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2015年7月5日日曜日

ファルスΦと対象aの相違、あるいは二重の欠如

対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa)」に引き続く。

ファルスは対象aの一連の形象化における最後のものである。それは目につきやすい想像的な特徴を発揮する。…ファルスはたんに対象aの一つの形象ーー他の形象のなかのひとつではない。それは特別の地位を負っている。(Richard Boothby , Freud as Philosopher [2001]).
ファルスは対象ではなく、他の源泉、すなわち対象aから来る享楽を統制する事例instanceである。これらの享楽は、ファルスのシニフィアンによって解釈されることを通して統制され、ファルスの快楽に変わる。構造的に、この象徴化は不完全のままである。対象aは、象徴化に抵抗する現実界の部分である。(Verhaeghe, P. & Declercq, F. (2003). Lacan's analytical goal: "Le Sinthome" or the feminine way

ーーΦ(象徴的ファルス)=S1(主人のシニフィアン)でありうるのは、「父の名、Φ、S1、S(Ⱥ)、Σをめぐって」にて見た。以下の文の主人のシニフィアンは象徴的ファルスとして読もう。


◆ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012(私訳)より

…… (ふたつのあいだの)形式的な相同性、主人のシニフィアンの再帰的な論理ーーシニフィアンの欠如のシニフィアン、欠如の代替物(充填物)として機能するシニフィアンーー、そして対象aの論理も、またラカンによってくり返して定義されたように、欠如の充填物である。その地位は純粋にヴァーチャルであり、それ自体のどんな実体的一貫性もなく、ただ象徴秩序における欠如の実体化positivizationである。

何かが象徴秩序から逃れさる。そしてこのXが、対象a、私がしらないものje ne sais quoi として実体化される。それが、私にある物や人を欲望させる。(……)

しかしながら、主人のシニフィアンと対象aのあいだのこの形式的な類似に騙されるべきではない。どちらの場合も、欠如を埋める実体entityとして扱えるようにみえるが、対象aを主人のシニフィアンと分け隔てるものは、対象aの場合、欠如が二重化されていることだ。すなわち、対象aは、二つの欠如の重なり合いの結果である。その二つの欠如とは、〈大他者〉(象徴秩序)にある欠如と対象にある欠如である。ーー例えば、視覚領野において、対象aとは、我々が見ることのできないもの、絵画にかんするなら我々の盲点である。

二つの欠如の各々は互いに独立して作用しうる。我々はシニフィアンの欠如を持ちうる、例えば「言葉が行方不明になる」という豊かな経験をしたときに。あるいは我々は視覚において欠如を持ちうる。その欠如のために、まさに主人のシニフィアンと名づけられるシニフィアンがある。それは、対象の不可視の領域を再捕獲するようにみえる神秘的なシニフィアンである。

そこには、主人のシニフィアンの錯覚 illusionがある。すなわち主人のシニフィアンは対象aと合体する。そして主体の〈大他者〉/〈主人〉は、主体が欠如しているものを所有しているようにみえる。これをラカンは疎外と呼んだ。すなわち、主体が欠けているものを所有している〈大他者〉との主体の遭遇である。疎外にひき続く分離においては、対象aもまた〈大他者〉から、主人のシニフィアンから分離する。すなわち、主体は見いだすのだ、〈大他者〉もまた彼に欠けているものを持っていないことを。ラカンに従って金言を掲げれば、「aなしの私はないno I without a」である。〈私〉(たった一つの特徴unary feature、主体を表象するシニフィアン化の徴)が出現するときはいつでも、〈a〉が伴うのだ、リアルの意味作用における喪われたものの代替物としての〈a〉が。

それでは、対象aは、S1の、主人のシニフィアンのシニフィエだろうか。一見そのようにみえるかもしれない。というのは、主人のシニフィアンは、まさに図り知れないXーー「ふつうの」シニフィアンたち (S2)の連鎖によってシニフィエされる一連の実体的な属性から逃れるXを意味づけるsignifiesのだから。しかし、より精緻にみると、我々はその関係はまったく正反対であることが分かる。すなわち、シニフィアンとシニフィエのあいだの分解にかんして、対象aはシニフィアンの側にあり、それはシニフィアン“の中の/の”欠如を埋める。他方、主人のシニフィアンは、シニフィアンとシニフィエのあいだの「縫合点」であり、その点において、シニフィアンはシニフィエのなかに落ちる


※ジジェクは、“the signifier falls into the signified.”(シニフィアンはシニフィエのなかに落ちる)と記しているが、引用元の記載はない。

ただし、ラカンのセミネール20に次の表現はある。《il y a du signifiant qui s'injecte dans le signifié》

il y a du signifiant qui passe sous la barre. S'il n'y avait pas de barre vous ne pourriez pas voir qu'il y a du signifiant qui s'injecte dans le signifié

(フィンク英訳)

Were it not for this bar above which there are signifiers that pass, you could not see that signifiers are injected into the signified.

(フィンク注)

Lacan's French here, vous ne pourriez pas voir qu'il y a du signifiant qui s'injecte dans le signifié, is rendered a bit odd because Lacan doesn't say a signifier or several signifiers, but rather some signifier, in the sense un which we speak in Enghsh about "some bread" or "some water," in other words, as an unquantifiable substance. Here, signifier is injected into the signified, apparently like fuel is injected into an engine.

ーーー「シニフィアンがシニフィエのなかに投入される」とは、見たところ、「ガソリンがエンジンのなかに投入される」というようなものだ、とされている。

…………

※附記:「波打ち際littorale」と「横棒としての象徴的ファルスΦ」より

ラカンは、その仕事の展開を通して、ずっと探し求めていた、S(象徴的見せかけsemblance)とJ(享楽の現実界)のあいだの「縫合点」、SとJをひとつにまとめる、あるいは少なくともそのふたつを仲介するリンクを。主な解決法は、まずは、ファルスを欠如のシニフィアンに昇格させること、すなわち去勢のシニフィアンとして、象徴秩序内の享楽の場を保持することだった。その後には、享楽の喪失から生み出される剰余享楽としての対象a自体がある。それは象徴秩序へのエントリーの相対物であり、現実界の享楽のサイドに位置する享楽ではなく、パラドキシカルにも、象徴界のサイドに位置する享楽である。

「リチュラテールLituraterre」(Autres écrits所収)にて、ラカンは、最終的に象徴的松果体(デカルトにとっての身体と魂が交流する身体的な徴である)のこの探求を断念し、ヘーゲリアンの解決法を取った。すなわち、S とJを永遠に分離するギャップ自体がこの二つを一つにまとめるというものだ。というのは、このギャップが各々の二つを構成しているのだから。

象徴界は、己れを十全な享楽から分離するギャップを通して生じる。そしてこの享楽自体は、象徴界のギャップと穴によって生み出された幽霊specterである。

この相互依存性を示すために、ラカンは「波打ち際littorale」という用語を導入する。それは「海岸のような」次元における文字を表している。それによって「ある領域、そっくりそのまま他にとっての前線を作る領域を描くこと、それらの存在は、相互の関係に陥いらない範囲で、互いに異物であるのだ。その痕跡とは知の穴の縁ではないか?」(ラカン「リチュラテールLituraterre」)

だからラカンが「知と享楽のあいだに、波打ち際littoraleがある」と言うとき、jouis‐senseの喚起を聞かねばならない。サントーム、享楽のシニフィアン化する形式signifying formula of enjoymentに還元された文字のjouis‐senseを、である。ここに後期ラカンの最終的な「ヘーゲリアン」の洞察がある。二つの相容れない領域(現実界と象徴界)の一つへの収束convergenceは、まさに不一致divergenceによって支えられている。というのは差異が己れが差異化するものを構成しているのだ。あるいはもっと形式的用語で言うなら、二つの領野のあいだのまさに横断点が、二つの領野を構成しているのだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING)

※附記2:

象徴秩序、主人のシニフィアン、ファルスのシニフィアン、〈一者One〉を同じものとするラカンの考え方は、読者には不明瞭かもしれない。私は次のように理解している。システムとしての象徴秩序は、差異をもとにしている(ソシュール参照)。差異自体を示す最初のシニフィアンは、ファルスのシニフィアンである。それ故、象徴秩序は、ファルスのシニフィアンを基準にしている。一つのシニフィアンとして、空虚であり、(例えば)二つの異なるジェンダーの差異を作ることはない。それが作るのは、単に〈一者〉と非一者である。これが象徴秩序の主要な効果である。それは二項対立の論拠、ある者かそのある者でないか、を適用することによって、一体化の形で作用する。(ポール・ヴェルハーゲPaul Verhaeghe、Lacan's Answer to the Classical Mind/Body Deadlock 2002 私訳)
性の差異が、ファルスのシニフィアンにどう関係するのかのパラドックス…。我々がシニフィアンとしてのファルスを考えるとき、そして能力、肥沃性等々のイメージ(シンボル)としてのみ考えるのではないとき、我々は先ずは次のように考えるべきである。すなわち、ファルスとは、女性はペニスが欠けているといまさにその事実のせいで、彼女に属する(もっと正確にいえば、母に属する)何かだと。

だから、こうではないのだ、最初の瞬間、男は「それを持っている」、そして女は「持っていない」、そして次の瞬間、女は「それを持つ」ことを幻想する、ーーこうではない。ラカンは『エクリ』のまさに最後のページでこう書いている、「母のペニスの欠如が、《ファルスの特性natureが現れる場処である》。我々はこの指摘を最重要なものとして扱わねばならない。それはまさにファルスの機能とその特性を区別するのだから」( Miller, “Phallus and Perversion”)

そしてここである、我々が、フロイトのフェティッシュという人を迷わす「ナイーヴな」概念を修復すべきなのは。それは、主体が女にペニスの欠如を見る前に見た最後のものとしてのフェティッシュである。フェティッシュが覆うものは、単純に、女におけるペニスの不在ではない。そうではなく、現前/不在のまさに構造が、厳密に「構造主義者」的な意味で、差延的differentialであるという事実だ。
ファルスのシニフィアンをこのような複雑な概念にしているのは、象徴界、想像界、現実界の局面が絡み合っているだけでなく、「否定の否定」の過程を不可思議にも模倣するような二重の自己再帰段階があるからだ。それは三つの水準に要約される。

(1)ポジション:喪われた部分、主体がシニフィアンの秩序に入る(あるいは帰順する) とともに喪いかつ欠けてしまった何かのシニフィアン。 (2) 否定:この欠如のシニフィアン。 (3) 否定の否定:欠如する/喪うlacking/missingシニフィアン自体。

ファルスは象徴界への入場に伴って喪われた(犠牲にされた)部分である。と同時に、この喪失のシニフィアンである。 (このように、ファルスのシニフィアンと父の名、父の法のあいだにはリンクがある。ここでもまた、ラカンは同じ自己再帰的な反転を成し遂げている。父の禁止はそれ自体禁止されなければならない、と)。なぜこれはそうなのだろう? なぜ禁止自体が禁止されなけれならないのか? 答えは次の通り。すなわち、「メタ言語はない」から。……(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012 私訳)
ファルスの用語に関して、ラカンは、セミネールⅩⅩにて、ファルスを、シニフィアンとシニフィエ (S/s)のあいだの横棒と同じものとして扱っているのに注意しよう.(Bruce Fink  “KNOWLEDGE AND JOUISSANCE ”)