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2015年7月20日月曜日

ハイデガー化されたラカン研究者小笠原晋也氏の「口すべり」

《ラカンはわれわれに教えてくれたーーこのように一瞬あらわれてはその後すぐに忘れられる区別には最大限の注意を払わなければならない》

 以下、小笠原晋也氏ツイートより。


【2015.07.01】


【2015.07.08】



「ラカンの言葉につられて」とある。それはラカンの言葉を素直に読めば、Triebは剰余悦であるということだろう。

……ラカンはわれわれに教えてくれたーーこのように一瞬あらわれてはその後すぐに忘れられる区別には最大限の注意を払わなければならない、なぜならそれらを通して、フロイトの決定的に重要な洞察を探り当てることができるからだ、フロイト自信はその洞察の重大な意義に気づいていないのだ、と(一例だけ挙げるならば、ラカンが、これと同様の、自我理想と理想自我との「口がすべったかのような」区別から何を引き出したかを思い出してみようではないか)。(ジジェク 『斜めから見る』)



【2015.07.11】




わたくしはこれらの言葉から、シツレイながら、小笠原晋也氏のハイデガー化されたラカン解釈の崩壊の端緒をみるーーいや遠慮してそれを疑う、といっておくだけにしよう(究極的には ex-sistenceの解釈をめぐるがここでは触れない)。彼は「無意識的には」それに気づきつつあるのではないか、と。


◆小笠原晋也氏 2015年07月12日(日)ツイートより。


さて,誤謬や矛盾に陥ることを恐れずに,先に進みましょう.というのも,わたし自身,『ハィデガーとラカン』に書いたことが部分的に過っていたことに気づいたからです.それは特に,l'objet a est de l'ordre du réel という命題に関してです.

1965-66年の Séminaire XIII L'objet de la psychanalyse[精神分析の客体]の1966年1月5日の講義において Lacan は「a は,実在の位のものである」と初めて公式化します.

そして,この「実在」は,厳密に,1974-75年の Séminaire XXII RSI において Lacan が実在を ex-sistence と定義したとおりに取るべきです.

「a は実在の位のものである」と公式化する直前,Lacan は,根本的な異状としての同一化を惹起する image, 異状化する影像の学素 i(a) について論じ,次いでこう言っています:a は,この囚われ,この幻の核心において,同一化を実在的に支えるものである.

i(a) への同一化を a が実在的に支える.この命題は,この学素によって形式化され得ます: https://pic.twitter.com/wNrIkjjmnW



この Séminaire XIII において Lacan は déchet[ごみ,屑]としての客体 a を強調しています.déchet は,外へ捨てられるものです.つまり,ex-sistent となるものです.

身体から脱落し,捨てられ,déchet となる客体 a は,まさに ex-sistence としての実在の位のものであり,そのような a を同一化の仮象は保匿する.Séminaire XIII における Lacan の議論はそう読解され得ます.

かくして,a は,RSI のボロメオ結びの図に示されているとおり,同時に,解脱実存,穴,定存として,実在,徴在,影在の位のものである,と言うことができます.「同時に」を強調しておきましょう. https://pic.twitter.com/cwHYzJ0yoA







ーーーこれらの言葉によって、彼は懸命に自らのハイデガー化されたラカン理論を護ろうとしているようにみえる。

とはいえこのようにして、彼のツイートの二転三転を追うのはやや退屈してきた。

参照1:メモ:ラカンのセミネールⅩⅩⅡからⅩⅩⅢへの移行(JA→JȺ)
参照2:「仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)(柄谷行人=ラカン)」の後半

彼は自分が「無意識的」に気づいていることを否定するために、ハイデガー流の「深淵な」解釈までするようになってしまった(ようにみえる)。




さる質問者の問い。

しばらくお休みだそうですが、忘れないうちにくり返せば、アンコールのあの文において、あなたに確認しているのは、これだけなんですけど。私には「文法的には」①にみえるけど、あなたの「深淵な」解釈では②だということでいいのでしょうか? → 

①悦という本来的なものからの逸脱。
②悦が本来的なものから逸らされていること。

S/sとしたら

①Trieb(plus-de-jouir) / jouissance impossible
②jouissance(plus-de-jouir)/ Trieb( ex-sistence)
 https://twitter.com/ogswrs/status/612895301351837696 … @ogswrs


◆小笠原晋也(2015.06.22)ツイート


実際、二週間もたたずに言うことが二転三転している。

いずれにせよ彼のセミネールⅩⅩ(アンコール)の上掲した解釈をふくめた訳は、「深いメタフォリカル」な解釈かもしれないが、リテラルには、あるいは文法的には、間違っている、--すくなくともわたくしはそう疑う。


要するに、《深遠な理念であれ、深さを誇るならすぐさまいかがわしいものと堕する》ということをいいたいのだが、彼をハイデガーの「いかさま」と並べるのは、その「いかさま」ぶりがあまりにもちゃちでハイデガーにたいして失礼であろう・・・

そうはいっても小粒の疑似ハイデガー論理の信奉者であることは間違いなさそうだ。

「[自国語に対する]素朴さを喪失した[亡命からの]帰国者は、自国語とのもっとも内的な関係と、自国語が促進する一切の妄想への倦むことを知らぬ警戒心とを(mit unermudlicher Wachsamkeit)結合させるべきです。それは、ドイツ語で説明される形而上学の真意なり、形而上学一般についての真実なりが、ドイツ語の形而上学的な過剰(den metaphysischen Uberschuss der deutschen Sprache)と私が命名したく思うものによってすでにあらかじめ保証されている、と信仰することに対する警戒心でもあります。わたしが『Jargon der Eigentlichkeit[本来性という隠語]』」を書いたのはそのためであると、事のついでに告白しても、たぶんお許し願えるのではないでしょうか。 (中略)形而上学的言語構造は特権ではありません。深遠な理念であれ、深さを誇るならすぐさまいかがわしいものと堕するのであり、それは形而上学的言語構造には帰しがたいものであります。ドイツ的魂という概念についても同様です。(中略)ドイツ語で書き、己れの思想がドイツ語によって浸透されていることを知るものは、こうした問題に関する、ニーチェの批判を忘却してはならないでしょう」(アドルノ、『批判的モデル集II-見出し語』)

とはいえ、このような「症状」--いや現象にツイッター上で出会えるのは、わたくしにはとても興味深かった、ということを認めるのに吝かではない。

以上は、わたくしの「誤解」であるかもしれず、それは読者の判断にまかせる。

読者? 彼の「道化師的」ツイートをまともに追っている読者などいるようには思えない・・・
むしろいくらかまともに追ってしまったわたくし自身に忸怩たる思いを抱かないでもない。

ーーいやここでわたくしはたちまち「言い直し」ている。実はいまだ小笠原晋也氏の「紆余曲折ぶり」がすこぶる興味深いのだ・・・

以上、ハイデガーにほとんど無知なものが失礼なことを書いてしまったかもしれない。すなわちこの文は個人的なメモの範囲を出ない。

…………

→① ラカンのテキストの「痴呆的」解釈

→② 今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない