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2015年6月17日水曜日

精神病、あるいは「父の名の周囲のシニフィアンたちがどんどん自力で歌い出す」症状

「精神病とは,対象が失われておらず,主体が対象を自由に処理できる臨床的構造なのです.ラカンが,狂人は自由な人間だというのはこのためです.同時に,精神病では,大他者は享楽から分離していません.パラノイアのファンタスムは享楽を大他者の場に見定めることを伴います.…

…パラノイアとスキゾフレニーの差異を位置づけることができます.スキゾフレニーは言語以外の大他者を持っていないのです.また同時に,パラノイアと神経症における大他者の差異を位置づけることも可能です.パラノイアにとっての大他者は存在しますし,大他者はまさに対象aの大食家なのです」Clinique ironique. Jacques-Alain Miller, La Cause freudienne 23 松本卓也訳

ーーというわけで、ラカン派的にも、パラノイア/スキゾフレニーの相違が肝要だろうが、あるいは現在なら自閉症などを絡めて、さらには日本的文脈では統合失調症とはほんとうにスキゾフレニーのことなのだろうかという問いもあるだろうが、ここでは精神病一般についてのメモ。

日本術語「統合失調症」の”区切り”より

オイゲン・ブロイラーが生きていたら、「統合失調症」に賛成するだろう。彼の弟子がまとめたブロイラーの基本障害である四つのAすなわちAmbivalenz(両価性)は対立する概念の、一段階高いレベルにおける統合の失調であり、Assoziationslockerung(連合弛緩)は概念から概念への(主として論理的な)「わたり」を行うのに必要な統合の失調を、Affektstorung(感情障害)は要するに感情の統合の失調を、そして自閉(Autismus)は精神心理的地平を縮小することによって統合をとりもどそうと試みて少なくとも当面は不成功に終わっていることをそれぞれ含意しているからである。ブロイラーがこのように命名しなかったのは、よいギリシャ語を思いつかなかったという単純な理由もあるのかもしれない。「統合失調症」を試みにギリシャ語にもとずく術語に直せば、syntagmataxisiaかasyntagmatismusとなるであろう。dyssyntagmatismusのほうがよいかもしれない。「統合失調症」は「スキゾフレニア」の新訳であるということになっているが無理がある。back translation(逆翻訳)を行えばこうだと言い添えるほうが(一時は変なギリシャ語だとジョークの種になるかもしれないが)結局は日本術語の先進性を示すことになると思うが、どうであろうか。(中井久夫『関与と観察』

なおフロイトやラカンがときに同じものと扱ったりそうでなかったりするAusstossung/Verwerfungについて、次のような見解さえあることを、ここでの文脈からはずれるが、先に示しておこう。

Ausstossung(排出)は、Verwerfung(foreclosure排除・拒絶)とは徹底的に異なったものだ。それは精神病に特有の機制であるどころか、〈他者〉自体の領野を開くものである。この意味で、それは象徴界の拒絶ではなく、それ自体、象徴化なのである。我々はここで精神病と妄想を考えるべきではない。そうではなく主体それ自体を考えるべきある。決定的なのは、これは排除foreclosureは精神病者を言語のなかに住むことを妨げることはないという事実にかかわる。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être, Paris: Presses Universitaires de France 1999, p. 72.私訳)

…………

◆ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」 Jacques-Alain Miller, An Introduction To Lacan's Clinical Perspectives, in Reading Seminars I and II: Lacan's Return to Freud

ラカンはフロイトの著作のなかに、それぞれの構造に対する特異的な用語があることを指摘しました。[Verdrangung(repression)]、精神病では排除[Verwerfung(foreclosure)]、倒錯で は 否 認 [Verleugnung(disavowal,desaveu)] です 。 ラカンは最終的には否認[Verleugnung]に dementi(denial)という訳をあてることを好むようになりました。

ラカンの分析の教義の多くは、否定の三つの異なったモードを作ることにささげられています。ラカンはこのように言います――精神病における排除[Verwerfung] は 父のシニフィアンの否定であり、倒錯における否認[Verleugnung]はファルスのシニフィアンの否定の特別なモードであり、 神経症における抑圧[Verdrangung]は主体自身のより広範な否定である、 と。 これらのメカニズムには詳細なレクチャーが必要でしょう。

これらのカテゴリーのそれぞれには、もちろんさらなる区別があります。ラカンは何度も三つのカテゴリーに平行線を引いています。ラカンが新しい概念をつかんだとき、あるいは臨床的仕事の新しい観点を強調するとき、彼はそれを神経症・精神病・倒錯に適用します。精神分析においては、新しい観点を作るならば、この三つの領域に関連付けて複雑にしなければならないのです。神経症・精神病・倒錯の三つだけが領域なのではありません。例えば、男と女、男性的構造と女性的構造という臨床的カテゴリーもあります。これは三つの主要な臨床的カテゴリーをきれいに横断しています。例えば、ラカンは倒錯は男性的剥奪であり、男と女の二項構造を神経症・精神病・倒錯の三つ組みと結合させるとさらに複雑になると言っています。私たちが言いうるのは、倒錯は男性的剥奪であり、本物の精神病のすべては女性であろうということです。ラカンは精神病を「女性への衝迫[pousse a la femme]」とみなすという、今では有名となったフレーズを作りました。精神病は女性の領域にあるのです。神経症においては、 ヒステリーと強迫が区別され、 一般に女と男に関連付けられます。

しかし、だからといってヒステリーの男性がいないと主張するのではありません。私たちが神経症を語るとき、あるときはこのように注目しますが、また別の機会には、フロイトは強迫神経症をヒステリーの方言であり、ヒステリーが神経症の中核であると考えていたことを元にして、ヒステリー神経症と強迫神経症の区別について注目します。

とはいえ、ミレールは最近次ぎのような発言をしている。

……臨床において、「父の名」の名の価値下落は、前代未聞の視野に導いてゆく。ラカンの「皆狂っている、妄想的だ」という表現、これは冗句ではない。それは話す主体である人間すべてに対して、狂気のカテゴリーの拡張と翻訳しうる。誰もがセクシャリティについてどうしたらいいのかの知について同じ欠如を患っている。このフレーズ、この箴言は、いわゆる臨床的構造、すなわち神経症、精神病、倒錯のそれぞれに共通であることを示している。そしてもちろん、神経症と精神病の相違を揺るがし掘り崩す。その構造とは、今まで精神分裂病の鑑別のベースになっていたものであり、教育において無尽蔵のテーマであったのだが。(ジャック=アラン・ミレール 2012 The real in the 21st century by Jacques-Alain Miller

さて、一般には、精神病者が妄想をつくるのは、「回復の試み」(フロイト)であるとされる。父の名の隠喩のかわりに妄想的隠喩(métaphore délirante)を自ら導入することで、不安定な謎の意味作用を安定化させようとする。

かつまた、無意識は主体につねに真理を語りかけているのだが、《神経症者は、その無意識(=大他者)の声に耳をとざしてしまっている。一方、精神病では無意識の主体にむけた語りがダイレクトに届いている(=幻聴)。こういった意味で,精神病者のほうが認知が優れている、とラカンは考えた》(松本卓也ツイート)などともいわれる。

以下の文はその前提で読んでみよう(なお再三くり返しているが、このブログの書き手は、精神医学臨床にかんしてまったくシロウトである)。


◆ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012 私訳(「フロイトの欲動二元論と一元論をめぐって」より)。

…この決定的なポイントをはっきりさせるため、精神分析理論における眼差しと声の地位を明確化することから始めよう。そこでは、我々は常に神経症、精神病、倒錯の異なった地位を念頭に置かなければならない。

(1) 神経症において、我々はヒステリー的な盲目と声の喪失を取り扱う。すなわち、声あるいは眼差しは、その能力を奪われてしまう。精神病においては逆に、眼差しあるいは声の過剰がある。精神病者は己れが眼差されている経験をする(パラノイア)、あるいは存在しない声を聴く(幻聴)。これらの二つの立場と対照的に、倒錯者は声あるいは眼差しを道具として使う。彼は眼差し・声とともに「物事をなす」のだ。

(2) 眼差しと声のカップルは、また物表象Sach‐Vorstellungen と語表象Wort‐Vorstellungenのカップルにかかわる。「物表象」は眼差しを含んでいる(我々が物を見るとき)。「語表象」は声(声のイメージ)を含んでいる(我々が言葉を聞くとき)。

(3)さらに、眼差しと声はそれぞれ、イド(欲動)と超自我に関係する。眼差しは覗見欲動を動員し、声は超自我の審級ーー主体に圧迫をかけるーーの媒体である。しかしまたここで心に留めておく必要がある、超自我はイドからエネルギーを引き出していることを。その意味は、超自我の声もまた欲動を動員するということだ。

このように、欲動の用語において、声と眼差しは、エロスとタナトス、生の欲動と死の欲動に関係している。眼差しは「 一撃で打ちのめすsiderates」 、脱線させ、釘づけにする、あるいは主体の顔を不動化する、主体をメドゥーサのような恐怖ですくみ上がった実体にする。現実界への洞察は身体を苦しめる。それは死を表す(メドゥーサの頭自体、釘づけにされた/恐怖ですくみ上がった眼差しである。それを見ることは、私を盲目にしない。ーー反対に、私自身が釘づけにされた眼差しになる)。他方、誘惑的な声は、前エディプスの法の彼方/法の底にある母との繫がりを表す。(母の子守唄からから催眠術師に声までの)活気を帯びた臍の緒を表す。

(4) 四つの部分対象(口唇、肛門、声、眼差し)のあいだの関係は、二つの軸、「要求/欲望」と「〈他者〉へ/〈他者〉から」の軸に沿って構造化される四角形の関係である。

口唇対象は要求を伴う。それは〈他者〉へ向けられる(母へ、私が欲しいものを下さい!)。他方、肛門対象は、〈他者〉からの要求である(肛門経済において、私の欲望の対象は〈他者〉の要求へ降格される。ーー私は糞便を規則正しくしなければならない、 親の要求を満足させるため)。

同様に、覗見欲動は〈他者〉へ向けられた欲望を伴う(それを見せて!私に見させて!)。他方、声の対象は〈他者〉からの欲望を伴う(声は私から欲しいものを知らせる)。すこし異なったふうに言えばこうなる。主体の眼差しは〈他者〉を見ようとする試みを伴う。他方、声は懇願・呪文である(ラカンの懇願・祈り欲動 invocatory drive)。それは〈他者〉(神、王、愛された者)を駆り立てる試みである。この理由で、眼差しは〈他者〉に屈辱を与え-鎮定し-不動化するmortifies‐pacifies‐immobilizes。他方、声は〈他者〉を活気づけるvivifies。声は〈他者〉から言動を誘い出すのだ。

(5) 眼差しと声は、それでは、いかにして社会的領野に刻み込まれるのか。まずは、恥と罪である。過剰に視る・裸の私を見詰める〈他者〉による恥。他者たちが私について言っていることを聞くことにより引き起こされる罪。声と眼差しは、このように、超自我と自我理想の対照にかかわるのではないか? 超自我は、主体に纏いつき、主体の罪を見出す声である。他方、自我理想は、主体がその前で恥じ入る眼差しである。このようにしてトリプルな同等物の連鎖がある。「眼差しー恥ー自我理想」、そして「声ー罪ー超自我」である。(ジジェク ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012)


◆フィンク THE LACANIAN SUBJECT BETWEEN LANGUAGE AND JOUISSANCE by Bruce Fink(1995 私訳)

ラカンによれば、精神病は、幼児の“原”シニフィアンを取り込む失敗の結果である。“原”シニフィアンとは、その取り込みに失敗しなければ、子どもの象徴世界を構成するものである。失敗すれば、子どもは言語のなかに錨を下ろさないままになる。方向を示す磁石がないということだ。精神病者の子どもは言語をとてもよく取り入れるかもしれない。とはいえ、神経症の子どもと同じようではない。基本的な錨を下ろす点が欠けているため、取り入れられたシニフィアンの残りは、漂流に追い込まれる。
神経症者は珍しい用語をきくとき…その言葉をきいた最初の折を思い起こすかもしれない。…他方、精神病者はもっぱら音声や音波phonetic or sonicの側面に集中する。…言葉は物として、リアルな対象として捉えられる。

以下、Lorenzo Chiesa、ジジェクによるミレール吟味(サントーム/主人のシニフィアンをめぐる)の補遺でもある。


◆Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007より

1960年代から1970年代にかけて、ラカンの理論は、《〈他者〉の〈他者〉はない》(それはアルジェブラとしてはȺとして言い表される)という前提にしっかりと依拠しているようにみえる。ラカンの思考のこのフェーズは、別の思考に先行されているが、この事についてラカンはしばしば相反する言明を提供しており、この本質的な結論が、初めて十全に想定された特定の瞬間をはっきりと同定するのは難しい。

セミネールV(1957‒1958)は、議論の余地なく、「〈他者〉の「他者〉は存在する」という仮定のもとに、父の隠喩の機能を導入している。ラカン曰く、《分析の経験が我々に示してくれるのは、〈他者〉にかんする〈他者〉Other with respect to the Otherによって提供される背景[arrière-plan] の必須性である。それなくしては、言語の世界は自らを分節化できない》。

一年もたたないうちに、今度はセミネールVIで、躊躇なく宣言することになる、《〈他者〉の〈他者〉はない…シニフィアンのどんな表明の具体的な成り行きconsequenceを支えるシニフィアンは存在しない》(=メタランゲージは存在しない:訳者)。

我々はこの明らかに折り合いのつかない二つの引用文をどう取り扱えばいいのだろう? 私は示唆しておきたいのだが、せっかちに選定してしまうこと、すなわちセミネール V とVI のあいだのどこかに根本的な転回Kehreをみることは、おそらくラカンの思考の多面的かつ非線形の進化を見逃がすことになるだろう。

とはいえ、1958年から1963年にわたる実りの多い年月のあいだに、ラカン理論が目醒しく動いたのはたしかだ。それは1950年代の半ばに優勢だったものを超えて、「構造」概念に向う。その概念にとって「〈他者〉の〈他者〉はない」は、暗黙のモットーとして考えられるべきだろう。この公式が意味することを手短かに概括してみよう。

「(象徴的)〈他者〉の(象徴的)〈他者〉がいる」という事実が示すのは、シニフィアンの秩序としての〈他者〉は別の超越的な〈他者〉、すなわち父性の〈法〉に支えられているということである。〈法〉としての〈他者〉、〈他者〉の〈他者〉は、〈父の名〉に一致する。これがエディプスコンプレックスの消滅を許容する。その結果、主体は母とのあいだの不穏な関係から脱却する。

このようにして、主体は能動的に、間主体的な象徴領野に入ることが可能になる。私はこの点をグラフ4.1にて示そう。そこでは斜線を引かれた主体$、諸シニフィアンの〈他者〉S2、主人のシニフィアンS1、そして父の名としての〈他者〉の〈他者〉のあいだにある関係を示している。



主体が、言語によって引き起こされた分裂Spaltungの結果として、斜線をを引かれている限り、彼は次のように見なされることになる。すなわち、一つのシニフィアン(無意識のシニフィアンの鎖のなかのあらゆるシニフィアンS2)は他の(特権的)シニフィアン(S1)を表象する。標準のファルス的幻想の場合、主人のシニフィアンは象徴的ファルスΦと同じものであり、それは父の名の超越的な法を体現する。

グラフ4.1 は、まずは地形図的に「父の名」の超越性を表している。それは全ての他のシニフィアン(Φを含む)にかんして超越的である。父の名は「背景arrière-plan」の機能をもっており、「諸シニフィアンのなかのシニフィアンsignifier of signifiers」としてある。まさに父の名が全ての他のシニフィアンを取り囲んでいるがゆえ、この段階でのラカン理論は、自己完結的で自立した象徴的〈他者〉の存在を仮定しているようにみえる。《全ての言語はメタランゲージである》(セミネール III)

この結果として、現実界の審級は象徴界から完全に分離している。現実界はただ否定的に、象徴界でないものとして定義される。

この文脈で、ラカンが精神病者を次のように定義したのは偶然ではない。すなわち、主体が現実界とのダイレクトな接触のなかに自ら見出した故の、排除、父の名のラディカルな拒絶と。精神病者は〈他者〉の〈他者〉を欠いている。

これが、『精神病のあらゆる可能な治療に対する前提的問題について』(1957‒1958)にて、ラカンが提案が次のように提案した理由である。精神病はただtout court〈他者〉の不在に対応するのではない。むしろ、(諸シニフィアンのシニフィアンsignifier of signifiersとしての)父の名の欠如の効果にかかわる。《父の名と呼ばれるものは、〈他者〉のなかのある点に対応するかもしれない。単なる一つの穴に、である。その穴は、隠喩効果の不十分性によって、ファルスの意味作用の場に付随した穴を引き起こすだろう》。

言い換えれば、精神病者は言語との関係が欠けているどころか、彼は実は、言語的な〈他者〉に浸り切っている。その言語的〈他者〉とは、父性隠喩によって「ファルス的に」組織されていないものだ。

精神病者の場合、諸シニフィアン(S2) の〈他者〉は、法の〈他者〉に統整されていないので、精神病者は言語の犠牲者のままである。すなわち、彼は言語によって「話させられている」。これを私はグラフ4.2で図式化した。象徴的〈他者〉の〈他者〉は主体が現実界によって侵入されることを妨げる。精神病の場合に、その侵入が起これば、悲惨な結果をもたらす。


ラカンは確信していた、精神病者の精神生活は、諸シニフィアンによって完全に決定づけられていることを。彼はまた信じていたようにみえる、精神病者は想像的な意味作用を生みだしうると。実際のところ、精神病はしばしば潜在的である。逆に、妄想は、たいていの深刻な事例でさえ「部分的」だと考えられていた。精神病者ができないことーー父の名が欠けており、その結果として主人のシニフィアン (S1)が欠けていることによって、できないことーー、それは、一貫性した言説において生み出される意味作用の秩序である。

言い換えれば、精神病者の精神生活は、にシニフィアンからシニフィアンへの絶えまない換喩的な横すべりで単に成り立っているわけではない。隠喩的な過程もまた可能なのだ。ラカンは実際に「妄想的隠喩」について語っている。そこでは《シニフィアンとシニフィエが(一時的に)安定化される》(S3)。ある程度の象徴的分節化はあるのだ。その分節化は種々のシニフィアンの連鎖が重なることで意味作用が生み出されるおかげであるーー《これらの患者は、我々と同じ言語で我々に話しかけている》(S3)ーーしかしながら、これらの連鎖は、諸シニフィアンのシニフィアン(父の名)によってより広く秩序づけられてはいない。

ここから導きだされる最も重要な結論は、妄想がいかに深刻で根強いものであっても、精神病者はけっして、言語を超えた、純粋な、原初の現実界の神秘的な領野に囚われるわけではないことだ。そのような頻繁に生じる誤解を避けるために、注意深く、精神病についてのラカンの最も有名な定式のひとつ、「象徴界から排除されたものは、現実界のなかに回帰する」の重要性をふたたび見極めなければならない。

…………

以下、続くーー「ラカン派の「象徴界から排除されたものは現実界のなかに回帰する」の意味するところ」に掲げたーー 、がここに再掲しておこう。この定式についてラカンは実際にはそんなことを言っていないという見方もそこで示したが、それはわたくしにはよくわからないし、いまはたいした問題ではないだろう、と思っている。最も肝要な点は、排除されたものの回帰を、「排除された<もの>Das Dingの回帰」と読んではならぬということだろう(das Ding、すなわちフロイト的〈モノ〉 。不可能にして獲得不能な享楽の実体)。
@schizoophrenie: 向井先生と話し合って、「精神病において父の名は排除されるけど、その父の名は回帰しない」という結論に達した。

簡単に書いておくと、まずラカンが60年代までに父の名に関して「回帰する」とはっきり書いているところはない。『精神病』においては「父である」というシニフィアン(父の名の前駆的概念)という大きい道が排除されているときは、その周囲の小さな道を通って行かねばならない、と言われている。

ラカンの構造論的な精神病論のまとめである”D'une question preliminaire...”では「排除」は出てくるが「回帰」は一切でてこない。その代わりにあるのが「現実界のなかにシニフィアンが解き放たれる=脱連鎖するdéchaîner」という術語。

神の名を語ってはいけないのと同じように、父の名もあらわれてきてはいけないんですね、おそらく。その代わりに、父の名の周囲のシニフィアンたちがどんどん自力で歌い出す(連鎖が切れて現実界に現れる)、という風に理解するべきだという話。

というわけで、 Lorenzo Chiesaの叙述を再掲。

「象徴界から排除されたものは、現実界のなかに回帰する」が、第一に意味するのは次のことである。すなわち、象徴界の外部の支えexternal guarantorとしての父の名が排除されるなら、毎日の現実は言語の現実界へ変身しturns into the Real-of-language、妄想delusionsが起りうるということだ。

セミネールIIIにて、ラカンは文字通りには次のようにいっている、《象徴化されないものは現実界のなかに回帰する》(SIII, p. 86)そして《Verwerfung(排除)の対象は現実界のなかに再び現れる》(p. 190)。

子どもは、エディプスコンプレックス(その消滅)を通して象徴界への能動的な入場active entryをする前に、文字letterとしての言語、言語のリアルReal-of-languageに関係する。人は原初の肝所を思い描くことを余儀なくされる、肝所、すなわちペットのように言語のなかに全き疎外されている状態を。これはたんに神話的な始まりを表すだけに違いないとはいえ、それにもかかわらず、子どもは、いかに話すかを学んだのちも、(文字としての)言語によって話されbe spoken by language続ける。

精神病者は、もし諸シニフィアンのシニフィアンsignifier of signifiers (父の名)が排除されているなら、いかに意味作用あるいは意味されるものを生み出すのだろうか? 私は、精神病にて《S2sはそれら自身のあいだに関係をもつ》(B. Fink, The Lacanian Subject [1995])について十分に議論されていないと信じている。

もし、精神病にて、S2sのあいだの関係が、言語のリアル(文字)の領野を超えてゆくのなら、もし、精神病者がしばしば潜在的(非発病)で、その主体は意味作用の生産をなんとかやっているのなら、ある数のシニフィアンーーS2sを越えたものでありながら正当なS1の地位を獲得していないいくつかのシニフィアンの手段によってのみ、そうし得る。

これは次のラカンの言明を説明するだろう、《人間にとって、「正常normal」と呼ばれるためには、彼は「最低限の数」の縫合点 “a minimal number” of quilting points を獲得しなければならない》(The Seminar Book III, pp. 268‒269)。

言い換えれば、精神病者は縫合点がないわけではない……精神病者は、原初の(そして質的にはより重要な)縫合点、父性隠喩によって生み出された縫合点を排除している。とはいえ、それにもかかわらず、精神病者は(量的に不十分な数の)他の縫合点を持っている。それは定義上、S2の地位におとしめることはできないものだ。もしこれがそうでなかったら、彼はシンプルに「完全な狂人」だろう、彼は我々の言語を話さない……