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2015年6月13日土曜日

ラカン派の「象徴界から排除されたものは現実界のなかに回帰する」の意味するところ

ラカン派では精神病の特徴としての「排除」概念にまつわって、「象徴界から排除されたものは、現実界のなかに回帰する」という言い方がかねてからなされてきた。

たとえば、ジジェクはすでにはやい時期から、ミレールのラカン解釈に依拠しつつ、こう書いた。

象徴界から排除されたものは、症状の現実界のなかに回帰する。

what was foreclosed from the Symbolic returns in the Real of the symptom'(ZIZEK 1989)

ところで、一年ほどまえかーーもう少し前だったかーー、松本卓也氏が向井雅明氏との対話の直後なのだろう、 次ぎのようなツイートをしていた。

@schizoophrenie: 向井先生と話し合って、「精神病において父の名は排除されるけど、その父の名は回帰しない」という結論に達した。

簡単に書いておくと、まずラカンが60年代までに父の名に関して「回帰する」とはっきり書いているところはない。『精神病』においては「父である」というシニフィアン(父の名の前駆的概念)という大きい道が排除されているときは、その周囲の小さな道を通って行かねばならない、と言われている。

ラカンの構造論的な精神病論のまとめである”D'une question preliminaire...”では「排除」は出てくるが「回帰」は一切でてこない。その代わりにあるのが「現実界のなかにシニフィアンが解き放たれる=脱連鎖するdéchaîner」という術語。

神の名を語ってはいけないのと同じように、父の名もあらわれてきてはいけないんですね、おそらく。その代わりに、父の名の周囲のシニフィアンたちがどんどん自力で歌い出す(連鎖が切れて現実界に現れる)、という風に理解するべきだという話。

とても印象的なツイートで、ラカンは「精神病において父の名は排除されるけど、その父の名は回帰しない」とは言っていないのだな、と目が覚まされた。もちろんより重要な点としては、黒字強調した箇所である。


ところで、最近、比較的若いラカン派のLorenzo Chiesaの名にたまたま遭遇した。私はこの数年のあいだ、ラカンの精神分析の目標として主体の解任(神経症者にとって)ということがいわれるが、これは神経症者を精神病者的にすることではないか、という疑念をもっていた。といっても「ときに」であり、専門家ではまったくないので、深く追求することはなかったが。この問いをめぐる応答としてたまたまLorenzo Chiesaの論文「アルトーととものラカンLacan with Artaud」に行き当たったわけだ。

分析の終りとして後期ラカンの仕事によって提唱されたサントームとの同一化(自らのリアルを名付けることとしての)は、決して永久的な主体の解任、精神病的な象徴界の無-機能になることではない。(Lorenzo Chiesa「Lacan with Artaud」ーーラカン派の「主体の解任destitution subjective」をめぐって

ここで、Lorenzo Chiesa.の別の論『Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan』 2007 からぬき出してみよう。

「象徴界から排除されたものは、現実界のなかに回帰する」が、第一に意味するのは次のことである。すなわち、象徴界の外部の支えexternal guarantorとしての父の名が排除されるなら、毎日の現実は言語の現実界へ変身しturns into the Real-of-language、妄想delusionsが起りうるということだ。

“what is foreclosed from the Symbolic returns in the Real” to mean primarily: if the Name-of-the-Father as external guarantor of the Symbolic is foreclosed, then delusions may arise in which everyday reality turns into the Real-of-language

「象徴界から排除されたものは、現実界のなかに回帰する」とは、Chiesaによれば、ラカンのセミネールⅢ(精神病のセミネール)からの次の二つの文に由来するということだ。

セミネールIIIにて、ラカンは文字通りには次のようにいっている、《象徴化されないものは現実界のなかに回帰する》(SIII, p. 86)そして《Verwerfung(排除)の対象は現実界のなかに再び現れる》(p. 190)。

In Seminar III, Lacan literally says that “what is not symbolized returns in the real” (The Seminar. Book III, p. 86), and that “the object of a Verwerfung [foreclusion] reappear[s] in the real” (ibid., p. 190).


以下、この議論における肝腎だと思われる文章の私訳を掲げる。

子どもは、エディプスコンプレックス(その消滅)を通して象徴界への能動的な入場active entryをする前に、文字letterとしての言語、言語のリアルReal-of-languageに関係する。人は原初の肝所を思い描くことを余儀なくされる、肝所、すなわちペットのように言語のなかに全き疎外されている状態を。これはたんに神話的な始まりを表すだけに違いないとはいえ、それにもかかわらず、子どもは、いかに話すかを学んだのちも、(文字としての)言語によって話されbe spoken by language続ける。

精神病者は、もし諸シニフィアンのシニフィアンsignifier of signifiers (父の名)が排除されているなら、いかに意味作用あるいは意味されるものを生み出すのだろうか? 私は、精神病にて《S2sはそれら自身のあいだに関係をもつ》(B. Fink, The Lacanian Subject [1995])について十分に議論されていないと信じている。

もし、精神病にて、S2sのあいだの関係が、言語のリアル(文字)の領野を超えてゆくのなら、もし、精神病者がしばしば潜在的(非発病)で、その主体は意味作用の生産をなんとかやっているのなら、ある数のシニフィアンーーS2sを越えたものでありながら正当なS1の地位を獲得していないいくつかのシニフィアンの手段によってのみ、そうし得る。

これは次のラカンの言明を説明するだろう、《人間にとって、「正常normal」と呼ばれるためには、彼は「最低限の数」の縫合点 “a minimal number” of quilting points を獲得しなければならない》(The Seminar Book III, pp. 268‒269)。

言い換えれば、精神病者は縫合点がないわけではない……精神病者は、原初の(そして質的にはより重要な)縫合点、父性隠喩によって生み出された縫合点を排除している。とはいえ、それにもかかわらず、精神病者は(量的に不十分な数の)他の縫合点を持っている。それは定義上、S2の地位におとしめることはできないものだ。もしこれがそうでなかったら、彼はシンプルに「完全な狂人」だろう、彼は我々の言語を話さない……(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007 )


 言語のリアルReal-of-languageとは何か。もちろんアルトーのいわゆる「舌語」やラカンの「ララング」を思い起すこともできるが、ここではより分かりやすい中井久夫の文を掲げておこう。


◆中井久夫「詩の基底にあるもの」より(『家族の深淵』所収 初出1994)

―――その生理心理的基底



精神科医として、私は精神分裂病における言語危機、特に最初期の言語意識の危機に多少立ち会ってきた。それが詩を生み出す生理・心理的状態と同一であるというつもりはないが、多くの共通点がある。人間の脳がとりうる様態は多様ではあるが、ある幅の中に収まり、その幅は予想よりも狭いものであって、それが人間同士の相互理解を可能にしていると思われるが、中でも言語に関与し、言語を用いる意識は、比較的新しく登場しただけあって、自由度はそれほど大きいものではないと私は思う。

言語危機としての両者の共通点は、言語が単なる意味の担い手でなくなっているということである。語の意味ひとつを取り上げてみても、その辺縁的な意味、個人的記憶と結びついた意味、状況を離れては理解しにくい意味、語が喚起する表象の群れとさらにそれらが喚起する意味、ふだんは通用の意味の背後に収まり返っている、そういったものが雲のように語を取り囲む。

この変化が、語を単なる意味の運搬体でなくする要因であろう。語の物質的側面が尖鋭に意識される。音調が無視できない要素となる。発語における口腔あるいは喉頭の感覚あるいはその記憶あるいはその表象が喚起される。舌が口蓋に触れる感覚、呼気が歯の間から洩れる感覚など主に触覚的な感覚もあれば、舌や喉頭の発声筋の運動感覚もある。

これらは、全体として医学が共通感覚と呼ぶ、星雲のような感覚に統合され、またそこから発散する。音やその組み合わせに結びついた色彩感覚もその中から出てくる。

さらにこのような状態は、意味による連想ばかりでなく、音による連想はもとより、口腔感覚による連想、色彩感覚による連想すら喚起する。その結果、通用の散文的意味だけではまったく理解できない語の連なりが生じうる。精神分裂病患者の発語は、このような観点を併せれば理解の度合いが大きく進むものであって、外国の教科書に「支離滅裂」の例として掲載されているものさえ、相当程度に翻訳が可能であった。しばしば、注釈を多量に必要とするけれども。

このような言語の例外状態は、語の「徴候」的あるいは「余韻」的な面を意識の前面に出し、ついに語は自らの徴候性あるいは余韻性によってほとんど覆われるに至る。実際には、意味の連想的喚起も、表象の連想的喚起も、感覚の連想的喚起も、空間的・同時的ではなく、現在に遅れあるいは先立つものとして現れる。それらの連想が語より遅れて出現することはもとより少なくないが、それだけとするのは余りに言語を図式化したものである。連想はしばしば言語に先行する。

当然、発語というものは、同時には一つの語しかできない。文字言語でも同じである。それは、感覚から意味が一体となった、さだかならぬ雲のようなものから競争に勝ち抜いて、明確な言語意識の座を当面獲得したものである。




詩作者と、精神分裂病患者の、特に最初期との言語意識は、以上の点で共通すると私は考える。

私がかつて「詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、散文とはその図式的側面を主にした使用である」と述べた(『現代ギリシャ詩選』みすず書房、一九八五年、序文)のは、この意味においてである。この場合、「徴候」の中に非図式的、非道具的なもの、たとえば「余韻」を含めていた。その後、私はこの辺りの事情を多少洗練させようとしたが、私の哲学的思考の射程がどうしても伸びないために徹底させられずに終わっている(「世界における索引と徴候」『ヘルメス』 26号、岩波書店、1990年、「世界における索引と徴候 ――再考」同27 号、1990年)。「索引」とは「余韻」を含んでいるが、それだけではない。

その基底には、意識の過剰覚醒が共通点としてある。同時に、それは古型の言語意識への回帰がある。どうして同時にそうなのであろうか。過剰覚醒は、通用言語の持つ覆いを取り除いて、その基盤を露出すると私は考える。

言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。言語の「発見論的」 heuristicな使用が改めて起こる。これは通常十五歳から十八歳ぐらいに発現する。「妄想を生み出す能力」の発生と同時である。




実際、妄想は未曾有の事態に対する言語意識の発見論的使用がなければ成立しない。幼少年型の分裂病では、これを分裂病と呼べるとしてであるが、言語は水や砂のようにさらさらと流れて固まらない。しかし、妄想は単に言語の発見論的使用ではない。妄想が妄想として認識されるのは決してその内容ではなく、問題の陳腐な解決、特にその解決に権力欲がまつわりついた場合であり、さらに発語内容のみならず形式のほとんど一字一句に至るまでの反復によって「妄想」と認識される(初期分裂病の「妄想的」発語は妄想ではない)。妄想を、通常人が「奇想天外」と余裕を以て驚いてみせるのは、実はその意外性、未曾有性でなく、その陳腐さを高みから眺められるからである。もし陳腐でなければ(いやいささか陳腐であっても)、啓示として跪拝するのは日常見られることではないか(ここで分裂病が一次的には妄想病ではないかと私が考えていることを言っておく必要があるだろう)。

むろん一方は病いであり、一方は病いではないといちおうは言うことができる。しかし、分裂病の場合でも、その最初期、病いといえるか否かの「未病」の時期に言語の徴候的側面への過敏が顕著であり、また一般には、この過敏はその時期の徴候一般に対する過敏の一部として出現する。逆に、詩人の場合も、何の危機もなくて徴候性への敏感さが現れるかどうか。

散文を書く時は、たとえ難渋するにしても、それは主題との格闘であって、言語そのものに対しては「大地の感覚」を維持している。散文においても言語は「発見」の道具でありうるが、言語を「発見論」的にしようしてはいない。「発見論」的使用とは、発見のために闇を探ることであり、それは決して何かを証明することはなく、常に「悪魔と深い海との間に落ちる」危うさがある。詩とは言語の「発見論的」使用であり、それゆえの徴候あるいは余韻、索引への敏感性があるということができると私は考える。詩を書き始める年齢は「妄想能力」の成立の年齢とほぼ一致する。

かりに、貴重な薄氷感を失えば、言語の発見論的使用は「妄想」に堕する危険がある。実際、妄想は全面的危機に際して一つの解釈を示して救い手として現れるものであり、患者が妄想にその内容にふさわしい恐怖を示さないかに見えることは、何よりもまず、それに先行する事態がはるかにおそるべきものであって、それに比すれば何ほどのことはないからである。実際、妄想の反復性と一義性とは、内容の恐怖性を補って余りある安定を与える。ここに妄想の抜けにくさがある。それは不要になった時に自然に消滅する他はないものである。しかし、安んじて共存できるものでもない。また問題は、新しい体験が入ってこなくなることであり、それゆえに妄想を持つ人の「心が痩せる」。詩と妄想とは最終的には相互排除的であるが、出発点においては、まったく別個のものではないと私は考える。むろん、発見論的使用と無縁な韻文はありうる。それは韻文であるが「詩」との相違は、数学の論文とパズルとの差に近くはないか。もっとも、詩作のある段階においてはパズル的側面、言語ゲーム的側面が前に出ることもある。それが詩を完成させる救いになることもある。

以下まだ続くが、それは「「dyssyntagmatismus者」たち、あるいはニーチェと樫村晴香」の末尾を見よ。