚的側面に私は敏感である。私に合わない文章を読むことは生理的に苦痛であって、その結果、私の読書には多くの空白がある。(中井久夫「私と外国語」『精神科医がものを書くとき Ⅱ』)
 「私なら失われた時など求めはしない。そういうものはむしろ退けるくらいだ」とプルースト追悼の際にポール・ヴァレリーは書いた。彼が「知性の巨人」で済まされなくなった今、彼はむしろ過剰な記憶に苛まれた人 hypermnesiqueではなかったかと思われる。「初めから失われていた恋人」ともいうべき二十八歳年長のロヴィラ夫人への生涯の執着はほとんど時間が停まっているかのようである。サマセット・モームは「人を殺すのは記憶の重みである」といって九十歳になんなんとして自殺した。忘却を人は恐れるが忘却できないことはいっそう苛酷である。プルーストも、母の死後の時間は停止していたに近い。最後はカフェ・オ・レによって辛うじて生存し、もっぱら月光のもとでのみ外出し、ひたすら執筆に没入した。記述を読むと鬼気がせまってくる。

私には、『失われた時を求めて』の話者の記憶は、抑圧を解除されたフロイト的記憶よりも外傷的なジャネの記憶の色を帯びているように思える。プルーストの心の傷の中には、母親に暴言を吐き、ひょっとすると暴力を振るってしまったことによる傷があっても不思議ではないと私は思う(『ジャン・サントゥイユ』あるいはペインターの『プルースト伝』参照)。私は初めて『失われた時を求めて』を読んだ時、作家は家庭内暴力を経ている人ではないかと思った)。もっとも、『失われた時を求めて』は贖罪の書では決してない。むしろ、世界を論理的に言葉で解析しつくそうとするドノヴァンとマッキンタイアのいう子どもの努力のほうに近いだろう。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」『日時計の影』所収)