このブログを検索

2015年10月4日日曜日

エディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論

表題を「エディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論」としたが、「旧態依然の破廉恥な精神分析家」の補遺でもある。

ここでの核心のひとつは次ぎの文にある。

(これはまた)精神分析実践の目標が、人を症状から免がれるように手助けすることではない理由である。正しい満足を見出すために症状から免れることではない。目標は享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置 install することだ。
That is also why the aim of a psychoanalytic practice is not to help someone get rid of his or her symptoms in order to find the right satisfaction. The aim is to install a different kind of symptom on top of the impossibility of jouissance.(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009)

《享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置 install すること》、これがラカンのサントームであるというPaul Verhaegheの主張である。

上の文と次ぎの文をともに読んでみよう。

父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ。(Thomas Svolos“ Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant”)
主人のシニフィアンは、無意識的なサントーム、享楽の暗号である。主体はそのシニフィアンに、知らないままで主体化されている。

The Master-Signifier is the unconscious sinthome, the cipher of enjoyment, to which the subject was unknowingly subjected.(ジジェク『パララックス・ヴュー』)

フロイトのエディプス理論の「父」、ーーあるいはラカン的には主人のシニフィアンS1ーー、それは無意識なサントームなのであり、われわれはそのイデオロギー的「父の名」を取り払っていったん裸になり、その上に、つまり《享楽の不可能の上に》、意識的な、かつ個人特有の「父の名」ーー敢えて挑発的に「父の名」としたが、より穏健には「父の機能」とするべきだろう(参照)--を設置するのが、ラカンのサントーム理論である。

「creatio ex nihilo無からの創造」などと言われることもあるが、実態は裸の《症状と同一化すること、とはいえ症状に向けて一種の距離を確実なものにしつつ》(Séminaire XXIV)なのであり、分析治療によってなにも自然にサントームが芽ばえてくるわけではない。このあたりの誤解があると、被分析者は裸の欲動のなずがままになってしまい、自殺衝動や破壊欲動の発露などが起こりうるはず(論理的にはそう思われるということであり、わたくしはまったく専門家でないことはここで断わっておこう)。

さる分析家の言葉を名を記さずに引用しておこう。

・わたしが殺人罪で服役した経歴を持ちながらも敢えて精神分析家として仕事を続けるのは,精神分析がわたしの lifework だからです.Lifework とは,存在 barréが請求していることです.

・他殺であれ自殺であれ,それは,死そのものである φ barré が a を破壊し,呑み込んでしまうことです.わたしは身をもってその極限状態を経験しました.文字どおり,突然足もとに穴が開いて,そこに呑み込まれてしまう感覚でした.実存構造の突然にして急激な解体が起きた場合,そのようなことが起こり得ます. 

同じ人物による《Lacan は芸術的創造を論ずるとき,「無からの創造」creatio ex nihilo という神学的概念を持ち出します.強調されるべきは,この ex nihilo です.これは,復活に関する決まり文句:「死者のうちからの復活」を想起させます》というツイートもある。

…………

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?” ( J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 17/18, 1979, p. 21)

《なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを》とでも訳せる文だが、この新しいシニフィアンがサントームである。上にサントームが意識的なS1(主人のシニフィアン)だと敢えて断言したのは、この文に由来する(別の見解があるのは承知で、という意味である)。

ラカンはこの自己によって創造されるフィクションを、サントームと呼んだ。…新しいシニフィアン或いはサントームの創造の文脈における創造とは、〈大他者〉の欠如の上に築き上げられるものである。すなわちcreatio ex nihilo無からの創造においてのみ。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)

無からの創造をするためには、裸の症状=享楽の不可能性を露出させなければなならない、《精神分析による治療は抑圧を除去し、裸の欲動の固着を露わにする》(ヴェルハーゲ、末尾掲載文より)。

あるいは、日本の若きすぐれたラカン派の次の文を引用してもよい。

ラカンは、分析は終結する、ということをはっきりと確信していた。…精神分析は結局のところ治癒不可能なものを前景化させてしまうことになる。しかしラカンは、逆説的にも、症状のこの治癒不可能な部分…を肯定し、これこそが分析の終結を可能にすると考える(松本卓也『人はみな妄想する』)

この《治癒不可能なものを前景化》させることはラカン用語では、「主体の解任 destitution subjective」、「幻想の横断traversée du fantasme」(フロイト用語ならば「徹底操作durcharbeiten」)とされる。

ところが、次ぎのような指摘もあるのだ(参照:Lorenzo Chiesa、ジジェクによるミレール吟味(サントーム/主人のシニフィアンをめぐる))。

ミレールについては、彼は我々に思い出させてくれる、ラカンの後期の仕事で、ラカンはしばしば、精神分析の治療の終わりは、症状と「何とかやっていく・うまく誤魔化すgetting by」、「症状のノウハウknow-how of the symptom」の用語にて理解されるべきだと言ったことを。

ミレールは、こうして次の問いに導かれてゆく、「症状のノウハウは、反復の終了をもたらすのか、それとも反復の新しい作法をもたらすのか?」(Miller, “I sei paradigmi del godimento)と。

私はここで指摘しなければならない。ミレールにとって、上記の二者択一ともに、ア・プリオリに根本的幻想を除外してしまっていると。というのは、彼は奇妙にも 「反復として考えられた」享楽と「幻想として考えられた」享楽とを対照させているからだ。さらにもっと思いがけないのは、彼は、「症状のノウハウ」と「根本的幻想の横断」とを対照させている。後者は、次のように定義される、たんなる「逸脱、分析において手掛けられる逸脱…空虚に向かう、あるいは主体の解任に向かう招き」(Miller, “I sei paradigmi del godimento)と。

私が考えるに、これらの鋭い対照化はひどく疑わしいし、十分に議論されていない。例えば、私は驚いてしまうことは、ミレールは躊躇なく、(反復される、あるいは反復されない)症状の仮説を、精神分析の終わりとして提案しているのだが、それは、症状は、主体の解任が起きなければ、定義上、イデオロギー化されたものだという事実を問題視しないままなのである。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007)

これはLorenzo Chiesaによるジャック=アラン・ミレールへの批判である。ようするに幻想の横断、主体の解任を軽率に取り扱っているというものだ。ミレールはそれらを置き去りにしてしまっている、それではイデオロギー化された「父の名」やイマジネールな対象aが除去されないままではないか? 裸の欲動の固着が露出しないままで「何とかやっていく・うまく誤魔化すgetting by」、「症状のノウハウknow-how of the symptom」などということがありえるのか、と。

このミレールの21世紀に入ってからの考え方は、ジジェクもラカンの言葉とともに引用して説明している。

◆「ラカン派の「主体の解任destitution subjective」をめぐって」より

後期ラカンは、ラディカリズムを放棄し、精神分析の治療法をひどく穏健な方法にて捉え直した。「人は真理のすべてを学ぶ必要はない、僅かで充分だ。」(Lacan, “Radiophonie,”)ここではラディカルな"限界経験"としての精神分析の考え方が拒絶されている。「人は分析をあまりに遠くまで押し進めるべきではない。患者自身が生きていくのに幸福だと思えば、それで充分である。One should not push an analysis too far. When the patient thinks he is happy to live, it is enough」(Lacan, “Conférences aux USA,” Scilicet 6/7 (1976))

なんと遠くにわれわれはいることだろう、アンティゴネの英雄的な試みーー禁じられたate(迷妄)の領域に入り込み"純粋欲望"を獲得しようとする試みから! 精神分析の治療は、いまや主体性のラディカルな変質ではもはやなく、局所的な糊塗patching‐up なのであり、それは長期間の跡づけさえ置き去りにするleave any long‐term traces(この見解の流れのなかで、ラカンは次の無視されている事実に注意を促している。すなわち、フロイトが鼠男の治療後数年経って彼に再会した時、鼠男は完全にフロイトの治療のことを忘却していた事実に)。

このよりいっそう穏健な取り組みは、後期ラカンに照準を当てたジャック=アラン・ミレールの読解において、余すところなく明瞭に言い表されている。晩年のセミネールで、ラカンは、精神分析過程の締め括りの節目である"幻想の横断"概念を置き去ってしまう。その場所に、ラカンは全く反対の振舞いを導入する、すなわちサントームと呼ばれる究極の分析不能な障害を受け容れることを。症状が、解釈を通して解消される無意識の形成物であるなら、サントームは、"分割不能な残余"であり、それは解釈と解釈による溶解に抵抗する。サントームとは、最小限の形象あるいは瘤であり、主体のユニークな享楽形態なのである。このようにして、分析の終点は"症状との同一化"として再構成される。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012 私訳)

ーージジェクの記述はこの箇所にかんしてはひどくミレール寄りであり(同じ『LESS THAN NOTHING』には多くのミレール批判があるにもかかわらず)、Paul VerhaegheやLorenzo Chiesaの見解とは齟齬があるように思える。

あるいはまた上に引用した《他殺であれ自殺であれ,それは,死そのものである φ barré が a を破壊し,呑み込んでしまうことです.わたしは身をもってその極限状態を経験しました》とする精神分析家は次ぎのように言っている。

症状を成す悦,つまり剰余悦は,精神分析の経験のなかで失墜し,脱落し,捨て去られねばならないものです.なぜならそれは,異状を成す仮象にすぎないからです.仮面,偽り,誤り,否認なども仮象に関連する語彙です.

Miller は Lacan の sinthome としての症状の概念を全く誤解しています.それは,Lacan が saint homme[聖人]に言及したとき,Miller はそれが Lacan の冗談か何かだと思って,それについて真剣に考えなかったからでしょう.

ーーーここでの《症状を成す悦,つまり剰余悦は,精神分析の経験のなかで失墜し,脱落し,捨て去られねばならないもの》とは幻想の横断や主体の解任のことを言っており、それなりの正当性をもつ。だが彼の問題は、聖人=サントームを強調しすぎていることで、ひょっとしたら《症状と同一化すること、とはいえ症状に向けて一種の距離を確実なものにしつつ》(Séminaire XXIV)が視野に入っていないのではないかと疑わざるをえない発言が多いところだ。

“En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.” J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 12/13, 1977, pp. 6-7

上にも引用したが技法的な側面を曖昧にしたまま「無からの創造」creatio ex nihilo という神学的概念のみを強調してはならないだろう、肝腎なのはラカンの死の二年前の言葉「新しいシニフィアンを発明すること」のはず。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Lacan, Le Séminaire XXIV, 1979, p. 21)

ここでひょっとして(隠された文脈上においては)ぴったりとしたミレールの言葉を掲げておこう。

「幻想の横断」は翼を与えるには違いないが、ある者はプラトンのハトになり、またある者はアホウドリになるのです。(ミレール「もう一人のラカン」)

ーーラカン的精神分析治療の分析は、凡庸な、あるいは十分な理解をしていないままの精神分析家がやると、ひどく危険なのではないのだろうか?

※別の側面からのジョイス=サントームをめぐっての記事が投稿しないままーー曖昧な理解のままだったのでーー放置してあるのだが、そのうち公開するかもしれない。


というわけだが、ここでの引用を中心にした叙述は、Paul VerhaegheとLorenzo Chiesaの読解に傾いたものであることを強調しておこう。

前置きが長くなったが以下本題にかかわる引用(私訳)である。

…………

1924年に、フロイトは『エディプスコンプレックスの没落』を上梓した。そこで叙述されているのはフロイトが考えるところのこの《幼児期の性的発達段階における中心的現象》(フロイト著作集6 p.310)の必要不可欠な破壊である。

ここで、エディプス願望は破壊される必要があるとしている。そして実に要求されているのは破壊であり、抑圧ではないのだ。《抑圧は病的作用を発揮する》(同 p.313)のみである。だがフロイトの経験が、そのような破壊の事例はきわめて稀であることを彼に教えるようになった時、1937年に、彼は結論づけざるを得なかった、精神分析的実践は、男の去勢不安と女のペニス羨望という生物学的行き詰りに遭遇する、と。

これは我々に最後のテーマをもたらす。もしエディプスコンプレックスが破壊されるべきなのに(フロイト)破壊されないのなら、そしてもしエディプス構造が享楽 jouissance の不可能の欠かすことのできない飼い馴らしstyling(ラカン)であるなら、そのとき享楽はいかにして扱われうるか?

この点にかんして、ラカン理論における応答は、フロイトの生物学的袋小路よりもすぐれて興味深い。ラカンの読解では、エディプス複合は、主体が自身の身体から来る欲動ととりわけ享楽に対処する欠かせない構造を隠している

その構造において、享楽の不可能は禁止に変形され、その結果、絶え間ない欲望と症状形成をもたらす。エディプスコンプレックスはそれ自体「症状」なのであり、その意味は、〈他者〉を媒介とした欲動の現実界のまわりのイマジネールな構築物だということだ。(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009)

*ここでの〈他者the Other〉に注意(後述)

ここでの叙述から読み取れるのは、後期ラカンのサントーム理論でさえ、フロイトのエディプス理論の変種であるということだ。

この理由で、フロイトは正しく指摘している、どの症状も満足の形式である、と。ラカンが今つけ加えたのは、症状の不可避性である。セクシャリティ、欲望、そして享楽にかんして、症状のない主体はない。(後述)

これはまた精神分析実践の目標が、人を症状から免がれるように手助けすることではない理由である。正しい満足を見出すために症状から免れることではない。目標は享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置 install するこだ。

フロイトによるエディプスコンプレックスの終結点、ーー父との同一化ーーの代わりに、ラカンが奨励したのは、精神分析実践の最終ゴールとしての症状との同一化である。これが彼に次の対照を許すようになる、すなわちエディプス的解決と、現実界における解決と彼が呼ぶところのものの対照である。(同上、PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009)

※サントームについてのより具体的な記述は

1、「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない
2、「ラカン派の二種類のサントーム・症状

などを見よ。

…………

以下捕捉。

◆〈他者the Other〉について

そもそも〈他者〉とか大文字の他者と訳される”L'Autre”は、「大文字の他」であり、人でなくてもよい。ラカンはすでにセミネールⅩⅣで、《〈他者〉は身体である》と言っている。

L'Autre, à la fin des fins et si vous ne l'avez pas encore deviné, l'Autre, là, tel qu'il est là écrit, c'est le corps ! (10 Mai 1967 Le Seminaire XIV)

あるいは、
主体が囚われているのは意識ではない、身体である。(ラカン「哲学科の学生への返答」(1966 私訳)

"Ce n'est pas à sa conscience que le sujet est condamné, c'est à son corps."(Réponses à des étudiants en philosophie sur l'objet de la psychanalyse Jacques Lacan, 1966)

※参照:ラカンの三つの身体

ラカンの使用法では、〈他者Autre〉が常に身体corpsではないにしろ、この観点は、日本語の訳語では見逃されがちだ。

しかしそれでは、享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「〈他者〉の享楽」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「〈他者〉の享楽」)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに汚染があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる〈他者〉the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介としての享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。これが説明するのは、なぜ母なる〈他者〉the (m)Otherが「享楽の席the seat of enjoyment」なのか、その〈他者〉に対して防衛が必要なのに、についてである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009、私訳)

ーーこの文は主にラカンのセミネールⅩⅦとⅩⅩの記述をめぐっているのだが、ラカンの〈他者〉理解として決定的な文章のひとつではないだろうか。わたくしはこの文によって、いままで多くの不明だったラカン派の解釈者の叙述(その誤解もふくめ)を眺め直す機縁になった(くり返せばこの説明が完全に正しいということを言いたいのではない。別の解釈もあるだろう)。

※参照:享楽への道とは死への道(ラカン)


…………

 ◆〈症状のない主体はない〉について

ーーこれについては今まで私訳しつつメモしたものを貼り付けておくだけにする。

よくある臨床状況から始める。患者は、耐えられなくなった症状があるために、我々のもとに訪れてくる。ヒステリーの文脈内では、この症状は殆どあらゆるものであり得る、古典的な転換症状からはじめて、恐怖症の訴え、性的/関係性的問題、そして最後にはもっと漠然とした憂鬱や不満の訴えである。

患者は治療者に自らの問題を提示する。そして標準的な期待は、治療の努力によって、症状が消滅し、かつstatus quo ante、すなわち以前の健康な状態に戻ることだとされる。これは勿論、とてもナイーヴな観点である。なぜひどくナイーヴであるかといえば、注目すべき小さな事実を考慮していないからだ。その事実とは、大抵の場合、症状は急性なものではなく、反対に、むしろ古くからの、何月も前からの、ときには何年も前からのものでさえあるということだ。

そのとき訊ねるべき問いは、勿論、なぜ患者はこの今、訪れたのか、なぜもっと早く来なかったのか、ということである。人はこの状況を観察すれば、常に同じ答えを見出すだろう、すなわち、主体にとって何かが変化し、その結果、症状はその正しい機能を失った、と。

症状が、いかに苦しく或いはいかに無価値なものであろうと、明らかなことは、この変化以前は、症状は主体にとってある種の安定化を確保してくれるものだったということだ。この安定化の機能が故障したときのみ、主体は助けを求めるのだ。これが、ラカンが治療者は患者に彼の現実に順応させようとすべきではないと述べた理由である。反対に、患者はすでにあまりにも順応し過ぎているのだ。というのは、患者はまさに現実の構築にいそしんでいるのだから。

この点で、我々はフロイトの重要な発見のひとつに出会う。それは、どの症状も先ずは回復の試みだということだ。一定の心理構造の安定化を確保する試みなのである。この意味で、我々は患者の期待を言い換えねばならない。彼は症状の消滅を求めているのではない、否、彼はただ症状の元々の安定化機能を修復して欲しいのだ、その機能は状況の変化のせいで故障してしまっているのだから、と。

これがフロイトがひどく奇妙な考え方、奇妙というのは、上で言及したナイーヴな観点の下ではだが、すなわち「健康への逃避flight into health」という考え方を提示した理由である。この表現は鼠男のケーススタディに見られる。治療者はまだ始めたばかりで、いくらかの成果しかない。そして患者は中断する決心をする。彼は遥かに改善していると感じるからだ。症状そのものはほとんど変化していないが、見たところ、それは患者を悩ましていない。ただ驚いた治療者を悩ますだけである。(Paul Verhaeghe,PSYCHOTHERAPY, PSYCHOANALYSIS AND HYSTERIA、1994)

フロイトによる無意識の発見以来、病理上の過程は「防衛」を基にして説明されるようになる。すなわち「抑圧」概念が特権的な場所を占めるようになる。だがフロイト以後、多かれ少なかれ忘れられてしまったのは、「抑圧」そのものが病因のダイナミズムにおける二次的な重要性しかないということだ。実際、抑圧は欲動に対する防衛的過程の苦心作elaborationでしかない。

フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(個人を動かす原動力としての心理的機構:引用者)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初のケーススタディであるドラの症例においてはっきりと現れている。この研究では、防衛理論についてはなにも言い添えていない。というのはすでに精神神経症psychoneurosisにかかわる以前の二つの論文で詳論されているからだ。このケーススタディの核心は、二重の構造にあると言うことができ、フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが“Somatisches Entgegenkommen”と呼んだものーーだ。のちに『性欲論三篇』にて、「欲動の固着」と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の代表象representation――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。

この二重の構造の視点のもとでは、すべての症状は二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換性の症状は、症状の形式的な外被に帰着する。すなわち、「それらの症状は欲動の現実界に象徴的な形式が与えられたもの」(Lacan, “De nos antécédents”, in Ecrits)ということになる。このように考えれば、症状とは享楽の現実界的核心のまわりに作り上げられた象徴的な構造物ということになる。フロイトの言葉なら、それは、「あたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなもの」(『あるヒステリー患者の分析の断片』:人文書院旧訳より抜き出している:引用者)。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。

精神分析による治療は抑圧を除去し、裸の欲動の固着を露わにする。これらの固着はもはやそれ自体としては変えようがない。身体の決断は取り消しようがない。これは欲動の過程に向けた主体の立場としてはその限りではない。欲動の固着は覆すことができる。二つの可能性があるのだ。主体が以前に拒絶した享楽の形態を今は受け入れるか、あるいは、主体はその拒絶を肯定するか、の二つがある。

抑圧はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の素朴な防衛手段である。その後に新しい抑圧が生ずることはないが、なお以前の抑圧は保たれていて、自我はその後も本能支配のためにそれを利用しようとするのである。新しい葛藤は、われわれのいい表わし方をもってすれば「後抑圧」Nachverdrangungによって解決されるというわけである。《……しかし分析は、一定の成熟に達して強化される自我に、かつて未成熟で弱い幼児的な自我が行った古い抑圧の訂正を試みさせるのである。抑圧のあるものは棄て去られ〔欲動は主体によって受け入れられる〕、あるものは承認されるが、もっと堅実な材料によって新しく構成される〔欲動はより断固たる方法で拒絶される〕》。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』旧訳からだが、亀甲括弧〔〕内はPaul Verhaeghe and Frédéric Declercqによる註釈)

この過程は、抑圧と症状形成の過程にはもはや属さない拒絶を必然的に伴う。「一言で言えば、分析は抑圧を有罪判決condemnationに変えるのである。」(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』(少年ハンス)人文書院5 p273)

われわれが強調しなくてはならない事実とは、この主体の決断は、純粋な形での欲動にのみ関わるということだ。すなわち、そのような決断をすることが可能なためには、主体は直接的な方法で<対象a>に結びつかねばならない、分析過程において事態を成行きにまかせて純化の仕事を成就しなければならない。その意味するところは、まずは抑圧を取り除くこと、すなわち、症状から象徴的な要素を片づけ去らなければならない。従って、分析の手間を省いて直接に基礎的な原因、つまり欲動の根元に向かうことは不可能なのである。フロイトによるこの考え方への答は、オットー・ランクの提案への返答に見出すことができる。ランクの提案とは、出産外傷の原トラウマに直接に取り組むべきだというものだが、フロイトはそれに対し、「おそらくそれは、石油ランプを倒したために家が火事になったという場合に、消防が、火の出た部屋からそのランプを外に運び出すことだけに満足する、といってことになってしまうのではないか」(『終りになき分析と終りある分析』人文書院6 P378)と答えている。

ラカン理論における現実界と象徴界のあいだの関係は、いっそう首尾一貫した観点を提示してくれる。彼のジャー(壺)の隠喩は、ひとが分析の手間を省くことができないことの、より鮮明な例証となる(Lacan, The Ethics of Psychoanalysis : Seminar VII)。ラカンによれば、陶器作りのエッセンスは壺の面を形作ることではない。これらの面がまさに創り出すのは空虚なのであり、うつろの空間なのだ。壺は現実界における穴を入念に作り上げ探り当てる。このエラボレーション(練り上げること)とローカリゼーション(探り当てること)が、正統的な創造に相当する。精神病理学の症状とのこの類似性は、象徴界の星座の練磨を通してのみ欲動の現実界は現れるということだ。これが精神分析学が新しい主体を創造するという理由である。《われわれの理論は、自我の中に自然発生的にはけっして存在しえない状態、すなわち分析という操作を受けた人間と受けない人間とのあいだの本質的な相違が明らかにされるような状態を、新しくつくり出そうとする要求を掲げているのではなかろうか。》(『終りある分析と終わりなき分析』P387)(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq).2002)

※英原文は次を見よ→ 症例ドラの象徴界/現実界(フロイト、ラカン)、あるいは「ふたつの無意識」(ヴェルハーゲ)