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2015年9月2日水曜日

国家機構(軍・官僚)がすでに決定していることに「公共的合意」を与えるための手の込んだ儀式

人々が自由なのは、たんに政治的選挙において「代表するもの」を選ぶことだけである。そして、実際は、普通選挙とは、国家機構(軍・官僚)がすでに決定していることに「公共的合意」を与えるための手の込んだ儀式でしかない。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001ーー「民主主義の中の居心地悪さ」より)
どの国でも、官僚たちは議会を公然とあるいは暗黙に敵視している。彼らにとっては、自分たちが私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策を議会によってねじ曲げられることは耐え難いからである。官僚が望むのは、彼らの案を実行してくれる強力且つ長期的な指導者である。柄谷行人『終焉をめぐって』1990)

こう抜き出しても実感の湧かない人たちーーわたくしも若い頃はどちらかといえばそっち系だったーーのために敢えて引用するが、たとえば本日次ぎのようなツイートがあった。

志位和夫@shiikazuo: 参院安保特で、共産・仁比議員、「統幕長訪米時の会談結果概要」(昨年12月)と題する内部資料を明らかに。米軍中枢との会談で河野統幕長は「(安保法制について)来年夏までには終了する」「オスプレイの不安全性を煽るのは一部の活動家だけ」などと発言。これはどういうことか。徹底究明が必要だ!
長谷川節 @keisetuhasegawa: 共産党仁比質問、またまた内部資料暴露。自衛隊統幕長が昨年12月に訪米し米軍幹部と会談。集団的自衛権行使のための法整備は予定通りかと聞かれ、統幕長は「与党の勝利で来年夏までには終了」と回答したと。国民と国会がまったく関知しないところで戦争準備が進められている。廃案しかない!

志位和夫氏あたりが柄谷行人のいうようなことを分かっていないはずはないので、官僚主導のメカニズムを暴露する文書がたまたま手に入ったということが肝要であり、それが「通例」であることを表立ってはいうわけにはいかないだけだろう(参照:「民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である」)。




思議なのは、われわれがそうと知りつつ、このゲームをつづけていることだ。あたかも選択の自由があるかのようにふるまいながら、(「言論の自由」を守るふりをして発せられる)隠された命令によって行動や思考を指図されることを黙って受け入れるばかりか、命令されることを要求すらしている。(……)この意味で民主主義においては一般市民の誰もが、いわば王である。とはいえ、それは立憲民主主義の王、形式だけの意思決定を下す君主であって、行政官から渡された法案に署名するだけの役目しか担っていない。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)

とはいえ、われわれは8・30において「歴史的な出来事」を見聞したには相違ない。いまはあまりシニカルにきこえることを記す気分ではない。




二〇〇七年の秋、チェコ共和国で、米軍レーダー基地建設をめぐって世論が沸騰した。国民の大多数(ほぼ七〇パーセント)が反対しているのに政府はプロジェクトを強行した。政府代表は、この国防問題に関わる微妙な問題については投票だけでは決められない――軍事の専門家に判断をゆだねるべきだとして、国民投票の要求をはねつけたのだ。この論法に従っていくと、最後には、おかしな結果になる。すると投票すべき対象として何が残るというのか?たとえば経済に関する決定は経済の専門家に任せるべき、という具合にどの分野にもあてはまるのではないか? (ジジェク『ポストモダンの共産主義』)




あやふやな状況で決断を強いられることは現代人にとって当然のことだ。こうした強制選択が前提となっている現状で選択の自由があるのは、正しい選択をするという条件つきだから、もはやできることは、押しつけられた専門家の知識を、自由意志による選択であるかのようなふりをすることぐらいだ。だが、もし逆に選択がほんとうに自由で、まさにそのために、なおさら欲求不満になるとしたら?こうして、われわれは絶えず、生活に多大な影響をもたらす物事についての決断を、適切な知識もないままにさせられている。ここで再度、ジョン・グレイを引用しよう。「あらゆるものが、かりそめである時代に陥ってしまった。新しい技術は、日に日に私たちの暮らしを変えていく。過去の伝統はもう取り戻せない。同時に、未来が何をもたらしてくれるのかは、ほとんど見当もつかない。私たちは自由であるかのように生きることを強いられている」。(同ーー「民主主義の始まり」より)

…………

以下は直接には「官僚」の話ではないが、「国家寄生体」の連中の話である。

情報とは権力である」と、あらためて感じた。課長でも教授でも、それなりの権力者は然るべき情報をバイパスされると「私は聞いていない」と怒るではないか。そして東電は、国民の代表である菅直人前首相にいちばん重要な情報を知らせていなかった。

あの時、国家の権力と世界の命運とは日本政府ではなく東電あるいは原子力ムラという国家寄生体に移っていた。菅氏は権力を奪われて孤独であった。海外はすでに恐怖していた。米国は早々に高度の警戒体制に入った。あっというまに放射性物質を含んだ雲が地球を一まわりするのはチェルノブイリで経験済みだった。菅前首相が東電本社に乗り込んだのはよくよくのこととみるべきである。(中井久夫の神戸新聞コラム(2011.9.18)「清陰星雨」から )