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2015年11月8日日曜日

戸口をすぎて行く隙間風の匂い

……彼らが私の注意をひきつけようとする美をまえにして私はひややかであり、とらえどころのない無意識的な回想 réminiscences confuses にふけっていた…戸口を吹きぬけるすきま風の匂を陶酔するように嗅いで立ちどまったりした。「あなたはすきま風がお好きなようですね」と彼らは私にいった。(プルースト「ソドムとゴモラ Ⅱ」 井上究一郎訳 p.168)

ドゥルーズがその著書『プルーストとシーニュ』で引用している断片だが、ああ、この文自体がわたくしをクラクラさせる。

人生はこのような時間の積み重ねで出来ている、もし〈あなた〉が、陶酔している者に対して「あなたはすきま風がお好きなようですね」というタイプでなければ。

以下の大江健三郎の文は、おそらくプルーストの『見出された時』にある「純粋過去 passé pur」をめぐる箇所、《純粋な状態での短い時間 Un peu de temps à l'état pur》という表現ーードゥルーズ解釈なら、《過去の時間の中での差異 différence dans l'ancien moment と、現在の時間の中での反復 la répétition dans l'actuel》ーー、あるいは(プルーストに戻れば)、《「死」という言葉 mot de « mort » はこの人間に意味をなさない、ということもうなずかれる。時間のそとに存在する人間だから、未来について何をおそれることがありえよう?》などをすくなくとも頭の片隅に置きつつ書かれたにちがいない、とわたくしは思う。’

……この一瞬よりはいくらか長く続く間、という言葉に私が出会ったのはね、ハイスクールの前でバスを降りて、大きい舗道を渡って山側へ行く、その信号を待つ間で…… 向こう側のバス・ストップの脇にシュガー・メイプルの大きい木が一本あったんだよ。その時、バークレイはいろんな種類のメイプルが紅葉してくる季節でさ。シュガー・メイプルの木には、紅葉時期のちがう三種類ほどの葉が混在するものなんだ。真紅といいたいほどの赤いのと、黄色のと、そしてまが明るい緑の葉と…… それらが混り合って、海から吹きあげて来る風にヒラヒラしているのを私は見ていた。そして信号は青になったのに、高校生の私が、はっきり言葉にして、それも日本語で、こう自分にいったんだよ。もう一度、赤から青になるまで待とう、その一瞬よりはいくらか長く続く間、このシュガー・メイプルの茂りを見ていることが大切だと。生まれて初めて感じるような、深ぶかとした気持で、全身に決意をみなぎらせるようにしてそう思ったんだ……

それからは、自分を訓練するようにして、人生のある時々にさ、その一瞬よりはいくらか長く続く間をね、じっくりあじわうようにしてきたと思う。それでも人生を誤まつことはあったけれど、それはまた別の問題でね。このように自分を訓練していると、たびたびではないけれどもね、この一瞬よりはいくらか長く続く間にさ、自分が永遠に近く生きるとして、それをつうじて感じえるだけのことは受けとめた、と思うことがあった。……

自分がこれだけ生きてきた人生で、本当に生きたしるしとしてなにがきざまれているか? そうやって一所懸命思い出そうとするならば、かれに思い浮ぶのはね、幾つかの、一瞬よりはいくらか長く続く間の光景なのじゃないか? 

……私としてはきみにこういうことをすすめたいんだよ。これからはできるだけしばしば、一瞬よりはいくらか長く続く間の眺めに集中するようにつとめてはどうだろうか? (大江健三郎『燃え上がる緑の木 第一部』p148-150)

一陣の風が、おまえの豊かな髪をねじって
おまえの夢見がちな精神に奇妙なざわめきを運び
木の嘆きと夜々の溜息のうちに
おまえの心が「自然」の歌声に耳を傾けていた…(ランボー「オフェリア」鈴木創士訳) 

通ってゆく汽車の汽笛がきこえ、その汽笛は、遠くまた近く、森のなかの一羽の鳥の歌のように、移ってゆく距離を浮きたたせながら、さびしい平野のひろがりを私に描きだし、そんな空漠としてなかを、旅客はつぎの駅へいそぐのだ、(「スワン家のほう」)

◆ Ian Bostridge - La lune blanche luit dans le bois「白い月影は森を照らし」 (Faure)



あたかも演奏者たちは、小楽節を奏しているというよりは、むしろ小楽節に強要されるままに、その小楽節が姿をあらわすに必要な聖なる儀式をとりおこなっているように見え、小楽節を呼びだす奇蹟に成功しそれをしばらくひきのばすために必要な呪文をとなえているように見えたので、スワンはーーその小楽節が紫外線の世界に属してしまったかのようにもはやそれを見ることもできず、またそれに近づいたとき、突然おそわれた一時の失明のなかで、変身の爽快な感覚にも似たものを味わっていたスワンはーーその小楽節が、彼の恋の秘密をきいてくれる守護女神であって、聴衆をまえにして彼のかたわらに近づき、彼を脇に連れていって話しかけようと、そうした楽の音に身をやつして現前しているのだ、と感じるのであった。そしてその女神が、彼に必要な言葉を告げながら、香水のように、軽く、心をやわらげ、そっとささやいて通りすぎてゆくあいだに、彼はその一語一語を玩味し、その言葉がそんなに早くとびさるのを惜しみながら、なだらかに、逃げて行くように過ぎさる、その調和あるからだに、無意識のうちに、くちづける動作をするのだった。(プルースト「スワン家のほうへ 第二部」 P.454)
もはや彼はただひとり遠いところに追放されているとは感じていなかった。なぜなら、小楽節のほうから、彼に言葉をかけてきて、オデットのことを小声で話してくれたからであった。つまり、彼はかつてのように、オデットも自分も小楽節に知られていないという印象をもはやもたなかったのだ。小楽節は、彼らのよろこぼをあんなにもたびたび目撃していたのだ! なるほど、小楽節はまた、たびたび二人の恋のはかなさを彼に警告した。そしてあのころ、小楽節のほほえみのなかに、熱中からさめた、澄みきった、その抑揚のなかに、彼は苦しみを読みとってさえいた。しかしいまはそのなかに彼はむしろ陽気に近いあきらめの美しさを見出すのであった。 (同上)

◆Anne Sofie von Otter; "La lune blanche luit dans le bois"; G. Fauré




……スワンは音楽の種々のモチーフを、べつの世界、べつの秩序に属する、真の思想〔イデ〕と呼ばれるべきものと見なしていた、それは闇で被われた、未知の思想であり、理知がはいりこめない思想であったが、それでいてやはりその思想の一つ一つがまったく明瞭に区別され、価値も意味もそれぞれひとしくない思想なのであった。はじめてヴェルデュラン家を訪れた晩、あの小楽節を演奏してもらった彼が、その夜会のあとで、なぜ小楽節が匂のように愛撫のように自分をとりまき自分をつつんだかを見きわめようとつとめたとき、あの身が縮まるような、冷気がしみこむような、快い印象がわきおこったのは、小楽節を構成する五つの音のあいだのわずかなひらきと、それらのなかの二つの音の不断の反復によることをスワンは理解したのであった。 (プルースト「スワン家のほうへ 第二部」 P.455)

◆Fauré - Piano Quartet No1 in C minor, Op.15 (2)



最後の部分がはじまるところでスワンがきいた、ピアノとヴァイオリンの美しい対話! 人間の言語を除去したこの対話は、隅々まで幻想にゆだねられていると思われるのに、かえってそこからは幻想が排除されていた、話される言語は、けっしてこれほど頑強に必然性をおし通すことはなかったし、こんなにまで間の適切さ、答の明白さをもつことはなかった。最初に孤独なピアノが、妻の鳥に見すてられた小鳥のようになげいた、ヴァイオリンがそれをきいて、隣の木からのように答えた。それは世界のはじまりにいるようであり、地上にはまだ彼ら二人だけしかいなかったかのようであった、というよりも、創造主の論理によってつくられ、他のすべてのものにはとざされたその世界―――このソナタ―――には、永久に彼ら二人だけしかいないだろうと思われた。それは一羽の小鳥なのか、小楽節のまだ完成していない魂なのか、一人の妖精なのか、その存在が目には見えないで、なげいていて、そのなげきをピアノがすぐにやさしくくりかえしていたのであろうか? そのさけびはあまりに突然にあげられるので、ヴァイオリン奏者は、それを受けとめるためにすばやく弓にとびつかなくてはならなかった。すばらしい小鳥よ! ヴァイオリン奏者はその小鳥を魔法にかけ、手なずけ、うまくつかまえようとしているように思われた。すでにその小鳥はヴァイオリン奏者の魂のなかにとびこんでいた。すでに呼びよせられた小楽節は、ヴァイオリン奏者の完全に霊にとりつかれた肉体を、まるで霊媒のそれのようにゆり動かしていた。スワンは小楽節がいま一度話しかけようとしているのを知るのであった。(プルースト「スワン家のほうへ」井上究一郎訳)

◆Faure, String Quartet, OP.121 andante