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2015年8月16日日曜日

勝夢酔とその息子

『安吾史譚』のなかに「勝夢酔」という文がある。勝夢酔とは勝海舟(勝安芳)の父であり、《捧腹絶倒的な怪オヤジであるが、海舟に具わる天才と筋金は概ね親父から貰ったものだ》と安吾はいっている。

人の目から見れば放蕩無頼で、やること為すことトンチンカンで収支つぐなわざるバカモノにすぎないが、このオヤジの一生にはチャンと心棒が通っていた。トンチンカンのようで、実は一貫した軌道から全心的に編みだされている個性的な工夫から外れていることがない。社会的には風の中のゴミのようにフラフラしている存在だが、彼の個性にジカに接触した者には、誰よりもハッキリと大地をふみしめてゆるぎのない力のこもった彼の人生がわかるはずだ。(坂口安吾「勝夢酔」)

とあるようにひどく愉快になる人物であり、かつまたひどく愉快になる安吾の文章である。《人の目から見れば放蕩無頼で、やること為すことトンチンカンで収支つぐなわざるバカモノにすぎないが、このオヤジの一生にはチャンと心棒が通っていた》とはまさに安吾の生き方を語ったものとさえいえる。

ーーといまざっと書いて上から読み返しているのだが、ここで以前写経した石川淳の文章を想い起こした。わたくしの場合、読み返すと挿入につぐ挿入でどうも記事が長くなる悪癖があるのだが、以下の文は捨て難い。

生活に於て家といふ觀念をぶちこわしにかかつた坂口安吾にしても、この地上に四季の風雨をしのぐ屋根の下には、おのづから家に似た仕掛にぶつかる運命をまぬがれなかつた。ただこれが尋常の家のおもむきではない。風神雷神はもとより當人の身にあつて、のべつに家鳴振動、深夜にも柱がうなつてゐたやうである。ひとは安吾の呻吟を御方便に病患のしわざと見立てるのだらうか。この見立はこせこせして含蓄がない。くすりがときに安吾を犯したことは事實としても、犯されたのは當人の部分にすぎない。その危險な部分をふぐの肝のやうにぶらさげて、安吾といふ人閒は强烈に盛大に生き拔いて憚らなかつたやつである。

家の中の生活では、さいはひに、安吾は三千代さんといふ好伴侶に逢着する因緣をもつた。生活の機械をうごかすために、亭主の大きい齒車にとつて、この瘦せつぽちのおくさんは小さい齒車に相當したやうに見える。亭主と呼吸を一つにして噛み合つてゐたものとすれば、おこりえたすべての事件について、女房もまた相棒であつたにひとしい。亭主が椅子を投げつけても、この女房にはぶつかりつこない。そのとき早く、女房は亭主から逃げ出したのではなくて、亭主の内部にかくれてゐたのだろう。安吾がそこにゐれば、をりをりはその屬性である嵐が吹きすさぶにきまつてゐる。しかし、その嵐の被害者といふものはなかつた。すなはち、家の中に悲劇はおこりえなかつた。それどころか、たちまち屋根は飛んで天空ひろびろ、安吾がいかにあばれても、ホームドラマにはなつて見せないといふあつぱれな實績を示してゐる。たくまずして演出かくのごときに至つたについては、相棒さんもまたあづかつて力ありといはなくてはならない。

安吾とともにくらすこと約十年のあとで、さらに安吾沒後の約十年といふ時閒の元手をたつぷりかけて、三千代さんは今やうやくこの本を書きあげたことに於て安吾との生活を綿密丁寧に再經驗して來てゐる。その生活の意味がいかなるものか、今こそ三千代さんは身にしみて會得したにちがひない。會得したものはなほ今後に持續されるだらう。この本の中には、亡き亭主の證人としての女房がゐるだけではない。安吾の生活と近似的な價値をもつて、當人の三千代さんの生活が未來にむかつてそこに賭けてある。この二重の記錄が今日なまなましい氣合を發してゐ所以である。石川淳「坂口三千代著「クラクラ日記」序」)

バー・クラクラ



ーーこの画像に行き当たって思い出した石川淳の文なのだが、なぜか投稿せずにほうってあった。

さて安吾の文に戻る。

「おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまり有まいと思う故に孫やひこの為に話してきかせるが、よく不法もの馬鹿もののいましめにするがいいぜ」 これは彼が自分の無頼の一生を叙述して子孫のイマシメにするために残した「夢酔独言」という奇怪にして捧腹絶倒すべき自叙伝の書き出しの文章である。

しかし彼は子孫が真人間になるようにといくらか考えたが、自分自身が真人間になることは考えなかった。まだ天罰がこないのはフシギだといぶかりつつ純粋に無頼の一生を終ったのだ。「孫やヒコのイマシメのために」とあって、子供のイマシメ、と書いてないのは、子供の出来がよかったからである。つまり海舟やその妹が子供ながら出来がよくて、オヤジがイマシメを言うところは何もなかった。仕方がないから、まだ生れない孫やヒコを相手に、世にも異様な怪自叙伝をイマシメとして書き綴ったのである。序文の文句は次のように結ばれている。「先にも言う通りおれは之までなんにも文字のむずかしいことはよめぬから、ここにかくにもかなのちがいも多くあるからよくよく考えてよむべし」(坂口安吾「勝夢酔」)


ところで安吾はもちろん息子の勝海舟についても言葉を費やしている。その箇所も面白い。いやわたくしは日本史にひどく疎く、とくに明治維新前後の英雄たちの消息はおそらく高校生ほどの知識もない、――ビジネス書などで成功のモデルとしてあげられる彼らの名やら大河ドラマやらをひどく毛嫌いしてきたのだーー、そのせいで新鮮なだけなのかもしれないが。

海舟という人は内外の学問や現実を考究して、それ以外に政治の目的はない、そして万民を安からしめるのが政治だということを骨身に徹して会得し、身命を賭して実行した人である。近代日本に於ては最大の、そして頭ぬけた傑物だ。

明治維新に勝った方の官軍というものは、尊皇を呼号しても、尊皇自体は政治ではない。薩長という各自の殻も背負ってるし、とにかく幕府を倒すために歩調を合せる程のことに政治力の限界があった。

ところが負けた方の総大将の勝海舟は、幕府のなくなる方が日本全体の改良に役立つことに成算あって確信をもって負けた。否、戦争せずに負けることに努力した。

幕府制度の欠点を知悉し、それに代るにより良き策に理論的にも実際的にも成算があって事をなした人は、勝った官軍の人々ではなく、負けた海舟ただ一人である。理を究めた確実さは彼だけにしかなかった。官軍の誰よりも段違いに幕府無き後の日本の生長に具体的な成算があった。

負けた大将だから維新後の政治に登用されなかったが、明治新政府は活気はあったが、確実さというものがない。それは海舟という理を究めた確実な識見を容れる能力のない新政府だから、当然な結果ではあった。

維新後の三十年ぐらいと、今度の敗戦後の七年とは甚だ似ているようだ。敗戦後の日本は外国の占領下だから、明治維新とは違うと考えるのは当らない。 

前記明治二十年の海舟の建白書に、
「日本の政治は薩長両藩に握られ、両藩が政権を争ってるようなものでヘンポである」 
とあるが、つまり薩長も実質的には占領軍だった。薩長政府から独立しなければ、日本という独立国ではなかったのである。維新後は三十余年もダラダラと占領政策がつづいていたようなもので、ただ一人幕府を投げすてた海舟だけが三十年前から一貫して幕府もなければ薩長もなく、日本という一ツの国の政治だけを考えていた。

つまり負けた幕府や旗本というものは、今の日本で云うと、旧軍閥や右翼のようなものだ。軍閥や右翼は敗戦後六七年で旧態依然たるウゴメキを現しはじめたが、明治の旗本は全然復活しなかった。いち早くただの日本人になりきってしまった。海舟という偉大な総大将が復活の手蔓を全然与えなかったのだ。明治新政府の政治力によるものではなかったのである。(坂口安吾「勝夢酔」)

もちろんいくら日本史に無知のわたくしでも、勝海舟が《近代日本に於ては最大の、そして頭ぬけた傑物》という評価を受けることが多かったり、逆に福沢諭吉が『痩我慢の説』で、《勝氏が和議を主張して幕府を解きたるは誠に手際よき智謀の功名なれども、これを解きて主家の廃滅したるその廃滅の因縁が、偶ま以て一旧臣の為めに富貴を得せしむるの方便となりたる姿にては、たといその富貴は自から求めずして天外より授けられたるにもせよ、三河武士の末流たる徳川一類の身として考うれば、折角の功名手柄も世間の見るところにて光を失わざるを得ず》などと書いたことぐらいは知っている。

福沢諭吉の「痩我慢の説」は書いてから十年ほど隠されたのちに発表されたものだが、この論を素直に読めば、小林秀雄が随筆「福沢諭吉」で書くように、勝安芳と榎本武勇は《ともに幕臣の身でありながら、官軍と妥協し或は敵に降参した腰抜けであった》ということになる。

そして前者の「頭抜けた傑物」の評価なら、たとえば荷風の日記にこうある。

昭和二十年九月廿八日。(……)

我らは今日まで夢にだに日本の天子が米国の陣営に微行して和を請ひ罪を謝するが如き事のあり得べきを知ら ざらりしなり。此を思へば幕府滅亡の際、将軍徳川慶喜の取り得たる態度は今日の陛下より遥に名誉ありしものならずや。今日此事のこゝに及びし理由は何ぞ や。幕府瓦解の時には幕府の家臣に身命を犠牲にせんとする真の忠臣ありしがこれに反して、昭和の現代には軍人官吏中一人の勝海舟に比すべき智勇兼備の良臣 なかりしが為なるべし。(『断腸亭日乗』昭和二十(1945)年 荷風散人年六十七)

いずれにせよ(わたくしにとって)安吾の文がことさら面白かったのは、《薩長も実質的には占領軍だった》、《負けた幕府や旗本というものは、今の日本で云うと、旧軍閥や右翼のようなものだ。軍閥や右翼は敗戦後六七年で旧態依然たるウゴメキを現しはじめた》云々という箇所である。江戸幕府にとっては、薩長は、太平洋戦争敗戦後の米国と同様に、実質的には占領軍だったとすれば、日本はその占領軍の末裔に21世紀になってふたたび占領されつつある。安倍やら「日本会議」やらの「戦後レジームからの脱却」なる標語がその「占領」の標語でなくてなんだろう。

小林教授:日本会議に沢山の知り合いがたくさんいるので私が答えますが、日本会議の人々に共通する思いは、第二次大戦で敗けたことを受け入れ難い、だから、その前の日本に戻したいと。かれらの憲法改正案も明治憲法と同じですし、今回もそうですが、日本が明治憲法下で軍事五大国だったときのように、アメリカとともに世界に進軍したいという、そういう思いを共有する人々が集まっていて、かつそれは、自民党の中に広く根を張っていて、かつよく見ると、明治憲法下でエスタブリッシュメントだったひとたちの子孫が多い。そうするとメイクセンスでしょ(笑)。(小林節

ところで『青空文庫』に勝海舟の小文が五編ほどありこの機会に読んでみたが、どれもこれも愉快になる文章であり、かつまたその文体が思い掛けなかった。たとえば以下は「大勢順応」の全文である。

憲政党が、伊藤さんに代つて、内閣を組織した当時、頻りに反対して騒ぎまはつた連中も、己れは知つて居るよ。だが随分見透しの付かない議論だと思つて、己れなどは、独りで笑つて居たのさ。御一新の際に、薩摩や、長州や、土州が政権を執れたとて、なに彼等の腕前で、迚も遣り切れるものかと、榎本や、大鳥などは、向きになつて怒つたり、冷やかしたりした連中だ。所がどうだ、暫くすると、自分から始めて薩長の伴食になつたではないか。何も大勢さ。併し今度の内閣も、最早そろ〳〵評判が悪くなつて来たが、あれでは、内輪もめがして到底永くは続くまいよ。全体、肝腎の御大将たる大隈と板垣との性質が丸で違つて居る。板垣はあんな御人よし、大隈は、あゝ云ふ抜目のない人だもの、とても始終仲よくして居られるものか、早晩必ず喧嘩するに極つて居るよ。大隈でも板垣でも、民間に居た頃には、人の遣つて居るのを冷評して、自分が出たらうまくやつてのけるなどゝと思つて居たであらうが、さあ引き渡されて見ると、存外さうは問屋が卸さないよ。所謂岡目八目で、他人の打つ手は批評が出来るが、さて自分で打つて見ると、なか〳〵傍で見て居た様には行かないものさ。(勝海舟「大勢順応」)


あるいは「猟官運動」の全文はつぎのとおり。

併し、何にせよ今度の政変は、第二維新だ。猟官の噂もだんだん聞くが、考へて見れば、是れも無理はない話しさ。それは御一新の際には、武士が皆な家禄を持つて居たから遊んで居ても十分食へたのだ。尤も脱藩の浪士などの間には、不平家も少しはあつたが、大抵な人は所謂恒の産があつたから、そんなに騒がなくつてもよかつたのだ。西郷などは、固より例外だが、それは流石に立派なもので、幕府が倒れた時に、最早平生の志を遂げたのだからこれから山林にでも引き籠つて、悠々自適、風月でも楽んで、余生を送らうと云ひ出した位だ。処が今の政党員は、多くは無職業の徒だから役人にでもならなければ食へないのさ。だからそれは猟官もやるがよいが、併し中には何んの抱負もない癖に、つまり財政なり外交なり、自分の主張を実行するために、就官を望むのではなくて、何んでも善いから月給に有り就きさえすればよいといふ風な猟官連は、それは見つともないよ。(勝海舟「猟官運動」)

己れは知つて居るよ

己れなどは、独りで笑つて居たのさ

傍で見て居た様には行かないものさ

考へて見れば、是れも無理はない話しさ

それは見つともないよ

ーーこれらはツイッター文体とでもいうべきものではないか