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2015年9月2日水曜日

階級が無い社会の「不幸」

《人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということ》(柄谷行人

…………

前々回、柄谷行人=カントの「世界共和国」概念をめぐっていくらか記した。まずそのうちのひとつを再掲してみよう。

僕はよくいうんですが、カントが理念を、二つに分けたことが大事だと思います。彼は、構成的理念と統整的理念を、あるいは理性の構成的使用と理性の統整的使用を区別した。構成的理念とは、それによって現実に創りあげるような理念だと考えて下さい。たとえば、未来社会を設計してそれを実現する。通常、理念と呼ばれているのは、構成的理念ですね。それに対して、統整的理念というのは、けっして実現できないけれども、絶えずそれを目標として、徐々にそれに近づこうとするようなものです。カントが、「目的の国」とか「世界共和国」と呼んだものは、そのような統整的理念です。

僕はマルクスにおけるコミュニズムを、そのような統整的理念だと考えています。しかし、ロシア革命以後とくにそうですが、コミュニズムを、人間が理性的に設計し構築する社会だと考えるようになりました。それは、「構成的理念」としてのコミュニズムです。それは「理性の構成的使用」です。つまり、「理性の暴力」になる。だから、ポストモダンの哲学者は、理性の批判、理念の批判を叫んだわけです。

しかし、それは「統整的理念」とは別です。マルクスが構成的理念の類を嫌ったことは明らかです。未来について語る者は反動的だ、といっているほどですから。ただ、彼が統整的理念としての共産主義をキープしたことはまちがいないのです。それはどういうものか。たとえば、「階級が無い社会」といっても、別にまちがいではないと思います。しかし、もっと厳密にいうと、第一に、労働力商品(賃労働)がない社会、第二に、国家がない社会です。(柄谷行人「生活クラブとの対話」

《階級が無い社会》などは《けっして実現できない》とあり、かつ「世界共和国」はあくまで《統整的理念》とある。それはコミュニズムについてもしかり。

一般に流布している考えとは逆に、後期のマルクスは、コミュニズムを、「アソシエーションのアソシエーション」が資本・国家・共同体にとって代わるということに見いだしていた。彼はこう書いている、《もし連合した協同組合組織諸団体(uninted co-operative societies)が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断の無政府主と周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それは共産主義、“可能なる”共産主義以外の何であろう》(『フランスの内乱』)。この協同組合のアソシエーションは、オーウェン以来のユートピアやアナーキストによって提唱されていたものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

ところで柄谷行人のいう「階級が無い社会」での「階級」とは、社会的階級であるが、その社会的階級を取り払ったところにあるものはなにか。

私自身、若いころ、貧乏の辛さを嫌というほど味わい、有産階級の冷淡さ・傲慢さを肌身に感じたことのある人間なのだから、財産の不平等およびそこから生まれるさまざまな結果を除去しようという運動にたいしてお前は理解も好意も持っていないのだなどという邪推は、よもや読者の心に萌すまい。もちろん、こうした運動の目標が、「万人の平等こそ正義なり」などという抽象的なものであるなら、さっそく次のような反論が起こるだろう。すなわち、「自然は、すべての人間に不平等きわまる肉体的素質と精神的才能をあたえることによって種々の不正を行っており、これにたいしてはなんとも救済の方法が無いではないか」と。(フロイト『文化への不満』人文書院 旧訳)

肉体的「階級」ーーそれは性的魅力でもよいーーあるいは精神的「階級」がある。

・人々をたがいに近づけるものは、意見の共通性ではなく精神の血縁である。(プルースト 「花咲く乙女たちのかげに Ⅰ」井上究一郎訳)

・人間は自分の精神が属する階級の人たちの言葉遣をするのであって、自分の出生の身分〔カスト〕に属する人たちの言葉遣をするのではない、という法則(プルースト「ゲルマントのほう Ⅰ」同上訳) 

しかも権力志向という「人間性」はなくならない。

われわれは、権力志向という「人間性」が変わることを前提とすべきでなく、また、個々人の諸能力の差異や多様性が無くなることを想定すべきではない。(柄谷行人『トランスクリティーク』)
差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがない。差別された者、抑圧されている者が差別者になる機微の一つでもある。(……)

些細な特徴や癖からはじまって、いわれのない穢れや美醜や何ということはない行動や一寸した癖が問題になる。これは周囲の差別意識に訴える力がある。何の意味であっても「自分より下」の者がいることはリーダーになりたくてなれない人間の権力への飢餓感を多少軽くする。(中井久夫「いじめの政治学」)

さてここで「世界共和国」--階級のない社会ーーに似たものがほんとうに実現してしまったら、どうなるかをめぐって、ジャン=ピエール・デュピュイの思いがけない指摘をジジェクによる引用によって示す。

暴力が爆発する怖れがあるのは、社会空間に過剰の偶然性contingencyがあるときではなく、この偶然性を取り除いてしまったときである。この水準に於いてだろうか、ややあたり障りのない用語で、人が呼ぶもの、すなわち、ヒエラルキーの社会的機能を探し求めるのは?

デュピュイはここでも思い掛けない反転をする。ヒエラルキーを四つの手続き(「象徴的制度symbolic dispositifs」と見なす。その機能とは、上位者が下位者に屈辱を与えないようにする関係性を作ることにある。その四つの手続きとは、ヒエラルキー自体、脱神秘化、偶然性、複雑性である。

見た目とは反対に、これらのメカニズムは、ヒエラルキーと闘ったり脅かすものではない。そうではなく、ヒエラルキーを「口にあう」ようにするのだ。というのは「怨恨の動揺を引き起こすのは、他者が彼の幸運に相応しいという考えであり、公然と言い表された唯一の人物(適任者)であるという反対の考えではない」からだ。

この前提から、ディピュイはこう結論する、正義でありかつまた自らを正義と見なす社会が、すべての恨み怒りから自由であるなどとは、大間違いであると。反対に、まさにそのような社会に於いて、下位の立場を占める者たちが、傷つけられた誇りによって、怨恨の暴発に唯一の捌け口を見出すだろうと。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012,私訳)

【四つの「象徴的制度symbolic dispositifs」】

1.ヒエラルキーそれ自身(外部から課せられた命令を私の低い身分の者に経験させることができることが、私本来に備わった独立性である)

2.脱神話化(実力主義的な社会でないことを示すが、社会的闘争の産物であることを示すイデオロギー的な手続き。他の上位者の能力や功績の結果であることを避けることを可能にすること)

3.不確実性(我々の自然的社会的な立場がそれによって決められるくじ引きのようなものに類似するメカニズムと理解できる。幸運な人々なら、優良な遺伝子とともに裕福な家庭に生まれるというわけだ)。

4.そして複雑さ(結果を予測できない制御不可能な力。例を挙げるなら、市場の目に見えない手は、私の失敗と隣人の成功を導く者であるかもしれないが、それにもかかわらず私はより働き賢くなろうとする)。(ジジェク、賃金ブルジョワジーの反乱、2012

くりかえせば、この四段階の機能は、《ヒエラルキーと闘ったり脅かすものではない。そうではなく、ヒエラルキーを「口にあう」ようにする》ものであり、《その機能とは、上位者が下位者に屈辱を与えないようにする関係性を作ることにある》。

2005年十二月、新しく選ばれた英国保守党の党首デイヴィッド・キャメロンは、保守党を恵まれない人びとの擁護者に変えるつもりだと述べ、こう宣言した。「あらゆる政治にとっての試金石は、もてない者、すなわち社会の底辺にいる人びとに対して何ができるかということであるべきだ」。不平等が人間外の盲目的な力から生じたと考えれば、不平等を受け入れるのがずっと楽になる、と指摘したフリードリヒ・ハイエクですら、この点では正しかった。したがって、自由主義資本主義における成功あるいは失敗の「不合理性」の良い点は(市場は計り知れない運命の近代版だという古くからのモチーフを思い出そう)、そのおかげで私は自分の失敗(あるいは成功)を、「自分にふさわしくない」、偶然的なものだと見なせるということである。まさに資本主義の不正そのものが、資本主義のもっとも重要な特徴であり、これのおかげで、資本主義は大多数の人びとにとって許容できるものなのだ。(ジジェク『ラカンはこう読め!』2006)

仮に自分の低いポジションが「自分にふさわしい」ものだとしたらどうだろう。格差社会では起こらない「怨恨」が、格差のない社会では暴発するというのが、ジジェクやデュピュイ(日本では『ツナミの小形而上学』で著者として名が知れた)の考え方であり、「ヒエラルキー」の仕組みは、社会的下位者が、社会的上位者、特権者に屈辱感を抱かせないシステムとされる。


ややその置かれたポジションや視点が異なるとはいえ、ここで「民主主義」についても引用しておこう。

エティエンヌ・バリバールーーアルチュセールの弟子のマルクス主義者ーーをめぐる太田悠介氏の「「大衆の恐怖」の擁護のために一一エティエンヌ・バリバールの政治哲学におけるスピノザの契機」という論文からである。

民主制に関する一切の先入観を抜きにして、次のような素朴な疑問から民主制を考えてみると、一体どうなるのだろうか。すなわち、民主制の原則にまったく忠実であるような、民衆〔デモス〕の声と完全に一致する民主制〔デモクラシー〕を構想するのは可能だろうか、という問いである。

この観点がそのまったくの素朴さにもかかわらず、依然として有効なのは、それが民衆の意志から乖離したあらゆる既存の制度の批判に際して、最も基本的な根拠を与えてくれるからである。たとえば、「構成的権力」の概念が、その理論的妥当性をめぐる専門的な議論とは別の次元で、それなりの説得力を持つ理由のひとつは、この概念が上記の素朴な疑問に一定程度の答えを提供しているからであろう。つまり、民衆の手によってひとたび具体的な形をえた権力は、まさしくその構成されたという完了時において、その瞬間に民衆の手にはもはやないのだからそれはただちに民衆の構成する力によって再度問い直されるべきだ、という原則的な答えを、である。

しかし、制度化されたあらゆる民主制を批判し、より根源的な民主制を擁護しようとする立場を極限までおしすすめると、民主制の定義自体が非常に困難となるのは間違いない。というのもその際には、たとえば選挙システムによって断続的に届けられる民衆の声だけでは、正統性の確保のためには不十分とされるからである。合法性の枠内に収まらない法を侵犯する手段によって示される民衆の声が、そこでは当然ながら射程に入ってこざるをえない。こうした仕方で民衆の意志をもらさず汲み取ろうとするならば、民主制は民衆の声が制度やシステムに結実するや否やそれが問い直されるとされるという、絶えざる更新作業のうちにしか存在しないことになる。言い換えれば、民主制は制度化に失敗し続けることで初めて成功するという、制度ならざる制度なのである。これこそが、民主制が原理的には「永続革命的」であるほかない所以である(…Bensaid[2009])。

エティエンヌ・バリバール(EtienneBalibar)もまた、諸制度の恒常的な聞い直しを求める動きのうちに、民主制の本来の姿を見出す思想家の一人である。パリバールによれば、国家であれ、ヨーロッパのような地域共同体であれ、あらゆる政治体は構成されるやいなや、直ちにそこに所属を許されなかった者による市民権の要求にさらされるのでありその政治の境界線の再定義が必要となる。それゆえに、パリバールにとっての民主制とは、諸制度を作り上げながら、同時にその諸制度の正統性が民衆による絶えざる問い直しを経ることによってしか調達できないという、原理的な困難を抱えた特殊な政治形態として定義されよう。パリバールはこの原理的な困難に対する根本的な解決策は存在しないと考えており、したがってこの困難を恒常的な諸制度の問い直しによって暫定的に解決しながら、すぐ背後から迫ってくる制度化の危険を回避すべく、絶えず前方に逃避してゆくとという実際の運動のうちに、民主制に残された突破口をみてとるのである(Balibar[1997])。