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2015年10月21日水曜日

にわかに逞しくなった膝

 人間は、人殺しだとか、裏切りだとか、泥棒だとかいう言葉を、平気で人前でしゃべり散らしているくせに、どうして性交という言葉は、歯の間で噛み殺してしまうのであろう、言葉に出して発散してしまわない方が、その思想を拡大することができるというわけか知らん、とモンテエニュは言っている。続いて、この苦労人は、世間で最も稀れにしか使われぬ言葉が、世人に最もよく広く知られた言葉であるとは、実におもしろいことである、と言う。おもしろいことかもしれない。あるいは恐ろしいことかもしれない。人間という奇妙な動物は、己れを恐れている、これも確かモンテエニュの言葉である。いずれにせよ、これは、あらゆる好色文学が花を咲かせる謎めいた地盤のように思われる。(小林秀雄「好色文学」昭和二十五年七月)

…………

ツイッターの古井由吉botで次の文を拾った。

・病気ではない、この二年半の間にどこかの男とよほど深い関係にあったのだ、と岩崎は睨んだ。もう切れたあとか、切れかけているのか、それとも澱んでしまっているのか知らないが、おそらく佐枝はその関係の始まる前の時点にもどろうとして、岩崎の存在を思出したのにちがいない。

・そう言えば抱かれている時にも、孤独を守っていた。岩崎によって、男にたいして孤独になろうとしていた。

・「わかってるよ。お前が男と暮しているとは思っていないさ。男が部屋へ通ってくるとも、思っていない。そんな艶っぽいことのある女の顔はしてないさ。ただ、なんとなく、嫉くんだよ。お前がそれを許すんだ。村では、俺の横着さをどこまでも許したが」

・にわかに逞しくなった膝で、佐枝は岩崎の身体を押しのけるようにする。それにこたえて岩崎の中でも、相手の力をじわじわと組伏せようとする物狂おしさが満ちてきて、かたくつぶった目蓋の裏に赤い光の条が滲み出す。鼻から額の奥に、キナ臭いような味が蘇りかける。

・やがて佐枝は細く澄んだ声を立てはじめる。男の力をすっかり包みこんでしまいながら、遠くへ助けを呼んでいる声だった。(古井由吉『栖』「栖」)

ーーなんという目が眩むような文だろう、 〈あなた〉は性戯の最中に女をからかたことなどにより、《にわかに逞しくなった膝で》《身体を押しのけるように》されたことはないか。

そしてその反動で《相手の力をじわじわと組伏せようとする物狂おしさが満ちて》きて凶暴な心持に襲われたことはないか。

《かたくつぶった目蓋の裏に赤い光の条が滲み出》したことは〈あなた〉ではない〈わたくし〉にはないが、《鼻から額の奥に、キナ臭いような味が蘇りかけ》たことぐらいはある。

ああ、そうしたあと、女は《細く澄んだ声を立てはじめる》、だが《男の力をすっかり包みこんでしまいながら、遠くへ助けを呼んでいる声だ》。

私はいまも思いだす、そのときの暑かった天気を、そんな日なたで給仕に立ちはたらいている農園のギャルソンたちの額から、汗のしずくが、まるでタンクの水のように、まっすぎに、規則正しく間歇的にしたたっていて、近くの「果樹園」で木から離れる熟れた果物と、交互に落ちていたのを。そのときの天候は、かくされた女のもつあの神秘とともに、こんにちまでもまだ私に残っている、――その神秘は、私のためにいまもさしだされている恋なるもののもっとも堅固な部分なのだ。プルースト「ソドムとゴモラ Ⅰ」井上究一郎訳)




そして突然夢のなかでサン=ルーは愛人がいつものくせのように官能の瞬間に規則正しく間歇的に発するあのさけび声をはっきり耳にしたのであった。 (プルースト「ゲルマントのほう Ⅰ」)

ああ女にはかなわない。われわれはつねに負ける。

ーー「負ける」だって? 愛とは勝ち負けじゃないわよ、などとほどよく聡明なお方がたぶんおっしゃられることだろう。

「ほどよく聡明な」とは場合によっては「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」(小林秀雄)のことである。負ける/勝つとは受動性と能動性のことさ。

女性、享楽、不安はエロスの部分である。男性、ファリックな快楽、悲哀はタナトスの部分である。この性向が意味する分岐は、快楽はあまりにも大きな喪失を生み出すということだ(Tristis post Coitum 性交後の悲しみ)。不安は自我の消滅にかかわり、それが享楽の条件である(たとえば性的融合によってエゴは消え去る刻限がある)。悲哀はファリックな快楽(たとえばオーガズム)の結果による共生の喪失にかかわる。この観点から言えば、男性と女性の対立は、まったく相対的なものであり、それは能動性と受動性の対立として捉えなおすべきだ、すなわち、どの主体も他者に相対するときに取り得る態度として。(Paul Verhaeghe 、Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、1998)

ほかに肝腎なのは、《〈他〉の性自体は、両方の性にとって、女性の性female sexである。それは、男にとっても女にとっても〈他〉の性である》(The Axiom of the Fantasm ,Jacques-Alain Miller)、すなわち男女とも最初の愛の対象〈女=母〉が〈他〉の性であることだ。

そしてどの現実の女性にもこの〈他〉の性の影が落ちており、他方、現実の男性にはこの〈他〉の性の影が稀にしかないということだ。


男なんざ光線とかいふもんだ
蜂が風みたいなものだ 

ーー西脇順三郎 「旅人かへらず」より

自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。( カーミル・パーリア「性のペルソナ」




ーー瞬間的に「勝った」と思ってもダメだ、すぐそのあとが待っている。

われわれは次のように、女性の扱い方に分別を欠いている。すなわち、われわれは、彼女らがわれわれと比較にならないほど、愛の営みに有能で熱烈であることを知っている。このことは……かつて別々の時代に、この道の達人として有名なローマのある皇帝*1とある皇后*2自身の口からも語られている。この皇帝は一晩に、捕虜にしたサルマティアの十人の処女の花を散らした。だが皇后の方は、欲望と嗜好のおもむくままに、相手を変えながら、実に一晩に二十五回の攻撃に堪えた。……以上のことを信じ、かつ、説きながらも、われわれ男性は、純潔を女性にだけ特有な本分として課し、これを犯せば極刑に処すると言うのである。(モンテーニュ)

*1 ティトゥス・イリウス・プロクルス。
*2 クラディウス帝の妃メッサリナ。

ティレジアスの神話を御存知ですか。彼は女性の享楽がどんなものか知りたく、ゼウスから女になることを許されたのです。ティレジアスの性転換です。彼が男に戻った時にこう言います-世の中に享楽が十あるとすると、九つは女のもので一つだけが男のものだ。ここでは簡単に触れることしかできませんが、それはこういう考えなのです-男が一つのものとすると、女は常に他(Autre)のものである。フロイトが超自我の欠けた存在である女について言っていることに関して例えばピロポが教えてくれるものによると、女性はまさに超自我的な他者(Autre)の場所を占めるものなのです。現実に女は結構上手にそこに腰を据えてようですが...また財布の紐はしばしば奥さん方がにぎっています。フランス語ではよく俗に妻をかみさんbourgeoise[お金を持っているブルジョアから来ている]と呼びます。(ジャック=アラン・ミレール『ピロポ』)




構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。

この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。無名の、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が、特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。《母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。》

このことは、われわれに想い起こさせる、スフィンクスとその謎に直面した状況を。スフィンクスはあなたを貪り食うだろう、もしあなたが正しい答え、すなわち、正しいシニフィアンを齎さなかったら。実のところ、われわれは実在の女について話しているわけではもはやない。逆に、すべての女は、二重の仕方でこの姿形の餌食になるのだ。主体として、彼女はこのおどろおどろしい形象に直面する(すなわち、男と同じように、生れたときは、母の欲望に直面する:引用者)。さらに、女として、彼女はこの畏怖すべき形象の姿を纏わせられる。あなたがこのおどろおどろしい女性の姿形の説明を知りたいのなら、カミール・パーリアの書物、『性のペルソナ』をにおける性と暴力をめぐる最初の章を読んでみるだけでよい。彼女は正しく、この姿形と自然自身とを同一化している。もしこの姿形に直面した男性の不安の臨床的な説明を読みたいなら、オットー・ヴァイニンガーの『性と性格』Geschlecht und Charakterを読んでみよう、ジジェクのコメントとともに。この二つとも意図されずに、臨床的的な事実の説明となっている。すなわち、防衛的な機能とともに、おどろおどろしい女性の姿形のアポステリオリな(後天的な)構築物であるという事実の。もし意図された臨床的な説明がほしいなら、Klaus Theweleitによる美しい『Männer Phantasien』を手に入れ、繙いてみればよい。(Paul Verhaeghe、NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL、私意訳)。

…………

この半年ぐらい歌曲をかなり聴いたのだが、歌曲とはくり返し聴いていると飽きる。とくに歌い手の個性が強く出すぎているものは、最初はひどく惹きつけられるが、しばらくするとウンザリしてくる。

◆NINON VALLIN "Les berceaux" Fauré






ーーおい、スゴイ声だな、NINON VALLINって。でももういいよ。


たくさん聴いたなかで生き残っているのは、モンテヴェルディをうたうBernarda Finkの「すべてをお忘れなさい Oblivion soave 」だ。この〈母〉なる声にすべてを忘れよう、たとえも貪り食われてもいいじゃないか。

◆Bernarda Fink, Monteverdi, l'incoronazione di Poppea, "Adagiati, Poppea - Oblivion soave" (Arnalta)




暗闇に幼な児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが、歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつも分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』p359)

この歌声はカオスの中に秩序をつくるだけじゃない、アリアドネの糸に引っ張られて母胎のなかに吸い込まれる感覚をもたらす。

・迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。(ニーチェ 遺稿)

・賢くあれ、アリアドネ!……そなたは小さき耳をもつ、そなたはわが耳をもつ。(ニーチェ『ディオニュソスーディテュランボス』(Dionysos-Dithyrambus)第七歌「アリアドネの嘆き」(Klage der Ariadne)

そしてあの〈母〉なるものに抵抗しようとするEZIO PINZAの「全てを忘れろ!」である。

◆EZIO PINZA "OBLIVION SOAVE" CLAUDIO MONTEVERDI




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さて、なにが言いたかったのだろう。

しらばっくれる性質の人たちの家系でよくあることだが、表立った理由もなく弟が兄を訪ねにきて、帰りぎわにドアのところで、ちょっと挿入句のような形でひとことものをたずね、べつにその答をきいているようすもないが、そのためかえって兄には、そのひとことこそ弟の訪問の目的なのだということがぴんとくる、なぜなら、本筋から切りはなされたようにつくろうようす、括弧つきのようにしてもちだされる言葉は、兄には十分身におぼえがあるからであり、兄自身何度もその手をつかったことがあるからである。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)