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2015年8月14日金曜日

未知の表徴を探りあてるジェニー(大江健三郎)

ロラン・バルトの『恋愛のディスクール』は辞書のようにアルファベット順に列挙されて書かれてゆくのだが、そのGの項目のひとつ、「GRADIVA」(「グラディヴァのような女」)の項目には次の文がある。

『グラディヴァ』の主人公は尋常ならざる恋人である。ほかの者なら思う浮かべただけで終るものを、幻覚として体験し、とり憑かれているのだ。それと気づかぬままに愛している女性がいて、そのフィギュールとなるのが、いにしえの女グラディヴァなのであるが、彼はこれを現実の女性として知覚している。そのことが彼の錯乱(妄想)である。ところで問題の女性は、ひとまずは彼の錯乱に同調したうえで、穏やかにそこから引き出そうとしている。ある程度まで彼の錯乱の中へ入りこみ、あえてグラディヴァの役を演じ、幻影を一挙に打ちこわしたり、夢想から唐突んび目覚めさせたりはせず、それと気づかぬうちに現実に近づいていってやろうとするのだ。そのことで、ひとつの恋愛体験が、分析治療と同じ機能を果たすことになるのである。

次にフロイトの「W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢」(1907)から抜き出す(もちろん上のバルトの文はこのフロイトの『グラディーヴァ』を読んでの叙述である)。

われわれの仲間の一人が『グラディーヴァ』に出てくる夢とその解釈可能性に関心をもった(……)。その人が当の作家に直接会って、あなたの考えに非常によく似た学問上の理論があることをご存知だったのかと尋ねれみた、はじめから予想できたことだが、これにたいして作者は知らないと返答した、しかもそこには多少不快げな調子がこもっていた。そして、自分自身の空想が『グラディーヴァ』のヒントをあたえてくれたのだ、(……)これが気に入らない人はどうかかまわないでいただきたい、と言った。

《作者はこのような法則や意図を知っている必要などまったくないし、だから彼がそれを否定したとしてもそこに微塵の嘘もないのである》としつつ、フロイトは続けて次ぎのように書く。

われわれの方法の要点は、他人の異常な心的事象を意識的に観察し、それがそなえている法則を推測し、それを口に出してはっきり表現できるようにするところにある。一方作家の進む道はおそらくそれとは違っている。彼は自分自身の心に存する無意識的なものに注意を集中して、その発展可能性にそっと耳を傾け、その可能性に意識的な批判を加えて抑制するかわりに、芸術的な表現をあたえてやる。このようにして作家は、われわれが他人を観察して学ぶこと、すなわちかかる無意識的なものの活動がいかなる法則にしたがっているかということを、自分自身から聞き知るのである。

ここでフロイトは精神分析と小説の態度の相違を記しているのだが、これはおそらく批評と創作の相違でもあるはずだ、そして真の「芸術家」は《自分自身の心に存する無意識的なものに注意を集中して、その発展可能性にそっと耳を傾け、その可能性に意識的な批判を加えて抑制するかわりに、芸術的な表現をあたえてやる》ことがその本来の仕事であろう。

ドゥルーズはそのプルースト論で、観察/感受性、哲学/思考、反省/翻訳、友情/恋愛、会話/沈黙した解釈の二項対立を強調している。

『失われた時を求めて』は、一連の対立の上に築かれている。プルーストは、観察には感受性を対立させ、哲学には思考を、反省には翻訳を対立させる。知性が先にたち、《全体的な魂》というフィクションの中に集中させるような、われわれのすべての能力全体の、論理的な、あるいは、連帯的な使用に対して、われわれがすべての能力を決して一時には用いず、知性は常にあとからくることを示すような、非論理的で、分断されたわれわれの能力がある。また、友情には恋愛が、会話には沈黙した解釈が、ギリシア的な同性愛には、ユダヤ的なもの、呪われたものが、ことばには名が、明白な意味作用には、中に包まれたシーニュと、巻き込まれた意味が対立する。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「アンチ・ロゴスと文学機械」の章 P118)

プルーストの小説から抜き出せばたとえば次のような文である。

私のなかにふたたび生まれた存在は、事物のエッセンスからしか自分の糧をとらず、事物のエッセンスのなかにしか、自分の本質、自分の悦楽を見出さないのである。私のなかのその存在は、感覚機能によってそうしたエッセンスがもたらさえない現在を観察したり、理知でひからびさせられる過去を考察したり、意志でもって築きあげられる未来を期待したりするとき、たちまち活力を失ってしまうのだ。
それらの印象を、よりよく味わうただ一つの方法は、それらが見出される場所、すなわち私自身のなかで、もっと完全にそれらを知る努力をすること、それらをその深い底の底まであきらかにするように努力することだった。 (プルースト「見出された時」井上究一郎訳

ところで浅田彰は大江健三郎について「何故、あんなつまらないエッセイ書く作家があそこまで凄い小説を書くのか」というような意味合いのことをどこかで言っていたが、これも評論と創作の相違にかかわる。たしかに大江健三郎の戦後民主主義をめぐるエッセイのたぐいは退屈である。大江のようなすぐれた作家が評論を書くことなどは真の芸術活動の困難を避ける「口実」でしかないとさえ言っておこう。大江には「なにごとか狂気めいた暗く恐ろしい」ものを探りあてる稀有の才能があるのだから。

未知の表徴(私が注意力を集中して、私の無意識を探索しながら、海底をしらべる潜水夫のように、手さぐりにゆき、ぶつかり、なでまわす、いわば浮彫状の表徴)、そんな未知の表徴をもった内的な書物といえば、それらの表徴を読みとることにかけては、誰も、どんな規定〔ルール〕も、私をたすけることができなかった、それらを読みとることは、どこまでも一種の創造的行為であった、その行為ではわれわれは誰にも代わってもらうことができない、いや協力してもらうことさえできないのである。だから、いかに多くの人々が、そういう書物の執筆を思いとどまることだろう! そういう努力を避けるためなら、人はいかに多くの努力を惜しまないことだろう! ドレフェス事件であれ、今次の戦争であれ、事変はそのたびに、作家たちに、そのような書物を判読しないためのべつの口実を提供したのだった。彼ら作家たちは、正義の勝利を確証しようとしたり、国民の道徳的一致を強化しようとしたりして、文学のことを考える余裕をもっていないのだった。しかし、それらは、口実にすぎなかった、ということは、彼らが才能〔ジェニー〕、すなわち本能をもっていなかったか、もはやもっていないかだった。なぜなら、本能は義務をうながすが、理知は義務を避けるための口実をもたらすからだ。(同プルースト「見出された時」--「今日、社会問題が、私の思想を占めているのは、創造の魔神が退いたからである」

大江健三郎は、たとえば『万延元年のフットボール』(1967)で、1960年6月の政治運動と万延元年の一揆を結びつけることをテーマにしつつ実は1960年代末の学生運動を叙述している。

おれの暴動という言葉はうれしいね、もちろん買いかぶりにすぎないが。蜜、谷間から『在』にかけて数多い人間を、大人から子供までいっせいに熱中させているのは単に物質的な欲望や欠乏感のみじゃないよ。今日はずっと念仏踊りの太鼓やどらを聞いただろう? 実はあれが一等みなをふるいたたせているんだ、あれが暴動の情念的なエネルギー源なのさ! スーパー・マーケットの略奪などは、実際のところ暴動でもなんてもない、小っぽけな空騒ぎにすぎないよ、蜜、そしてそれはこれに参加している誰もが知っていることさ。しかも、かれらはこれに参加することで、百年を跳びこえて万延元年の一揆を追体験する昂奮を感じているんだ、これは想像力の暴動だ。蜜のようにそうした想像力を働かせる意志の無い人間には、今日、谷間でおこっていることなど暴動でもなんでもないだろう?(大江健三郎『万延元年のフットボール』)

この文を引用して柄谷行人は《事実、1969年には「想像力の革命」といった言葉が流行したのである》と記している(「大江健三郎のアレゴリー」)。

なぜこのような「予言」が起ってしまうのか。それは社会の無意識的なもの、《未知の表徴》を読む試みーー無意識を探索しながら、海底をしらべる潜水夫のように、手さぐりにゆき、ぶつかり、なでまわすジェニー(本能)のせいだろう。ここで象徴的なのは中心的な登場人物の名が根所蜜三郎と根所鷹四という名をもっていることだ。そして蜜が批評的な性格(大江の評論文の人格)、鷹が暴力的な性格(大江の小説の無意識的テーマ)であり、しかも苗字が「根所」であることだろう。根所にあるのはもちろん《未知の表徴》であり、無意識的なものだ。

1993年9月号より「新潮」に連載された『燃え上がる緑の木』でも同じことが起っている。この三部作では 新興宗教の「教祖」が主人公とされ、その集団による反原発運動が書かれおり、その教祖を中心とした新興宗教団員が過激になってゆくのだが、その様相の叙述は、ほとんどオウム真理教事件を予想してしまっている。大江自身は、想像力の不足により十分にオウムの予測ができなかったという意味合いのことを述べているが、逆にほぼ予言されているとも言いうるのだ。






もっとも大江健三郎は、この『燃え上がる緑の木』だけではなく、1989年にも「新興宗教」団体をめぐる叙述のある中篇小説を書いている。以前に「写経」したユーモラスかつ人間の「根所」的な叙述箇所があるのでここに掲げておこう。

幸枝さんがあらためて私に話したのは、もうみんなが知ってることです。私たちは、それを糾弾しもしたわけですが、幸枝さんの側からの念入りな話を聞いて思ったのは、こんなふうだったならば、事態があれだけ険悪化する前に、手のうちようもあったんじゃないか、ということ。その気持が、私の主題、「性欲の処理」になったわけです。

幸枝さんが、「集会所」に引き起こした厄介事。それは彼女がテューター・小父さんに感情的な傾斜を深めたことです。ついには寝室に忍び込むようになった、というのがクライマックスでした。ことを荒だてたくなかったから、なだめようとして関係したと、テューター・小父さんは弁明したのでしたが、かれが幾度も幸枝さんの要求に応えたことから、問題はさらに厄介となったのです。幸枝さんはテューター・小父さんの配偶者になるといいだし、「集会所」での権力を確保しようとしました。(大江健三郎『人生の親戚』)




そのようにして日をすごすうちに、幸枝さんは、頭のなかの考えというより、腰の奥の力に押しまくられることになりました。とうとうある晩、---もうだめだ、これ以上ガマンできない!と思ったそうです。そしてテューター・小父さんの寝室へしのび込んだのでした。いったん関係が生じてみると、テューター・小父さんにこれまでとちがう魅かれ方をするようになった。仲間がテューター・小父さんに親しげにふるまいをすると、美代ちゃんに対してすら、嫉妬して邪慳なことをいってしまう。それは私たちが周りで見て来た通りね。

私は幸枝さんの話に、大切なことがふくまれていると思いました。私たちにも起こりかねないことですから。つまり頭のなかの考えより、腰の奥の力に押しまくられる、ということね。その結果、暴発して、誰かが新たにテューター・小父さんの寝室に押しかけないともかぎりません。さらにテューター・小父さんの方で、その気になるということがあるかも知れないわけです(笑)。

そこでどうすればいいか? はじめにいったとおり、身も蓋もない話ですが、腰の奥の力を圧力抜きしなければなりません。そのためには、マスターベイションが手軽です。圧力抜きというのは、ニューヨークのハイスクールで使われていた言葉の訳ですけれど…… マスターベイションについて、倫理的な反感をいだくよう私たちは教育されていますが、聖書で批判的に描かれているのは、男性の場合です。子孫繁栄のための精子を、地面に洩らしたということが、批判の眼目なのであって、女性の私たちにはあてはまりません。

こうした考えに立って、ということですが、私がことごとしく「性欲の処理」というような「説教」をするのは、「集会所」の生活の仕方を考えてのことです。個室にひとりで眠るというのじゃなく、二段ベッドの暮しですから、腰の奥の力を圧力抜きするとして、他の人たちの耳を気にかけるのは不健康だと思うからです。「集会所」の活動、とくに「瞑想」によく集中できるように、ムダな神経を使わないことにしたい。周囲を気にかけないで、必要なら自由にマスターベーションをすることをすすめたい。腰の奥の力に押しまくられて、---もうだめだ、これ以上はガマンできない! と自分にいいながら、ベッドから這い出すようなことはないようにしたい。

なんとも心が苦しい時、いくらかでもそれをまぎらすためにマスターベーションをするならば、それはアルコール飲料に走るよりも健全だと思います。マスターベーション依存症という話はきいたことがありません。動物園の猿の話は聞いたように思うけど、すくなくとも人間でいうかぎり…… 圧力抜きをすれば、また圧力が増してくるまでは、しばらくなりと「瞑想」に集中できるでしょう。(同上)





最後にここでの文脈とは関係なく(なぜか?)、詩人の言葉を掲げておく。

Every woman adores a Fascist(Sylvia Plath

すべての女はファシストを崇拝する(シルヴィア・プラス)