このブログを検索

2015年6月16日火曜日

カサブランカとプロパガンダ

「カサブランカはプロパガンダ映画である」(四方田犬彦)ときけば、ある年代の映画ファンであれば、ああそうだったのか、と得心したり、あるいは少なくとも、とても「気のきいた」見解だと感心する人ーーわたくしのようなーーもいたはずだ。





だが、《この種の言説が意味を持つのは、あれを本気で恋愛メロドラマだと思っている連中に対してだけ》であるという指摘がある。

以下に引用しようとする文は、蓮實重彦による若い時代の(相対的にはあきらかにすぐれた)映画批評家四方田犬彦氏にたいする苛立ちの言葉としてもあるが、蓮實重彦は別に、たとえばジジェクの映画批評への次のような言葉もある。

畏れのなさからくるはしたなさは、あるときそれが一人歩きして、見なくとも語れるという安易さをあられもなく肯定してしまう。ジジェクも陥っているその無惨さについては、加藤幹郎が『「ブレードランナー」論序説』で厳しく批判していますが、ジジェク派というかその無邪気なエピゴーネンは、できればものなど見ずにやりすごしたい人類の思惑と矛盾なく共鳴しあってしまう。ジジェクに騙される連中は馬鹿として放っといていいと思っているんですが・・・・・(『新潮』2005年5月号

…………


◆『闘争のエチカ』(柄谷行人との対談集 1988)

蓮實)これは当り前のことなんだけど、僕には、伝記的な事実に基づいた十九世紀のフランス文学史が書けますよ。資料を徹底的に調べたアメリカ映画史を書けますよ。しかし、それはあえて括弧に括って作品のレクチュールをやっているのは、何もテクスト論とやらを信仰しているからではなく、映画史や文学史を書くという厄介を回避しているからでも、意味と出会うのを排しているからでもなく、そうしたいっさいをあえて括弧に括ることで始まる読みの方が絶対に困難かつ魅力的なものに思えるからです。

たとえば、四方田犬彦が、あるところで、『カサブランカ』という映画を、プロパガンダ映画だといっている。一見正しい見解に見えるけど、この種の言説が意味を持つのは、あれを本気で恋愛メロドラマだと思っている連中に対してだけであり、実は映画史的には嘘なんですよ。

あそこには、欧州の自由の戦士たちを救えといったメッセージがこめられてはいるけれど、それは当時のアメリカ政治の見解でも何でもない。むしろ、そうしたメッセージは、政府にとってみれば、出すぎた迷惑な話だったんです。『カサブランカ』を製作したワーナー・ブラザースという会社は、亡命者と共産党員の巣であって、昔から政府に目をつけられていたわけで、欧州での大戦勃発直後にアメリカの参戦をうながすような映画を撮って、愛国者たちの反撥さえかっていたのです。対独プロパガンダ映画といま思われている映画の半数は、実は、政府の参戦をうながすための映画人たちの意志表明にすぎなかった。『カサブランカ』も、そうした流れの中に位置している作品だから、政府の意向を反映したプロパガンダ映画ではない。プロパガンダというなら、ハリウッドに隠れていた左翼系知識人による政府および国民へのプロパガンダがこめられているわけです。(……)

だから、『カサブランカ』は対独プロパガンダ映画というより、反米プロパガンダ映画なんです。そして、アメリカ映画史をちょっとでも本気で勉強していれば、四方田のような視点は出てこないんですよ。それでも、映画批評家になれるんです。若手の批評家でも最初の部分に属する四方田犬彦でさえ、ハリウッド映画を基本的な知識を身につけていない。だから、括弧に括る部分が弱いんです。

括弧に括る部分というのは、いずれにしても見えてこないから、それなしでやっている人とそれを方法的に括弧に括ってやっている人との違いが見えてこない。編集者は本当はそこを感じとらねばいけないのに、その能力がない。そうすると、蓮實はあれでやっているんだから、その筋のものでも大丈夫だろうという気になってしまう。柄谷行人もあれで批評家なんだから、これで大丈夫だということになる。本当は括弧に括る部分の違いが文章に出ているはずですが、それは読まない。その意味では、編集者や批評家予備軍としての読者の方がポスト・モダン化してしまっている。われわれの姿勢が、だから、悪い意味での刺激になってしまっていると思う。(厚表紙版 P146-148)

とはいえ、「蓮實重彦による il n'y a pas d'Autre de l'Autre」で記したが、蓮實重彦によるドゥルーズ初の邦訳『マゾッホとサド』における誤訳ーープラトンの『パイドン』が『饗宴』になっているーーというのは、あれは「カサブランカはプロパガンダ映画である」よりも格段にひどい恥ずかしさではないだろうか・・・できればプラトンなど読まずにやりすごしたい人類の思惑と矛盾なく共鳴しあってしまう「はしたなさ」ではないだろうか。

…………

次にジジェクによるカサブランカを抜き出しておこうーー《ジジェク派というかその無邪気なエピゴーネンは、できればものなど見ずにやりすごしたい人類の思惑と矛盾なく共鳴しあってしまう。ジジェクに騙される連中は馬鹿として放っといていい》ーーとオッシャラレル方がイラッシャルが、その無邪気なエピゴーネン、あるいは「馬鹿」によるジジェク文の引用である。

蓮實重彦のジジェク嫌いは、90年代半ばに日本でフーコーをめぐる会議があり、そこでなにやらジジェクに一言いわれたせい以来だという噂があるが、これは信憑性はさだかではない。

もちろんジジェクだけではなく、デリダやラカン(その詐術)への罵倒もよく知られている。

デリダはいうまでもなく、ジャック・ラカンさえ読みとることのなかった「赤」と「黒」の親密にして不穏な共存ぶりから、エドガー・アラン・ポーの短編「盗まれた手紙」をめぐって、何やら結論めいた言葉を引き出すことはさし控えておく。フィクションをめぐって、何やら結論めいたこともあえて口にせずにおきたい。その二重の結論の回避は、「記号」の戯れとやらに進んで身をまかせることの贅沢とはいっさい無縁の身振りである。フィクションという尋常ならざるものへの不気味な開孔部としての「赤」を擁護し、肯定すること。一般的な「記号」への性急な翻訳に逃れてそれを怠る者に、フィクションの一語を口にする資格など認められようはずもない。(蓮實重彦『「赤」の誘惑―フィクション論序説』)

いずれにせよーー蓮實重彦の見解の正否は別にしてーー、われわれは(われわれ現代の仔羊は)、喧嘩をすることがあまりにも足りないのではないか。罵倒すれば、ときに自らの誤りにも気づくだろうし、読み手には何が問題になっているのか鮮明になるだろうに。





ヘーゲルの「遡及性/遡及力retroactivity」、あるいは通念としてのヘーゲルは、「ミネルバの梟が夕暮れに飛ぶ」――哲学とは結果(終わり)から見ること、出来事を終わりからみることはそれを目的(エンド)から見ることであり、「常識的な」ヘーゲル批判のひとつとして、結局いつもあったこと(現実性)を合理化することにしかならない、というたぐいの話が1990年前後しばしば語られた(フランシス・フクヤマの著書の流通によるせいで)。

ジジェクはそれでは充分にヘーゲル的でない、むしろ逆に《すべての転機において物事は別の方向に進んだかもしれない》という出来事の連 鎖の本質的偶然性を目に見えるようにするのがヘーゲルの遡及的な見方だとする。

以下の文はその文脈のなかで書かれている。

…………

『カサブランカ』をめぐるハリウッド神話があるそうだ。監督とシナリオライターたちが三つの結末のあいだを撮影が始まっても迷っていたというもの(イングリッド・バーグマンが夫といっしょに去る/バーグマンがボガードといっしょに留まる/男の一方が死ぬ)。

伝説に過ぎないと指摘しつつも(《結末をどうするかについて若干の議論があったのは事実だが、それは撮影が始まるずっと前に決着がついていた》)、ジジェクはこう書く。

われわれは現在のような結末(ボガードは自分の恋を葬り、バーグマンは夫とともに去る)を、そこにいたるまでの流れから「自然に」かつ「有機的に」導き出されたものだ、と感じている。だが、もし別の結末、たとえば、バーグマンの英雄的な夫が死に、その代わりにボガードがバーグマンといっしょにリスボン行きの飛行機に乗り込むといった結末を想像してみたりすると、観客はやはりそれを、それまでの流れから「自然に」発展したものだと感じるだろう。そこにいるまでの筋はどちらも同じだというのに、どうしてこんなことがありうるのだろうか。もちろん、その問いにたいする唯一の答えはこうだーー事件が線的かつ「有機的」に継起するという印象は幻想であり(その幻想は必要不可欠なのだが)、その幻想が、結末こそがそこにいたるまでの出来事の全体に遡及的にretroactively整合性を与えるのだ、という事実を隠蔽しているのである。隠蔽されているのは、物語の連鎖が本質的には偶然のものだということ、すなわち、どの瞬間をとってみても出来事は違ったふうになっていたかもしれないという事実である。だが、もしこの幻想が物語の線的性質そのものの結果として生み出されたものだとしたら、出来事の連鎖の本質的偶然性を目に見えるようにするにはどうしたらよいのだろうか。逆説的だが、答えはこうだーー逆に進行する、つまり結末から最初に向って逆向きに出来事を提示すればいいのだ。(『斜めから見る』p135)

この論理は、同じヘーゲル派であるジャン=ピエール・デュピュイーー日本では、福島の事故後、『ツナミの小形而上学』によって比較的より名が流通したーーを引用しつつ語られてもいる。


過去と未来の閉じた回路である時間―未来はわれわれの過去の行為から偶然に生み出されるが、 その一方で、 われわれの行為のありかたは、未来への期待とその期待への反応によって決まるのである。

『大惨事は運命として未来に組みこまれている。それは確かなことだ。だが同時に、偶発的な事故でもある。つまり、たとえ前未来においては必然に見えていて も、起こるはずはなかった、ということだ。……たとえば、大災害のように突出した出来事がもし起これば、それは起こるはずがなかったのに起こったのだ。にもかかわらず、起こらないうちは、その出来事は不可避なことではない。したがって、出来事が現実になること――それが起こったという事実こそが、遡及的にその必然性を生みだしているのだ(Jean=Pierre Dupuy, Petit métaphysique des tsunami, Paris, Seuil 2005, p. 19.)。』

もしも―偶然に―ある出来事が起こると、 そのことが不可避であったように見せる、 それに先立つ出来事の連鎖が生み出される。 物事の根底にひそむ必然性が、 様相の偶然の戯れによって現われる、 というような陳腐なことではなく、これこそ偶然と必然のヘーゲル的弁証法なのである。 この意味で、人間は運命に決定づけられていながらも、 おのれの運命を自由に選べるのだ。

環境危機に対しても、このようにアプローチすべきだと、デュピュイはいう。 大惨事の起こる可能性を 「現実的」に見積もるのではなく、 厳密にヘーゲル的な意味で<大文字の運命>として受け容れるべきである―もしも大惨事が起こったら、 実際に起こるより前にそのことは決まっていたのだと言えるように。 このように<運命>と ( 「もし」 を阻む)自由な行為とは密接に関係している。自由とは、もっと根源的な次元において、自らの<運命>を変える自由なのだ。

つまりこれがデュピュイの提唱する破局への対処法である。 まずそれが運命であると、 不可避のこととして受けとめ、そしてそこへ身を置いて、 その観点から (未来から見た) 過去へ遡って、 今日のわれわれの行動についての事実と反する可能性(「これこれをしておいたら、いま陥っている破局は起こらなかっただろうに!」)を挿入することだ。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)


…………

次ぎは「自我理想」と「超自我」のあいだの区別を説くなかでの「カサブランカ」である。





自我理想と超自我を隔てる差異の例を挙げよう。それはハリウッドの最高傑作のひとつ、マイケル・カーティスの『カサブランカ』の三分の二くらいまですすんだところにある、有名な短い場面だ。イルゼ・ルント(イングリッド・バーグマン)がリッツ・ブレイン(ハンフリー・ボガート)の部屋にやってくる。彼女の夫でレジスタンスの指導者であるヴィクター・ラズロといっしょに、カサブランカからボルトガル経由でアメリカに行くための通行証を手に入れるためだ。リックが渡すのを拒否すると、彼女は銃を取り出し、リックを脅すが、彼はこう言う。「さあ、撃ちたまえ。願ってもないことだ」。イルゼは崩れるようにすわり、涙ながらに、パリで彼を捨てたいきさつを語り始める。彼女が「私がどんなにあなたを愛していたか、いまもどんなに愛しているか、わかってくれたら」と言うころには、抱き合っている二人がクローズ・アップで映る。シーンはディゾルヴして、三・五秒間だけ、サーチライトが回っている夜の空港の管制塔が映り、リックの部屋の窓を外から映したショットへとふたたびディゾルヴする。彼は窓辺に立ち、外を見ながら、タバコを吸っている。彼は部屋の中を振り返り、彼女に「それから?」と尋ねる。彼女は話の続きを始める。

ここですぐに頭をもたげる疑問は、いうまでもなく、「その間に」、すなわち空港が映っていた三・五秒間に何があったか、という疑問だ。二人はそれをしたのか、しなかったのか。モールトビーはこの点に関して、われわれが観ているものはたんに曖昧なのではない、という正鵠を射た指摘をしている。むしろこの場面はイエスとノーという、二つの明確な、だが相反する意味を伝えている。二人はそれをしたという明確な信号を発していると同時に、したはずがないという、これまた明確な信号を発している。まず一方では、一連のコード化された特徴が、二人がそれをしたことを示しており、三・五秒間ショットはもっとずっと長い時間をあらわしている(カップルが情熱的に抱き合った画面がディゾルヴするという撮り方は、伝統的に、フェイド・アウトの場で行為がおこなわれることを意味している、性行為の後のタバコも、男根を連想させる塔という通俗的なイメージも、オーソドックスな信号だ)。他方、同じような一連の特徴が、何もなかったことを示している。空港の塔が映る三・五秒は実際の時間をあらわしている(背景にあるベッドは乱れていない。会話は中断なしに続行しているようだ)。空港でのリックとラズロの最後の会話でも、二人は率直に前夜の出来事に触れるが、彼らの言葉も二通りに解釈できる。

リック イルゼと私のことを知っていると言ったのかい?

ヴィクター そうだ。

リック きみは……ゆうべ彼女が私の部屋にいたことを知らなかった。通行証を手に入れるために来たんだ。そうだね、イルゼ?

イルゼ ええ。

リック 彼女は通行証を手に入れるために、あらゆる手段に訴えたが、どれもうまくいかなかった。彼女は懸命に、まだ私を愛していることを、私に納得させようとした。遠くの向井に終わったことだ。彼女はきみのために、終わっていないようなふりをしたんだ。私はそうさせておいた。

ヴィクター わかるよ。

ヴィクターはわかったかもしれないが、私はさっぱりわからない。彼らはしたのか、しなかったのか。モールトビーによれば、この場面が例証しているのは、『カサブランカ』が「同じ映画館で並んですわっている二人の観客、すなわち『素朴な』観客と『すれっからしの』観客に、それぞれ別々の快楽を与え、両方をそれぞれ満足させられるように、入念に組み立てられている」ということである。表面的な物語の流れというレベルでは、素朴な観客には、厳格な道徳コードを遵守している映画に見えるように作られているが、同時に、すれた観客に対しては、もっと性的に大胆な物語を示唆するように手がかりをじゅうぶんに与えている。この戦略は見かけよりも複雑である。それはひとえに、自分がいわば公式の物語によって「守られて」おり、「罪悪感を免除されて」いるおかげで、下品な空想に耽ることが許されているということを、観客が知っているからである。観客はその空想が「重大な」ものではなく、〈大文字の他者〉の眼には止らないことを知っている。一点だけモールトビーの分析に訂正を加える必要があるだろう。それは、並んでしわっている二人の観客を想定する必要などないということだ。ひとりの観客でじゅうぶんなのである。

ラカン的に説明すると、肝腎の三・五秒間に、イルゼとリックは〈大文字の他者〉(この場合は公の外観の礼儀正しさ、これを破ってはならない)のためにはそれをしなかったが、下品な想像力による空想のためにはそれをしたのである。これは最も純粋な内在的侵犯の構造である。ハリウッド映画は両方のレベルを必要とするのである。いうまでもなく、このことはわれわれを自我理想と猥褻な超自我との対立へと連れ戻す。自我理想(ここでは公的・象徴的な法、つまりわれわれが公的な会話において遵守しなければならない一連の規則と等しい)のレベルでは、何一つ問題は起きず、テクストは清潔だが、もうひとつのレベルでは、テクストは観客に「楽しめ!(享楽せよ!)」(つまり、自分の下品な空想に身を任せろ!)という超自我の命令を休みなしに発している。繰り返すと、ここにあるのは物神崇拝的(フェティッシュ的)な分裂、すなわち「私は知っているが、それでも……(Je sais bien, mais quand même……)」の明快な一例である。二人はそれをしなかったという意識があるからこそ、それとは正反対の結論に飛びつくことができるのだる。観客は自分の空想に耽ることができる。〈大文字の他者〉にとっては彼らはそれをしなかったという事実のおかげで、観客は罪を免れている。見かけこそが重要なのだ。観客はいくらでも下品な空想に耽ってかまわないのだが、大事なのは、それほど下品でないヴァージョンが象徴的な法の公共領域に組み入れられ、〈大文字の他者〉に記録されなければならないということである。そうした二重の読解が可能なのは、象徴的な法が妥協するからではない。法が関心を寄せるのは外観を保つということであり、公共領域を侵害しない限り、観客は自由に自分の空想に耽ってかまわないのである。法そのものがそれを補完する猥褻なものを必要とし、それによって支えられているのでえある。

1930年代・40年代の悪名高いヘイズ・コード(映画製作倫理規定)はたんなるネガティヴな検閲規定だったわけではない。ヘイズ・コードは過剰をじかに描写することを禁じたが、このコード自体が、その過剰そのものを生み出すポジティヴな(フーコーだったら生産的といったであろう)法制化であり、規制だった。この禁止が正しく機能するためには、非合法的な物語のレベルでは実際には何がおきているかについての明確な意識に依存しなければならなかった。ヘイズ・コードはたんにある種の内容を禁止したのではなく、むしろ暗号化された表現をコード化したのである。スコット・フィッツジェラルドの未完の小説『ラスト・タイクーン』で、映画プロデューサーである主人公モンロー・スターが脚本家たちに与える有名な指示はこうだーー

《われわれの目の前で、彼女がスクリーンに映ると、いつでも、一瞬ごとに、彼女はケン・ウィラードと寝たがる。……彼女のすることなすこと、すべてはケン・ウィラードと寝る代償だ。街を歩くときは、ケン・ウィラードと寝るために歩いている。食事をするのは、ケン・ウィラードと寝るために体力をつけるためだ。だが、二人が正当に認められるまでは、彼女がケン・ウィラードと寝ることばかり考えているなどという印象は、どんなときでも、いっさい与えてはならない。》

ここからわかるのは、根本的な禁止が、ネガティヴに機能するどころか、最もありふれた日常的な出来事を過度に性的なものにしてしまうということである。街を歩くことから食事をすることまで、この飢えた哀れなヒロインのすることなすことすべてが、恋人と寝たいという彼女の欲望の表現に変容させられる。この根本的な禁止は本質的にひねくれている。なぜならこの禁止は不可避的に、再帰的などんでん返しを起こさずにはいられず、そのおかげて、禁止されている性的内容に対する防御それ自体が過剰な性化を引き起こし、それがすべてに浸透してしまう。検閲の役割は見かけよりもはるかに両義的なのだ。当然、こうした見方に対しては次ぎのような反論が出るだろう。すなわち、この議論はうかつにもヘイズ・コードを、支配システムにとって直接的な黙認よりも脅威的な価値転倒機械に祭り上げているのではないか? ストレートな検閲が厳しくなればなるほど、それによって生れる意図しなかった副産物がより価値転倒的になるというのか? こうした批難に対しては、以下のことを強調しておこう。意図しなかったひねくれた副産物は、象徴的支配システムを直接に脅かすものではなく、システムに組み込まれた侵犯であり、見えないところでシステムを支えている猥褻なものなのである。(ジジェク『ラカンはこう読め』P141-148)

もちろん、これは何もハリウッド映画だけの話ではない。公式的には〈大文字の他者〉にそれなりに護られたプルーストの小説の仕掛けはどうだったか。

テクスト分析論者によれば、『失われた時をもとめて』の初稿においては、エピソードとして最も有名なマドレーヌは、ラスクやトーストだった。だが「厳格で敬虔な襞の下の、あまりにぼってりと官能的な、お菓子でつくった小さな貝の身」、「溝の入った帆立貝の貝殻のなかに鋳込まれたかにみえるプチット・マドレーヌ」に変わった(鋳込まれた〔moulé〕ーーmoule(ムール貝))。

「素朴な」読者は、マドレーヌを「そのまま」読めるようにできている。だが、最初から朧げに、居心地の悪い思いを抱いてしまう読み手もいる。

長いあいだ、プチット・マドレーヌはわたしを苛立たせてきた。(……)何といっても、スプーンのなかでとけ崩れるこの菓子の、色あせた昔の匂いとそのスポンジ状の質感に、なにかそれがいかがわしい、ひょっとすると淫らなことでさえあるかのような居心地の悪さを覚えてきた。(フィリップ・ルジェンヌ「エクリチュールと性」)
(ここでの比喩は)……カイエ1 のオナニスムのテクストにもあった妙な形の雲が浮かんでおり, しかもそれは帆立貝coquille de Saint-Jacques に似ており,弁がついているvalvé と言うのだから穏やかではない。なぜなら,驚くべきことにこれらの表現は決定稿のマドレーヌの描写にぴったり一致するからである。

Ph. ルジュヌがvalve をvulve に通じるものと考え,マドレーヌの形(……)を女性器に適合したものと考えたのは,決して根拠のないことではなかったのだ。カイエ27 のテクストは何よりもそのアナロジーを雄弁に実証している。と言うのは,女性器としての雲のイメージは直後に来るジルベルトとの接吻の場面を予告し,主人公のリピドーを暗示する性的な風景だからである。(吉田城「プルーストと性的風景」