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2015年9月20日日曜日

これ、よくあるパターンなので早々に脱却したい(野間易通)

一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなお してみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。(『看護のための精神医学』中井久夫

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小池一夫@koikekazuo

「いいか。世の中で最も危険な思想は、悪じゃなく、正義だ。悪には罪悪感という歯止めがあるが、正義には歯止めなんかない。だからいくらでも暴走する。過去に起きた戦争や大量虐殺も、たいていの場合、それが正義だと信じた連中の暴走が起こしたものだ」(『翼を持つ少女』)

野間易通)《@kdxn: この文章は前段と後段が矛盾している。「正義だと信じた」ということは実は正義ではなかったって意味なので、「最も危険な思想は、悪じゃなく、正義だ」という文は間違っていることになる。これ、よくあるパターンなので早々に脱却したい。 https://t.co/yl4DDMfbtv》

《@kdxn: 「正義と称するが正義ではないもの」と「正義」をきちんと区別することができないと、本当の正義を行うことができないばかりか、それを行っている者を疑い、嘲笑する醜い不正義の人間になってしまう。》

‏@G2Nakamura

これ、わからないのは「実は正義ではなかった」というのはどの立場から言っているのかというところ。まるで神のように一段上から見下ろしてないか?所詮、絶対的な正義など分からないのだという諦念を前提にしている分、小池一夫のほうが共感できる。

《@kdxn: 「実は正義ではなかった」とみなしてるのは小池さん(が引用した文)なので、読み取りがおかしい。 https://t.co/CbV64l9QgK》

《@kdxn: あと「絶対的な正義など分からないのだという諦念を前提にしている」のは信用ならない。絶対概念は神にのみ適用されるもので、世俗社会が扱う正義は人間同士の合意によるもの。なので「絶対正義などない」という諦念表明は何も言ってないに等しい。 https://t.co/CbV64l9QgK》


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野間易通氏の本日のツイート(2015.9.20)だが、さてあなたはどう思う?

《これ、よくあるパターンなので早々に脱却したい》な、《世俗社会が扱う正義は人間同士の合意によるもの》などという考え方は。

ことわっておくが、わたくしは野間易通氏のファンだがね、

@kdxn: 「正義感」というのは、たとえば痴漢にあってる女の人を見たら痴漢を捕まえるとか、無理なら車掌や警察に通報するとか、そういうときの感覚を言う。そう考えると、疑うべき「正義」と疑いのない「正義」があるとわかるはずなのに、「正義感は目を曇らせる」とか言ってるやつはそのへんが雑い。

少なくともこういった発言には抵抗しようがない(参照:「何もしないことのエクスキューズ」)。

だが、正義とは《世俗社会が扱う正義は人間同士の合意によるもの》とするのはいかにも浅墓すぎる。すでにかつてなんどもくり返し議論されて(とくに環境問題のとき)、すくなくとも現在生きている「人間同士の合意」では扱えない「正義」があることは、「識者のあいだでは」明らかになっているはずだ。すなわち、野間易通の考え方は「ほどよく聡明な」正義の現場派には《よくあるパターンなので早々に脱却したい》。

…ハーバーマスは、公共的合意あるいは間主観性によって、カント的な倫理学を超えられると考えてきた。しかし、彼らは他者を、今ここにいる者たち、しかも規則を共有している者たちに限定している。死者や未来の人たちが考慮に入っていないのだ。

たとえば、今日、カントを否定し功利主義の立場から考えてきた倫理学者たちが、環境問題に関して、或るアポリアに直面している。現在の人間は快適な文明生活を享受するために大量の廃棄物を出すが、それを将来の世代が引き受けることになる。現在生きている大人たちの「公共的合意」は成立するだろう、それがまだ西洋や先進国の間に限定されているとしても。しかし、未来の人間との対話や合意はありえない。また、過去の人間との対話や合意もありえない。彼らは何も語らない。では、われわれはなぜ責任を感じなければならないのか。実際、何の責任も感じない人たちがいる。国家や共同体に関して「道徳的」な人たちが特にそうである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P192)

人類は太古の昔から利己心の悪について語ってきました。他者に対して責任ある行動をとること——それが人間にとって真の「倫理」であると教えてきたのです。だが、経済学という学問はまさにこの「倫理」を否定することから出発したのです。

 経済学の父アダム・スミスはこう述べています。「通常、個人は自分の安全と利得だけを意図している。だが、彼は見えざる手に導かれて、自分の意図しなかった〈公共〉の目的を促進することになる」。ここでスミスが「見えざる手」と呼んだのは、資本主義を律する市場機構のことです。資本主義社会においては、自己利益の追求こそが社会全体の利益を増進するのだと言っているのです。(……)

未来世代とは単なる他者ではありません。それは自分の権利を自分で行使できない本質的に無力な他者なのです。その未来世代の権利を代行しなけれはならない現在世代とは、未成年者の財産を管理する後見人や意識不明の患者を手術する医者と同じ立場に置かれているのです。自己利益の追求を抑え、無力な他者の利益の実現に責任を持って行動することが要請されているのです。すなわち、「倫理」的な存在となることが要請されているのです。(岩井克人「未来世代への責任」

とはいえツイッターでメンションを入れるのはやめにしていまこうやって記している。いま野間易通氏は他人の批判を受け入れがたいまでに自らの「正義」を確信する領域にはいってしまっているようにさえみえるからだ。

林房雄の放言という言葉がある。彼の頭脳の粗雑さの刻印の様に思われている。これは非常に浅薄な彼に関する誤解であるが、浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(小林秀雄)

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くりかえせば、《一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは……視野の幅が狭くなっていることが多い》のであり、野間易通氏もそれから免れていない。かつまた彼の繰り言「ポストモダン」批判(参照)も素直に耳を傾けるわけにはいかない(参照:元「しばき隊」諸君の「ポストモダンと冷笑」批判)。

ポスト・モダニズムについては、僕もさまざまな、かつ相互に矛盾しあうような考えをもっています。ある者たちに対して、僕は、自分はポストモダンだと宣言するでしょう。しかし、それは、ポスト・モダンがモダンのあとにくる「状態」や「段階」でなのではなく、モダンなものに対してその自明性をくつがえすという“超越論的”な「姿勢」であるかぎりにおいてです。だから、それは「状態」としてのポスト・モダンに対しても向けられなければならない。(柄谷行人『闘争のエチカ』P18)

たとえば野間易通氏に代表される社会運動家たちは、ほとんどが消費税増反対だろう。消費税増に反対することは今生活している人(とくに低所得層)にとっての短期的な正義であるには相違ない。

だが消費税増ーーもっと大きく言えば国民負担率増ーー反対などというものは、《文句も言えない将来世代》への残忍非道の振舞いではないか(参照)。

いずれにしろ人は《邪な心を抱いて正しい行為をする》こともあるし《正しい心を抱いて邪な行為》をすることもある(シェイクスピア『終わりよければすべてよし』)。視野の幅が狭い(短期的な)正義は、長期的には悪であることがしばしばあるのは周知だろう。

簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

 しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(経済再生 の鍵は 不確実性の解消 (池尾和人 大崎貞和)ーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部2011ーー二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障)

「日本の国債市場と投資家行動 」(2014年10月3日 角間和男 野村アセットマネジメント)に引用されている橘玲氏の『(日本人)』におけるブキャナンの財政赤字の膨張の不可避性の見解はつぎの通り(もっともドイツは政治家の「秀れた」リーダーシップでそこから脱出したのだが)。

ジェームス・ブキャナンは「民主政国家は債務の膨張を止めることはできない」という論理的な帰結を1960年代に導き出した。政治家は当選のために有権者にお金をばらまこうとし、官僚は権限を拡大するために予算を求め、有権者は投票と引き換えに実利を要求するからだ。

このような説明は、ほとんどの人にとって不愉快きわまりないものにちがいない。だが 現実には、日本国の借金は膨張をつづけ、ついには1000兆円という人 類史上未曽有の額になってしまった。ブキャナンの「公共選択の理論」は、 この事実を見事に説明する。そしてこれまで誰も、国家債務が膨張する 理由について、これ以上シンプルな説明をすることができないのだ。(橘玲『(日本人)』)

こういったわけで、われわれは財政危機という課題をつねに未来へ先送りする傾向をもつ。「公共的合意」では埒が明かないのだ。

◆補遺:「皺のない言葉」(アンドレ・ブルトン)


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※附記

あなたが義務という目的のために己の義務を果たしていると考えているとき、密かにわれわれは知っている、あなたはその義務をある個人的な倒錯した享楽のためにしていることを。法の私心のない(公平な)観点はでっち上げである。というのは私的な病理がその裏にあるのだから。例えば義務感にて、善のため、生徒を威嚇する教師は、密かに、生徒を威嚇することを享楽している。 (『ジジェク自身によるジジェク』)

変奏:〈あなた〉が正義という理念のために己の正義を果たしていると考えているとき(たとえば安倍晋三を罵倒するとき)、〈わたくし〉は知っている。〈あなた〉のふだんは行き場のない攻撃欲動をこのときばかりと発散し、それを享楽していることを。

ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収ーー「で、どうおもう、〈あなた〉は?」)

《すべての善はなんらかの悪の変化したものである。あらゆる神はなんらかの悪魔を父としているのだ》(ニーチェ遺稿「生成の無垢」)

ーーこのニーチェの言葉の例証として、日本では代表的な聖女とされるだろう神谷美恵子さんをめぐってみてみたことがある(参照:「蜘蛛のような私、妖しい魅力と毒とを持つ私が恐ろしい」(神谷美恵子))。

義務こそが「最も淫らな強迫観念」……。ラカンのテーゼ、すなわち、〈善〉とは根源的・絶対的〈悪〉の仮面にすぎない、〈物自体 das Ding〉、つまり残虐で猥褻な〈物自体〉による「淫らな強迫観念」の仮面にすぎない、というテーゼは、そのように理解しなければならないのである。〈善〉の背後には根源的な〈悪〉があり、〈善〉とは「〈悪〉の別名」である。〈悪〉は特定の「病的な」位置をもたないのである。〈物自体 das Ding〉、が淫らな形でわれわれに取り巻き、事物の通常の進行を乱す外傷的な異物として機能しているおかげで、われわれは自身を統一し、特定の現世的対象への「病的な」愛着から逃れることができるのである。「善」は、この邪悪な〈物自体〉に対して一定の距離を保つための唯一の方法であり、その距離のおかげでわれわれは〈物自体〉に耐えられるのである。(ジジェク『斜めから見る』)

さてどうしたらよいのか。まずは正義だと思い込んでいる自らの背後にある攻撃欲動(享楽)を認めることだ。

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治った気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫『「踏み越え」について』2003)
……“la traversée du fantasme”(幻想の横断)の課題(人びとの享楽を組織しる幻想的な枠組から最低限の距離をとるにはどうしたらいいのか)は、精神分析的な治療とその終結にとって決定的なことだけではなく、再興したレイシストのテンションが高まるわれわれの時代、猖獗する反ユダヤ主義の時代において、おそらくまた真っ先の政治的課題でもある。伝統的な“啓蒙主義的”態度の不能性は、反レイシストによって最もよい例証になるだろう。理性的な議論のレベルでは、彼らはレイシストの〈他者〉を拒絶する一連の説得的な理由をあげる。だがそれにもかかわらず、己れの批判の対象に魅了されているのだ。

結果として、彼の弁明のすべてはリアルな危機が起こった瞬間、崩壊してしまう(例えば“祖国が危機に陥ったとき”)。それは古典的なハリウッドの映画のようであり、そこでは悪党は、“公式的には”最後にとがめられるにもかかわらず、われわれのリビドーが注ぎこまれる核心である(ヒッチコックは強調した、映画とはバッドガイによってのみ魅惑的になる、と)。真っ先の課題とは、いかに敵を弾劾し理性的に敵を打ち負かすことではない。――その仕事は、かんたんに(内なるリビドーが)われわれをつかみとる結果を生む。――肝要なのは、(幻想的な)魔術を中断させることなのだ。“幻想の横断”のポイントは、享楽から逃れることではない(旧式スタイルの左翼清教徒気質のモードのように)。幻想から最小限の距離をとることはむしろ次のことを意味する。私は、あたかも、幻想の枠組みから享楽の“ホック(鉤)をはずす”ことなのだ。そして享楽が、正当には決定できないものとして、分割できない残余として、すなわちけっして歴史的惰性を支える、固有に“反動的”なものでもなく、また現存する秩序の束縛を掘り崩す解放的な力でもないことを認めることである。 (ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)