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2015年6月21日日曜日

暁の歌(Wolfgang Weller)

◆シューマンOP.133、第一曲暁の歌(Andras Schiff)

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◆第四曲




第ニ曲第三曲第五曲


シフのすくなくとも第一曲は、速すぎる(急いでいるようにさえきこえる)。AnderszewskiのOP.133はYOUTUBEから消えてなくなっているが、Anderszewskiの第一曲のテンポ、間の持たせ方が(私にとっては)、ずっと好ましい。

ただ一度だけ、写真が、思い出と同じくらい確実な感情を私の心に呼びさましたのだ。それはプルーストが経験した感情と同じものである。彼はある日、靴を脱ごうとして身をかがめたとき、とつぜん記憶のなかに祖母の本当の顔を認め、《完璧な無意志的記憶によって、初めて、祖母の生き生きした実在を見出した》のである。シュヌヴィエール=シュル=マルヌの町の名も知れぬ写真家が、自分の母親(あるいは、よくわからないが、自分の妻)の世にも見事な一枚の写真を遺したナダールと同じように、真実の媒介者となったのだ。その写真家は、職業上の義務を超える写真を撮ったのであり、その写真は、写真の技術的実体)から当然期待しうる以上のものをとらえていたのだ。さらに言うなら(というのも、私はその真実が何であるかを言おうとつとめているのだから、この「温室の写真」は、私にとって、シューマンが発狂する前に書いた最後の楽曲、あの『朝の歌』の第一曲のようなものだった。それは母の実体とも一致するし、また、母の死を悼む私の悲しみとも一致する。この一致について語るためには、形容詞を無限に連ねていくしかないだろう。…(ロラン・バルト『明るい部屋』)

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バッハのシンフォニアで知ったWolfgang Wellerはやはりシューマン弾きだったようだ。彼のことを褒めたり貶したりしているが、この演奏にはひどく気に入ってしまった。いまのことろ第一曲と第四曲、(それに第五曲)がとりわけお気に入りだ。


◆Schumann, Gesänge der Frühe op. 133 Nr. 1, Wolfgang Weller 2013.






◆Schumann, Gesänge der Frühe op. 133 Nr. 4, Wolfgang Weller 2013.





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AnderszewskiのOP.133は、上に書いたようにYOUTUBEから消えてなくなっているが第四曲の冒頭はある(わたくしはAnderszewskのこの第四曲は好まない。効果をねらいすぎだ。シフの第四曲は思いがけない音が強調されていたりそのスカンシオンに魅惑される)。

◆Piotr Anderszewski talks about Schumann(グールドを撮りつづけたモンサンジョンの映像である)。





Anderszewskiが語っているが、このシューマンのOP.133は、わたくしには《未来のノスタルジー(ドアはそのときひとりでにひらき、そこにあるのがわからなかった部屋が見える)》ような感覚に(ときに)襲われる。

… ピアノを愛するというなら、そのためには、別の時代からやってきて、つねに完了形で語っているようなアルトウーロ・べネデツティ=ミケランジェリのピアノがあるだろう。あるいはまた近年のリヒテルのようにある種の期待が告げられるようなピアノがある。期待、すなわち近頃リヒテルが登場すると、一緒にそこにあらわれるあの未来のノスタルジーだ(ドアはそのときひとりでにひらき、そこにあるのがわからなかった部屋が見える。)しかしながら現在形で演奏するグールドの姿は決定的な光をもたらし、無垢あるいは天使という使い古された語を唇にのばらせる。(ミシェル・シュネーデル)