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2015年8月24日月曜日

ラカン派の三種類の他者、あるいはデリダの猫

以下、ほぼ資料の列挙。

唯一ヘーゲルだけである、欲望の根源的で構成的な「再帰性reflexivity」を考慮したのは(欲望とはいつも-すでに欲望の欲望、欲望のための欲望である。すなわちその用語のありとあらゆるヴェリエーションの下の「〈他者〉の欲望」である。私は私の〈他者〉が欲望することを欲望する。私は私の〈他者〉によって欲望されたい。私の欲望は大文字の〈他者〉――私が埋め込まれている象徴的領野――によって構造化されている。私の欲望はリアルな〈他者―モノ〉の深淵によって支えられている)。 (ZIZEK『LESS THAN NOTHING』2012 私訳)

ジジェクはヘーゲリアンとしてこのように言っている。通常、ヘーゲルの他者はイマジネールな(想像的)他者とされてきたが(コジューヴ、ラカンなどによる)、ジジェクは、いやそうではない、ヘーゲルの他者には象徴的な他者もあれば、リアルな他者もあるといっていることになる。

ヘーゲルの他者は欲望する者として主体も同様の欲望をもつことを必要とします。主体から承認を受けるためです。他者が欲するものはaです。ここにあらゆる袋小路の元凶があります。「わたしが対象として承認されるのであれば、そしてこの対象は見てのとおりそもそも意識、自己意識ですから、暴力以外による解決はありえません … ふたつの意識のあいだで裁断を下すことがどうしても必要になる」からです。(……)

何度も指摘してきましたが、倒錯は政治の領域にまで及んでしまうのです。想像界にだけ捕われてそこから出発するとそうなるのです。というのもこう言えば的を得ているでしょう。つまり、奴隷の隷属は影響力大で、これは絶対知にまでも影響を及ぼすのです。言い換えれば、奴隷は世の果てまで奴隷で居続けることになるのです。ヘーゲルさんへマをやらかしました!ヘーゲルの定式の真の姿、これをキルケゴールはちゃんとした形で表します。これはヘーゲルの真理ではなく不安の真理となります。不安こそが分析でいう欲望についての考察へとわれわれを導くのです。(ラカン「不安」のセミネール)

ジジェクによるヘーゲルの他者理解は、とても難解である。それは「否定の否定」にかかわり、わたくしにはいまだ手に負えていない(参照:難解版:「〈他者〉の〈他者〉は外-存在する」(ジジェク=ラカン))。今はただヘーゲル他者の可能性の中心はここにある、--ジジェク解釈ならばーーとだけ言っておく。

さて一般的なヘーゲル他者理解については、たとえば80年代の柄谷行人は次ぎのように説明している。そしていまでもこの理解が標準的だろう。

私はここでくりかえしていう。「意味している」ことが、そのような《他者》にとって成立するとき、まさにそのかぎりにおいてのみ、“文脈”があり、また“言語ゲーム”が成立する。なぜいかにして「意味している」ことが成立するかは、ついにわからない。だが、成立したあとでは、なぜいかにしてかを説明することができるーー規則、コード、差異体系などによって。いいかえれば、哲学であれ、言語学であれ、経済学であれ、それらが出立するのは、この「暗闇の中での跳躍」(クリプキ)または「命がけの飛躍」(マルクス)のあとにすぎない。規則はあとから見出されるのだ。

この跳躍はそのつど盲目的であって、そこにこそ“神秘”がある。われわれが社会的・実践的とよぶものは、いいかえれば、この無根拠的な危うさにかかわっている。そして、われわれが《他者》とよぶものは、コミュニケーション・交換におけるこの危うさを露出させるような他者でなければならない。

この《他者》は、サルトルのいうような他者とは区別されねばならない。後者は、もともと、ヘーゲルの「主人と奴隷」にかんする考察――すなわち自己意識ともう一つの自己意識との相克――に発している。そして、この場合、一つの自己意識ともう一つの自己意識は、互に置きかえ可能であり、同質的なのである。いいかえれば、対称的な関係にある。しかるに、われわれのいう《他者》は、異質であり、われわれが“考えている”ように考えているという保証はない。相克に終始しようと、妥協や和解に終ろうと、そもそも《他者》との間に、「ゲーム」が成立するか否かが不明なのだ。

サルトルは、他者の眼差がわれわれ(対自存在)を凝固させるという。しかし、たとえば猫の眼差ではなぜそうならないのだろうか。そこでは「言語ゲーム」がほとんど成立しないからだ。比喩的にいえば、《他者》は猫に似ているといってよいかもしれない。われわれに時たま関心をよせるかと思えば、まったく無関心であるような猫に。

また、《他者》は、超越的な神、あるいは全知の神の如きものではない。たとえば、神秘的体験において、ひとは、それに対して抗いようのないような神の声を“聞く”。あるいは、強迫的妄想(作為体験)において、ひとは他者の声をありありと聞き、そこからのがれることができない。しかし、そのような他者の声は、実のところ自分の声である。「自分が話すのを聞く」(デリダ)のに、それを「他人が話すのを聞く」かのように受けとっているのだ。その場合、他者に対する通常の“距離”はありえない。その他者は、私をすべて見透しており、私はそこから隠れる余地がない。

ビンスワンガーは、「共同世界から注目されない(見られない、聴かれない、一般的にいえば、捉えられない)ような在り方で実存したいという願望は、私には分裂病的実存様式の根本問題の一つをふくんでいるように思われる」といっている(「精神分裂病」)。そのような患者は、「他者に対して自己を隠そうとする願望」をもちながら、そうすることができない。すべてが見透されているので、自分であることができない。しかし、私が共同世界から隠れられないというのは、私が私自身から隠れられないというのと同じことである。

このような極端な例は、右のような他者が、結局自己意識にほかならないことを示している。他者(神)が全知なのは、私が私の考えていることを知っていることと同じである。しかし、私は私の考えることを知っているのだろうか? というより、「内的な過程」が実在するだろうか?

そのような「聞く立場」の明証性をくつがえすものこそ、《他者》である。《他者》は、私の「心の中」を隈なく見通すどころか、それをまったく疑わしいものとする。ウィトゲンシュタインのもちだす懐疑論者は、そのような《他者》にほかならない。それは、「内省」から出発する、あるいは事後的に見出される規則から出発する思考(哲学)に対する、またその内部で他者や外部を考えてしまう思考に対する、根本的な異議申し立てである。(柄谷行人『探求 Ⅰ』pp.40-42)

柄谷行人解釈のヘーゲル=サルトルの他者理解は黒字強調した通り、「自己意識」とありこれは想像的他者のことである。

ここでの柄谷行人の区分けに従えば、ヴィトゲンシュタインの《他者》がリアルな他者、ヘーゲルの他者がイマジネールな他者、そしてさらに言えばーー厳密さを期さずに敢えて言えば、ということであり、柄谷行人の他者解釈をラカン派の他者概念枠に収めるとすれば、という意味であるーー超越的な神という他者が象徴的他者となるかもしれない(フロイト用語ならヘーゲルの他者が理想自我、神という他者は自我理想か?)。

ジジェクの説明ならこうなる。

<理想自我>は主体の理想化された自我のイメージを意味する(こうなりたいと思うような自分のイメージ、他人からこう見られたいと思うイメージ)。

<自我理想>は、私が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体であり、私を監視し、私に最大限の努力をさせる<大文字の他者>であり、私が憧れ、現実化したいと願う理想である。

<超自我>はそれと同じ媒体の、復讐とサディズムと懲罰をともなう側面である。

この三つの術語の構造原理の背景にあるのは、明らかに、<想像界><象徴界><現実界>というラカンの三幅対である。理想自我は想像界的であり、ラカンのいう<小文字の他者>であり、自我の理想化された鏡像である。自我理想は象徴界的であり、私の象徴的同一化の点であり、<大文字の他者>の中にある視点である(私はその視点から私自身を観察し、判定する)。超自我は現実界的で、無理な要求を次々に私に突きつけ、なんとかその要求に応えようとする私の無様な姿を嘲笑する、残虐で強欲な審級……((『ラカンはこう読め』2006)

さてもう一度柄谷行人の文に戻れば、そこには、ヴィトゲンシュタインの《他者》は猫に似ているともある。

ここでデリダの遺著『動物ゆえにわれあり(L’animal que donc je suis)』の猫の話をめぐるジジェクの文を抜き出そう。

……デリダはこのくすんだ「薄明ゾーン」の踏査を、ある種の原光景におけるレポートを以て始める。すなわち、目覚めた後、彼はバスルームで裸になるが、猫がついて来ている。そこで気まずい心持に襲われる瞬間が起こる。それは彼の裸を見詰めている猫の前に立っているという瞬間だ。

この状況に耐えられなく、デリダは腰の周りにタオルをつけて猫を追い払ってからシャワーを浴びる。猫の眼差しは〈他者〉の眼差しーー非人間的眼差しを表す。だがこの理由でいっそうあらゆる深淵的な不可解さをもった〈他者〉の眼差しなのだ。

動物に見られている己れを見ることは〈他者〉の眼差しとの深淵的遭遇である。というのはーーまさに我々の内的経験を動物にたんに投影すべきではないためーー何かが根源的な〈他者〉であるところの眼差しを回帰させているからだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

ジジェクは、デリダの猫の眼差しはリアルな他者の眼差しである、と言っていることになる。とすればヴィトゲンシュタインの《他者》と同質なものなのだろうか。それは超越論的、あるいは物自体にかかわるはずだがーーとはいえ柄谷行人によるヴィトゲンシュタインの《他者》の説明はややそれとはニュアンスが異なるようにも感じられるーー、いまは断言は慎んでおく。


ここでジジェクが三つの他者の次元(想像的他者、象徴的他者、リアルな他者)をより詳しく説明している文を抜き出してみよう。

他者をめぐる話題は、他者の想像的〔イマジナリー〕、象徴的〔シンボリック〕、現実界的〔リアル〕側面を目に見えるようにする一種のスペクトル的分析の対象となるはずだ。そうした分析はおそらく、これら三つの次元を結びつけるボロメオの結び目というラカンの概念を説明する究極的な事例となるだろう。

第一に、想像的他者が存在するーー「私に似た」他の人々、競争や相互承認といった鏡像的関係を結ぶ私の同類たちである。

次に、象徴的(大他者)が存在するーーわれわれの社会的存在の実体であり、人間の共存を調整する諸規則の非人称的集合体である。

最後に、<現実的なもの〔リアル〕>としての<他者>、不可能な<モノ>、非人間的パートナー、象徴的<他者>に媒介された対称的な対話など不可能な<他者>、が存在する。

そして、これらの三つの次元がいかにして繋ぎ留められているかを理解することは決定的に重要である。<モノ>としての隣人は次のようなことを意味している。私の似姿、鏡像としての隣人の裏側にはつねに、根源的<他者性>、飼いならすことのできない怪物的<モノ>の計り知れない深淵が潜んでいるということだ。ラカンはこの次元をセミネール第三巻で指摘している。

《どうして〔<他者>を〕大文字のA〔<他者>(Autre)を表す〕とするのでしょうか。言語によって与えられる記号を補足(代補)する記号を導入しなければならないときはいつもそうなのですが、妄想的な[mad]理由があるからです。妄想的な理由とは次のようなものです。「君は僕の妻だ」、これについて皆さんは結局何を知っているのでしょうか。「あなたは私の師だ」、このことについて実際それほど確信が持てますか。これらのことばに創設的な価値を持たせているものは次のことです。つまり、このメッセージにおいて目指されていることはーーそれはメッセージが見せかけの場合でもはっきりしていることですがーー絶対的な<他者>としての他者がそこに存在しているということです。絶対的とは、この他者は再認(recognaized)されてはいるが、知られてはいないということです。同様に、見せかけを見せかけたらしめているもの、それは結局、見せかけか否かを皆さんは知らないということです。発話が他者へと向けられる水準での発話関係を特徴づけているのは、本質的には他者の他性(alterity)に在るこの未知の要素なのです。》

価値を創設することば(the founding word)―――あなたに象徴的な肩書きを与え、そうやってあなたをあなた(妻、師)たらしめる言明――というラカンの概念は、五〇年代初頭から、パフォーマティヴ〔行為遂行的言明〕の理論(ラカンとパフォーマティヴという概念の作者であるJ.L.オースティンとのリンクは、エミール・バンヴェニストだった)の影響を受けたものとして通常は理解されてきた。しかしながら、ラカンがそれ以上のものを目指していることは先の引用から明らかだ。われわれが出会う他者は、想像的似姿であるだけでなく、相互的交換が成り立たない<現実的なモノ>〔Real Thing〕としての、捕らえ所のない絶対的<他者>でもあり、まさしくそうしたことを前提としたときのみ、パフォーマティヴィティ〔行為遂行性〕や象徴的なものの関与〔媒介〕に頼る必要が生じるのである。<モノ>と共存する耐え難さを最小限に抑えるためには、<第三者>としての象徴的秩序、すなわち調停役の媒介者the symbolic order qua Third, the pacifying mediatorが介入しなければならない。<他者―モノ>を飼いならして普通の人間にするには、<他者―モノ>の双方が従う第三の審級the third agencyがまず必要になるーー非人称的な象徴<秩序>なくして、相互主観性(人間同士が共有する対称的な関係)は存在しない。だから、第三項なくして二つの項を結ぶ軸は存在しえないのだ。大文字の<他者>の機能が停止すれば、友好的な隣人は怪物的な<モノ>へと早変わりする(アンティゴネーの場合)。人間的なパートナーとして関係を結べる隣人がいなければ、象徴<秩序>そのものが怪物的な<モノ>となって直接私に寄生する(ダニエル・パウル・シュレーバーの神のように、私を直接支配し、享楽(jouissance)の光線で私を貫く)。象徴的に規制された、他者たちとの日常的交換を下から支える<モノ>がなければ、われわれはハーバマス的宇宙、平板で活気のない〔無菌状態の〕宇宙の住人となる。そこでは、主体は、過剰な情熱から成る傲慢さを奪われ、コミュニケーションという規制されたゲームにおける死んだ駒になってしまう。アンティゴネーーシュレーバーーハーバマス。本当に不気味な三角形だ。(ジジェク『メランコリーと行為』)

《私の似姿、鏡像としての隣人の裏側にはつねに、根源的<他者性>、飼いならすことのできない怪物的<モノ>の計り知れない深淵が潜んでいる》とある。私の似姿、鏡像としての隣人とはイマジネールな他者であり、《根源的<他者性>、飼いならすことのできない怪物的<モノ>の計り知れない深淵》とはリアルな他者である。

これはラカンのボロメオ結びのR(リアル)とI(イマジネール)の重な合いの場所にあるJȺ (jouissance de l'Ⱥutre)もしくはaということになるのだろうか(参照:「享楽について語ろうじゃないか、ボウヤたち!」)





いやそれ以外にもジジェクは《大文字の<他者>の機能が停止すれば、友好的な隣人は怪物的な<モノ>へと早変わりする》としている。とすれば、SとRの重なり場所には、JΦ(jouissance phallique)もしくはaがある。両方の記述を重ね合わせれば、結局対象aにかかわることになる(参照:「対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa)」)。

いや漠然と対象aというよりーー比較的頻繁に使用される語でありながら多くの場合よく理解されているとは思えないーーextimate(外密)やEx-sistenz(外立)と言っておくほうがいいかもしれない。

要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にあるのです。ここで問題となっていることを示すために「外密extime」という語を使うべきでしょう。(ラカンS16)
おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語"extimate."である。それは主体自身の、実に最も親密なintimate部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外exに現れ、捉えがたいものだ。(Richard Boothby)
Ex-sistenz のEx はaus,heraus,hinaus を、即ち「外に出る」ことを意味している。ハイデガー自身の説明によればーー「存在の真理のなかに出で立つこと」 Hinausstehen in die Wahrheit des Seins と言い、Das stehen in der Lichtung des Seins nenne ich die Wahrheit des Seinsと言っている。(塚越敏)

※より詳しくは「ラカンのExtimité とハイデガーのExsistenz」を参照。

とはいえ、このボロメオ結びはラカン派内でも納得できる形で説明している論者は稀である。わたくしが漸く見出したジジェクの弟子筋のLorenzo Chiesaに目が覚めるような解釈はあるがいまだ納得するというところまでは言っていない(参照:「超越論的享楽(Lorenzo Chiesa)」)

そもそもボロメオ結びについては次ぎのような見解さえある。

後期ラカン読むときに結び目の理論を勉強する必要はまったくないと思う。あれを真面目に受け取ってるのはヴァップローとか一部の超マニアックなラカニアンだけで、ミレールはじめ普通のラカニアンはあれを無視した上で、singularitéの議論とか、使えそうなところだけを取り出してる (松本卓也)

だがジジェクがいうように他者の様態に思いを馳せれば、《これら三つの次元を結びつけるボロメオの結び目というラカンの概念を説明する究極的な事例》であるに相違なく、そう簡単に捨て去るわけにはいかない。なぜなら、われわれは日常的にも、どの他者に向けて語っているか、想像的他者なのか象徴的他者なのか、それとも現実界的な他者なのか、ーーそしてそれがどんな具合に重なり合っているのか、とはまさにボロメオ結びが参照点になるからだ。

ほかにも例えば、ジジェクは ラカンのボロメオ結びを援用して“the Imaginary of democratic ideology, the Symbolic of political hegemony, the Real of the economy”ともかつては言っている(Zizek Iraq)。イデオロギー・ヘゲモニー・エコノミーが、想像界・象徴界・現実界とされれば、これまた柄谷行人のネーション・ステート・資本を想起することもできる(他にも柄谷はカントの仮象・形式・物自体をラカンの三位一体と結びつけている(参照:「仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)(柄谷行人=ラカン)」)。

資本=ネーション=ステートは、人間の「交換」がとる必然的な形態に根ざしている。容易に、この環を出ることはできない。マルクスがその出口を見いだしたのは、第四の交換のタイプ、すなわち、アソシエーションである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

こう引用すればーー今気づいたのだがーー、マルクスのアソシエーションは、ラカンのサントームに近づけて解釈できないかという問いも生れる(参照:「ラカン派の二種類のサントーム・症状」).。




さてここではジジェクとLorenzo Chiesaは次のように現実界(リアル)を言っていることだけ示しておく。

最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa)
われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』2012)

柄谷行人はどうなのか。彼にとっては物自体がリアルである。

物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。それは自分の顔のようなものだ。それは疑いもなく存在するが、どうしても像(現象)としてしか見ることができないのである。したがって重要なのは、「強い視差」としてのアンチノミーである。それのみが像(現象)でない何かがあることを開示するのだ。(『トランスクリティーク』)

この文だけを抜き出せば、柄谷行人とジジェクとLorenzo Chiesaの三者のリアルの理解はほぼ同じであるということがいえる。デリダの猫もウィトゲンシュタインの《他者》もこの視点から捉えうるかどうか、--そのあたりがわたくしには曖昧なままである。

最後にジジェク解釈のヘーゲルをもう一度持ち出せば、核心(のひとつ)は次ぎの文にあるように思う。

ラカンが「知と享楽のあいだに、波打ち際 littorale がある」と言うとき、jouis‐sense の 喚起を聞かねばならない。サントーム、享楽のシニフィアン化する形式 signifying formula of enjoyment に還元された文字の jouis‐sense を、である。

ここに後期ラカンの最終的な「ヘ ーゲリアン」の洞察がある。二つの相容れない領域(現実界と象徴界)の一つへの収束 convergence は、まさに不一致 divergence によって支えられている。というのは差異は己れが差異化するものを構成しているのだ。あるいはもっと形式的用語で言うなら、二つの領野のあいだのまさに横断点が、二つの領野を構成しているのだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHINGーー「“A is A” と “A = A”」)