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2015年9月1日火曜日

世界共和国における世界の警察官と世界の孤児

【世界史的理念】

おまえらおれたちばかりにやらせるなよ すこしは世界の警察官の仕事手伝ってくれ」について、なにやら数人なんたらと言ってくるヤツラがいるので記しておくが、まずはそこで引用した大量にリツイートされているーー2015.08.31 PM11;00現在20,617RTーー渡辺謙氏のツイートを再掲しよう。

@harryken311: 一人も兵士が戦死しないで70年を過ごしてきたこの国。どんな経緯で出来た憲法であれ僕は世界に誇れると思う、戦争はしないんだと!複雑で利害が異なる隣国とも、ポケットに忍ばせた拳や石ころよりも最大の抑止力は友人であることだと思う。その為に僕は世界に友人を増やしたい。絵空事と笑われても。(渡辺謙)

そしてわたくしはこの見解に反対しているのではないことを念押ししておこう。

ここで渡辺謙氏の発言とほぼ同様のことをいっている柄谷行人と浅田彰の1994年になされた対談文を抜き出す。

柄谷)たとえば、日本の政治家が世界政治のなかで発言するとき、そこに出てくる理念性は非常に弱い。ホンネを言ってしまっている。実質的には日本が金を出してすべてをやっているようなことでも、ほとんど口先だけの理念でやっているほうにつねに負けてしまう。日本の国内ではホンネを言って通るかもしれないけれど、世界のレヴェルでは、理念的にやらないかぎり、単に請求書の尻拭いをする成金というだけで、何も考えていないバカ扱いにされるに決っていますよ。

浅田)そのとき日本人がもてる普遍的理念というのは、結局は平和主義しかないと思いますね。(……)

柄谷)憲法第九条は、日本人がもっている唯一の理念です。しかも、もっともポストモダンである。これを言っておけば、議論において絶対に負けないと思う。むろん実際的にやることは別だとしても、その前にまず理念を言わなければいけない。自衛隊の問題でも、日本は奇妙に正直になってしまう。自衛隊があるから実は憲法九条はないに等しいのだとか、そんなことは言ってはいけない。あくまで憲法九条を保持するが、それは自衛隊をもつことと矛盾しない、と言えばよい。それで文句を言う者はいないはずです。アメリカだって、今までまったく無視してきた国連の理念などを突然振りかざしてくる。それが通用するのなら、何だって通用しますよ。ところが、日本では、憲法はアメリカに無理やり押しつけられたものだから、われわれもしようがなく守っているだけだとか、弁解までしてしまう(笑)。これでは、アジアでやっていけるわけがないでしょう。アメリカ人は納得するかもしれないけれど。

浅田)実際、アメリカに現行憲法を押しつけられたにせよ、日本国民がそれをずっとわがものとしてきたことは事実なんで、これこそわれわれの憲法だといってまことしやかに大見栄を切ればいいわけですよ。それがもっとも先端的な世界史的理念であることはだれにも疑い得ないんだから。

柄谷)ヘーゲルではないけれど、やはり「理性の狡知」というのがありますよ。アメリカは、日本の憲法に第九条のようなことを書き込んでしまった。

浅田)あれは実は大失敗だった。

柄谷)日本に世界史的理念性を与えてしまったわけです(笑)。ヨーロッパのライプニッツ・カント以来の理念が憲法に書き込まれたのは、日本だけです。だから、これこそヨーロッパ精神の具現であるということになる。……『「歴史の終わり」と世紀末の世界』浅田彰 小学館1994 P243-248ーー「資料:憲法の本音と建て前」)


戦後七◯年といわれますが、戦後という言葉を第二次大戦後という意味で使っているのは、たぶん日本だけでしょう。それは、日本には戦後に新憲法があって、戦争をしないことになっているからです。憲法九条が、普遍的な意味を持っていることは確かです。それは、さかのぼればカントの『永遠平和のために』の精神を受け継ぎ、一九二八年の不戦条約の精神を受け継いでいるものです。そして、実際日本人に支持されています。

 しかし、それは人々が憲法九条について啓蒙されたからではなく、護憲運動があったからでもありません。憲法九条は、当時日本人が戦争を反省して自発的に作ったものではなく、占領軍が強制したものです。だから、保守派は日本人の自発的な憲法を作ろうといってきたわけです。しかし、強制された自発的であることとは、矛盾しないのです。たとえば、憲法ができて数年後、朝鮮戦争の際にアメリカがこの憲法を変えようとしたとき、日本人は(保守の吉田政権ですが)それに抵抗しました。その時に、日本は憲法九条を自発的に選んだといえます。

 ただ、この時期の問題は、憲法九条の解釈を変えて自衛隊を承認したことです。ある意味で、解釈改憲はこのときから始まったといえます。しかし、憲法九条自体を変えようとはしませんでした。保守派はそれを変える機会が来るのをずっと待っていたのですが、できなかった。今もできません。それは、戦後の日本人には、戦争を忌避する精神が深く根付いたからです。それは「無意識」のものです。集団的無意識ですね。これは意識的なものではないから、論理的な説得によっても、宜伝 · 煽動によっても変えることができない。そして、これは、社会状況が変わっても世代が変わっても残る。

 アメリカは日本と同じではありませんが、べトナム戦争でよく似た経験をしています。べトナム戦争以降、彼らは二度と徴兵制を採れない。それは無意譏の戦争忌避があるからです。日本の憲法九条のよに明文化はされていませんが、もし現職の大統領や大統領候補が徴兵を唱えたらどうなるか。たちまち終わりです。アメリカ政府は、べトナム戦争以降ずっとその状態が元に戻るのを待っていたはずです。

9・11の際は、これでアメリカ人も憤激して立ち上がるだろう、進んで戦争にも行くだろうと考えたでしよう。しかし、確かにそういう兆しも見えましたが、すぐに消えた。アメリカ人も、もう自由のために、などと言って戦争に行って死んだりはしないのです。今後の戦争は、傭兵のような戦争のプロ、ドローンのようなロボットが行うようになるでしょう。もはや国民は戦争には参加できないのです。これが現在の戦争の現実です。

 憲法九条が日本だけではなく、一定の独立を達成した国では、戦争で進んで死ぬということは無理だと思います。たしかに、独立を実現するまでは多くの人々は命を睹けて戦うでしょう。が、独立した後、他の国民を攻撃するような戦争には無理がある。国家がどう言おうと、人々が進んで戦争に行くことはありえない。

 現在の政権が本気で戦争をする気があるなら、たんに憲法の解釈を変えるのではなく、九条そのものを変えるべきですね。むろん、それはできない。変えようとする政権や政党のほうが壊减します。それは、戦争を拒否する無意識の「超自我」が存在するからです。憲法九条はいわば「虎の尾」です。今の政権はそれを踏んでしまったのではないですか。
ーー「戦後」を引き継ぎ、次の世界に向かう、私たちのこれからの理想はなんでしょうか。

柄谷 別に新しい理想は要りません。憲法九条を本当に実行すること、それが理想です。いうまでもないですが、現状は九条に反しています。米軍基地が各地にあり、自衛隊には莫大な国家予算がついている。憲法九条の文言を素直に読めば、こんなことがありうるわけがないのです。

 九条を文字通り実行すること、それはたんに日本人の理想ではありません。それは、カントが人類史の到達点とした「世界共和国」にいたる第一歩です。もちろん、これは日本一国ではできません。九条も、憲法前文に書かれているように、戦後に成立した国連を前提としているのであって、一国主義ではありません

 現在、国連は機能しなくなっています。戦争を阻止する力をもたない国連を変えるためには、それぞれの国での対抗運動が必要です。たとえば、日本が今後憲法九条を実行するということを、国連で宣言するだけで、状況は決定的に変わります。

【世界共和国】

さてここではさらに柄谷行人=カントの「世界共和国」の基本的な考え方は何だったかを問うてみよう。

僕はよくいうんですが、カントが理念を、二つに分けたことが大事だと思います。彼は、構成的理念と統整的理念を、あるいは理性の構成的使用と理性の統整的使用を区別した。構成的理念とは、それによって現実に創りあげるような理念だと考えて下さい。たとえば、未来社会を設計してそれを実現する。通常、理念と呼ばれているのは、構成的理念ですね。それに対して、統整的理念というのは、けっして実現できないけれども、絶えずそれを目標として、徐々にそれに近づこうとするようなものです。カントが、「目的の国」とか「世界共和国」と呼んだものは、そのような統整的理念です。

僕はマルクスにおけるコミュニズムを、そのような統整的理念だと考えています。しかし、ロシア革命以後とくにそうですが、コミュニズムを、人間が理性的に設計し構築する社会だと考えるようになりました。それは、「構成的理念」としてのコミュニズムです。それは「理性の構成的使用」です。つまり、「理性の暴力」になる。だから、ポストモダンの哲学者は、理性の批判、理念の批判を叫んだわけです。

しかし、それは「統整的理念」とは別です。マルクスが構成的理念の類を嫌ったことは明らかです。未来について語る者は反動的だ、といっているほどですから。ただ、彼が統整的理念としての共産主義をキープしたことはまちがいないのです。それはどういうものか。たとえば、「階級が無い社会」といっても、別にまちがいではないと思います。しかし、もっと厳密にいうと、第一に、労働力商品(賃労働)がない社会、第二に、国家がない社会です。(柄谷行人「生活クラブとの対話」

柄谷行人は「世界共和国」はけっして実現できないものとしている、ーー①労働力商品(賃労働)がない社会、②国家がない社会。

だが他方、国連による世界同時革命ということも言っている。

各地の運動が国連を介することによって連動する。たとえば、日本の中で、憲法九条を実現し、軍備を放棄するように運動するとします。そして、その決定を国連で公表する。〔中略〕そうなると、国連も変わり、各国もそれによって変わる。というふうに、一国内の対抗運動が、他の国の対抗運動から、孤立・分断させられることなしに連帯することができる。僕が「世界同時革命」というのは、そういうイメージです。(柄谷行人『「世界史の構造」を読む』)

【世界の警察官】

かりにこの「世界共和国」に近いものが実現したとしよう、「労働力商品(賃労働)がない社会」は想定することがむずかしければ、「国家がない社会」というものだけでもよい。

そのとき国家間の戦争は当然なくなる。だが「内戦」ーー世界共和国内では地域紛争ということになるーーはどうだろう。それはなくなることは想定しがたい、人々が仔羊になってしまわなければ。

ここではホッブス=フロイトの「人間は人間にとって狼である」(Homo homini lupus)に触れるのはやめ、次の文をのみ掲げておく。

・グローバル化で等質化すればするほど世界はバルカン化する(レジス・ドゥブレ)

・ヨーロッパ共同体が統合に向えば向かうほど、分離や独立のナショナリズムの衝動が芽生える。(ポール・ヴェルハーゲ)

いずれにせよ、われわれが住む一国内でも「警察官」は必要であり、それがいらない社会があるとは考えにくい。とすれば世界が「世界共和国」となっても「世界の警察官」は必要だ。

オバマ大統領は、シリア内戦に関するテレビ演説で、退役軍人などから、「米国は世界の警察官でなければいけないのか」という書簡を受け取ったことを明らかにし、次のように述べた。

「米国は世界の警察官ではないとの考えに同意する」。(「世界の警察官をやめる」と宣言したオバマ大統領

ここでの文脈からやや外れて記すが、米国が世界の警察官をやめれば、まずは軍需産業が悲鳴を上げるだろう。彼らは売上げを維持するために別のお得意先を探さなければならない。

[ワシントン 2015.07.09 ロイター] - 米陸軍は9日、予算削減に対応するために、2017会計年度末までに、兵士4万人と文官1万7000人を削減すると発表した。
 これにより、兵士の数は49万人から約45万人に減り、第2次世界大戦以降最低の水準になる。(米陸軍、兵士4万人削減へ 予算カットで

参照1、「日本の軍需産業と戦争法案について――安倍内閣は、国民の多数が反対しているのに、なぜ国会会期を延長してまで戦争法案を執拗に押し通そうとしているのか

参照2、「アメリカの2016年度国防予算が日本の安保法制(集団的自衛権)を前提に組まれている

こうやって資本の論理としては、米国の「世界の警察官をやめる」宣言は、日本はその資本の欲動の主要な代替対象となっている、と想定できる、あくまで推測ではあるが。


【世界の孤児】

というわけで、「おまえらおれたちばかりにやらせるなよ すこしは世界の警察官の仕事手伝ってくれ」は、こういった前提での問いである。もちろん現在「世界共和国」どころではないので議論の飛躍はあるのは十分承知している上での「挑発文」である。

ーーその飛躍の溝を埋めようとすると「資本主義」「新自由主義」への批判をしなければならないので割愛したわけだ(参照:イデオロギー、ヘゲモニー、エコノミー(ネーション、ステート、資本制)の三幅対)。

いずれにせよ日本は「世界の警察官」を、第九条を楯に否定しうるし、それが望ましいという立場がある(わたくしは終始その立場だ)。だがそれは「世界の警察官」をやむえずやらざるをえない国々のひとたちからみれば、ときに一国平和主義のエゴイズムとみえる可能性はあるだろう、ということを問うたわけだ。

そのとき日本人がそう思われないためにはどんな手段があるか、あるいはひょっとして《日本が世界の孤児となるか否かを決める》(中井久夫)状況に現在立ちつつあるのではないか、ということも念頭にあった。

難民とは被災者であり、被災者差別を論じる時に避けて通ってはならないものである。(中井久夫「災害被害者が差別されるとき」『時のしずく』所収ーー「異質なものを排除するムラ社会の土人」)

ーー戦争難民の受け入れを拒否し続けることができるだろうか、世界の警察官を拒絶する経済大国のわが国が。それは「世界の孤児」への選択ではないか?


【メタレイシスト】

難民を受け入れれば、将来その中から出国した自国への反政府活動をする者たちがかならず出てくる。とすれば日本の平和度は下がるだろう。

もちろんフランスやドイツなどでも「難民」や「移民」の扱いに手を焼いているのは周知。だからわれわれは難民の受け入れを拒否し続けて「平和」のままで願うのは心情的には当然だろう。

……そもそも「他者に開かれた多文化社会」を目指しつつ、実際は移民をフランス人の嫌がる仕事のための安価な労働力として使い、「郊外」という名のゲットーに隔離してきたわけで、そういう移民の若者の鬱屈をイスラム原理主義が吸収したあげく今回のようなテロが起きたと考えられる。国民戦線はそういう多文化主義の偽善を右翼の側から批判して大衆の支持を集めてきたのだ(とくに、古臭い極右だったジャン=マリー・ル・ペンに対し、後継者である娘のマリーヌは移民問題などをめぐって大衆の生活感情をとらえるのがうまく、今回は事件後ただちに『ニューヨーク・タイムズ』に寄稿するといったしたたかな国際感覚も見せている)。「多文化主義の建前を奉ずる偽善的言説のアゴラから排除された国民戦線こそが、そのようなアゴラの外の現実的矛盾を直視し解決しようとしているのだ」という主張にいっそうの説得力を与えてしまったとすれば、国民戦線の排除は賢明だったとは言い難いのではないか。(浅田彰「パリのテロとウエルベックの『服従』」


一九九二年に旧東独のロストクで起こったネオ・ナチによる難民収容施設の焼き討ち事件をめぐるジジェクの発言はこうである。

メタ・レイシストはたとえばロストク事件にどう反応するか。もちろんかれらはまずネオ・ナチの暴力への反発を表明する。しかし、それにすぐ付け加えて、このような事件は、それ自体としては嘆かわしいものであるにせよ、それを生み出した文脈において理解されるべきものだと言う。それは、個人の生活に意味を与える民族共同体への帰属感が今日の世界において失われてしまったという真の問題の、倒錯した表現にすぎない、というわけです。

つまるところ、本当に悪いのは、「多文化主義」の名のもとに民族を混ぜ合わせ、それによって民族共同体の「自然」な自己防衛機構を発動させてしまう、コスモポリタンな普遍主義者だということになるのです。こうして、アパルヘイト(人種隔離政策)が、究極の反レイシズムとして、人種間の緊張と紛争を防止する努力として、正当化されるのです。

ここに、「メタ言語は存在しない」というラカンのテーゼの応用例を見て取ることができます。メタ・レイシズムのレイシズムに対する距離は空無であり、メタ・レイシズムとは単純かつ純粋なレイシズムなのです。それは、反レイシズムを装い、レイシズム政策をレイシズムと戦う手段と称して擁護する点において、いっそう危険なものと言えるでしょう。(「スラヴォイ・ジジェクとの対話1993」『「歴史の終わり」と世紀末の世界』(浅田彰)所収ーー「新しい形態のアパルトヘイト」)

※「異質なものを排除するムラ社会の土人」の内容もこの文脈である。

ーーおまえら、メタレイシストだよ、わかるか? そしてそれも選択肢のひとつだ。そういった連中がいるのを嘲弄するつもりはない、ムラ社会の土人ならやむえない。すなわち「構造的な」問題だ。

わが国が歴史時代に踏入った時期は、必ずしも古くありませんが、二千年ちかくのあいだ、外国から全面的な侵略や永続する征服をうけたことは、此度の敗戦まで一度もなかったためか、民族の生活の連続性、一貫性では、他に比類を見ないようです。アジアやヨーロッパ大陸の多くの国々に見られるように、異なった 宗教を持つ異民族が新たな征服者として或る時期からその国の歴史と文化を全く別物にしてしまうような変動は見られなかったので、源平の合戦も、応仁の乱も、みな同じ言葉を話す人間同士の争いです。 (中村光夫『知識階級』)

もっとも《外国から全面的な侵略や永続する征服をうけたこと》がないというだけで日本民族の連続性、一貫性を主張するのは、単純すぎるという見解は当然あるだろう。たとえば司馬遼太郎は、日本も応仁の乱あたりで一編切れたと考えてもいいぐらいだと言っている。

とはいえ江戸時代である。ここで真の日本的なものが育まれた。柄谷行人は、かつてコジューヴの日本文化論(日本的スノビズム)を語りつつ、《日本的な生活様式とは実際に江戸文化のこと》としている。

江戸文化とは、江戸幕府の基本政策によって醸成された。

江戸幕府の基本政策はどういうものであったか。刀狩り(武装解除)、布教の禁と檀家制度(政教分離)、大家族同居の禁(核家族化)、外征放棄(鎖国)、軍事の形骸化(武士の官僚化)、領主の地方公務員化(頻繁なお国替え)である。(中井久夫「歴史にみる「戦後レジーム」」)

かりにこのような日本的なものがいまだ21世紀の日本に生き残っているならーーおそらくいまだ蟠踞していると思われるがーー、「普遍性」など目指しようがない。移民政策をいまさら推進したら、フランスであれ移民居住区がゲットー化しているのだから、日本では、かねてよりの得意技「ムラ八分」が起こるに決まっている。

「ぼくは日本人は百パーセント、レイシストだと思いますよ」(岩井克人、1990)

岩井克人がこういってから25年たっているが、いまだたいして変わっていない(すくなくともそういった連中がうじゃうじゃいるぜ)。

だがこの心情的鎖国状態は、その鎖が人目に触れないだけにいっそう開国を困難なものにしてゆくだろう。


【米国の旧敵国日本】

さてここまでの議論で欠けているものはなんだろう。まずは世界は日本などというなにを仕出かすかわからない国に(本音では)世界の警察官などやってもらいたくないのではないか、という側面が欠けている(ほかにもあるだろうが、それはきみたちが考えてくれ!)。

……国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。醒めている者も、ふつう亡命の可能性に乏しいから、担いでいるふりをしないわけにはゆかない(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収ーー「おみこしの熱狂と無責任」気質(中井久夫)、あるいは「ヤンキー」をめぐるメモ

こういった集団神経症的熱狂気質の国では、「難民」受け入れも無理さ、と世界は思ってくれるならそれにこしたことはない・・・(参照:「ファシズム的なものの受肉」)

ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収
「日本は、アジアに対する謝罪をしたと思ったら取り下げるみたいなことを繰り返してきた。 しかし、それで済んでいるのはなぜかというと、実は平和憲法が『大きな謝罪』として、『反省』だとして受け止められている。だから、たとえ宮台さんの言うような正当な理由があった としても、憲法 9 条を変えるということは、その『謝罪』を撤回したというニュアンスになりか ねない。」 (土井たか子ーー資料:憲法の本音と建て前
最近わかってきたのは、世界は日本の戦後六〇年を評価し、戦前への回帰を好ましくないとしていることである。米国にとって日本は同盟国であると同時に旧敵国である。原爆を持たせないという決意は非常に固い。日米同盟も、日本軍国主義の復活を抑えるという面があると私は思う。少なくとも、日本以外はそう解説しているように見える。イランもイラクもかつての親米国だったのだ。(中井久夫「日本が“入院”した一二日間」2007.9.27

ーー日本が世界の孤児であっても「孤児」を慈しんでくれる国々が世界に多いことを祈る!


【移民・難民と経済】


ところで 「独政府は今年の難民申請者が昨年比4倍の80万人に達すると予想」しているそうだ(毎日新聞2015.08.30 ドイツ:難民急増「申請80万人」ネオナチ反発、先鋭化)。

日本はこれから難民・移民あわせて毎年200万人ほど受け入れたら10年ほどして2000万人ほどになる。そうすれば財政破綻はぎりぎりのところで免れる可能性はないのだろうか。

だが移民は経済の話としてもよいが、難民とは人道の話である。こういった話は慎むべきだろう。

移民政策の問題と難民受け入れの問題は区別すべきです。危機にあたっての難民受入れは人道問題。自分では受け入れないで、受入れ国を支援すればすむものでもない。 (川上泰徳氏ツイート)

そもそも現在の日本は移民国としての魅力を失っているという見解もある。《少子高齢化が急速に進展し、経済が縮小していくことが予想される国にあえて移住するという移民はそう多くないだろう》(独立法人経済産業研究所(RIETI)「人口減少化における望ましい移民政策」、萩原里紗、2014)

いずれにせよ日本は少子高齢化でもうすぐにっちもさっちもいかなくなるのは目にみえている、たとえば社会保障制度(年金や健康保険等)が近い将来破綻しないわけがあるだろうか?




アベノミクスの博打はどうやらもう期待できそうもない。移民・難民もイヤだ。とすれば?

→「高齢化社会対策の劇薬」での飲むしかないんじゃないかい?


もちろん、いまの制度のままでやっていく方法を模索している立場もある。

国民の中では、「中福祉・中負担」でまかなえないかという意見があるが、私どもの分析では、中福祉を維持するためには高負担になり、中負担で収めるには、低福祉になってしまう。40%に及ぶ高齢化率では、中福祉・中負担は幻想であると考えている。

仮に、40%の超高齢化社会で、借金をせずに現在の水準を保とうとすると、国民負担率は70%にならざるを得ない。これは、福祉国家といわれるスウェーデンを上回る数字であり、資本主義国家ではありえない数字である。そのため、社会保障のサービスを削減・合理化することが不可避である。(武藤敏郎「日本の社会保障制度を考える」

移民なしで、消費税率25%にして、社会保障費を3割カットすればどうか、という立場だ。これでも「楽観的」すぎるという考え方を元日銀副総裁武藤敏郎氏ーー小沢一郎のせいで二度総裁になりそこなったといわれるーーは実はもっている。年金支給年齢を75歳以上にしたらどうかというシミュレーションもある。

武藤 たとえば年金の支給開始年齢を69歳まで引き上げる。世界をみても2030年くらいに向けて67,68歳に上げていくという流れになっている。日本は高齢化のフロントランナーです。平均寿命も健康寿命も最も高い国の一つだ。

 政府は、受給開始年齢を2030年度までに順次65歳まで引き上げることを決めていますが、このペースを早めたうえで、2025年度以降、2年に1歳のペースで69歳まで引き上げるという案です。

 70歳以上の高齢者医療の自己負担は現在、政治的な配慮もあって1割になっていますが、これを75歳以上も含めて2割に上げたらどうかと考えた。さらに安価なジェネリック薬品の普及を一段と押しすすめる、などです。消費税も2020年代を通じて20%程度まで引き上げる。私たちはこれを「改革シナリオ」と呼んでいるのです。

 ところがこれでも国家財政の収支を計算してみると、財政のプライマリーバランス(基礎的収支)は均衡しない。年々の赤字は縮小するが、赤字は出続ける。債務残高の対GDP(国内総生産)比率は250%あたりのままほぼ横ばいになる。(2013年9月12日 「中福祉・中負担は幻想」 武藤敏郎氏

現在500兆円のGDPが仮に年率2%づつ上昇したとしよう。すると10年後には約600兆円となる(より正確には複利計算で620兆円ほど)。上に書かれてあるように、消費税20%、そして社会保障費大幅削減の改革をしても、《債務残高の対GDP(国内総生産)比率は250%あたりのまま》とある。これは武藤氏が取り仕切った大和総研のシミュレーションに詳しい→ 「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」(大和総研2013)。

ところで、600兆円の250%の債務残高は、1500兆円である。国債の利子率は、現在、黒田日銀の異次元緩和によって、コンマ何パーセントかのひどく低い比率に抑えられているが、いずれ出口戦略の時期が来る。その後、経済成長率並の2%に利子率に徐々に上昇していくはずだ。あるいは日本国債の信用低下により、たとえばイタリア国債並の4%になったとしよう。

そのとき、1500兆円の金利払いは、2%の場合30兆円、4%の場合4%になってしまう。2013年度の税収総額(消費税8%込み)は約50兆円強と予想されている(バブル最盛期の税収は60兆円ほど)。債務利子率4%の場合、金利払いだけで、今年度の税収総額以上の額になってしまうことになる(参照:金利上昇がもたらす、悪夢のシナリオ 野口悠紀雄)。


消費税1%あたりは2.5兆~3兆円ほどである(参照:日本の財政破綻シナリオ)。国債金利がイタリア並の4%になったとき、いずれ金利払いは60兆円であり、これは消費税増20%である。すなわちシミュレーション消費税率25%+20%=45%(もちろんほかからとってもいいのだが、所得税、資産税等)。これは冗談のような話だが、わたくしの知るかぎり経済学者たちはかなりに割合でこのようにならざるをえないと考えている。だからもう諦めて「『財政破綻後の日本経済の姿』に関する研究会」(東京大学金融教育センター)なるものもあるぐらいだ。

※ここで念押ししておけば、巷間に流通する、経済成長により税収大幅増が見込めるという、たとえば「税収弾性値」を甘く見積もった計画(共産党や一部の経済学者の考え方)は幻想である。→参照:「正しい心を抱いて邪な行為をする


【猿に読んでもらう積り】

《鼻をほじくりながら、猿に読んでもらう積り》で書いたが、これでも共感の共同体の土人には通じないのはわかっている。そしてわたくしの論点にも抜けているところ、誤解もたくさんあるだろうことは当然である。いささか雑に記した箇所ーーとくにデータ的にはやや旧聞に属する「経済」ーーもある。いずれにせよ、このような短い書き物ですべてを網羅することができるわけはないし、より長く分析的に書く能力がどこかの馬の骨にすぎないディレッタントのわたくしに備わっているはずはない(とはいえ研究者や学者でもその専門分野以外は馬の骨以下ということがしばしばあるだろう)。

尾崎行雄が、初めて新聞記者になって、福沢のところに挨拶に行った時、君は誰を目当てに書く積りかと聞かれた。勿論、天下の識者の為に説こうと思っていると答えると、福沢は、鼻をほじくりながら、自分はいつも猿に読んでもらう積りで書いている、と言ったので、尾崎は憤慨したという話がある。彼は大衆の機嫌などを取るような人ではなかったが、また侮蔑したり、皮肉を言ったりする女々しい人でもなかったであろう。恐らく彼の胸底には、啓蒙の困難についての、人に言い難い苦しさが、畳み込まれていただろう。そう想えば面白い話である。(小林秀雄「福沢諭吉」)