このブログを検索

2015年11月27日金曜日

なんて素敵な声なんだ![Che bella voce! ]

声の《きめ》は響きではない――あるいは、響きだけではない――。それが開いてみせる意味形成性は、音楽と他のもの、すなわち、音楽と言語(メッセージでは全然ない)との摩擦そのものによって定義するのが一番いい。歌は語る必要がある。もっと適切にいえば、〈書く〉必要がある。なぜなら、発生としての歌のレベルで生み出されるのは、結局、エクリチュールだからである。(ロラン・バルト『声のきめ』)

レジーヌ・クレスパンのフォーレ「水のほとりで」。

◆Fauré: Au bord de l'eau- Régine Crespin



ーーChe bella voce!

「現われとしてのテクスト」ではなく「発生としてのテクスト」!

テクストの快楽の美学を想像することが可能なら、その中に声を挙げるエクリチュールも加えるべきであろう。この声のエクリチュール(言〔パロール〕とは全然違う)は実践できない。しかし、アルトーが勧め、ソレルスが望んでいるのは多分これなのだ。あたかも実際に存在するかのように、それについて述べてみよう。

古代弁論術には、古典注釈者たちによって忘れられ、抹殺された一部門があった。すなわち、言述の肉体的外化を可能にするような手法の総体であるactio〔行為〕だ。演説者=役者が彼の怒り、同情等を《表現》するのだから、表現の舞台が問題だったのだ。しかし、声を挙げるエクリチュールは表現的ではない。表現はフェノ=テクストに、コミュニケーションの正規のコードに任せてある。こちらはジェノ=テクストに、意味形成性(シニフィアンス)に属している。それは、劇的な強弱、意地悪そうな抑揚、同情のこもった口調によってもたらせるのではなく、声の粒(=声の肌理:引用者)によってもたらされるのである。声の粒とは音色と言語活動のエロティックな混合物であり、従って、それもまた朗詠法と同様、芸術の素材になり得る。自分の肉体を操る技術だ(だから、極東の芝居ではこれが重視される)。言語〔ラング〕の音を考慮に入れれば、声を挙げるエクリチュールは音韻論的ではなく、音声学的である。その目的はメッセージの明晰さ、感動の舞台ではない。それが求めているもの(悦楽を予想して)は衝動的な偶発事である。肌で覆われた言語活動であり、喉の粒、子音の錆、母音の官能等、肉体の奥に発する立体音響のすべてが聞えるテクストである。肉体の分節、舌〔ラング〕の分節であって、意味の分節、言語活動の分節ではない。ある種のメロディー芸術がこの声のエクリチュールの概念を与えてくれるかもしれない。しかし、メロディーが死んでしまったので、今日では、これが最も容易に見出せるのは、多分、映画だろう。実際、映画が非常に近くから言〔パロール〕の音(これが、結局、エクリチュールの《粒》の一般化された定義だ)を捉え、息、声のかすれ、唇の肉、人間の口元の存在のすべてを、それの物質性、官能性のままに聞かせてくれればいい(声やエクリチュールが、動物の鼻面のように、みずみずしく、しなやかで、滑らかで、こまかな粒々で、かすかに震えていればいい)。そうすれば、記号内容をはるか彼方に追放し、いわば、役者の無名の肉体を私の耳に投げ込むことに成功するだろう。あ、こいつ、粒々しているぞ。しゅうしゅういっている。くすぐっている。こすっている。傷つけている。つまり、楽しんでいるのだ。(ロラン・バルト『快楽のテクスト』)

《息、声のかすれ、唇の肉、人間の口元の存在のすべてを、それの物質性、官能性のままに聞かせてくれればいい(声やエクリチュールが、動物の鼻面のように、みずみずしく、しなやかで、滑らかで、こまかな粒々で、かすかに震えていればいい)。》

◆Barbara - Dis, quand reviendras-tu ?


ラカンは後年、眼差しと声を対象aの主要な化身として分離した。しかし彼の初期理論は眼差しが疑いようもなく特権化されている。だが声はある意味ではるかに際立ち根源的である。というのは声は生命の最初の顕現ではないだろうか?自身の声を聴き、人の声を認知する経験、これは鏡像における認知に先行するのではないか?そして母の声は最初の〈他者〉との問題をはらむつながりではないか?臍の尾に取って換わる非物質的な絆であり、最初期の生のステージの運命の多くを形作るものではないか?(ムラデン・ドラー  『Gaze and Voice as Love Objects』私訳)

…………

こんな話がある。戦争の最中、戦闘の最中、塹壕にイタリア兵士の中隊が潜んでいる。そして司令官がいて命令を発する、「突撃!」と。けれど何も起こらない。誰も動かない。司令官は怒ってさらに大声で「突撃!」と叫ぶ。すると今度は反応があった。塹壕から声が立ち昇った、「なんて素敵な声なんだ![Che bella voce!] 」。 (Mladen Dolar,His Master's Voice)

ーーこの短いパラグラフには、爆弾が詰っている(旧套派にとっては、ということだが)。とはいえ攻撃目標はどこにあるというのか。

まずは、「言語は形態 forme であって、実体 substance ではない」、あるいは「言語には差異しかない」とした『一般言語学講義』のソシュールか。

いやソシュールだけではない、彼に引き続く言語学者たち、論理学者たち、あるいはあれら「現代思想」家と呼ばれる連中の著作におおむね代表される《二〇世紀的な「知」の体系》がひょっとして攻撃対象とされてはいないか。

《ソシュール自身にとっての不幸にとどまらず、(……)二〇世紀的な「知」の体系が蒙りもした最大の不幸なのもかしれぬという視点が、しかるべき現実感を帯び始めているのはまぎれもない事実だといわねばならない》(蓮實重彦)。

…………

言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。言語の「発見論的」heuristicな使用が改めて起こる。これは通常十五歳から十八歳ぐらいに発現する。「妄想を生み出す能力」の発生と同時である。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」『家族の肖像』1996所収ーー「ラカン派の「象徴界から排除されたものは現実界のなかに回帰する」の意味するところ」)

ーーなぜ言葉がそんなにも大切なのか、ここにはそれが実に簡潔に記されているといってよい。言葉とは、われわれ人間の最初の生産物のひとつであり、そして「もの」としての言葉でもある。ラカンが letter/l'être と呼んだもの、あるいは喃語の変奏であるLalangue.等。

「言語は無意識からのみの形成物ではない」とわたしは断言します。なにせ、lalangue  に導かれてこそ、分析家は、この無意識に他の知の痕跡を読みとることができるのですから。他の知、それは、どこか、フロイトが想像した場所にあります。(ラカン、於Scuala Freudiana 1974.3.30)
我々は強調しなければならない、ラカンがいかに無意識を理解したかを。彼は二つの用語を使っている。記号 symbole 、意味作用の原因としてのシニフィアン、そして、文字 lettre 、純シニフィアン signifiant pur としてのシニフィアンの二種類である。(ロレンツォ・キエーザ,Subjectivity and Otherness、2007ーー「純シニフィアンの物質性」)

…………

《換喩は最初から存在している。そして換喩が隠喩を可能にする。しかし、隠喩は換喩とは異なったレヴェルに属している。》(ラカン)

la métonymie est au départ, c'est entendu, c'est elle qui rend possible la métaphore, mais la métaphore est quelque chose qui est à un autre degré que la métonymie. LACAN,S.3 

あるいは、《換喩がなければ、隠喩などない。》

 Il n'y aurait pas de métaphore s'il n'y avait pas de métonymie. S.5


換喩は「論理的には」隠喩に先行するとラカンは信じていた。すなわち乳幼児は(非分節化的な仕方で)話しはじめる。この最初期に段階では、音素と言葉の換喩的横滑りが伴っているのは明らかだ。それが「もの」としての言葉を楽しむということの意味のひとつだ。

とはいえ、それが「要求」ーー幼児が要求するものを「名付ける」こと--の領野に入れば、たちまち言語のなかに「疎外」される。その要求は母に「誤解釈」される運命は避けらず「欲求不満」が生じる。この段階では「抑圧」とは呼ばないが、これは「遡及的=事後的には」すでに抑圧である。

…………

さて、声の哲学者、ムラデン・ドラーの叙述をもうすこし抜き出してみよう。

手短に言うなら、人はここで、意味と声のアンチノミーを見ることができる。すなわちシニフィアンと対象(欲動の対象としての対象)とのあいだのアンチノミーとしての声である。

ひとつのメカニズムがある。それは意味と理解に向かってやっきになるメカニズムだ。その途上、声はうやむやになる。そしてまさに同じ位置に、別のメカニズムがある。それは意味とは何のかかわりもなく、むしろ享楽にかかわる。

その享楽はふつうは、意味に覆われている。意味に舵取りされている。意味に枠取られている。そして意味から離脱したときにのみ、欲動のかなめの対象として顕われる。人は言うことができる、声は意味の糞便だ、と。

図式的に言えば、どの発声も意味作用の側面がある。それは究極的には「欲望」の側面だ。…他方、対象の廻りを旋回する「欲動」の側面がある。対象、すなわち声対象、全く掴まえどころのない朧ろげな何か。

したがって、どの発声にもミニチュアドラマ、 ミニチュアコンテストがある。縮減されたモデル、精神分析が欲望と欲動のライヴァル的側面として捉えようとするモデルが。

欲望において、我々は花火を見る、ラカンが「無意識は言語のように構造化されている」と呼んだものの花火を。しかし欲動は、フロイトが言うように、沈黙している。声対象の廻りを旋回しているかぎり、欲動は沈黙した声だ。何も話さない声、まったく言語のように構造化されていない声。

声は言語と身体を結ぶ。だがどちらにも属していない。声は、言語学の部分でもなく、身体の部分でもない。声は自身を身体から分離する。身体にフィットしない。声は浮遊する。…… (Mladen Dolar,His Master's Voice)