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2015年10月9日金曜日

シェイクスピア、ロラン・バルト、デモ(ヒステリーの言説)

「あなたは私のことをあなたの恋人だとおっしゃる。私をそのようにした、私の中にあるものは何? 私の中の何が、あなたをして私をこんなふうに求めさせるのでしょう?」“You say I am your beloved – what is there in me that makes me that? What do you see in me that causes you to desire me in that way?”(シェイクスピア『リチャード二世』)

これは名高いヒステリーの言説の典型例とされる。そもそもヒステリーは精神分析を生んだ。

まだ若い頃のラカンは『les complexes familiaux(家族複合)』(1938)にて、当時の家族と社会における父の家父長的なイマーゴの下落が精神病理の主な原因であるとしている。彼は精神分析はこの危機から生まれたとさえ言っている。

この洞察を引き継ぎ、かつラカンの四つの言説理論を援用して、Serge Andre( “What Does a Woman Want? ”2000)は、シニカルなひねりを加えこう言う、《ヒステリーの主体は、主人の形象が必要である。これが精神分析を創作する手助けをした》と。

フロイトが『文化のなかの居心地の悪さ』(1930)で教えてくれたのは、社会と個人のあいだいは緊張の領域があり、個人の欲望は社会によって拘束されるということだ。彼が仕事を始めたのは、19世紀のいわゆるヴィクトリア朝モラルの社会、すなわち全き父権制社会がいまだ華やかかりし時代であり、そこでは伝統的な階級構造と支配的な宗教による「禁止」、あるいは超=強制倫理の支配する時代だった。この社会において「神経症」(ヒステリー、強迫神経症)が生みだされた。ここでも精神分析が生れたのは、神経症のせいだということになる。

その後、第一次世界大戦によって、西欧文化の超自我(父権制社会)が揺るがされる。ヴァレリーの「精神の危機」 (1919) とは、実は西欧文化の「父」の危機であった。ラカンの言葉もこの流れにある。


この図を冒頭のシェイクスピアの文を使っていえば、欲望の主体$は愛人S1に問いかけるが、愛人S1が問いに答えていくら知識S2を生産しようとも、「私とは何?」という対象aとは合致しない、ということだ。


私に教えて!  →   あなたは私の恋人だ

  ↑                 ↓

私とは何?    //  なぜならオッパイの形がステキだからだ


永遠に退屈な女性的な質問、「どうしてあなたは私のことが好きなの」という質問を例にとって考えてみよう。本当の恋愛においては、この質問に答えることはもちろん不可能である(だからこそ女性はこの質問をするのだが)。つまり、唯一の適切な答えは次の通りである。「なぜなら、きみの中にはきみ以上の何か、不確定のXがあって、それがぼくを惹きつけるんだ。でも、それをなにかポジティヴな特質に固定することはできない」。いいかえれば、もしその質問にたいしてポジティヴな属性のカタログによって答えたなら(「きみのおっぱいの形や、笑い方が好きだからだ」)、せいぜいのところ、本来の恋愛そのものの滑稽なイミテーションにすぎなくなってしまう。(ジジェク『斜めから見る』P194)

ここでの「不確定のX」とは言うまでもなく対象aである。

人が何かを愛するのは、その何かのなかに近よれないものを人が追求しているときでしかない。(プルースト「囚われの女」)

この文は「$がS1を愛するのは、S1のなかのaを追求しているときでしかない」と書き直すことができる。だがS1はȺでもある。すなわち欠如がある。aを追求するとは、実際は、自らのaでȺの欠如を埋めあわせる振舞いということになる。
…………

ラカンは1968年の学生運動のさなか次ぎのように言い放った、《君たちは新しい主人を求めるている、やがて君たちはそれを得るだろう》Vous voulez un maître, vous l'aurez(1968)。

ーーポール・ヴェルハーゲはこの文にこうつけ加えている、殆どの場合、より劣化した主人を、と。そして20年後になってようやく我々はその「新しい主人」の正体が分かったのではないか、と。

20年後、つまり1989年に何があったかわれわれは知っている。「資本」、あるいは資本の欲動がわれわれの真の新しい主人である(ラカンが1969年あたりから言いだした「主人の言説の時代から資本家の言説の時代へ」とは、この意味として捉えられる)。

1968年とはラカンが四つの言説概念を準備しているときである。デモの言説は、形式的にはもちろんヒステリーの言説だ。

2015年安保ならこうなる。

デモの主体 $   →   安倍晋三 S1

      ↑              ↓

(生活保守?)a  //  ・ 積極的平和S2s 
               ・ 戦後レジームからの脱却


ーー上に記したが、現在のS1(主人)とは、「安倍晋三」ではなく「資本の欲動」としてもとらえうる。


もちろんヒステリーの言説は他にいくらでもヴァリエーションがある。

質問者 $    →      講演者S1 
 (それ何の役に立つの?)

  ↑               ↓

攻撃欲動a.           知識S2
 (お前、阿呆   //    (〜の役に立ちます )
じゃないか?)

質問とはあることを知りたいと思うことである。しかし、多くの知的論争においては…質問という口実で、弁士にけんかを仕掛けるのだ。質問とは、その場合、警察的な意味を持つ。すなわち、質問とは訊問である。しかし、訊問される者は、質問の意図にではなく、その字面に答えるふりをしなければならない。その時、ひとつの遊戯が成立する。各人は、相手の意図についてどう考えるべきか、わかっていても、遊戯は、真意にではなく、内容に答えることを強制する。誰かが、さりげなく、《言語学は何の役に立つのですか》と、私に質問したとする。それは、私に対して、言語学は何の役にも立たないといおうとしているのだが、私は、《これこれの役に立ちます》と、素直に答えるふりをしなければならない。対話の真意に従って、《どうしてあなたは私を攻撃するのですか》などといってはならない。私が受け取るのは共示〔コノタシオン〕であり、私が返さなければならないのは外示〔デノタシオン〕である。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」)

ここでヒステリーの言説ではなく、四つの言説の形式的構造をベースにしていえば次のようになる。

ロラン・バルトがいうコノタシオンは矢印3であり、デノタシオンは矢印1である。



話し手は他者に話しかける(矢印1)、話し手を無意識的に支える真理を元にして(矢印2)。この真理は、日常生活の種々の症状(言い損ない、失策行為等)を通してのみではなく、病理的な症状を通しても、間接的ではありながら、他者に向けられる(矢印3)。

他者は、そのとき、発話主体に生産物とともに応答する(矢印4)。そうして生産された結果は発話主体へと回帰し(矢印5)、循環がふたたび始まる。 (Lesourd, S. (2006) Comment taire le sujet? )

…………

以下、別に投稿しようと思ったが、そうするまでもないだろう。ここにつけ加えておく。


一方の手で着物をまくり上げようとし、他方の手で着物を押さえようとするヒステリー患者の発作もこのことを示している(「矛盾する同時性」)。患者は分析中に一方の性的意味から逆の意味の領域へと「隣りの線路の上へそらせるように」たえずそらせようとする。(フロイト『ヒステリー性空想、ならびに両性性に対するその関係』ーー「ミニスカ症候群と集団ヒステリー」)

…………

ヒステリーという概念は1980 年にのDSM-III( 『精神疾患の分類と診断の手引き』 第 III 巻) なるアメリカ精神医学会の診断マニュアルーー中井久夫曰くは「黒船」ーーにて消滅し、その上位区分「神経症」(強迫神経症とともに) カテゴリーが解体されてしまった。

だがフランスなどではいましばらくは生き残っていたようだ。

僕はラカン派、 とりわけフロイトの大義派(ECF)の状況しか知りませんが、 僕がフランスに留学した 1994、5 年頃だと、ECFの分析家たちのあいだにはまだ、DSM-III のもたらした変化などどこ吹く風、という感じがありました。 (立木康介「来るべき精神分析のために」座談会 2009

ようやく《1990 年代後半になると状況が変わってきて、フランスの分析家たちも自分たちが臨床で相手にしている患者さんが今までと違ってきているのではないか、という感触を持ち始め》て、1998 年にECFでジャック=アラン・ミレールが「普通の精神病(psychose ordinaire)」というタームを掲げることになる。ベルギーの精神分析医ヴェルハーゲがフロイトの旧来の「精神神経症」ではなく「現実神経症Aktualneurose」概念に注目しだしたのもこの流れである(参照)。

さてここでは時代錯誤的に振舞ってみよう。

ヒステリー患者が少なくなってきたという話はよく聞きますが、 実際少なくなったのは派手な症状を呈するヒステリー患者であって、 ほとんど無症状で、 一見ありきたりの悩みを抱えているヒステリー患者は今でも数多くいます。 そういう人の治療では、言葉の力というものを明確な手ごたえをもって実感できます。 (十川幸司 同上 座談会)

ーーなのだから。そもそも「ふつうの」ヒステリー症者がいなくなるわけはない。言語を使用するかぎり、われわれはみなヒステリーである。

と、ディレタントにすぎないわたくしが言っても仕方がないので、次の論文から抜き出しておこう。初出は「Le maître et l'hystérique, Paris: Navarin (1982), pp. 11-30.」であり、21世紀になってもLacan.comに再掲され、2003年に上梓されたジジェク編集の『JACQUES LACAN Critical Evaluations in Cultural Theory Volume I: Psychoanalytic Theory and Practice 』にも名高い古典的な論文と並んで掲げられているGÉRARD WAJEMAN の「The hysteric's discourse 」

ふつうのヒステリーは症状はない。ヒステリーとは話す主体の本質的な性質である。ヒステリーの言説とは、特別な会話関係というよりは、会話の最も初歩的なモードである。思い切って言ってしまえば、話す主体はヒステリカルそのものだ。(GÉRARD WAJEMAN 「The hysteric's discourse 」私訳)

というわけで、わたくしもあなたもヒステリーの主体である。ツイッターなどでなにやら尤もらしく呟いている連中の言説はおおむねヒステリーの言説である、ーーとまで言わないでおくが(男性の場合、強迫神経症の言説(大学人の言説)とした方がよりふさわしい場合が多いし、ネトウヨ・ヘサヨ系は「想像的ディスクール」とする立場もある)。

が、ここではそれに触れることもせず、倒錯的に振舞うことにする。

さてGÉRARD WAJEMAN の1982年の論文にはこうもある。

質問する者はヒステリー的である。問うことは言語の関係性においてとても初歩的であり言葉なしでもそれはなされ得る。ヒステリー者は医師に彼女の謎をかけた身体を提供する無言でさえも、彼女は問いを提示している

ヒステリーの主体は医師に症状について問う。説明もなしで、彼女の身体を判じ物にする。医師に答を迫り、彼女を治療するために必要な知識を生みだすよう促す。(GÉRARD WAJEMAN)

これは臨床的な状況が記されているがそれだけにかぎらなくてよいだろう。《彼女の身体を判じ物にする。医師に答を迫る》ことをめぐって、たとえば次ぎの文を並べてみよう。

男がものごとを考える場合について、頭と心臓をふくむ円周を想定してみる。男はその円周で、思考する。ところが、女の場合には、頭と心臓の円周の部分で考えることもあるし、子宮を中心にした円周で考えることもある。(吉行淳之介『男と女をめぐる断章』)

この文が有名な格言「女は子宮で考える」のヴァリエーションであるだろう、すなわち女はほとんど常にヒステリー的なのだ。いやすくなくともかつては主にそうだといわれた。だが図式的にはそういってしまってうのは遠慮しよう・・・女はときに分析家の言説に進行 progrès(時計の右回り)することさえあるのだから。



ここで想いだしてみよう、男が妻の前で話をしているありふれた光景を。夫は手柄話を自慢していたり、己の高い理想をひき合いに出したりしている等々。そして妻は黙って夫を観察しているのだ、ばかにしたような微笑みをほとんど隠しきれずに。妻の沈黙は夫の話のパトスを瓦礫にしてしまい、その哀れさのすべてを晒しだす。この意味で、ラカンにとって、ソクラテスのイロニーとは分析家の独自のポジションを示している。分析のセッションでは同じことが起っていないだろうか? (ジジェク、2012)

妻aは夫に無言の言説を投げかける。すると分析家の言説の構造が明らかにしているようにa→$となる。夫はヒステリーの主体の場に置かれてしまう。こうやって夫はヒステリーの言説を繰り延べることになる、「どうしてオレはオマエのいうようなアホウなのか?」と。


さて次ぎの文は形式的構造におけるヒステリーの言説とは関係がなく臨床的な記述だが、ここに参考のために掲げておこう。

……例えば、ラカンは倒錯は男性的剥奪であり、男と女の二項構造を神経症・精神病・倒錯の三つ組みと結合させるとさらに複雑になると言っています。私たちが言いうるのは、倒錯は男性的剥奪であり、本物の精神病のすべては女性であろうということです。ラカンは精神病を「女性への衝迫[pousse a la femme]」とみなすという、今では有名となったフレーズを作りました。精神病は女性の領域にあるのです。神経症においては、 ヒステリーと強迫が区別され、 一般に女と男に関連付けられます

しかし、だからといってヒステリーの男性がいないと主張するのではありません。私たちが神経症を語るとき、あるときはこのように注目しますが、また別の機会には、フロイトは強迫神経症をヒステリーの方言であり、ヒステリーが神経症の中核であると考えていたことを元にして、ヒステリー神経症と強迫神経症の区別について注目します。(ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」)  


他方、たとえばあなたがツイッター上で誰かに質問を投げかければそれはヒステリーの言説である。質問すれば、あなたがヒステリー症者であろうとなかろうと関係なしに形式的構造としてヒステリーの言説の エージェント(agent=semblant見せかけ)の場に置かれる。

個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。(マルクス『資本論』第一巻「第一版へのまえがき」1867年)

これがラカンの四つの言説のまずは肝腎な点だ。

言説は数多くの線を拡げる、その線に沿ってコミュニケーションの不可能性が起こり得る。これがフーコー理論との相違をもたらす。その言説理論において、フーコーはシニフィアンの具体的素材と供に作業をする。そこでは言説の内容にアクセントが置かれている。

ラカンは逆に内容を超えて作業し、発話行為から導き出された言説の形式的関係にアクセントを置く。これが意味するのは、ラカンの言説理論は先ずはどんな話された言葉からも独立した形式的システムとして理解されなければならない、ということだ。

言説は具体的に話されたどんな言葉以前に存在する。その上こうも言える、言説は具体的な発話行為を決定する、と。決定論の結果はラカンの基本的な仮定の反映である。すなわちどの言説も特定の社会的紐帯によってもたらされる基礎的関係性を描写するのだ。

四つの言説があるように、四つの異なった社会的紐帯がある。先に進む前にふたたび強調したいのは、いずれの言説もア・プリオリに空無であることだ。それらは特定の形式をもった空のバッグ以外のなにものでもない。その形式自体が人がバッグに入れる内容を決定する。 「FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN'S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES」 (Paul Verhaeghe,1995ーー簡略版:四つの言説)

ここで、マルクスとフロイトを若きころの真の師とするレヴィ=ストロース(『悲しき熱帯』)の代表作から抜き出してみる。

……全ての社会をコミュニケーション理論の用語で解釈できる。それは三つのレヴェルで可能だ。親族と結婚の規則が集団間の女の循環の保証に奉仕する、ちょうど経済の規則が商品とサービスの循環の保証に奉仕するように。そして言語の規則はメッセージの循環の保証に奉仕する。(レヴィ=ストロース『親族の基本構造』英訳からのテキトウ訳)

《この引用をわずかに変更するなら、つまりコミュニケーション理論をシニフィアンの理論に、女の循環を欲望のシニフィアンの循環に、商品とサービスの循環を剰余価値の循環に、そしてメッセージの循環を享楽の欠如(剰余享楽)の循環に変更するなら》(フィンク、1995)とあるが、フィンクはこのあと四つの言説に触れていないにもかかわらず、われわれはこのレヴィ=ストロース=フィンクにラカンの四つの言説の起源のひとつの説明を見なければならない。

かつまたラカンがセミネールⅩⅦ前後に精神分析と政治の関わりにたびたび言及したことが判然とするだろう。すなわち「四つの言説」理論におけるこの側面を見逃してはならない。

・シニフィアンの循環→主人の言説S1

・欲望の循環→ヒステリーの言説$

・商品・サービス(剰余価値)の循環→大学人の言説S2

・剰余享楽の循環→分析家の言説a



…………

GÉRARD WAJEMAN1982の叙述に戻るが、臨床現場に訪れる患者がすべてヒステリーの言説である、というのは言いすぎであり、やはりより最近の論ーーそれでも90年代なかばのものだがーーで補っておく必要があるだろう。

「FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN'S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES」(Paul Verhaeghe,1995)からである。

今日の主要な話題はヒステリーなので、ヒステリーの主体を吟味してみましょう。もちろん彼もしくは彼女はコンサルティングルームにやって来ます、典型的なヒステリーの言説でね($→S1)。その言説だと他者はマスターのポジションととることを余儀なくされます。そして知識を垂れ流して去勢されることに終わります。他方、同じヒステリーの主体がマスター(主人)の言説をもってその場面に現われることもあります。それは格別異例のことではありません。この場合、患者は自身を彼、もしくは彼女の主人、すなわち主人のシニフィアンの症状と同一化しています。他者はそのシニフィアンについての引受人として機能することになります、すなわち主人のシニフィアンについての知識を持っているものと想定されるわけです。「わたしは産後うつ病になっています。わたしは産後うつ病なんですの。先生はそれについて知っている(S2)専門家ですわね。さあどうぞ! わたしを治してください。先生のお好きなように。ただしわたしは主体としてのゲームに入り込む気はありませんからその限りで。」(S1→S2

三番目に、同じヒステリーの主体は大学人の言説でやってくることがあります。彼もしくは彼女はすくなからぬ知識を持ってわたしたちを印象づけます。その知識をもって彼もしくは彼女は他者を強制的に沈黙した対象に陥れます(S2→a)。そのことによって彼もしくは彼女は、真実のポジションにおかれた隠された主人を見つめることを避けようとします(S2/S1)。このようにヒステリー者をヒステリーの言説にのみ転化させるのは間違っています。これはすべての言説に言えます。真実は半分しかいえない“le mi-dire de la vérité”のですから、車輪は回り続けています。セミネールアンコールの第二章で、ラカンはわたしたちに教えてくれます、ひとは毎度ひとつの言説から他の言説に移ることを。そのときなのです、分析家の言説が現われるのは。対象a から$ への決意を掴み取る可能性としての分析家の言説です。アンコールの同じパラグラフで、ラカンはこう教えています、言説のどの横断もまた愛の徴だ、と。その考え方とともに、あとはよろしく!(ポール・ヴェルハーゲ,1995、私訳)

※より詳しくは、「ヒステリーの言説(ヒステリー者の疎外と主人の去勢)

…………

さてヴェルハーゲの水際立った文を引用したが、ヒステリーの言説がヒステリー症者の発話ではないということが鮮明に記されている。かつまたヒステリー症者ではないものが、ヒステリーの言説の主体となるということも明らかだろう。形式的構造の場に置かれれば必然的にそうなるのだ。

病的ナルシシストをヒステリー化するには、その属性に還元できないような象徴的委託を押しつけさえすればいい。そうした対決はヒステリー的な疑問をもたらず。「どうして私は、あなたがこうだと言っているような私なのか」。(ジジェク『斜めから見る』p195)

ジジェクのここでの「病的ナルシシスト」とは、いわゆる「ボーダーライン」、あるいは巷間のネトウヨ、ヘサヨに限りなく近い(もっとも精神病者が四つの言説の外部におかれているように彼らも外部にいるという観点もあるだろう)。いずれにしろああいった類の輩をヒステリー化するのは簡単である。ツイッターで試してみたらどうだろう、皆さん! いやそもそも彼らの発話行為のかなりのものは既にヒステリーの言説と言いうるのかもしれない。

(心理的アイデンティティと象徴的アイデンティティの)落差がある以上、主体は自分の象徴的仮面あるいは称号とぴったり同一化することができない。だから主体は自分の象徴的称号に疑問を抱く。これがヒステリーだ。「どうして私は、あなたが言っているような私なのか」。あるいはシェイクスピアのジュリエットの言葉を借りれば、「どうして私はその名前なの?」

「ヒステリー」と「歴史ヒストリア」との間の類似性には真実が含まれている。主体の象徴的アイデンティティはつねに歴史的に決定され、ある特定なイデオロギー的内容に依存している。これこそが、ルイ・アルチュセールが「イデオロギー的問いかけ」と呼んだものである。

われわれに与えられた象徴的アイデンティティは、支配的なイデオロギーがわれわれにどのようにーーー市民として、民主主義者として、キリスト教徒としてーーー問いかけたかの結果である。ヒステリーは、主体が自分の象徴的アイデンティティに疑問を抱いたとき、あるいはそれに居心地の悪さを感じたときに起きる。「あなたは私のことをあなたの恋人だとおっしゃる。私をそのようにした、私の中にあるものは何? 私の中の何が、あなたをして私をこんなふうに求めさせるのでしょう?」『リチャード二世』はヒステリーをめぐるシェイクスピアの至高の作品である(対照的に『ハムレット』は強迫神経症をめぐる至高の作品だ)。 (ジジェク『 (『ラカンはこう読め!』p.63)

ジュパンチッチはヒステリーの言説の四つの基本的動因として凡そこうまとめている(”WhenSurplus Enjoyment Meets Surplus Value"(Alenka Zupancic)

①〈私〉は不正を蒙っている。
②主人は無能である。
③シニフィアンは常に真理の説明に失敗する。
④満足は常に偽の満足である。

…………

※「四つの言説」の全体的な解説としては、「「四つの言説」(ラカン)概説(Paul Verhaeghe)」を参照のこと。