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2015年6月15日月曜日

蓮實重彦による il n'y a pas d'Autre de l'Autre

巨大なる疑問符が消滅した以後の白々とした地平には、もはや疑問符が疑問符たりうる条件は残されていないのだから、それが不毛な試みであることは自明の理でありながら、あえて不可能と戯れようとする意図からではなく、ただ驚くほかはない楽天的な姿勢で、新たな思想家の思想を解明しようと躍起になる。それが、「神の死」を徹底した虚構だといいはる人びとによって遂行されるのであればまだ救われもしようが、「神の死」はおろか、「不条理」を、フーコーの「人間の死滅」を当然のこととしてうけ入れている人びとの口からもれてくるもっともらしい言葉であったりすると、それこそ絶句するほかはない。なぜならそれは、「神の死」を無造作に口にしながら、しかも「神の死」をひたすら隠蔽せんとする無意識の仕草にほかならないからである。(蓮實重彦)

ーーとは、まだ三十代の蓮實重彦の文章で、いまでは若い人からは容易にお目にかかれない、昂然とした、かつ「生意気さ」に溢れかえっている文としてよいだろう。とはいえ、今はその話ではない。

この文章は、蓮實重彦によるラカンの〈他者〉の〈他者〉はない il n'y a pas d'Autre de l'Autreではないか。象徴的〈他者〉を支える〈他者〉はない。すなわち「父の名」はない。

《「神の死」を無造作に口にしながら、しかも「神の死」をひたすら隠蔽せんとする無意識の仕草にほかならない》と次ぎの文をまずは「ともに」読んでみよう。

父の機能を基礎づけるのは父親殺しだと主張さえしてフロイトが父なるものを守っているように、無神論の真の公式は「神は死んだ」ではなく、「神は無意識的である」である。(ラカン『セミネールⅩⅠ)

蓮實重彦は冒頭の文章が書かれたほぼ十年後に、こうも書いている。

王殺しなどかつて起りはしなかったかのごとくに振舞いながら、記憶喪失に徹すること。また一方で、忘れられた王殺しにもかかわらず、空位になった王座に誰もが自分を位置づける権利だけはあると確信すること。(蓮實重彦『物語批判序説』)

「神の死」をひたすら隠蔽せんとする無意識の仕草とは、ラカン的にはこういうことである。

もし大文字の他者において真理と呼ばれるものの一貫性が、いかなる方法でも保証されえずにどこにもないなら、それはどこにあるのでしょうか。あるとすれば、小文字の他者[対象a]のこの機能がそれを請け合うのです。(セミネールⅩⅥ)

ここで、〈他者〉の〈他者〉は存在しないについての標準的解釈を示す(すなわち異なった見解もあることに注意)。

〈他者〉の〈他者〉は存在しないとは、
=大他者[A]の大他者[Φ=象徴的ファルス]は存在しない。
≒大他者〔S2〕の大他者〔S1〕は存在しない。
=シニフィアンの連鎖〔S2〕の支えである〈父の名〉〔S1〕は存在しない。

――では、なにが存在するのか、〈父の名〉には見せかけとしての〈対象a〉が入る。

分析の終わりとは、知を想定された主体が失墜することと、この主体がこの対象aの出現へと還元されることにあるのです。・・・知を想定された主体、すなわち分析家の見地からすれば、精神分析主体とともに幻想的にその部分を演じている者とは、分析家であり、彼は分析の終わりで、もはやこの残余[対象a]以外の何ものでもないものであることを耐えるに至るのです。(セミネールⅩⅤ)

対象aの最も簡潔な定義は、対象に〈わたし〉が書き込まれているということである。一般に、対象aは、欲望の対象-原因とされるが、対象aは、けっして欲望の対象ではない。むしろ原因である。欲望かつ欲望の対象は、その原因の「効果」である。

中期ラカンの態度を取るなら、大事なのは、分析家は、最後に屑としての対象aとなることである。あなたが魅惑されていたのは、ただあなたが書き込まれていただけだよ、と。(参照:簡略版:「〈他者〉の〈他者〉は存在しない」(ラカン)

ーーわたくしには、蓮實重彦はほとんどまさにこのことを言っているというふうに読める。そして欲望の対象=原因である対象aは屑にしなければならない、と。

以下、冒頭の文章の前後を含め、もう少し長く引用しておこう。

この文は、ドゥルーズのマゾッホ論に附された蓮實重彦の小論「問題・遭遇・倒錯」の冒頭である。この論は、『マゾッホとサド』の訳者でもある蓮實氏の「あとがき」に――《この翻訳は、1972年の夏、時ならぬドゥルーズ・ブームのさなかの、パリで開始され、73年の春、幾度からの中断ののち、東京で完成された》――とあるように、おそらく翻訳の完成前後の1973年に書かれているはずで(この間、蓮實重彦はドゥルーズにインタヴューもしている)、1936年生まれの蓮實重彦だから、37歳前後のものということになる。今ならまだ若手研究者に属する年齢であり、蓮實重彦が『批評あるいは仮死の祭典』を上梓するのもこの一年後(1974)である。

(このドゥルーズ初の邦訳『マゾッホとサド』にはかなりの誤訳が含まれておりーー最も初歩的な誤訳としては、プラトンの『パイドン』が『饗宴』になっているーー高校生の浅田彰がそれらの数多くある誤訳を、手紙で逐一指摘し、蓮實を感嘆させたという話もある。)

ある途方もなく大きな疑問符が、不意に疑問の符牒たる自分をみずからこばみはじめ、虚空に佇立するその輪郭を徐々に曖昧にしながら、ひたすら希薄化の一途をたどり、あたりに散りばめられている幾つもの些細な「なぜ」へと投げかけていた反映を日々弱々しいものとしていって、遂にはいつとも知れず闇へと没入してしまうとき、そんな事態の進展ぶりに身をもって立ちあう魂たちは、ただ呆気にとられて絶句するほかはない。世界が巨大な疑問符たることをやめるとき、人びとはいつもの例にならって、「なぜ」の一語を発しようと思い、胸の奥で言葉をまさぐるのだが、その一語がなかなか声になろうとしない事実に当惑し、苛立ち、煩悶し、遂には途方にくれて、奇怪な失語症に陥っている自分をやがてはうけ入れざるをえなくなる。おのれの背丈にみあったころあいの疑問符は、あたりからすっかり姿を消してしまっているのだ。それまで、各自がそれぞれの思惑に従ってもっともらしく疑問と呼んできたものが、とどのつまりは、唯一にして巨大なる疑問符の、遥かな反映にすぎなかったのだという事実が、そのとき明確化する。そして二〇世紀の西欧が口にする言葉は、その最も尖鋭な部分からかなり弛緩した部分に至るまで、おおむねいまみた失語感覚を基盤として、みずから言葉たる資格を主張しようとするものなのだ。

なにかにつけてもっともらしい図式を捏造し、ありもしない透視図を望見しないと気がすまない性質のものたちなら、ニーチェの「神は死んだ!」あたりを恰好の起点として、カフカの「城」への彷徨を通過し、サルトルの「実存的不条理」へと至る一連の思想史的な流れの上に、いまみた疑問符の消滅と、それを前にする人間の失語症との因果関係を程よく解明してみせてくれもしよう。単一者たる神の不在と、「表象=代行作用〔ルプレザンタシオン〕」による世界解読の試みの失権、そしてそこから当然のものとして導きだされる自己同一性の不可能な模索、さらにはその困難な模索の過程で人が手にすることとなった新たな武器としてのマルクシスムとフロイディスム、等々、巨大なる疑問符の消滅が西欧的な知の相貌にいかなる変質を強いるに至ったかを、いまでは誰もがすらすらと語ってみせることができる。そして、いま少し気を利かせたつもりになりたければ、構造主義的風土を背景として「人間は死滅した」と宣言するミシェル・フーコーの横顔でも浮き上がらせてみれば、いわゆる「現代思想」なるものの一応の見取図を完成させることになりもしよう。そんな見取図の一画の、ちょうどフーコーのかたわらあたりにジル・ドゥルーズの名前を据えてみれば、『マゾッホとサド』の著者が出現する思想的背景とやらが満遍なく理解できそうな気までしてしまう。いまや行きづまったと人がいう「構造主義」的言説の停滞の脇をたくみにすりぬけて、新たな思考を可能にする誇り高い個体として、つまりはマルクシスムとフロイディスムの頽廃を厳しく批判するあの新たなる思想家の一人として、いまや『アンチ=エディプス』(ガタリとの共著 72年)といういささかうさんくさいベスト・セラーの著者ドゥルーズが、われわれの前に姿をみせたというわけなのだ。

人は、新たな思想家の登場に立ちあるごとに、その思想家の思想を一つの疑問符として想定し、その疑問を正しいコンテキストの中に据えてこれを把握しようとする仕草に馴れ親しんでいる。だが、巨大なる疑問符が消滅した以後の白々とした地平には、もはや疑問符が疑問符たりうる条件は残されていないのだから、それが不毛な試みであることは自明の理でありながら、あえて不可能と戯れようとする意図からではなく、ただ驚くほかはない楽天的な姿勢で、新たな思想家の思想を解明しようと躍起になる。それが、「神の死」を徹底した虚構だといいはる人びとによって遂行されるのであればまだ救われもしようが、「神の死」はおろか、「不条理」を、フーコーの「人間の死滅」を当然のこととしてうけ入れている人びとの口からもれてくるもっともらしい言葉であったりすると、それこそ絶句するほかはない。なぜならそれは、「神の死」を無造作に口にしながら、しかも「神の死」をひたすら隠蔽せんとする無意識の仕草にほかならないからである。そんな仕草があたりにまき起こすものはといえば、疑問符の消滅を前にする存在が捉えられる失語症をめぐって、その徹底した絶句だけをこれまた徹底した饒舌によって註釈している無自覚な言葉の崩壊である。ミシェル・フーコーの『知の考古学』が途方もなく読みにくいのは、まさに絶句そのものをなぞろうとする言葉たちが、言葉の輪郭を極端に曖昧にし、その内実を可能なかぎり希薄にしようとしているからにほかならず、それ故にこそあの書物は、たとえようもなく美しいのだ。だからフーコーは、難解な思想を語る難解な思想家なのではない。巨大なる疑問符の消滅とともに、思想も思想家も消滅したという事実を、シュペーグラー流のあのうぬぼれきった饒舌によってではなく、最も絶句に近くあろうとする言葉たちの沈黙との戯れによって、身をもって示しているからにほかならない。……