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2015年5月4日月曜日

Harriet Cohenハリエット・コーエンのバッハ

Bach - Fugue in C minor - A Comparisonを聴いていて、初めて知ったのだが、Harriet Cohenハリエット・コーエンに魅了されるなぁ、ーー惚れちまった(C minorの演奏はテンポの揺れに気になるところはあるが)」




Fugue No.7

「1928年の録音らしいのだが、バッハが好きでたまらないって感じだなァ、メロメロになっちまうよ。BWV852のプレリュードはもともとひどく好きな曲なんだがーーこれはコラールフーガさーー、こんなふうにきかせてくれた演奏家いたかな、いままで」

「写真をみると、かなりのヒステリー系かもしれないが、やっぱりヒステリーってのは大事だよ、$→S1だからな。バッハというS1(主人)への捧げ物だよ、聴衆には背中を向けて演奏している、顔はバッハのほうに向いてるんだな」

「それにBWV22のカンタータの最後の合唱を編曲しているらしい」





「オレは正直なところロマン派だからな、ロマン派的なバッハだっていいさ」

ロマン主義的な追憶の描写における最大の成功は、かつての幸福を呼び起こすことではなく、きたるべき幸福がいまだ失われていなかった頃、希望がまだ挫折していなかった頃の追想を描くことにある。かつての幸福を思い出し、嘆く時ほどつらいものはない――だがそれが、追憶の悲劇という古典主義的な伝統である。ロマン主義的な追憶とは、たいていが不在の追憶、一度たりと存在していなかったものの追憶である。(ローゼンのシューマン論 ―― Slavoj Zizek/Robert Schumann-The Romantic Anti-Humanistよりの孫引き)

「《きたるべき幸福がいまだ失われていなかった頃、希望がまだ挫折していなかった頃》のノスタルジーさ、オレのバッハへのカンタータへの愛とは。十代のころ限りなく惚れこんでいたからな」


◆Bach choral "Ertödt' uns durch dein' Güte"





アリシア・デ・ラローチャだって、ハリエット・コーエンの編曲のバッハを弾いている。





ああ、シューマン弾きのラローチャの真骨頂!


「オレは基本的に女性の演奏家が好きなんだろうなあ、しかもバッハを弾いてくれるとーーシブクが肝腎だけどーーそれだけで惚れるのかなあ、なぜかなあ」

「バッハじゃなくても、シューマン選んでくれる演奏家がいいねえ、オレは」。

「シューマンといえば、一年ほどまえ出合ったエリー・ナイElly Ney(総統のピアニスト)の演奏、Etudes Symphoniques, Variations Posthumes, No. 5にはびっくりしたなあ、いつまでたってもビックリギョウテンだよ」

「こういった演奏してくれたら、ナチだって許すよ、オレは」。





ロマン主義的なるものとはこの世のなかでもっとも心温まるものであり、民衆の内面の感情の深処から生まれた、もっとも好ましいもの自体ではないでしょうか?疑う余地はありません。それはこの瞬間までは新鮮ではちきれんばかりに健康な果実ですけれども、並みはずれて潰れやすく腐りやすい果実なのです。適切な時に味わうならば、正真正銘の清涼感を与えてくれますが、時を逸してしまうと、これを味わう人類に腐敗と死を蔓延させる果実となるのです。ロマン主義的なるものは魂の奇跡です―― 最高の魂の奇跡となるのは、良心なき美を目にし、この美の祝福に浴したときでありましょうが、ロマン主義的なるものは、責任をもって問題と取り組もうとする生に対する善意の立場からすれば、至当な根拠から疑惑の目で見られるようになり、良心の究極の判決に従って行う自己克服の対象となってまいります。(トーマス・マンーー1924 ニーチェ記念講演)




音楽は一見いかに論理的・倫理的な厳密なものであるにせよ、妖怪たちの世界に属している、と私にはむしろ思われる。この妖怪の世界そのものが理性と人間の尊厳という面で絶対的に信頼できると、私はきっぱりと誓言したくはない。にもかかわらず私は音楽が好きでたまらない。それは、残念と思われるにせよ、喜ばしいと思われるにせよ、人間の本性から切り離すことができない諸矛盾のひとつである。(トーマス・マン『ファウスト博士』)

「エリー・ナイのOP.133を聴きたかったね、とはいえ、この曲の評価が高まったのは、ようやく最近のことだから、かつての演奏家はほとんどやらなかったんだろうけどさ」




「この狂気に陥る寸前のような感覚を与えてくれる音楽ーー実際、シューマンはこの曲を書いたあと、狂気に陥ったーーエリー・ナイにぴったりなんだが・ ・ ・」

「ハリエット・コーエンではなく、エリー・ナイの話に偏ってきてしまったが、やっぱり格が違うのさ、アリシア・デ・ラローチャでさえまったくかないはしない。でも惚れはしないね、シューマンだけだな。オレは凡庸な「善人」だからな、惚れるのはラローチャやハリエット・コーエンでいいさ」。

「えっ、なんだって?」

ーー〈善〉とは根源的・絶対的〈悪〉の仮面にすぎない、〈善〉の背後には根源的な〈悪〉があり、〈善〉とは「〈悪〉の別名」である(ラカン)

「そんなことはわかってるさ、凡庸だから、仮面を被っているままで、しらばっくれていたいのさ」

…………

イギリスの傑出したワグネリアンであるジョン・デスリッジは、かつて次のような注目すべき事実を強調した。ヒトラーが好んだワーグナーのオペラは、露骨にドイツ的な《マイスタージンガー》でも、東方の野蛮な遊牧民からドイツを防衛するために武器を取ることを訴える《ローエングリン》でもなく、名誉や恩義などの象徴的義務にみちた日々の生活という昼を捨て去り、人を夜に埋没させて自己の死を恍惚として受容させる傾向をもつ《トリスタン》だった、ということである。キルケゴール流に言うならば、この「政治的なものの美的な宙吊り」こそが、まさにナチのとった態度の背景としてのファンタスムの中核を成すのだが、そこで重要であったのは何か政治以上のもの、美的なものと化して人を恍惚に誘うある共同体的体験であり、その典型的な例としてニュルンベルクの政治集会で夜な夜な行なわれた儀式をあげることができるだろう。(ジジェク「『アンダーグラウンド』、あるいは他の手段による詩の継続としての民族浄化」)

《悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう。諸君の怠惰な知性は、幾百万の人骨の山を見せられた後でも、「マイン・カンプ」に怪しげな逆説を読んでいる。》(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」)

彼(キェルケゴール)は知っていた。だから、この素晴らしい芸術に対する俺の特別な関係に精通していた―― 彼の見るところ、この芸術はもっともキリスト教的な芸術なのだ。―― 勿論、マイナの符合付きだ。それはキリスト教によって創始され、展開されたのだけれども、やがてデモーニッシュな領域として否定され排除された、―― 君、このことは知っておけよ。音楽はきわめて神学的な問題なのだ ―― 罪がそうであるように、 悪魔である俺がそうであるように。このキリスト教的音楽に対する情熱こそ本当のパッションなのだ。認識と惑溺が一体となっているのがこのパッションなのだ。本当の情熱は曖昧なもののなかにのみイロニーとして存在するのだ。最高のパッションの領域は絶対的に疑わしいものなのだ。(トーマス・マン『ファウスト博士』)

『ファウスト博士』の執筆には、アドルノとの対話(あるいは助言)が大きく寄与しているらしい。

音楽は、それ自体の歴史的傾向に反抗せずに盲目的、無抵抗に服従し、世界理性ではない世界精神に身を委ねる。このことによって音楽の無邪気さは、あらゆる芸術の歴史が準備に取りかかっている破局を早めようとする。音楽は歴史をそれなりに認めている。歴史は音楽を廃棄したがる。しかしながら、まさにこのこと事体が死のみそぎを受けた音楽をもう一度正当化し、存続する逆説的チャンスを音楽に与える。(アドルノ『新音楽の哲学』)

MONDSCHEINSONATE – DIE VOLKSPIANISTIN ELLY NEY


《……この運命を私が怖れているとでも思うの? たとえどんなことになろうと,私は怖れることなく,この運命に向かって突き進んで行くつもりよ。断頭台さえ私にとっては逸楽の玉座でしかなく,死ぬことだってものともしないわ,そして己れの大罪の犠牲者として死ぬ快楽,いつの日か全世界を恐怖せしめる快楽にわれを忘れて,私は気をやるのよ。》(サド、ボルゲーゼ公爵夫人)