このブログを検索

2015年7月2日木曜日

幼児のセクシャリティは自体愛的ではない(Paul Verhaeghe)

原 和之)
 フロイトでは、いわゆる二大欲動である「生の欲動」と「死の欲動」、それから部分欲動という二つのものが同じ「欲動」というタームで語られてしまっているところがありますが、十川さんが「欲動」とおっしゃる時の欲動概念をフロイトの二つの欲動、つまり生の欲動と死の欲動のレベルと関連させると、どういうことになるんでしょうか?

(十川幸司)
 それはフロイトがかなりあとになって使った欲動の概念ですよね? 私が論じているのはもっぱら『性理論三篇』(1905年)の欲動論で、のちの生の欲動と死の欲動は、厳密には欲動の問題ではないと思いますが……。(来るべき精神分析のために

※参照:部分欲動と死の欲動をめぐる覚書

以下、上の十川氏の見解と齟齬があると思われるポール・ヴェルハーゲの考え方のメモ。

◆Sexuality in the Formation of the Subject Paul Verhaeghe 2005(私訳)ーー原文は、「Publicaties van Paul Verhaeghe」から拾うことができる。

一般的に、幼児のセクシャリティは厳密に自体愛的だと言われる。だが、私の視点からすれば、これはフロイトとその幼児セクシャリティの間違った読解である。(……)

〈他者〉を導入することによって、前期フロイトの部分欲動と後期フロイトのエロス/タナトスを結びつけることができる。(……)

フロイトにとって、人間の発達の出発点は、元々からある不快の経験、痛みSchmerz (フロイト『Entwurf 』1895)と呼ばれるものだ。それは内的な欲求、典型的には、空腹や渇きから生じる。

フロイトは、この痛みを緊張の集積として理解する。この興奮を(諸)部分欲動component drivesの影響として理解するのはそんなに難しくない。幼児のこの不快な状況に対するリアクションは典型的なものであり、全てのそれに引き続く間主観-間主体的なintersubjective関係の基礎となる。無力な赤子は泣き叫んで他者に向かう。他者は「独自の行動」で世話をし、内的な緊張を取り除こうとする。このような介入は常に言葉と行動の組合せでなされる。それは子どもに示すだろう、〈他者〉は要求を理解し応答しよう努めることを。

この最初のふれあいinteractionの重要性は見逃し得ない。というのは全てのそれに引き続く関係の基礎となるものだから。

第一に、(諸)部分欲動component drivesによって引き起こされた元々の身体的somatic緊張は、しっかりと〈他者〉につながるものとなる。その意味は、部分欲動はまさに最初から間主体的局面をもつということだ。〈他者〉は私の緊張を取り除く責任があると見做されるのだから、いっそうそうだ。

第二に、まず初めに、未来の主体subject-to-beは受動的な位置を取らなければならない。彼(女)は完全に〈他者〉に依存している。

第三に、我々はここで出会うだろう、どの主体にもある原初の不安に。その意味は分離の不安である。〈他者〉の不在、あるいは他者の応答の欠如は堪えがたい。

したがって、我々はここに原初の渇望をも同様に見出すことができる。例えば、〈他者〉と一つになりたいということだ。後ほど見るように、これらの三つの点のどれもが、さらなる主体形成のあいだに、反対方向へと向かう。

エディプス期は主体に〈他者〉の欠如の責任を取るよう促す。いやその前でさえ、能動的立場への促しが既にはっきりしている。分離への不安はふつうは自律への欲望に取って代わられる。唯一、残っている変わらぬことは、〈他者〉の反応が未来の主体subject-to-beのアイデンティティを決定づけることだ。我々はこの最後の点に焦点を絞ろう。

元々、心的なアイデンティティなどというものは何もない。乳幼児は有機体として機能する。自動的に欲求と部分欲動によって駆り立てられる。精神分析の伝統では、これが自体愛の時期であり、その後自我が発達する。

公式のフロイト理論では、自我が発達するのは、ナルシシズムの時期なのだ。もっともフロイトはこの点についてあまり鮮明ではないが。ずっと興味深いのは、フロイト理論でほとんど忘れられている箇所に注意することだ。おそらくそれは、主体と他者のあいだの触れ合いを通してアイデンティティの発展のより良い理解をもたらしてくれるだろう。

これについて、フロイトは(1920g: 1925h) 、「原初の自我primal ego」、リアル自我 real ego」、さらには外部の世界に直面した細胞cellについてさえ語っている。

発達過程は原初の自我primal egoと外部の世界とのあいだの相互作用を以て始まる。その結果、自我は、この外部の世界の三つの異なった局面の差異化をするようになる。

それは快を生むもの、不快を生むもの、そして無関心なものである。注意すべきなのは、このような区分けは満足とともに為されることであり、それゆえ緊張の高まりと低下を伴っている。

フロイトは多かれ少なかれこの過程を生物学的に、さらには動物行動学ethologicalの用語で叙述している。原初の進展する有機体organism-in-process、細胞が、文字通り外部の世界の部分を取り入れるのだ。

快として見出したものは何でも内部に取り込む。不快を生み出されたものは何でも外部に送り返す。この意味は、緊張と緊張の解除の経験がアイデンティティ発達それ自体を齎すということだ。そしてこのアイデンティティは全ての外部から来る。

原初の進展する自我primitive ego-in-processは外部の世界に遭遇し、文字通りその一部を取り入れる。不快な部分は可能なかぎりすばやく叩き出す。このように初期の段階では、外部の世界と悪い非-私bad not-I は同じものである。

逆に、快の部分は内部に居残る。これが意味するのは、原初の自我primary egoと快は同じものだということである。それをフロイトは原初の快-自我primitive pleasure-egoと呼んだ。

これらの取り入れと吐き出しの過程は、後の判断の知的機能の先駆であり、肯定(Bejahung)は取り入れの代用であり(「はい、これは私のものよ」)、否定は吐き出しの後継である(「いいえ、私のものじゃないわ」)。

注意すべきなのは、フロイトにとって肯定はエロスと融合の側にあり、否定は分離・分解に向かう死の欲動の傾向の結果effectだということだ(Freud 1925h)。

全ての過程は快と不快の経験、すなわち興奮の高揚と低下によって方向づけられる。人間の発達において、文字通りの取り入れと吐き出しは、ほどなく知覚イメージの取り入れと吐き出しに取って代わられる。

イメージが言葉につながった点で、触れ合いについての心底人間的なものが始まる。この主要な発達段階が意味するのは、その時期以降、我々はもはや有機体と外部の世界のあいだの交換ではなく、主体と〈他者〉のあいだの交換を取り扱うということだ。

具体的に言えば、母の乳房から母の舌への移行である。この理由で、ラカンにとって〈他者〉、大文字のそれは、具体的な他者と他者が子どもに言うことの全てを指し示す。

アイデンティティの形成は同じままながら、言葉とイメージの使用は他のメカニズムを導入する。文字通りの快を与える「外部」の取り入れの代わりに、〈他者〉のあるシニフィアンとの同一化をするようになる。

文字通りの不快な「外部」の吐き出しの代わりに、不快を生み出すものを抑圧-放逐repressionするようになる (Freud, 1915c, 135ff).。

ここでラカンのほうに向いてみるなら、フロイト理論をラカンの鏡像段階に重ねてみることはとても容易だ。

簡潔に要約してみよう。ラカンの理論は次の通り。最初に、乳幼児は(諸)部分欲動component drivesから来る興奮を、何か外部のものとして経験する。それは「ラカン派」では、文字「a」で示される。

幼児はこれらの欲動を制御できない。いやさらにそれらを自身の全体としての身体として経験することさえできない。ただ母の反応を通してのみなのだ、子どもが自身の身体に心理的にアクセスできるのは。というのは、それが何であるかのイメージを子どもに表象するのは母なのだから。……

(以下、略)


途中、分離不安という言葉がでてくる。ヴェルハーゲはここではそれを強調しているが、後に分離不安/融合不安と定式化することになるPAUL VERHAEGHE,『New studies of old villains』2009(「古い悪党たちの新しい研究」)。

フロイトとともに、私はこの移行に、はるかに基本的な動機を見分ける。すなわち、最初の母と子どもの関係では、子どもは、その身体的なsomatic未発達のため、必然的に、最初の〈他者〉の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体、主体性のための障害を表す。平明な言い方をすれば、子どもと彼自身の欲望にとっての余地がないということだ。そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者-想像的関係性の典型であり、ラカンの鏡像理論にて描写されたものである。

そのときの基本的動機(動因)は、不安である。これは去勢不安でさえない。原不安primal anxietyは母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では最初の世話人caretakerとしてもよい。無力な幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに分離不安separation anxietyである。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。

フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かないと想定されるその対応物を見分けていた。母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを融合不安fusion anxietyと呼んでみよう。もう一つの原不安、分離不安とは別に、である。この概念はフロイトにはない。だがアイデアはフロイトにある。しかしながら、彼の推論において、最初の不安は分離と喪失に関係し得るにもかかわらず、フロイトは頑固に、去勢不安を中心的なものとして強調した。

このように、フロイト概念の私の理解においては、去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的な加工(エラボレーションelaboration)とさえ言いうる。原不安は二つの対立する形式を取る。すなわち、他者は必要とされるとき、そこにいない不安、そして他者が過剰にそこにいる不安である。