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2015年6月29日月曜日

野間易通対川上量生(東浩紀による)

他人のなすあらゆる行為に際して自らつぎのように問うて見る習慣を持て。「この人はなにをこの行為の目的としているか」と。ただしまず君自身から始め、第一番に自分を取調べるがいい。(マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳)

…………

東浩紀氏が次ぎのようにツイートしている(2015.6.29.16:00前後)

@hazuma: 言語行為論で有名な区別に「事実確認的 constavive」と「行為遂行的 performative」というのがある。ぼくの読者だったら知っていることだろう。ツイートしやすくするため以下C型P型と呼称する。

@hazuma: たとえばAさんがBさんに「あなたの仕事、なんの意味があるんですか?」と尋ねたとする。事実確認的には単に意義を尋ねたにすぎない。けれど多くの場合、行為遂行的には「あなたの仕事意味ないと思うんすけど」という軽蔑を含む。そしてある文章をどちらで解釈すべきかは、形式的には決定できない。

@hazuma: ある命題がC型であるかP型であるかは、形式的な解析では決して決定できない。20世紀に哲学者や論理学者や言語学者や記号論者や社会学者は、この決定不可能性についてさまざまなかたちで分析している。とりあえず、このことは基礎的な常識として押さえておいてほしい。

@hazuma: というわけで、すべての命題は行為遂行的な読みに開かれている。つまり意味は確定しない。とはいえそれではコミュニケーションに支障が出るので、社会は「あらゆる命題を事実確認的にしか受け取らない」領域をいくつか作っている。たとえば学会はその一つだ。論文はベタにマジに読むことになっている。

@hazuma: さて、このうえで昨今話題の文系理系論争について呟くと、ぼくにはそれは、文系脳理系脳などという不毛な話ではなく、どちらかというと、ある命題を事実遂行的にとるか行為遂行的にとるかの解釈の水準、というよりも「解釈を安定させる社会的装置についての理解」が混乱しているためのように思われる。

@hazuma: つまりは、こうだ。川上さんは、対話とは合理的で論理的な意見交換であるべきだから、命題の解釈を事実確認的水準に限定したうえで行わなければいけないと考えている。ひらたくいえば、学会の質疑応答のようなものとして対話を考えている。このような理解のひとは、確かに「理系」のひとには多い。

@hazuma: しかし他方、野間さんは、ある特定の解釈の水準を標準的だと決定する、その「規則設定の暴力」こそを問うべきだと考えている。これはこれで、ベンヤミンの『暴力批判論』以来さんざん言われていることで、「文系」的には古典的な立場である。それゆえ野間さんは対話を行為遂行論的に展開しようとする。

@hazuma: というわけでなにが起きるかというと、川上さんと野間さんでは、相互の命題についての解釈の水準がきれいにすれ違うことになる。川上さんが事実確認的に述べたことを、野間さんは行為遂行論的に受け取る。逆に野間さんが行為遂行論的に述べたことを、川上さんは事実確認的に受け取る。

@hazuma: 事実確認論/行為遂行論の区別は、しばしば正誤(認識論)と善悪(倫理)の区別にも重ねられる。ぼくの考えでは、川上さんの「在特会もカウンターもどっちもどっち」はC的には正しいがP的には悪に近い。逆に野間さんの「オタクはキモい」はP的には有効性をもつかもしれないがC的には無意味だ。

@hazuma: 以上、ぼくなりに10日前の騒動について考えた。いずれにせよ、同じ「対話」という言葉で、「理系」は学会的な事実確認的命題の交換をイメージし、「文系」はもっと無秩序な行為遂行的命題のバトルをイメージすることが多いというのはあると思うので、まずはそこを整理すべきかと思います。

@hazuma: ちなみに追記だけど、いまたまたま読んでいるミハイル・バフチンは、まさに、対話を、事実遂行的な命題の交換ではなく、行為遂行的な命題のバトルとして考えたひとでした。ぼく的にはやっぱこっちのほうがしっくり来るんだけど、これ人文書に親しんでいないとわかりにくい考え方かもね。

@hazuma: ちなみに、参考図書をぼくの得意分野で挙げておくと、言語行為論では、J・L・オースティン、ジョン・サール、そしてサールとデリダの論争が必読。そこにベイトソンのダブルバインド論を加えればだいたいオッケーで、あと応用でバフチンのポリフォニー論とかフーコーのパイプの論文とかかしら。

すばらしいまとめである。「すばらしい」と書いたが、わたくし自身ほとんど忘れてしまっているので、つまりはとても勉強になる、ということだ(忘れてしまっている、すなわち元からたいして分かっていたわけではないということだ・・・)。

ところで、 「事実確認的 constavive」/「行為遂行的 performative」とは、ラカンの 言表内容enonceと言表行為enonciation とどう異なるのか(参照:「私が語るとき、私は自分の家の主人ではない」)。

誰かが何かを言うときには、文章あるいは主張が議論に載せられますが、言っていることに対して主体がとっている位置に注目することもできます。いいかえれば、彼のメタ-言語学的位置に注意を向けるのです。彼は自分の言っていることをどうみているだろうか?(ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」)

《すべての発話はなんらかの内容を伝達するだけでなく、同時に、主体がその内容にどう関わっているかをも伝達する》(ジジェク『ラカンはこう読め』)

この「内容」が言表内容であり、その「内容にどう関わっているか」が言表行為である。

 「事実確認的 constavive」/「行為遂行的 performative」とは、究極的には、このフロイト・ラカン派のこの考え方に行き着くのではないか、--と、たいして分かっているわけではないわたくしが「厚顔無恥」にも書いてしまうのは、「行為遂行的」、あるいは「言表行為」としては何を示しているのだろう? たぶん、とりあえずは「知ったかぶり」をしたいということはあるに相違ないが、それ以外にも何かあるはずだ・・・

(いずれにしろ、 「事実確認的 constavive」/「行為遂行的 performative」と言表内容enonce/言表行為enonciation とはなにか違うところがあるはずだが、それが分からないほどの「知識」しかない、ということではあるし、いまは調べる気はしない)。

ーーなどとややこしい話はここで打ち切りにする。

今はロラン・バルトの平易な言葉を、ーーいささか本来の文脈からはずれる箇所はあるかもしれないがーー引用しておくだけにする。

対話者同士の定期的な会合から期待し得るものはただ好意だけである。すなわち、この会合が攻撃的な所を除去したパロールの空間を代表するということである。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」)

だが、〈あなた〉は、攻撃性の除去など容易ではないことを知っている。すくなくとも、この除去は抵抗なしには行なわれない。

第一の抵抗は文化の範疇に属する。暴力の拒否はヒューマニスト的な嘘とみなされる。慇懃さ(このような拒否の小型版)は階級的価値とみなされる。愛想のよさは鷹揚な対話に似た瞞着とみなされる。

第二の抵抗は想像界の範疇に属する。多くの者は、対決からの逃避は欲求不満を招くというので、鬱憤晴らしの闘争的パロールを願っている。

第三の抵抗は、政治の範疇に属する。論争は戦いの基本的な武器である。パロールの空間は、どれも、分裂して、その矛盾をあらわにしなければならない、監視の下に曝されなければならない、というのである。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」)

そう、〈あなた〉はうわべの慇懃さ、愛想のよさに吐気を催し、鬱憤晴らしの闘争的パロールを願っている、《私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。》(中井久夫『「踏み越え」について』)

質問とはあることを知りたいと思うことである。しかし、多くの知的論争においては、講演者の発表に続く質問は欠如の表明ではなく、充実の確認である。質問という口実で、弁士にけんかを仕掛けるのだ。質問とは、その場合、警察的な意味を持つ。すなわち、質問とは訊問である。しかし、訊問される者は、質問の意図にではなく、その字面に答えるふりをしなければならない。その時、ひとつの遊戯が成立する。各人は、相手の意図についてどう考えるべきか、わかっていても、遊戯は、真意にではなく、内容に答えることを強制する。誰かが、さりげなく、《言語学は何の役に立つのですか》と、私に質問したとする。それは、私に対して、言語学は何の役にも立たないといおうとしているのだが、私は、《これこれの役に立ちます》と、素直に答えるふりをしなければならない。対話の真意に従って、《どうしてあなたは私を攻撃するのですか》などといってはならない。私が受け取るのは共示〔コノタシオン〕であり、私が返さなければならないのは外示〔デノタシオン〕である。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」『テクストの出口』所収 沢崎浩平訳)

…………

※附記

学問の世界で、同僚の話がつまらなかったり退屈だったりしたときの、礼儀正しい反応の仕方は「面白かった」と言うことである。だからもし私が同僚に向かって正直に「退屈でつまらなかった」と言ったりしたら、当然ながら彼は驚いて言うだろう。「でも、もし退屈でつまらないと思ったなら、面白かったといえばいいじゃないか」。

不幸な同僚は正しく見抜いたのだーーこの率直な言明には何かそれ以上のものが含まれている、そこには自分の論文の質に関するコメントだけでなく、自分の人格そのものに対する攻撃が含まれているにちがいない、と。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)
よく定義されたことばをつかって書くことは およそ論議のなされるための原則と言えるだろう このこと自体がすでに 語り尽くすことができないものを わかったように語るという罠にかかっている ひとつのことばが厳密に定義できるなら それは意味するものとしての記号にすぎないだろう 世界のかわりにそれをあらわす記号を操作しても 無限を有限で置きかえるこの操作からのアプローチは 逆に無限回の操作を要求することになる 推論はかならず反論をよび 論理の経済どころか ことばは無限に増殖する(現代から伝統へ  高橋悠治

「葛藤」や「無秩序」への私の執着は、言語をめぐるごく単純な原則に由来している。それは、ある定義しがたい概念について、大多数の人間があらかじめ同じ解釈を共有しあってはならないという原則にほかならない。とりわけ、文学においては、多様な解釈を誘発することで一時の混乱を惹起する概念こそ、真に創造的なものだと私は考えている。そうした創造的な不一致を通過することがないかぎり、「平和」の概念もまた、抽象的なものにとどまるしかあるまい。(蓮實重彦「「『赤』の誘惑」をめぐって」)

※「事実確認的 constavive」/「行為遂行的 performative」のいくらかの参照として→「エクリチュールとフィクション