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2015年11月21日土曜日

彌縫策とユートピア

さてテロの話を続けたので、今回はもうすこし一般論を掲げよう。もともとテロやら連帯やらの話はここへの遠回りの道であったのだから。いままで種々に記した原動因は「ここ」、すなわち「資本主義」批判にある。

イスラム教とは、コミュニズム衰退後にその暴力的なアンチ資本主義を引き継いだ「二十一世紀のマルクス主義」である。(ピエール=アンドレ・タギエフーー「新しい形態のアパルトヘイト」

ーーただし、このタギエフの見解に「直接的には」賛同するものではない。それを以下に示そう。

…………

真に偉大な哲学者を前に問われるべきは、この哲学者が何をまだ教えてくれるのか、彼の哲学にどのような意味があるかではなく、逆に、われわれのいる現状がその哲学者の目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか、なのである。(ジジェク『ポストモダンの共産主義  はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』)

ジジェクが最近やっているのは、ヘーゲルなら、あるいはマルクスなら、今の時代ーーとくに2015年ーー をどう捉えるのか、という試みである。ヘーゲルやマルクスでなくてもよい、カントなら、ニーチェやハイデガーなら、どうこの2015年を捉えるのか、〈あなたがた〉の関心の深いらしいフーコー、ドゥルーズ、デリダの目にはどう映るのか、それをやっている人物が日本にはいるのだろうか?

〈あなたがた〉のほとんどは、あれらの「哲学者」たちが《何をまだ教えてくれるのか、彼の哲学にどのような意味があるか》のみしかやっていないのではないか。〈あなたがた〉はフーコーやドゥルーズ、デリダほどには「聡明」ではなさそうなので、稚拙さを怖れているのかもしれない。だがそれをやらなくて、ーーわれわれのいる現状がたとえばドゥルーズの目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるかーーをやらなくて、なんの研究をしているというのか。

たとえばジジェクなら「革命幻想」があるという批判があるだろう。では〈あなたがた〉に何があるのだろう、ただひたすら彌縫策幻想しかないのではないか。

2015年の前半、ヨーロッパはラディカルな解放運動(ギリシャの Syriza とスペインの Podemos)に没頭した。他方で後半は、関心が難民という「人道的」話題へと移行した。階級闘争は文字通り抑圧され、寛容と連帯のリベラル-文化的話題に取って代わられらた。

11月13日金曜日のパリテロ殺人にて、今ではこの話題(それはまだ大きな社会経済問題に属していた)、その話題さえ覆い隠されて、テロ勢力とのシンプルな対決ーー無慈悲な戦いに囚われた凡ての民主勢力によるーーに取って代わられた。

次に何が起こるのかは容易に想像できる。難民のなかの ISIS エージェントの偏執狂的 paranoiac 探索である(メディアはすでに嬉々としてレポートしている、テロリストのうちの二人が難民としてギリシャを経由してヨーロッパに入った、と)。パリテロ攻撃の最大の犠牲者は難民自身である。そして本当の勝者は、「je suis Paris 」スタイルの決まり文句の背後にあって、どちらの側においてもシンプルに全面戦争を目指す愛国者たちだ。

これが、パリ殺人を真に非難すべき理由だ。たんにアンチテロリストの連帯ショウに耽るのではなく、シンプルな cui bono(誰の利益のために?)の問いにこだわる必要がある。

ISIS テロリストたちの「より深い理解」は必要ない(「彼らの悲しむべき振舞いは、それにもかかわらず、ヨーロッパの野蛮な介入への反応だ」という意味での)。彼らはあるがままなものとして特徴づけられるべきだ。すなわちイスラムファシストはヨーロッパの反移民レイシストの対応物だ。二つはコインの両面である。 (Slavoj Zizek: In the Wake of Paris Attacks the Left Must Embrace Its Radical Western Roots、2015,11,16)

…………


アフリカや中東からヨーロッパに移民・難民が押し寄せるのは、ただたんに彼らの国の内戦のせいではない。環境変化による水不足が甚だしくなり、失業が溢れかえったり飢餓に襲われつつあるせいでもある(参照:Why More Conflict is Inevitable in the Middle East)。





さて「「われわれはみんなシリア難民なのだ」にて、以下の文を私訳して掲げたが、その後の文も続けよう。

今知られているのは、フクシマ原発の炉心溶融のあと、いっときだが日本政府は、思案したことだ、全東京エリアーー2000万人以上の人びとーーを避難させねばならないと。この場合、彼らはどこに行くべきなのだろう? どんな条件で? 彼らに特定の土地が与えられるべきだろうか? それともただ世界中に四散させられただけなのだろうか?

ーー同じく、「 Slavoj Zizek: We Can't Address the EU Refugee Crisis Without Confronting Global Capitalism」からである(読みやすさのために、いくらか行わけしている)。


【新しい民族大移動の時代】
シベリア北部がより居住や耕作に適したエリアとなり、サハラ地域の周囲がひどく乾燥して、そこに住む多数の人口を支えられなくなったらどうだろう。どうやって人口の再配置がなされるべきか。過去に同様なことが起こったとき、社会変化が野蛮かつ自発的な仕方で生じた。それは暴力と破壊を伴って、である(想起しよう、ローマ帝国の終焉時の壮大な移動を)。そのような予想は、現代では破滅的である。というのは多くの国で大量破壊兵器が利用できるのだから。

したがって、学ばれるべき主要な教訓は、人類はもっと「可塑的 plastic」かつ遊牧的な仕方で生きるように準備すべきだということだ。地域と世界の急速な環境変化は、前代未聞の壮大な規模の社会変容を要求している。

ーージジェクは民族大移動を記しつつ、フロイトの次の文を間違いなく想起しているはずだ。

《「人間は人間にとって狼である」(Homo homini lupus)といわれるが、人生および歴史においてあらゆる経験をしたあとでは、この格言を否定する勇気のある人はまずいないだろう。

通例この残忍な攻撃本能は、挑発されるのを待ちうけているか、あるいは、もっと穏やかな方法でも手に入るような目的を持つある別の意図のために奉仕する。けれども、ふだんは阻止力として働いている反対の心理エネルギーが不在だというような有利な条件に恵まれると、この攻撃本能は、自発的にも表面にあらわれ、自分自身が属する種族の存続する意に介しない野獣としての人間の本性を暴露する。

民族大移動、フン族――ジンギス・カーンおよびティームールにひきいられたモンゴル人――の侵入、信心深い十字軍戦士たちによるエルサレムの征服などに伴って起こった数々の残虐事件を、いや、さらに最近の世界大戦中」の身の毛もよだつ事件までを想起するならば、こういう考え方を正しいとする見方にたいし、一言半句でも抗弁できる人はあるまい。》(フロイト『文化への不満』 )


 【国家主権の再定義】
一つのことが明らかだ。すなわち、国家主権はラディカルに再定義されなけばならない。そして世界的協調 cooperation を創造しなければならない。計り知れない経済の変化にどう対応したらいいのか、新しい気候のパターンによる環境保全、あるいは水やエネルギーの不足をどうしたらいいのか。(…)


【我々の未来としての難民】 
第一に、ヨーロッパは、難民の品位ある生存のための手段を提供するために、十全なコミットメントを改めて約束しなければならない。ここにはどんな妥協もない。多数の移民は我々の未来である。このようなコミットメントの唯一の代替は野蛮状態の復活である(人が呼ぶところの「文明の衝突」だ)。


【難民たちが支払うべき代価】
第二に、このコミットメントの必要不可欠な帰結として、ヨーロッパは自身を組織し、明確な規則と法を課さなければならない。難民の流れの国家コントロールは、全ヨーロッパ共同体を網羅する壮大な行政ネットワークを通して実施されるべきだ(ハンガリーやスロヴァキアの行政のそれのような地域の野蛮行為を避けるために)。

難民は、彼らの安全にかんして保証されなければならない。しかし難民に対して明確にしておくべきことは、彼らはヨーロッパの行政当局によって割り当てられた居住エリアを受け入れなくてはならないということだ。それにつけ加えて、ヨーロッパ各国間の法と社会規範に敬意を払わなければならない。すなわち、どんな側面でも、宗教的、性差別的、民族的暴力への寛容はない。自身の生活様式あるいは宗教を他者に押し付ける権利はない。彼/彼女の共同体の慣習を捨て去るすべての個人の自由への敬意、等々。

もし女性が顔をヴェールで覆いたければ、その選択は尊重されなければならない。しかしもし 顔を覆わないことを選ぶなら、彼女の自由が保証されなければならない。そう、こうした規範は西洋的生活様式を特権化するが、それがヨーロッパでの受け入れの代価である。 こられの規範は明文化されて必要に応じて強制的に施行されなければならない (国内のレイシストに対するのと同様に外国の原理主義者に対しても、である)。


 【新しい形での国際的介入】
第三に、新しい形の国際的な介入が創造される必要がある、すなわち新植民地主義の罠に陥らないような軍事的かつ経済的介入が。リビアやシリア、コンゴにおける平和を国連軍は保証しただろうか? このような介入は、新植民地主義に密接に関連しており、徹底的な予防措置が必要となる。

イラクやシリア、リビアの事例は、いかに間違った介入が、不介入と同様に、同じ袋小路に陥るかを示している。間違った介入、すなわちイラクとリビアであり、不介入、すなわちシリアだ(シリアでは、表面的な不介入の仮面の裏に、ロシアからサウジアラビア、米国までの外国勢力が深くかかわっている)。


【究極的な理念】
第四が、最も困難かつ重要な仕事だ。それは、難民が生み出される社会的条件の廃絶のためのラディカルな経済的変化である。難民の究極的な原因は、現在の世界資本主義自体とその地理的ゲームにある。これをラディカルに変容させないかぎり、ギリシャやほかのヨーロッパ諸国からの移民が、アフリカ難民にまもなく合流するだろう。

私が若い頃は、このようなコモンズ commons を統整する組織された試みは、コミュニズムと呼ばれた。我々は、おそらくそれを再発明すべきだ。これが長い目でみた唯一の解決策である。

これらの全てはユートピアだろうか。たぶんそうかもしれない。だがそうしなかったら、我々はほんとうに敗北してしまう。そしてなにもしなければそれに値する。

…………

当面以上だが、ここで、これらを「ユートピア」と考えるだろう〈あなたがた〉のために、こうつけ加えておこう。

人々は私に「ああ、あなたはユートピアンですね」と言うのです。申し訳ないが、私にとって唯一本物のユートピアとは、物事が限りなくそのままであり続けることなのです。(ジジェクーーユートピアンとしての道具的理性instrumental reason主義者たち

もちろん、ジジェクのような提案ではなく、ほかの提案もあるのかもしれない。だがそれらの殆どすべては、わたくしの知るかぎりたんなる「彌縫策」にすぎない。

資本主義的な現実が矛盾をきたしたときに、それを根底から批判しないまま、ある種の人間主義的モラリズムで彌縫するだけ。上からの計画というのは、つまり構成的理念というのは、もうありえないので、私的所有と自由競争にもとづいた市場に任すほかない。しかし、弱肉強食であまりむちゃくちゃになっても困るから、例えば社会民主主義で「セイフティ・ネット」を整えておかないといかない。(『可能なるコミュニズム』シンポジウム 2000.11.17 浅田彰発言)

彌縫策とは、中井久夫の名著『分裂病と人類』で明かされたように、日本人の得意技でもある。二宮尊徳を例に挙げ、立て直し/世直しの対比で叙述されている(二宮自身は「立て直し」論理だけではない強靭さがある、と中井久夫は強調していることを注記しておこう)。

そこでは、二宮の倫理は、《世界は放置すればエントロピーが増大し無秩序にむかう、したがって絶えず負のエントロピーを注入して秩序を再建しつづけなければならない》ものとされつつ、こうある。

その裏面として「大変化(カタストロフ)」を恐怖し、カタストロフが現実に発生したときは、それが社会的変化であってもほとんど天災のごとくに受け取り、再び同一の倫理にしたがった問題解決の努力を開始するものである。反復強迫のように、という人もいるだろう。この倫理に対応する世界観は、世俗的・現世的なものがその地平であり、世界はさまざまの実際例の集合である。この世界観は「縁辺的(マージナル)なものに対する感覚」がひどく乏しい。ここに盲点がある。マージナルなものへのセンスの持ち主だけが大変化を予知し、対処しうる。ついでにいえば、この感覚なしに芸術の生産も享受もありにくいと私は思う。(中井久夫「執着気質の歴史的背景」『分裂病と人類』所収)

さて話を戻せば、彌縫策でない提案は、どうしてもジジェクと似たようなものとなるのではないか?たとえばピケティの提案などは、ジジェクや柄谷にとっては彌縫策にすぎない(参照→「世界は驚くほど「平和」になっている(戦死者数推移)」の末尾)。

各地の運動が国連を介することによって連動する。たとえば、日本の中で、憲法九条を実現し、軍備を放棄するように運動するとします。そして、その決定を国連で公表する。(……)そうなると、国連も変わり、各国もそれによって変わる。というふうに、一国内の対抗運動が、他の国の対抗運動から、孤立・分断させられることなしに連帯することができる。僕が「世界同時革命」というのは、そういうイメージです。(柄谷行人『「世界史の構造」を読む』)

すなわち、ジジェク=柄谷行人は次ぎのような考え方である。

一般に流布している考えとは逆に、後期のマルクスは、コミュニズムを、「アソシエーションのアソシエーション」が資本・国家・共同体にとって代わるということに見いだしていた。彼はこう書いている、《もし連合した協同組合組織諸団体(uninted co-operative societies)が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断の無政府主と周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それは共産主義、“可能なる”共産主義以外の何であろう》(『フランスの内乱』)。この協同組合のアソシエーションは、オーウェン以来のユートピアやアナーキストによって提唱されていたものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)
確かに、ヨーロッパは死んだ。しかし、どのヨー ロッパが死んだのか、と。これへの回答は、以下である。ポスト政治的なヨーロッパの世界市場への組み込み、国民投票で繰り返し拒絶されたヨーロッパ、ブリュッセルのテクノクラ ットの専門家が描くヨーロッパ──死んだのはそうしたヨーロッパなのだ。ギリシアの情熱と 腐敗に対して冷徹なヨーロッパ的理性を代表してみせるヨーロッパ、そうした哀れなギリシ アに「統計」数字を対置するヨーロッパが、死んだのだ。しかし、たとえユートピアに見えようとも、この空間は依然としてもう1つのヨーロッパに開かれている。もう1つのヨーロッパ、 それは、再政治化されたヨーロッパ、共有された解放プロジェクトにその根拠を据えるヨー ロッパ、古代ギリシアの民主制、フランス革命や10月革命を惹き起こしたヨーロッパである。(ジジェク、2010

結局、非イデオロギーという名のイデオロギー「新自由主義」国の面々、あるいは東アジア的破廉恥な資本主義国の連中にまかしておけるはずがない。新自由主義も東アジアのやり方も《世俗的・現世的なものがその地平であり、世界はさまざまの実際例の集合》である。

私は確信している、我々はかつてなくヨーロッパが必要だと。想像してごらん、ヨーロッパなしの世界を。二つの柱しか残っていない。野蛮な新自由主義の米国、そして独裁的政治構造をもった所謂アジア式資本主義。あいだに拡張論者の野望をもったプーチンのロシア。我々はヨーロッパの最も貴重な部分を失いつつある。そこではデモクラシーと自由が集団の行動を生んだ。それがなくて、平等と公正がどうやってあると言うんだ。(Zizek,The Greatest Threat to Europe Is Its Inertia' 2015.3.31)


《人間は幸福をもとめて努力するのではない。そうするのはイギリス人だけである》(ニーチェ『偶像の黄昏』)

世界資本主義の条件の下では、我々は、イデオロギー的には、「みなイギリス人=アングロサクソンである」。

そこから逃れるには(今では、虫の息として残存するだけかもしれない)あのヨーロッパ精神しかない。そのヨーロッパはシリア空爆に精を出すヨーロッパとはまったく異なったヨーロッパだ。