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2015年6月5日金曜日

フロイトの欲動二元論と一元論をめぐって

【融合不安と分離不安】

まず、ラカンがフロイトの遺書と呼んだ『終りある分析と終りなき分析』から、次の文を掲げる。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的欲動、エロスと破壊beiden Urtriebe Eros und Destruktionと同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

次に、ポール・ヴェルハーゲ(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains(「古い悪党たちの新しい研究  2009)から、エロス/タナトスの二元論的解釈の箇所を私訳して掲げる。これは後に示すようにドゥルーズやジジェクの欲動一元論とでも呼びうる解釈とは異なる。

なぜヴェルハーゲがこのエロス/タナトスの二元論にこだわるのかは、「古い悪党フロイトの女性論」にていくらか示した。彼は人間の原初の不安、ーー「原不安」、あるいは「原トラウマ」とでもいいうるーーを融合不安と分離不安としている。これはエロス(融合)とタナトス(分離)とできるだろうことは、冒頭のフロイトの文から憶測できる。すなわち《ますます大きな統一に包括しようと努め》ることが「融合=エロス」であり、《この統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする》ことが「分離=タナトス」である。

この前提で、わたくしは下記の文を読む。


【欲動二元論ーーヴェルハーゲ】


エロスとタナトスの二つの欲動は、全く反対の目的を目指す。一方で、融合することが、フロイトがエロスと呼んだものであり、分離することがタナトスである。そしてそれぞれ独自の快を持っている。この観点から、我々はなぜ「とことんまでall the way」行かないのかという我々の問いへの答えを示唆しうる。

まず最初に二つの相克する方向のせいであり、第二にどの方向も主体にとって堪え難い最終的な代償があるせいである。

タナトス欲動は理解するのに簡単だろう。それは解放とゼロテンションにむけて励む。それは最終段階としての死、そして死に向かった強烈な踏み台としてのオーガズムである。フロイトにとって、タナトスの目標とは分離であり、より大きな統一体からより小さな断片への絶え間ない分裂である。主体の水準において、これが意味するのは、他者からの分離であり、強化された個人的特性ーー私はここにいる、独立した人間として存在する、である。

エロスの目標は全く反対だ。それは融合であり、異なった要素を統合して、より大きな全体とすることである。そこでは個々の要素は、その個人的特性を失う傾向にある。生は、絶えず増大する緊張の集合体であり、それは純粋な享楽である。もっとも個人にとってはそうではない。個人は集合体へと消滅してしまう。個人はこの消滅をきわめて怖れることになる。

単独でタナトス欲動に従えば、我々は孤立して最終的には死ぬ。もっぱらエロス欲動に従えば、同様に我々は消滅する。今度はより大きな統合に飲み込まれるのだ。どちらもそれぞれ固有の享楽がある。どの人間も彼(女)自身の道の地図を作らねばならない。フロイトは、標準的な環境においては、二つの欲動は混ぜ合わされ(欲動融合Triebmischung)、各個人の人生において絶え間なく変化するカクテルだと言う。

ラカンはこのフロイトの論拠を引き継ぐ。享楽と死はきわめて近いものだ。享楽への道は、死への道である(Lacan, [1969-70], p. 18)。享楽それ自体、生きている主体には不可能である。というのはそれは自身の死を意味するのだから。唯一残された可能性は遠回りの道筋を取ることだ。目的地への到達を可能なかぎり遠くに延期してその道筋を行ったり来たりすることである。(ポール・ヴェルハーゲ 2009)

【欲動一元論ーージジェク・ドゥルーズ】ーーカトリーヌ・マラブーの二元論に対して

次にジジェクによるエロス/タナトスの二元論解釈への異議を示す(マラブーのとる二元論への批判(=吟味)であるが、この文は、もちろんヴェルハーゲ批判としても読める(SLAVOJ ZIZEK. DESCARTES AND THEPOST-TRAUMATIC SUBJECT)。ここでも私訳だが、ドゥルーズの『差異と反復』箇所はことさら自信がないので、邦訳を参照のこと(私の手元には英訳しかない)。

……ここでマラブーは、あまりにもナイーヴなフロイト読解のために犠牲を払っているようにみえる。フロイトをあまりに(文字通りではなく、しかし)「聖書解釈学的に」取っており、フロイトの発見の真の核心と、フロイトが己れの発見の視野を自ら誤解した別のやり方とのあいだの区別をしていないのだ。

マラブーは、フロイトの欲動二元論を、それがまとめられた通りに受け取っており、精密な読解(ラカンからラプランシュまでの)を無視している。それらの読解は、この二元論は見当違いであり、理論的な退行であることを説得力をもって論証している。

だから皮肉なことに、マラブーがフロイトとユングを対照させて、ユングの(脱性化された)リビドーの一元論に対してフロイトの欲動の二元論を強調したとき、彼女は決定的なパラドックスを見ないで済ませてしまっている。すなわち、フロイトが欲動の二元論に頼ったまさにその時なのだ、フロイトが最もユング主義者であったのは。そこでは原始的な陰陽観の前近代的で根拠のないアゴニズムに退行してしまっている。

では、我々は、いかに正しく把握したらよいのか、フロイトをかわし彼をこの二元論に頼る方向に押しやったことをを正しく把握するためには?

マラブーが、フロイトにとって、エロスはその反対の〈他〉、すなわち破壊的な死の欲動に関係し、かつそれを包囲するというモティーフを変奏するとき、彼女はーーフロイトの誤った方向に導く公式化に従いーー二つの相反する力の相剋としてこの対立を捉えている。マラブーは、それを、より正確な意味での、欲動の固有の自己妨害self-blockadeとしては捉えていない。

だが「死の欲動」はリビドーに関して反対の力ではない。そうではなく、欲動を本能と区別する構成的な裂け目constitutive gap なのである(意味ありげなことは、マラブーはTriebを「本能」と翻訳してしまっている)。死の欲動は、常に脱線させられ、反復の輪に囚われ、不可能な過剰によって徴づけられたものである。

ドゥルーズはーーマラブーは他の点では、彼にしきりに頼っているのだがーー『差異と反復』においてこの点を明瞭化している。すなわち、エロスとタナトスは二つの反対の欲動ではない。それらは競合し二つの力を混ぜ合わせる(エロス化したマゾヒズムとして)ものではない。すなわち、ただひとつだけの欲動がある。それはリビドーであり、享楽を得ようと奮闘する。そして「死の欲動」は形式的な構造の湾曲した空間である。それは、

《超越論的原則の役割を果たす。他方、快原則はただ心理上のものである。この理由で、死の欲動はとりわけ沈黙しているのであり、他方、快原則は花盛りなのである。

最初の問いはこうだ。すなわち、死のモティーフーーそれは精神生活の最もネガティヴな局面を構成するようにみえものだーーが、いかにしてそれ自体で最もポジティヴな、超越論的にポジティヴなものなのだろうか、ということだ。ポジティヴというのは、反復を確約してくれる点で、という意味だ。 [...] エロスとタナトスは次の点で異なっている、エロスは反復されなければならない、反復においてのみ経験され得る。他方、タナトス(超越論的原則としての)は、エロスに反復を供与するものだ、反復にエロスを服させるものなのだ》(ドゥルーズ『差異と反復』)(ジジェク 2009)
フロイトが死の欲動の考え方にて目指していたものーーより正確にいえば、フロイト自身が彼の発見の真の重大性に盲目で気づいていなかった核心的な側面――は、ヘーゲルの「否定性」の非-弁証的な核、止揚や理想化のどんな動きもなしに反復される純粋な欲動である。(……)

欲動は心理学とはまるで関係がない。死の欲動(そして欲動とは、まさに死の欲動である)は、死や破壊にやっきになる心的な(あるいは生物学的な)ものではない、ーーラカンがくり返し強調しているように、死の欲動は存在論的な概念である。そして死の欲動の正しく存在論的な側面は、考えるのにひどく困難なものだ。フロイトは、Trieb(欲動)を、生物学と心理学のあいだ、あるいは自然と文化のあいだに位置する限定された概念として定義した。――心的表象と通してのみ知られる自然な力として。しかし、われわれはここからいっそう歩みを進め、フロイトをもっとラディカルに読まねばならない。(Zizek“LESS THAN NOTHING”2012 私訳)

【ドゥルーズの欲動一元論】

さて一つ前の引用におけるドゥルーズの見解は、わたくしの知るかぎり、マゾッホ論にも同様に表れている。

快感原則はすべてに支配権をふるいはするが、それを統禦するものではないというべきなのだ。快感原則に例外はないが、その原則には還元しがたい残滓が存在するのである。快感原則に逆らうものは何もないが、その原則の外部にあるもの、異質な何ものかーーつまり彼岸……が存在するということなのである。(……)

まず、一領域を統轄するものを人は原則と呼ぶ。その場合は、原則とは経験的な原理または法である。かくして快感原則は、<エス>にあって心的生活を統轄する(例外なしに)。だが、その領域を原則に従属せしめるものが何かを知ることは、まったく別の問題なのである。それとは違った別の原理、次元が一段上の原則が必要であり、それが、経験的原理へと領域が従属する必然性を説明することになるのだ。超越的とはこの別の原理のことである。快感は、心的生活を統轄する限りにおいて原則なのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』P139 蓮實重彦訳)

ーー今仏原文を探し出せないでいるのだが、『差異と反復』英訳においてタナトスが“transcendental”とされ、蓮實重彦訳の『マゾッホとサド』では、「超越的」とある。これはおそらく誤訳ではないか。

「超越論的」とは、あらゆる(可能な)経験の条件に関わるということである。付言すれば、 内在的な思考を貫こうとするドゥルーズ哲学の文脈においてはとりわけ、「超越論的」 (transcendantal)と「超越的」(transcendent)の二つの形容詞を混同しないことは重要である。後者が、 経験しうるものの彼方にあるという意味でまさに超越的なのに対し、 前者は、 経験を根底か ら規定しつつも経験と同じレベルに位置するという意味で、内在的とみなしうるものである。(箭内 匡 『映像について何を語るか -ジル・ドゥルーズ『シネマ』をめぐる考察- 』)

だが次ぎの文には「超越論的」と表れ、誤訳というのはわたくしの誤解かもしれない。

根源と根源を越えたところで快感原則に先行している反復は、いまや倒置されたかたちで体験され、その原則に従属する(あらかじめ獲得した、あるいは獲得すべき快感との関連で反復は行われる)。超越論的探求の結果明らかにされるものは、エロスは経験的な快感原則の創設を可能にするが、また、いかなる場合もタナトスを必然的に引きずっていくということである。エロスもタナトスも、与件たること、あるいは具体的経験たることはありえない。体験のうちに与件として示されるものは、両者の結合関係ばかりである。――エロスの役割は、タナトスのエネルギーを結びつけ、その結合を〈エス〉のうちで快感原則に従属せしむることにあるからである。それ故、エロスはタナトス以上に与件として示されるものではないにもかかわらず、すくなくともその声をあたりに響かせ、現実に顕著な影響を及ぼすものなのだ。だが、エロスに担われて表面まで導かれる底知れぬ深淵としてのタナトスは、本質的に口を閉ざしている。それだけに恐るるに足るものなのだ。だからこそ、フランス語では、この超越論的で沈黙する審級を指し示すのに〈本能〉、死の本能という言葉をとっておくべきだと思われたのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』p143 蓮實重彦訳)

ここで冒頭に掲げたヴェルハーゲの文に戻れば、ヴェルハーゲの二元論的解釈はマラブーとともに、おそらくジジェクやドゥルーズの立場からは、《原始的な陰陽観の前近代的で根拠のないアゴニズムに退行してしまっている》見解だということに(いったんは)なるのだろう。

ヴェルハーゲはジジェク読みである。すくなくとも2000年前後までは、しきりにジジェクを参照している。彼は、おそらくジジェクらの見解を知っているにもかかわらず、やはりエロス/タナトスの二元論の立場を取っていると憶測される。

たとえば、ヴェルハーゲは2002年の段階においても、次のようにジジェクに触れている。

「分離」、幻想の「横断」「主体の解任」:注目すべきなのは、この三つの概念のどれもラカン自身によっては十分に詳述されていないことだ。最後のもの“destitution subjective” – (J. Lacan, Proposition d'Octobre, Scilicet, 1, 1968, p. 23)は今日最もよく知られているが、これはジジェクの幅広い注釈によるところが大きい。.(ヴェルハーゲ、Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way 2002)

【ジジェクのエロス/タナトス二元論的叙述】

さて、ジジェクの書には、死の欲動概念が頻出するが、エロスについて語ることは少ない。最近の書(2012)から、その稀なエロスへの言及箇所を抜き出しておこう。

この文は、一見、エロス/タナトスの二元論的叙述のようにみえる。ただし《超自我の声もまた欲動を動員する》という表現があり、これは文脈を読めばわかるが、エロスはタナトスを動員すると変奏することはできる。

…この決定的なポイントをはっきりさせるため、精神分析理論における眼差しと声の地位を明確化することから始めよう。そこでは、我々は常に神経症、精神病、倒錯の異なった地位を念頭に置かなければならない。

(1) 神経症において、我々はヒステリー的な盲目と声の喪失を取り扱う。すなわち、声あるいは眼差しは、その能力を奪われてしまう。精神病においては逆に、眼差しあるいは声の過剰がある。精神病者は己れが眼差されている経験をする(パラノイア)、あるいは存在しない声を聴く(幻聴)。これらの二つの立場と対照的に、倒錯者は声あるいは眼差しを道具として使う。彼は眼差し・声とともに「物事をなす」のだ。

(2) 眼差しと声のカップルは、また物表象Sach‐Vorstellungen と語表象Wort‐Vorstellungenのカップルにかかわる。「物表象」は眼差しを含んでいる(我々が物を見るとき)。「語表象」は声(声のイメージ)を含んでいる(我々が言葉を聞くとき)。

(3)さらに、眼差しと声はそれぞれ、イド(欲動)と超自我に関係する。眼差しは覗見欲動を動員し、声は超自我の審級ーー主体に圧迫をかけるーーの媒体である。しかしまたここで心に留めておく必要がある、超自我はイドからエネルギーを引き出していることを。その意味は、超自我の声もまた欲動を動員するということだ

このように、欲動の用語において、声と眼差しは、エロスとタナトス、生の欲動と死の欲動に関係している。眼差しは「 一撃で打ちのめすsiderates」 、脱線させ、釘づけにする、あるいは主体の顔を不動化する、主体をメドゥーサのような恐怖ですくみ上がった実体にする。現実界への洞察は身体を苦しめる。それは死を表す(メドゥーサの頭自体、釘づけにされた/恐怖ですくみ上がった眼差しである。それを見ることは、私を盲目にしない。ーー反対に、私自身が釘づけにされた眼差しになる)。他方、誘惑的な声は、前エディプスの法の彼方/法の底にある母との繫がりを表す。(母の子守唄からから催眠術師に声までの)活気を帯びた臍の緒を表す。

(4) 四つの部分対象(口唇、肛門、声、眼差し)のあいだの関係は、二つの軸、「要求/欲望」と「〈他者〉へ/〈他者〉から」の軸に沿って構造化される四角形の関係である。

口唇対象は要求を伴う。それは〈他者〉へ向けられる(母へ、私が欲しいものを下さい!)。他方、肛門対象は、〈他者〉からの要求である(肛門経済において、私の欲望の対象は〈他者〉の要求へ降格される。ーー私は糞便を規則正しくしなければならない、 親の要求を満足させるため)。

同様に、覗見欲動は〈他者〉へ向けられた欲望を伴う(それを見せて!私に見させて!)。他方、声の対象は〈他者〉からの欲望を伴う(声は私から欲しいものを知らせる)。すこし異なったふうに言えばこうなる。主体の眼差しは〈他者〉を見ようとする試みを伴う。他方、声は懇願・呪文である(ラカンの懇願・祈り欲動 invocatory drive)。それは〈他者〉(神、王、愛された者)を駆り立てる試みである。この理由で、眼差しは〈他者〉に屈辱を与え-鎮定し-不動化するmortifies‐pacifies‐immobilizes。他方、声は〈他者〉を活気づけるvivifies。声は〈他者〉から言動を誘い出すのだ。

(5) 眼差しと声は、それでは、いかにして社会的領野に刻み込まれるのか。まずは、恥と罪である。過剰に視る・裸の私を見詰める〈他者〉の恥。他者たちが私について言っていることを聞くことにより引き起こされる罪。声と眼差しは、このように、超自我と自我理想の対照にかかわるのではないか? 超自我は、主体に纏いつき、主体の罪を見出す声である。他方、自我理想は、主体がその前で恥じ入る眼差しである。このようにしてトリプルな同等物の連鎖がある。「眼差しー恥ー自我理想」、そして「声ー罪ー超自我」である。(ジジェク ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012)

この文はここでの話題以外にもとても示唆的な文である。《四つの部分対象(口唇、肛門、声、眼差し)のあいだの関係は、二つの軸、「要求/欲望」と「〈他者〉へ/〈他者〉から」の軸に沿って構造化される四角形の関係》を図示すれば次の通り。




だが今はその話題ではない(参照:Paul Verhaegheによるヒステリーと強迫神経症の定義)。


【臍の尾=原抑圧】

途中、「臍の緒」という表現が出て来ているが、これはフロイトの「夢の臍」という表現を想起しつつ書いているはずだ。

フロイトは、原抑圧は欲動の身体的な構成物somatic component であり、これを夢の臍やら菌糸体と(我々の存在の核)といっている。

どんなにうまく解釈しおおせた夢にあっても、ある箇所は未解決のままに放置しておかざるをえないこともしばしばある。それは、その箇所にはどうしても解けないたくさんの夢思想の結び玉があって、しかもその結び玉は、夢内容になんらそれ以上の寄与をしていないということが分析にさいして判明するからである。これはつまり夢の臍、夢が未知なるもののうえにそこに坐りこんでいるところの、その場所なのである。判読(解読)においてわれわれがつき当る夢思想は一般的にいうと未完結なものとして存在するより仕方がないのである。そしてそれは四方八方に向ってわれわれの観念世界を網の目のごとき迷宮に通じている。この編物の比較的目の詰んだ箇所から夢の願望が、ちょうど菌類の菌糸体から菌が頭を出しているように頭を擡げているのである。(フロイト『夢判断』第七章「夢事象の心理学」新潮文庫 下 p279ーー夢の臍、あるいは菌糸体)

ところで、ドゥルーズには、「原抑圧」という語が次ぎのように現われる。

フロイトは、疑いもなくそのことを知っていた。というのは、彼は抑圧の偽装よりもより深い証拠を探し求めていたからだ。もっとも彼はそれを“原”抑圧という似たような語彙にて考えていたが。われわれは、抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ。さらに言えば、――それは結局は同じことだがーー我々は、抑圧するから偽装するのではない。偽装するから抑圧するのだ。そしてわれわれは反復の決定的な核心の力によって偽装する。(ドゥルーズ『差異と反復』英訳からの私訳)

ヴェルハーゲの「原抑圧」の捉え方は次ぎの通り。

フロイト理論において、快感原則は、"シニフィアン内部"で機能する、すなわち表象Vorstellungenとともに、ということである。そこでの"拘束されたbound"エネルギーは、いわゆる二次的な過程内部に結びつけられる。快感原則の彼岸に横たわるものは、表象によって表現され得ず、一次的な過程内部での"自由なfree"エネルギーとともに作動する。後者は自我にトラウマ的な影響を与える。ラカンの現実界とは、フロイトの、原抑圧された無意識の臍であり、固着のせいで居残ったstays behindものである。"居残るstays behind"が意味するのは、「シニフィアンに、言語に転換されない」ということである(Freud, letters to Fliess, dd. 30th May 96, 2nd Nov.96)。(Paul Verhaeghe, Beyond Gender. From Subject to Drive、2002)

このようにして、「原抑圧」、あるいは「臍」が、欲動とかかわる表現であることが分かる。ここでドゥルーズのマゾッホ論にも、《タナトスは、本質的に口を閉ざしている》、あるいは《この超越論的で沈黙する審級》という表現があったことを想い出しておこう。


【ヴェルハーゲによる象徴界のエロス/現実界のタナトス】

さてここで、ヴェルハーゲの欲動二元論とジジェク・ドゥルーズの欲動一元論を繋げうる文を掲げよう。ほとんど冒頭に掲げた文と内容は殆ど同じなのでここではあえて訳さず、英文のまま貼り付ける。『Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender 』(Paul Verhaeghe 2004)からである。

The easiest one to understand is the Eros or life drive, which attempts to return to a previous stage of wholeness and fusion by linking together as many elements as possible, with coitus as the most salient example. It is striking how, even in Freud, the relation between Eros and the symbolic is clearly visible, together with its effect on identity formation.
The death drive works against the tendency towards synthesis and induces a scattering of Eros. It disassembles everything that Eros brought together into One and makes this unity explode into an infinite universe. Moreover, this other drive works in silence; it has no connection whatsoever with the symbolic or the signifier (Freud, 1923b).

ここで注目すべきなのは、エロスは象徴界の審級に属し、タナトスは象徴界あるいはシニフィアンと関わらないとある点だ。すなわち死の欲動は、現実界の審級に属するものである。

ドゥルーズ=ジジェクの「超越論的」という表現を思い起せば、超越論的=現実界として捉え得る。すなわちヴェルハーゲの見解は単純な二元論ではない。象徴界のエロス欲動を支えるものが、現実界のタナトス欲動なのであり、それがドゥルーズのいう「超越論的」である。ただし冒頭に掲げた文章は、あまりにも二元論的に読める。どうしたわけか? 態度変更があったのか。

わたくしはあの2009年に書かれた『New studies of old villains(古い悪党たちの新しい研究)』を、やや一般公衆向けの文章と捉え、象徴界/現実界の議論をはぶいたのではないかといったんは憶測したのだが、いや、フロイトとラカンの驚くべき精緻な読み手であるヴェルハーゲーー今、英語圏では代表的な論客である彼が、そんな迂闊なことをするはずはない。とすれば、次のようなジジェク組の読みにかかわるのではないか。

人は言うことができる、セミネールⅩⅦのラカンにとって、享楽とはシニフィアンのそれ自身に対する不十分性inadequacyにあると。すなわち、無用な剰余を生み出すことなしに、“純粋に”機能することの不可能性inabilityであると。(ジュパンチッチAlenka Zupancic”WhenSurplus Enjoyment Meets Surplus Value" 2006)
われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』2012)

ようするに前期ラカンでは現実界の審級に属するものとされた享楽は、象徴界(シニフィアン)の非一貫性にかかわるものだというふうに、セミネールⅩⅦにおいて転回があった。とすれば、象徴界/現実界の対照にて、エロス/タナトスを説くのは、逆に安易すぎることになる。

だが、ヴェルハーゲはかねてよりラカンのアンコールの言明「原初とは最初のことじゃない」を鍵言葉として、かさねて象徴界/現実界の対照を否定している。すなわち象徴界の行き詰まりにおいてのみ、現実界は現われるということだ。これはエロスの袋小路においてのみ、はじめてタナトスが現われると「翻訳」できる。それはかつまた象徴界の非-全体の領域内部に、外-存在するものとしての現実界という意味でもある。これはジジェクのいう「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」と同じ意味であるだろう。

より具体的にいえば、たとえば、われわれのほとんど誰もが次ぎのような思いを、性交後抱くのではないだろうか。

ファルスの快楽、とくにファルスの快楽の不十分性が、この残余を顕在化する。臨床的用語ならこうである。真理の彼方に(性関係の失敗)、現実界が姿を顕す。(Paul Verhaeghe、BEYOND GENDER. · From subject to drive、2002)



快楽の行為のあと、なにかが足りないのに気づくのだ・・・これは「原初」の不可能性(性関係はない)であるにもかかわらず、ファルスの享楽の後に遡及的に見出される。これがラカンのいう「原初とは最初のことではない」の意味である。

われわれはある過程において、“原初の”と“二次的な”と言うが、それはひどくイリュージョンを育む話し方なんだな。私に言わせれば、どんな場合でも、ある過程で“原初の”と言われるとき、――まあなんでもいいがね、結局のところそう言いたいときは、――それは最初に現われるということじゃないんだ。

個人的には、赤ん坊、--その赤ん坊に外部の世界はないという実感をもたないで眺めたことは一度もないね。はっきりしてるのは赤ん坊はなにも見てないんだよ、彼を興奮させるもの以外は。それはまさにその通りじゃないかい、赤ん坊がまだ話さないかぎりは。彼が話しはじめた瞬間からだな、まさにその瞬間以降であってその前じゃないんだが、私はやっと理解できるんだ、抑圧のたぐいがあるのが。快-自我の成り行きは“原初”だよ。そうでないわけあるかい? あきらかに“原初”なのさ、ただしいったんわれわれが考えだしてからのだ。でもそれは間違いなく“最初”じゃない。(『セミネールⅩⅩアンコール』フィンク英訳より私意訳)





ところで、2006年に出版されたセミネールⅩⅦ英訳版に付された何人かの論者の解説文のうちのひとつ、Paul Verhaegheの” enjoyment and impossibility”( 2006)には、こうある。

実に、フロイトの新しい欲動理論(エロスとタナトス)の不可避的な結論は、死が快の最終的な形式だということだ。

ラカンはこの同じ論拠の線に沿って続けている。セミネールXVIIにおける驚くべき新しい主題は、享楽とシニフィアンのあいだの初めからある関係性である。この意味は、主体におけるシニフィアンの機構の起源は、享楽に密接に関係があるということだ。これは、倫理についてのセミネールVIIとは全く対立する。Seminar VIIでは、享楽は象徴界の反対のものと見なされていた。それについて更に言うなら、シニフィアンと享楽にあいだの関係性は、セミネールXVIIにおいて、かつまたややパラドキシカルのままである。…ラカンにとって、シニフィアンは、享楽に至ることの不可能の原因であると同時に、その獲得への道であるのだ。(Paul Verhaeghe,2006)

(そのうち続く)

…………

【附記】

「欲動」という名のもとにわれわれが理解することのできるのは、さしあたり、休むことなく流れている、体内的な刺激源の心的な代表者以外のなにものでもないのであって、これは個別的に外部からやってくる興奮によってつくりだされる「刺激」とは異なるものである。だから欲動は心理的なものを身体的なものから区別する概念の一つである。この欲動の本性についてのもっとも単純でもっともらしい仮定は、欲動はその自身いかなる性質ももたず、心的生活に対する作業促進の尺度として問題になるにすぎない、というものであろう。あまたの欲動をそれぞれ区別して、これに特殊な性格を付与するのは、その身体的な源泉やその目標に対する欲動の関係なのである。欲動の源泉はある器官のなかで起る一つの刺激的な過程なのであって、欲動の当面の目標はこういう器官の刺激を除去することにあるのである。(フロイト『性欲論三篇』旧訳 p35)

《主体が囚われているのは意識ではない、身体である。》(ラカン「「哲学科の学生への返答」(1966 私訳)

"Ce n'est pas à sa conscience que le sujet est condamné, c'est à son corps."(Réponses à des étudiants en philosophie sur l'objet de la psychanalyse Jacques Lacan, 1966

私が論じているのはもっぱら『性理論三篇』(1905 年)の欲動論で、のちの生の欲動と死の欲動は、厳密には欲動の問題ではないと思いますが……。 (十川幸司「来るべき精神分析」鼎談 2009
一般的に、幼児のセクシャリティは厳密に自体愛的だと言われる。だが私の視点からすれば、これはフロイトとその幼児セクシャリティの間違った読解である…〈他者〉を導入することによって前期フロイトの部分欲動と後期フロイトのエロス/タナトスを結びつけることができる(ヴェルハーゲ Sexuality in the Formation of the Subject,2005)

※参照:部分欲動と死の欲動をめぐる覚書