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2015年11月30日月曜日

メモ:「イスラム国」と「クルド国」



Lion of Elamits in Protoliterate period of Mesopotamia, 3000 AD(ancient Kurdsán)



表題に鉤括弧つきで「クルド国」としたが、正確にはクルディスタン Kurdistan(クルド人の国の意味)であり、クルド民族が紀元前から住み続けてきた地域をさす。


国を持たない大きな民族の悲劇、クルディスタン


「シリアにおけるクルド問題──差別・抑圧の“制度化”──青山弘之」より


イスラム国についてはここでは多くは触れない。ただ彼らの活動領域と呼ばれている土地は次ぎの通り。




…………

SLAVOJ ZIZEK: KURDS ARE THE MOST PROGRESSIVE, DEMOCRATIC NATION IN THE MIDDLE EASTより

《This interview with well-known philosopher Slavoj Zizek was conducted for Kurdish MedNuçe TV in the Slovenian capital Ljubljana.》

ーーあなたとクルド人のリーダー、アブドゥラ・オジャランの写真がソーシャルメディアにおいて共有されています。この裏にはどんな物語があるのでしょう?



ジジェク)そう、彼らはトルコでその写真を見せてくれた。それはインターネット上にあり、80年代のものだということ。しかし言わなければならないが、それは不幸にも本当のものではない。とはいえ、私はそれがなされることにはっきりとは反対するつもりはない。逆にその裏には美しい物語がある。

オジャランは現在、監獄のなかにいる。そして私が思うに、彼は知識人としての彼のアイデンティティを重んじている。監獄のなかで彼が求めた本のリストを見たことがある。オジャランは、たとえばフーコーを読んでいる。

私が知るかぎり、クルド人についての紋切型表現がある。彼らは山に住み苦難を抱えた原始的民族だ、というクリシェだ。しかしながら、クルド人は逆にとても世俗的(宗教的でない)という証拠がある。クルド人は自らを世界に向けて啓蒙されてモダンであると現そうと努めている。これは正しい手法だ。もし私があなたのポジションにあるなら、同じことをするだろう。
ーーということはあなたはオジャランに一度も会ったことがない…

そう、不幸にも会ったことがない。私は監獄にいる彼を訪ねたい。けれども、聞くところによると、彼は隔離されている。事実、オジャランは彼の弁護士にさえ会えない。私は知っている、彼は今ではもっと穏健な政策に携わっていることを。彼は自らをこの国の市民としてさえ定義している。彼が望むのは、クルド人の自主性だ。彼はもっと欲するための機会をもつべきだ。

歴史を見てみよう。クルド人は植民地分割の最大の犠牲者だ。西洋人の中東への接近法は、どの民族がどの民族と戦っているかを基にしている。言い換えれば、西側がそれを決定するのだ。それは中東における西洋の介入の伝統だ。最も大きなカタストロフィは第一次世界大戦後のものだ。シリアはエジプトの手に、他の国は他の国に手に。このせいで、すべての国境は偽物 artificial だ。現在のイラクを見なさい。東部イラクはシーア派でイランの影響下、西部イラクはスンニ派だ。人びとの視点からは、連合 federation は合理的だったのだが。アフガニスタンとパキスタンを見なさい。どこもかしこも同じだ。




さてここでやや古い記事だが、山内昌之氏による今年一月のクルドをめぐる見解を挿入しておこう。

山内昌之 イスラム国とクルド独立(2015.1.12)

中東ではイスラム国(IS)の台頭に隠れ目立たないが、大きな変動が着実に進んでいる。それは、国をもたないクルド人が、北イラクを中心に独立国家への道を歩んでいることだ。

 ISは、2014年8月にイラクのクルド地域政府(KRG)への本格的な攻撃を始めたが、それはトルコ、イラン、シリア、イラクに分散しているクルド人に国民形成と国家建設を促す大きなきっかけとなった。しかも、KRGを北イラク地方の自治政権から、米欧にとって国際政治に死活的な存在に転換せしめる触媒にもなったのだ。

 KRGとISは、イラクとシリアにまたがる地域を迅速に占領することで、国際的に承認された既存の国境線をぼやけさせ、イラクとシリアの分裂が残した政治的真空を満たそうとしている。双方ともに、自治の強化や独立国家の既成事実化を図るために、1千キロにわたり直接に「国境」を接する互いの存在を強く意識するようになった。かれらは、相手を映し出す鏡におのれの姿を見ているのだ。

 そもそもISがKRGと衝突したのは、昨年6月にISがイラクのティクリットとモスルを占領した同じ月、KRGがISの狙う石油地帯キルクークを占領したからである。イラクのクルド人支配地域が40%ほど拡大するに及び、ISにとってクルドとの対決こそ主要軸となり、バグダッド政府やアサド政権はゲームの脇役に追いやられた。

ISは、6月に指導者バグダディをカリフ(預言者ムハンマドの代理人)とするイスラム国家の建設を宣言した。こうしてシリアとイラクとの国境が無視されると、領土的に新たな「無人地帯」が現れた。それは、クルド人とISが影響力を競い合う地域と言い換えてもよい。

 国境線の希薄化はクルドにも利点がある。12年夏にシリアのクルド人地域(ロジャヴァ)は事実上の自治を獲得し、KRGとの協力と新たな共通国境を模索した。ISによるKRGとロジャヴァへの攻撃は、対立していたシリアとイラクのクルド人に共通の敵と対決する必要性を痛感させるに至った。
 この機運は、4国にまたがるクルディスタンの全体に広がった。イラン・クルディスタン民主党の部隊は、KRG国防省の指揮下にあるアルビルの南西地域に派遣され、トルコのクルディスタン労働者党とそのロジャヴァの直系組織たる人民保護軍は女性も含めてシリアとイラクでISと戦っている。

 いちばん劇的な変化は、長くイラクの一体性を主張してきた米国で起きた。オバマ大統領はISに対抗するクルド支援の必要性に寄せて、イラクと別にクルドの名を明示的に挙げるようになった。米国をはじめとする有志連合による空爆は、不活発なイラク国防軍のためでなく、戦場のクルド部隊のためなのである。有志連合はKRGに依拠する以外に対IS地上戦略の足がかりがないのが現状なのだ。

 クルド民族は、かれらの歴史と伝統において異次元の世界に入ったといえよう。その独立国家宣言は時間の問題のように思える




最近の山内昌之氏の発言ーーここにはクルド人への言及はないがーーの一部も貼り付けておこう。

中東の民主化を要求した「アラブの春」は、シリアではイスラム過激派が伸長し自由や人権を否定する運動を生んだ。シリア内戦から生み出された鬼っ子がISだ。テロと性暴力を核とする組織の拡大過程で西欧社会に基盤をつくり、自爆要員を無差別に受け入れる倒錯と変容が起きたというべきで、今回の容疑者らはその象徴だ。現代社会が生んだニヒリズムとゆがみを反映した不満分子がイスラムの名や大義を借りている側面をもっと見るべきだ。すぐにフランス社会の人種差別や同化政策に結びつけるのは短絡である。(パリ同時テロ:識者に聞く毎日新聞 2015年11月25日


※附記

◇遊牧民族がなぜ蛮族視されてきたのか

(山内)いったい遊牧民を蛮族視する見方は、中国に限らず、有史宗教または世界宗教が農耕文明と結びついた第二次農耕文明の成立後、騎馬遊牧民の侵入に苦しめられた農耕民による偏見なのです。(蓮實重彦、山内昌之『20世紀との訣別:歴史を読む』岩波書店、1999年2月)





さて、ふたたびジジェクへのインタヴュー記事より。

ーーあなたは数日前、イスタンブールにいた。どうでしたか?

そう、二日前のことだ。我々は友人と愛について話した。我々は神学論とキリスト教におけるスローガン「汝の隣人を汝自身のように愛せ」について議論した。我々はこれをトルコ人に向かって言うことができる。「クルド人を汝自身のように愛せ」と。

今起こっていることは愛のテストだ。私はもっと別の何かをわかりやすくしてもみた。すなわち、あなたはクルド人やアルメニア人の悲劇に気づいているか、と。クルド人とアルメニア人の大虐殺は伝統的なトルコ人の野蛮さのせいではない。そうではなく、若いトルコ人の出現のせいだ。

これらのことは、トルコにおける近代化の誕生とともに起こった。今日の状態に比較して、オットマン帝国はマイノリティや異なった集団に対してもっと寛容だった。問題は若いトルコ人とともに始まった。ユーゴスラビア戦争のあいだ、最も大きなユダヤ人のマイノリティ集団はサラエヴォに住んでいた。なぜか? というのは、ムスリムマイノリティはユダヤ人に、キリスト教徒よりは、寛容だったからだ。私はどんな誤解をも禁じておきたい。エルドアンが今やっていることは蛮行だ。宮殿を建てる代わりに、彼は振り返って見る必要がある、オットマン帝国のあいだはいかなる自由があったのか、今よりも良いものではなかったのか、と。

19世紀の愛国者的ヨーロッパに比べて、イスタンブールはもっと寛容だった。もしエルドアンたちがオットマンサルタンに戻りたいなら、連中はその法と伝統に戻るべきだ! 
……オットマン時代はたしかに醜悪な面もあった。たとえば、もしあなたがムスリムでないなら、余分の税金を払わなければいけなかった。しかしながら、マイノリティたちのためのいくつかの法があり、それは今よりはマシだ。どの左翼も知っている、第二次世界大戦以前の東洋における帝国、オットマン帝国とオーストリア=ハンガリー帝国は、いくつかの問題において現在の状態より進歩的だったことを。

クルド人は中東において鍵となる役割をもっている。クルドの問いが解決されれば、中東のすべての問題もまた解決される。バルカンには非合理的状況がある。アルバニアとコソボは、二つに分離した国家だが同じ人びとだ。西側は統合することを許さない。というのは彼らはより大きなアルバニアをおそれるからだ。逆に、中東における「クルド国 A Kurdish state」は誰にも脅威にならない。実際上、それは人びとのあいだの架け橋になるだろう。





…………

※附記

ーー〈わたくし〉と同じくらいクルド人について無知の〈あなた〉のために

この機会にインターネット上にあるクルド人関係の論文を何本か読んでみたが、松浦範子さんの「クルド─翻弄の歴史と現在」というエッセイ風の論がわたくしには際立って好ましい。

千葉県生まれ。武蔵野音楽大学音楽学部卒業。高校教師、会社員を経て、現在フォトグラファー。1997年よりトルコ、イラン、イラク、シリアのクルディスタンを繰り返し訪問し、新聞、雑誌などで写真と文章を発表するほか、講演活動も行っている。2007年1月から3月には、中日新聞と東京新聞の夕刊連載でイランに暮らすクルド人について綴り、64回にわたり発表。

ーーという方のようだ。


◆クルド─翻弄の歴史と現在─ (写真家松浦範子,2010)PDF

クルド人はご承知のとおり、 「国を持たない民 族では世界最大」といわれる中東の先住民族で す。その居住地域は、クルド人の土地との意味で 「クルディスタン」と古くから呼び慣わされてき ました。しかし現在そこは、トルコ、イラン、イ ラク、シリアなどの領土にまたがり、それらの国に分割、併合されたかたちとなっています。



トルコ東部の山間部を訪れてみると、そこには弾痕でハチの巣状になった、あるいは軍隊に焼き払われて廃虚となったクルドの村が至る所に点在していました。ある時その様子を乗り合いバスの中から撮っ ていると、同乗していた老人が無言で握手を求め てきました。またある時は「撮った写真を日本の 新聞で発表してくれ。こんな目に遭っているとい うのに誰も来てくれない」と訴える人とも出会い ました。そして「人間らしく扱われること、人間 として生きることを望むだけだ」と語るのを何度も耳にしました。
クルド民族の総人口は、2500万人から3000万人ほどと推定されています。彼らが暮らしているのは、主にトルコ、イラン、イラク、シリアなどの国境が接する地域で、トルコ領内にクルド人全体 のおよそ半数の1500万人が、イランに600万、イ ラクに400万、シリアに300万人ほどが暮らしてい ます。その他アゼルバイジャンやアルメニアと いった旧ソ連領の一部や、レバノンなどにもクル ド人は住んでいます。その面積は全体でおよそ50万平方キロ。日本の国土のおよそ1.5倍に相当す る広さです。そこでは人の流れを阻む険しい山岳地帯や、草に覆われたなだらかな丘陵地、平野や 土漠など、さまざまな地形と風景が見られ、冬季 の高地では氷点下30度まで下がる一方、トルコ、 シリア、イラクの国境が接する夏の平野部では極 度に乾燥し摂氏50度にも達します。  

この地は天然資源が豊富で、石油や石炭などさまざまな資源が眠っています。しかし何といっても重要なのは、豊富な水資源です。古代メソポタ ミア文明を育んだチグリス、ユーフラテス川の源流は、トルコ領内のクルド人居住地域にあり、次 第に大河となってディヤルバクルやジズレといったクルド人の主要な都市を貫き、シリアやイラク へと流れ行きます。その豊富な水は、クルディス タンの人びとに生活用水と肥沃な農地をもたらし てきたばかりでなく、大規模なダム建設によって 水流をコントロールするトルコ政府にとっての重 要な外交手段としても利用されてきました。  

古くからその土地で部族社会を形成し、部族単 位で遊牧生活を送っていたクルドの人々ですが、 歴史の移ろうなか、オスマン帝国やペルシア、ア ラブといった大きな勢力の狭間で改革、 「近代化」 の波に圧され、定住化が進んだことから部族社会 は崩壊していきました。現在でもイランやイラク の一部の地域にクルド人部族がわずかに存在して いますが、その規模は年々縮小しています。
宗教的にはどうでしょうか。その昔ゾロアス ター教(拝火教)を信仰していたものと考えられ ていますが、現在では多くがイスラム教スンニ派に属しています。ただし地域によっては、イスラ ム・シーア派やキリスト教、アレヴィー教、イエ ジディー教などを信仰している人たちもいます。  彼らの母語であるクルド語は、インド・ヨー ロッパ語族のペルシア語に近い言語で、地方によってケルマンジ、ソラニー、ザザなど、いくつもの方言に分かれています。
トルコ共和国は、1923年の建国以来、単一民族国家を国是としてきました。実際はトルコ領内に はトルコ人のほかに、クルド人やアラブ人、そし て数多くの少数民族がモザイク状に混在しています。しかし建国の父と称される将軍ムスタファ・ ケマルは、初代大統領に就任するやいなや、民族的な差異からバラバラに分裂しかねない領土を一 つに束ねるべく、 「トルコ国家はトルコ人とトル コ文化のみで構成される」との理念を打ち立て、 そのスローガンをもとに、使用言語はトルコ語の みとし、それ以外は固く禁じるなど、厳しい同化政策を推し進めました。  

国民の20~25%を占めるクルド人については、政府は特に目を光らせて監視し、クルド人を「山岳トルコ人」と呼ぶことでその存在を完全に否 定。クルド語の使用から、歌や音楽や踊り、民族 衣装の着用まですべてを禁止し、違反した者には 国家反逆罪が科せられました。民族的・文化的に 均一な統一国家の建設には、異文化の存在は脅威 であるとしたからです。  そもそも現実とはかけ離れたこの同化統合政策 のもと、クルド人たちは激しく反発し始め、大小 さまざまの抵抗運動が起こりました。中でも1980 年代にクルド民族の解放を求めて武装蜂起した非 合法組織「クルディスタン労働者党」 (PKK)は、 トルコを大きく揺るがしました。  

その中心人物として PKK を率いたのが、党首 アブドゥラ・オジャランです。アンカラ大学で政治を学んでいた頃にマルクス・レーニン主義の洗 礼を受け、左翼思想に傾倒していったオジャラン は、1978年に同党を立ち上げ、1984年に本格的な 武装闘争を開始します。はじめはトルコ東部の山岳地帯でトルコ政府軍の待ち伏せ攻撃を繰り返し ていましたが、86年頃からは攻撃の対象を都市部 にまで広げ、軍事施設や警察署を主なターゲットとし、さらには外国人の誘拐や政府の役所や観光地まで襲撃することで、民族解放運動を広くアピールしました。  それに対しトルコ政府は、分離主義、テロ行為 には絶対に屈しないという強硬な姿勢で、年間70 ~80億ドルとも推測される予算を費やし、大量の 兵器と兵士を投入。その圧倒的な軍事力をもっ て、PKK 弾圧に血道を上げてきました。

PKK を率い、そのカリスマ性で多くのクルド人の注目を集めてきたオジャランは、1999年にケ ニアで拘束され、本国へ送還後、一旦は死刑宣告 を受けたものの、法律改正により終身刑に減刑さ れ、現在もイスタンブールの沖合に浮かぶ監獄島 に拘禁されています。オジャランを失った PKK は停戦宣言を出し、その後は内部分裂などを繰り返しているとの見方が強まっています。
……「PKK の闘いは、クルド民族の存在と問題を世界に知らせることにはなった。だが、クルド人に とって今世紀最大の成果と言えるのは、イラク北部での自治政府の樹立だ」  

現在では体制を恐れながら暮らさなければなら ないということはなくなりましたが、イラクでも 長い間、クルド人勢力と中央政府との間で激しい 戦闘が繰り返され、民族的マイノリティーである クルド人は大量殺戮や強制移住などの憂き目に 遭ってきました。イラン・イラク戦争末期には、 自国の軍隊に毒ガスで攻撃され、あまたの一般市民が犠牲となっています。(……)



それでは、この映像(DVD)をご覧ください。 これはイラン・イラク戦争末期の1988年3月に北 イラクのクルド人の町、ハラブジャとその周辺の 様子を、 イラン軍の兵士が撮影したものです。 (当時の一時期、その一帯はイラン軍の占領下にあっ た)  

春が訪れたばかりの農村地帯に、無差別に無数の爆弾が落とされ、大量の煙があちこちから上 がっています。これがイラク軍による、クルド人に向けて行われた化学兵器攻撃です。目撃者の話 によると、煙は黄色っぽい色をしていて、ニンニ クのような、あるいはリンゴの腐ったような臭い がしたといいます。米国の人権団体の調査で、使 われたのは神経を麻痺させるガスの一種サリンと 皮膚や呼吸器に炎症を起こすマスタードガスの混合ガスだったことがわかっています。

アブドラ・オジャランをめぐっての記述を黒字強調したように、彼は「体制側からは」明らかにテロリストのドンとして扱われたといってよいだろう。




公安調査庁:クルド労働者党(PKK) Partiya Karkeran Kurdistan

アブドラ・オジャラン(Abdullah Ocalan)

設立者で象徴的指導者。1948年トルコ生まれ。1970年代,トルコ・アンカラ大学に在学していた際に,左翼系武装組織「民族解放軍」(注3)の指導者に就任した。1978年,同組織の名称を「クルド労働者党」(PKK)に変更し,同国南東部での「クルド人国家の樹立」に向けて活動した。

1980年にトルコを出国し,シリアなどに滞在したほか,イタリア,ギリシャなどで庇護申請を行ったが,認められず,アフリカなどで潜伏場所を探していたところ,1999年2月,ケニアで拘束された。

オジャランは,同年6月,トルコ領域の一部を分離させるために計画的な行動を実行するなどしたとして,アンカラの治安裁判所から死刑を言い渡された。同年8月には,獄中から「和平イニシアチブ」を発表した。同人は,2002年10月,トルコでの死刑廃止(同年8月)に伴い,アンカラの治安裁判所により死刑から終身刑に減刑された。現在は,マルマラ海のイムラル島で服役中である。

…………

もちろんわれわれはこれらの資料をすなおに読む必要はないのであって、たとえば山内氏の《中東ではイスラム国(IS)の台頭に隠れ目立たないが、大きな変動が着実に進んでいる。それは、国をもたないクルド人が、北イラクを中心に独立国家への道を歩んでいることだ》という文から、逆に、イスラム国やトルコなどによるクルド人の「ふたたび」の大虐殺の可能性を懸念すべきという態度もあるだろう。ジジェクのクルド人顕揚は、その懸念の裏返しとも見ることができる。

逆に次ぎのような記事もある(BuzzFeed News Oct. 17, 2015)。
Why America’s Alliance With Syria’s Kurds Has Many Worried

The West often falls in love with freedom fighters, but those freedom fighters can turn out to be not-so-good guys later.

わたくしのこの「メモ」も、クルド人兵士(女性兵士?)たちにいささか「恋に陥った」気味合いがないでもないことを白状しておこう。




《The female Kurdish fighters are feared by Islamic State militants, who believe that they'll go straight to hell if they are killed by a woman.》という記述を見出したが、ほんとうかどうかは知らない。(Kurdish women fighters wage war on Islamic State in Iraq [Photo report]




というわけで「恋ざまし」に次ぎの文を反芻しておくべきか・・・

「戦争が男たちによって行われてきたというのは、これはどえらく大きな幸運ですなあ。もし女たちが戦争をやってたとしたら、残酷さにかけてはじつに首尾一貫していたでしょうから、この地球の上にいかなる人間も残っていなかったでしょうなあ」(クンデラ『不滅』)

◆Koma Şehîd newal , Vaye îro YPJ