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2015年11月21日土曜日

四国出身のネトウヨ予備軍のメンヘラボクチャンへ

なんだ、そこの「想像的ディスクール」に終始する四国出身のネトウヨ予備軍のメンヘラボクチャン! 相手をしてほしいのか? だれにも相手にされていないようで、わたくしはつい「同情」してしまうが。

同情は、おおまかに言って、淘汰の法則にほかならない発展の法則をさまたげる。それは、没落にひんしているものを保存し、生の勘当され、断罪された者どものために防戦し、同情が生のうちで手離さずにいるすべての種類の出来そこないを充満せしめることによって、生自身に陰鬱な疑わしい相貌をあたえる。人はあえて、同情を徳と名づけてきた(――あらゆる高貴な道徳においては、同情は弱さとみなされているのだがーー)。さらにすすんで、同情から徳そのものを、すべての徳の地盤と根源をでっちあげるにいたった、――もちろんこれは、このことこそたえず眼中にしておかなければならないことだが、ニヒリズム的な、生の否定を標榜した哲学の観点からのことであるにすぎない。ショーペンハウアーは、この点では正しかった。すなわち、同情によって生は否定され、いっそう否定に値するものたらしめられるからである、――同情とはニヒリズムの実践なのである。(……)ショーペンハウアーは生に敵対した、このゆえに彼にとっては同情が徳になったのである・・・アリストテレスは、周知のごとく、同情のうちに、ときどきは一服の下剤でなおすのが好ましい、病的な危険な状態をみとめた。彼は悲劇を下剤と解したのである。ショーペンハウアーの場合が(そしていかんながら、セント・ペデルブルグからパリまでの、トルストイからヴァーグナーまでの現代の全文学的芸術的デカタンスもまた)示しているような、同情のそうした病的な危険な鬱憤に一撃をくわえる手段が、生の本能からこそ事実探しもとめられなければならないであろう、すなわち、この鬱積が炸裂するためにである・・・(ニーチェ「反キリスト』原佑訳)

ああ、ニーチェの逆鱗にふれてしまわないで、貴君のような「馬鹿」を相手にするにはどうしたらいいのだろう?

なにか糖菓入りの壺はないだろうか。

小さい愚行やはなはだ大きい愚行がわたしに加えられても、わたしは、一切の対抗策、一切の防護策を―――従って当然のことながら一切の弁護、一切の「弁明」を自分に禁ずるのである。わたし流の報復といえば、他者から愚かしい仕打ちを受けたら、できるだけ急いで賢さをこちらから送り届けるということである。こうすれば、たぶん、愚かしさの後塵を拝さずにすむだろう、比喩を使っていうなら、わたしは、すっぱい話にかかりあうことをご免こうむるために、糖菓入りのつぼを送るのである。(……)

わたしはまた、どんなに乱暴な言葉、どんなに乱暴な手紙でも、沈黙よりは良質で、礼儀にかなっているように思われるのである。沈黙したままでいる連中は、ほとんど常に、心のこまやかさと礼儀に欠けているのである。沈黙は抗弁の一種なのだ、言いたいことを飲み下してしまうのは、必然的に性格を悪くするーーそれは胃さえ悪くする。沈黙家はみな消化不良にかかっている。--これでおわかりだろうが、わたしは、粗暴ということをあまり見下げてもらいたくないと思っている。粗暴は、きわだって”人間的な”抗議形式であり、現代的な柔弱が支配するなかにあって、われわれの第一級の徳目の一つである。--われわれが豊かさを十分にそなえているなら、不穏当な行動をするのは一つの幸福でさえある。……(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

いやいやシツレイ! 貴君を馬鹿としたが、わたくしも馬鹿の一員である。ただいささか相対的にはカナリ……、いやいやヤメテオコウ。

「私はただ相対的には愚かに過ぎないよ、つまり他の人たちと同じでね。というのは多分私はいくらか啓蒙されてるからな」

“I am only relatively stupid—that is to say, I am as stupid as all people—perhaps because I got a little bit enlightened”?  (Lacan“Vers un signifiant nouveau” 1979)

ジジェクはこの文を引用して、《この「相対性」は、"完全には愚かではない"と読むべきだ、すなわち厳密な意味での非-全体の論理として。…ラカンの中には愚かでないことは何もない。愚かさへの例外はない。ラカンが完全には愚かでないのは、彼の愚かさのまさに非一貫性にある》(ジジェク「『LESS THAN NOTHIG』私訳)と説明している。

ーーところが貴君には愚かさの一貫性しかないようにみえないでもない・・・

なにはともあれ「大量の馬鹿が書くようになった時代」の典型的な人物なようだから、貴君だけがわるいわけではない・・・わたくしもその時代の波をかぶって、こうやって毎日のようにカイエを公表している。

とはいえ、まずディスクールを移行させることだよ、君になによりも必要なのは(参照:「言説の横断と愛の徴」)。その言説では誰にも相手にされないまま一生終るぜ。いやいやきっと四国のオカアチャンがそんな貴君を愛で続けるのだろう。

さて贈り物をしておこう、糖蜜入りだ。この見解に対して、想像的ディスクールでなく応じたら、貴君を見直すことにしよう、

…………

「イスラム原理主義」についての西側諸国の主張の殆どが仮に真実だったとしてもーーイスラム原理主義のテロは我々の最大の脅威だ、一般大衆をターゲットにした振舞いはなによりも許しがたい等々ーー、西側諸国の反イスラムはいまだ病理的だ。というのは、それは本当の理由を抑圧しているからだ。その理由とは、米国あるいは仏国などが「なぜこの今」反ISが「必要か」にかかわる。それは、(まずは)米国にとってはイラク攻撃がIS出現の条件を作ったを忘れたいためであり、仏にとってはオランドの9月シリア空爆がパリテロを生んだことを忘れたいためだ。

だから、反イスラム原理主義の場合、イスラム原理主義者が「実際にどのようであるか」についての知はまやかしであり見当ちがいである。他方、真理の場にある唯一の知は、なぜ欧米諸国は彼らのイデオロギー的体系を支えるためにーーすなわち、非イデオロギー的イデオロギー「新自由主義」、「世界資本主義」あるいは「新植民主義」を支えるために ーー イスラム原理主義の形象が必要か(なぜその形象のもとに「連帯」したいのか)についての知である。

…………

さあてどうだろうか、この見解にたいしては、わたくしもいささか自ら批判したい心持はある。だがここでは貴君に批判はまかせよう。そもそも《「批判」とは相手を非難することではなく、吟味であり、自己吟味である》(柄谷行人「トランスクリティーク』)、--そのことを忘れないようにしよう。かつまた《自分が知らないこと、あるいは適切に知っていないことについて書くのではないとしたら、いったいどのようにして書けばよいのだろうか》(ドゥルーズ『差異と反復』「はじめに」)なのであり、貴君の腕の見せ所を示してくれたまえ!

想像的ディスクールでなく、かつまた 私はこう思うとのみ宣言して解釈さえ放棄する無邪気な「無神論者」にも陥らず、反論できたならば、貴君の将来を愛でることにしよう。

いずれにせよ「どうでもいい」やら「処世術にすぎない」やらとオッシャッテイルにもかかわらず、いつまでもこのブログの読者でいる必要はない。かつて一度罵倒したはずだが。

それとも「この窪地に朝鮮人が来てからというもの、谷間の人間は迷惑をこうむりつづけでしたが! 」メンタリティのボクチャンよ、この罵倒がよほど応えてのルサンチマンかね?

貴君のような人物のアカウント名をさらすつもりも、貴君の片言隻語を引用する気にもならないのだが、あえて忠告すれば、実にひどい悪臭がただよっていることを自覚したほうがいい。

《おそらく粗悪な血のせいだろうが、わたくしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……》

人々をたがいに近づけるものは、意見の共通性ではなく精神の血縁である。(プルースト 「花咲く乙女たちのかげに Ⅰ」井上究一郎訳)
人間は自分の精神が属する階級の人たちの言葉遣をするのであって、自分の出生の身分〔カスト〕に属する人たちの言葉遣をするのではない(プルースト「ゲルマントのほう Ⅰ」同上訳) 

ーーおわかりだろうか、わたくしは実のところ「差別主義者」であり、貴君とは精神のカストが天と地ほど懸け離れている気がする。貴君はひょっとしてわたくしよりもずっと島国日本の土人カーストでいえば「上流階級」であるのだろう。

 さて、さきほどのイスラム原理主義の文は以下の文の変奏だ。

ここで、ふたたび思い起こしておこう、ラカンの法外な言明を。すなわち、嫉妬深い夫が彼の妻について言い張るーー彼女はそこらじゅうの男と寝るーー、それが真実だとしても、 彼の嫉妬はいまだ病理的 pathological である、と。

この同じ線で言いうるだろう、ユダヤ人についてのナチの主張のほとんどがかりに真実だったとしてもーーユダヤ人はドイツ人を食いものにする、ドイツ人の少女を誘惑する…ーー、彼らの反ユダヤ主義はいまだ病理的だ、と。というのは、それは本当の理由を抑圧しているからだ、その理由とは、ナチスは 「なぜ」反ユダヤ主義が「必要だったのか」にかかわる。それは、ナチスのイデオロギー的ポジションを維持するためである。

だから、反ユダヤ主義の場合、ユダヤ人が「実際にどのようであるか」についての知はまや かしであり見当ちがいである。他方、真理の場にある唯一の知は、なぜナチは彼らのイデ オロギー的体系を支えるためにユダヤ人の形象が「必要か」についての知である。(ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」(ジジェク)


いずれにせよ、現在 IS( Islamic State:イスラム国))は、主人のシニフィアンとして機能しつつある側面があることはまちがいないだろ? なあ、ボクチャンよ!!

ドイツにおける1920年代の反ユダヤ主義について考えてみよう。人びとは、混乱した状況を経験した。不相応な軍事的敗北、経済危機が、彼らの生活、貯蓄、政治的不効率、道徳的頽廃を侵食し尽した……。ナチは、そのすべてを説明するひとつの因子を提供した。ユダヤ人、ユダヤの陰謀である。そこには〈主人〉の魔術がある。ポジティヴな内容のレベルではなんの新しいものもないにもかかわらず、彼がこの〈言葉〉を発した後には、「なにもかもがまったく同じでない」……。たとえば、クッションの綴目le point de capitonを説明するために、ラカンは、ラシーヌの名高い一節を引用している、「Je crains Dieu, cher Abner, et je n'ai point d'autre crainte./私は神を恐れる、愛しのAbner よ、そして私は他のどんな恐怖もない。」すべての恐怖は一つの恐怖と交換される。すなわち神への恐怖は、世界のすべての出来事において、私を恐れを知らなくさせるのだ。新しい〈主人のシニフィアン〉が生じることで、同じような反転がイデオロギーの領野でも働く。反ユダヤ主義において、すべての恐怖(経済危機、道徳的頽廃……)は、ユダヤ人の恐怖と交換されたのだ。je crains le Juif, cher citoyen, et je n'ai point d'autre crainte. . ./私はユダヤ人を恐れる、愛する市民たちよ。そして私は他のどんな恐怖もない……。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012,私訳


ああ、貴君のおかげで本日、三つも投稿してしまったじゃないか、イケネ、しばらく休むことにしようか、実はこのブログの下書きが76ほど溜まってしまっているので、この際、それをすべて連投するという手もあるが。

そもそもこのブログでのわたくしの基本は次ぎの文の前半だ。想像的ディスクールの、すなわち夜郎自大言説の貴君には思いもよらぬ態度かもしれぬが。

「きみにはこんな経験がないかね? 何かを考えたり書こうとしたりするとすぐに、それについて最適な言葉を記した誰かの書物が頭に思い浮かぶのだ。しかしいかんせん、うろ覚えではっきりとは思い出せない。確認する必要が生じる──そう、本当に素晴らしい言葉なら、正確に引用しなければならないからな。そこで、その本を探して書棚を漁り、なければ図書館に足を運び、それでも駄目なら書店を梯子したりする。そうやって苦労して見つけた本を繙き、該当箇所を確認するだけのつもりが、読み始め、思わずのめりこんでゆく。そしてようやく読み終えた頃には既に、最初に考えていた、あるいは書きつけようとしていた何かのことなど、もはやどうでもよくなっているか、すっかり忘れてしまっているのだ。しかもその書物を読んだことによって、また別の気がかりが始まったことに気付く。だがそれも当然だろう、本を一冊読むためには、それなりの時間と思考を必要とするものなのだから。ある程度時間が経てば、興味の対象がどんどん変化し移り変わってもおかしくあるまい? だがね、そうやってわれわれは人生の時間を失ってしまうものなのだよ。移り気な思考は、結局、何も考えなかったことに等しいのだ」(ボルヘス 読書について──ある年老いた男の話)

なあ、貴君よ!

どこの馬の骨ともわからぬ老境の男の文など読まなくてよろしいのだよ、迷信に凝り固まった「将来ある」まだ若いはずの蛆虫くんよ。 しかも「難民」と口にだしたら、《……宗教家の覚悟も、王の覚悟もないものが》などと意味不明のことをオッシャル。

…また、私は、民衆から迷信を取り去ることは恐怖を取り去ることと同時に不可能であることを知っている。最後に、民衆が自己の考えを変えようとしないのは恒心ではなくて我執なのであること、また民衆はものを賞讃したり非難したりするのに理性によって導かれず衝動によって動かされることを知っている。ゆえに、民衆ならびに民衆とともにこうした感情にとらわれているすべての人々に私は本書を読んでもらいたくない、否、私は、彼らが本書を、すべてのものごとに対してそうであるように、見当違いに解釈して不快な思いをしたりするよりは、かえって本書を全然顧みないでくれることが望ましい。彼らは本書を見当違いに読んで自らに何の益がないばかりか、他の人々に、――理性は神学の婢でなければならぬという思想にさまたげられさえしなかったらもっと自由に哲学しえただろう人々に、邪魔立てするだろう。実にそうした人々にこそ本書は最も有益であると、私は確信するのに。(スピノザ『神学・政治論』1670年序文)

もちろん、わたくしはスピノザではないが、スピノザのように言ってみたくなるときがあるのだよ、蛆虫くんたちには。

わたくしは悪臭にはとてもよわいたちなので、それを振り払うには、ブログを変えたほうがいいのだろうかーー、ただし文体をかぎつけてくるルサンチマンくんがいるんだよな、ネット上には。

わたくしはひょっとして「寄生虫に取りつかれる」存在なのだろうか・・・貴君たちの病を伝染させないでくれたまえ・・・

いろいろ問題があったけれども、やはり<強者>と<弱者>の問題というのが重要だと思うんです。これはさっきのファシズム問題ともつながるけれども、ニーチェの<強者>というのは普通の意味での強者、例えばヘーゲルの意味での強者と徹底的に区別しないと、プロトファシストみたいになってしまうわけです。実際、普通の意味でいうと、ニーチェの<強者>というのは物凄く弱い。ニーチェは能動的なものと反動的なもの、肯定的なものと否定的なもののおりなす系譜をたどっていくのだけれども、なぜか世界史においては必ず反動的なもの・否定的なものが勝利し、能動的なもの・肯定的なものは全面的に敗北しているわけです。

これはなぜかというと、<弱者>の側が力で勝っているからではなく、<弱者>が<強者>に病いを伝染させ、それによって<強者>の力を差っ引くからであるというんですね。これはほとんど免疫の話になっているんですが、たまたま『ニーチェの抗体』という変な論文を書いた人がいて、83年ぐらいに既にAIDSの問題が出かかったときそれとの絡みで書かれた(……)思いつき倒れの論文なんだけれども、面白いことに、ニーチェの<強者>というのは免疫不全だと言うんです。何でもあけっぴろげに受け入れてしまう。それにつけ込んで有毒なウィルスを送り込むのが<弱者>なんです。事実、その論文は引いていないけれど、ツァラトゥストラも、最高の存在というのは最も多くの寄生虫に取りつかれると言っている。全くオープンなまま常に変転しているから、それをいいことにして寄生虫がパーッと入って来て、ほとんどAIDSになってしまうわけです(笑)。だから「<強者>をつねに<弱者>の攻撃から守らなければならない」。(『天使が通る』(浅田彰/島田雅彦対談集))