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2015年5月7日木曜日

難解版:「〈他者〉の〈他者〉は外-存在する」(ジジェク=ラカン)

簡略版:「〈他者〉の〈他者〉は存在しない」(ラカン)」に引き続き、「難解版:〈他者〉の〈他者〉は存在する」(ジジェク=ラカン)である。

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《もし〈女〉が存在するのなら、彼女は〈他者〉の〈他者〉である》

If the Woman were to exist, she would be the Other of the Other(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012)

女の問題とは、(……)空虚な理想ーー象徴的機能――empty ideal‐symbolic function—を形作ることができないことにあるので、これがラカンが「女は存在しない」と主張したときの意図である。この不可能の「女」は、象徴的フィクションではなく、幻影的幽霊fantasmatic specterであり、それは S1ではなく対象 aである。「女は存在しない」と同じ意味での「存在しない」人物とは、原初の「享楽の父」である(神話的な前エディプスの。集団内のすべての女を独占した父)。だから彼の地位は〈女〉のそれと相関的なのである。(同上)

これが「〈女〉は〈父の諸名〉のひとつ」の意味である。 そして上にあるように〈女〉は対象aである。

Woman is one of the Names‐of‐the‐Father (one of the names of the Divine): if the Woman were to exist, she would be the Other of the Other, the Subject which personifies, dominates, and regulates the very impersonal Between, the big Other as the anonymous symbolic Order.

ラカンの「女は存在しないLa femme n'existe pas」の「存在しない」とは象徴界(シニフィアンの水準)には存在しないということだけであり、現実界にはもちろん存在する。ラカンはそれを外-存在と呼ぶ。女は外-存在する。そして〈他者〉の〈他者〉も外-存在する。

ラカンのex-sistence (外ー存在)は、ハイデガーのSein und Zeit(存在と時間)の仏訳から。ドイツ語ではEkstaseであり、ギリシャ語ではekstasis(外に立つこと)(フィンク,The Lacanian Subject)

※より詳しくは、「女は男のサントームであるUne femme est pour tout homme un sinthome」の後半【存在existenceと外-存在ex-sistenceの違い】の箇所を見よ。


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以下、ジジェクが『LESS THAN NOTHING』2012にて、ヘーゲルの「否定の否定」、あるいはカントの無限判断を援用して〈女〉を説明している二ヶ所。もう一箇所あるのだが、そこはすこぶる難解で(わたくしにとって)、今は提示するのを慎む。

ラカンの否定の否定は、"性別化の式"の女性の側に位置し、非全体non‐Allの概念にある。例えば、言説でないものは何もない。しかしながら、このnon‐not‐discourse (言説の二重否定)は、すべては言説であるということを意味しない。そうではなく、まさに非全体non‐Allは言説であるということ、外部にあるものは、ポジティヴな何かであるのではなく、対象a、無以上でありながら、何かでなく、一つのものではないmore than nothing but not something, not Oneということだ。別の例を挙げよう。去勢されていない主体はない(性別化の式の女性側では)。しかし、これはすべての主体が去勢されていることを意味しない(非去勢の残余は、もちろん対象aである)。この二重否定において、われわれが触れている現実界とは、カントの無限判断に関連しうる。述語否定の肯定affirmation of a non‐predicateである。"彼は不死である"は、彼が生きていることを単純には意味しない。そうではなく、彼は死んでいないものとして、生きている死として、生きているのである。"彼は不死である"とは、non‐not‐dead(死の二重否定)なのである。同様に、フロイトの無意識とは、不死のようなものである。それは単純に意識しないnot‐consciousことではなく、non‐not‐conscious(意識の二重否定)なのである。そしてこの二重否定において、それはただ存続しないことの否定no not only persistsではなく、強められさえするのだeven redoubled。不死は、死に非ずnot‐dead生に非ず not‐aliveの状態として生き続けるremains。同様に、対象aとは、non‐not‐object(対象の二重否定)ではないだろうか。そしてこの意味で、空虚を具現化する対象ではないだろうか。(ジジェク、LESS THAN NOTHING)

では女をいかに定義するのか、もし単純に非-男non‐man、男の相称的な、あるいは相補的な片割れとしてでないのなら? カントの否定判断に対する"無限判断あるいは不定判断"概念が、ふたたびここでも役立ち得る。すなわち肯定判断「魂は必滅だsoul is mortal」は二通りに否定できる。術語を否定する(「魂は必滅ではないthe soul is not mortal」)こともできるし、否定的術語を肯定する(「魂は不滅であるthe soul is non‐mortal」)こともできる。まったく同じように、我々は、女は男でないwoman is not manと言うべきではなく、女は非-男であるwoman is non‐manとすべきである。ヘーゲル的な意味で、女は、ただ男の否定なのではなく、否定の否定なのであり、それは、非-非-男non‐non‐manの第三の領野を開く。すなわち、否定の否定によって、ただ男に戻るのではなく、男とその相対物の全領域を置き去りにする。

かつまた、ふたたび、同じ方法で、プロレタリアはブルジョアに対する階級ではない。それは非-ブルジョアである。その意味は、非-非-ブルジョアである。こういうわけで、我々は二種類の階級があるわけではなく、ひとつだけーーブルジョアーーである。そして否定の否定、非-非-階級、超階級ーーそれは階級としてのそれ自体を廃止し、全ての階級を取り除くことによってのみ勝ち取り得る。プロレタリアは、非-階級である階級の、生きた、存在するパラドックスである。あるいはラムシュタインが「君なしではOhne dich」で歌ったように、 “ohne dich kann ich nicht sein, ohne dich / mit dir bin ich auch allein, ohne dich” 「君なしでは、僕は出来ない、君なしでは/君とでは僕はまた独りぼっち、君なしでは」。要するに、私はあなたと共にあってさえも、私は"あなたと共に独りぼっちだ"ということだ。プロレタリアは、ブルジョアと共にあってさえも、すなわちブルジョアと関わっても、独りぼっちなのだ。

この〈大他者〉(それ自身に関して〈大他者〉であるところの〈大他者〉)は、根源的に〈一者〉の地位の外部にあり、架空の女性の享楽のようなものだろうか? それはただ幽霊的な現前、効果は持つが正式に存在しないものだろうか?これは、まさに、最後に避けねばならぬ罠である。否。非-非-〈一者〉としての〈大他者〉は、〈一者〉以上に"ここに"いや増している。女たちはここにいる、プロレタリアはここにいる。そのとき、彼らの地位は何だろう? より一般的な存在論的命題を掲げてみよう。我々は1から2を得る。というのは、1は十分に1ではないのだから。2の出現は、1によるそれ自身の過剰をとらえる試みだ、自身を二重化することを通して、である。言い換えれば、1から2への移行は、1に内在する分裂が外在化されたということだ。しかしながら、この複数の1sー1+1+1…は、決して根源的な〈他者性〉の〈二者〉には至らない。〈大他者〉はもう一つの〈一者〉にはなり得ない。

どうやってこの〈他者性〉に至るのか? 二つの可能なる罠がここにある。(1) 二項論理によってただ二次的に強制されただけの元々の多様性を措定することによって、根源的な〈他者性〉の袋小路を逃れること。 (2) レヴィナスや他の何人かのように、〈他者性〉を高めて、私を支配する実体的な力や場とすること(「私の中に一人の〈大他者〉がいる。私を通して話す何かよりいっそう強いもの、ある〈力〉」という具合で、この〈大他者〉が"無意識"と呼ばれてさえ、こんな具合になってしまう)。

ラカンは〈大他者〉のアンチノミーを形式化することによってこの罠を避ける(Balmèsによって詳述されているように)。

テーゼーー〈大他者〉はいる。無意識は〈大他者〉の発話である。欲望は〈大他者〉の欲望である。〈大他者〉は前提条件としての〈真理〉の場所にいる、我々が嘘を吐いているときでさえ(あるいはそのときこそ格別に)含意された〈真理〉の場所にいる。等々。

アンチテーゼーー〈大他者〉はいない。〈大他者〉は斜線を引かれており、非一貫的で欠如している。分析の目標は、主体が〈大他者〉の不在を措定するように至ることだ等々。

これを明瞭化するために、まず注意すべきことは、テーゼとアンチテーゼ両方ともに(少なくとも)三通りの読み方ができるということだ。ラカンのISRの三幅対に従い、(存在する)〈大他者〉は、想像界的〈大他者〉(自我の鏡像イメージ)、象徴界的〈大他者〉(無名の象徴的秩序、真理の場所)、そして現実界的な〈大他者〉(〈他者〉-〈モノ〉の深淵、〈隣人〉としての主体の深淵)。

「〈大他者〉はない」は次のように読み得る。〈大他者〉には欠如あるいは穴がある(喪われているシニフィアン、〈大他者〉は例外を基盤としている)。〈大他者〉の非一貫性(非-全体としての〈大他者〉、相反しそれ自体として全体化され得ない〈大他者〉)。あるいはシンプルに〈大他者〉のヴァーチャルな特徴の主張(象徴的秩序は現実の部分としては存在しない。それは、社会の現実における我々の行動を規制する観念的な構造である)。

この「アンチノミー」の解決法は、二重化された式によって提供される。すなわち〈大他者〉の〈大他者〉はない。〈大他者〉は、それ自身に関して〈大他者〉である。これが意味するのは、〈大他者〉の内にいる主体それ自身の脱中心化である。実際、主体は脱中心化されている。その真理はそれ自身の深みにはない。主体が囚われている象徴秩序の網、主体が究極的にその効果である象徴的秩序内の「そこから外にある」。

しかしながら、象徴的〈大他者〉ーー主体が、その内部に構成的に疎外されている(同一化している)ーーは、十全には実体的領域でない。そうではなく、それ自身から分離されているのだ。すなわち、不可能性の固有の点の周り、ラカンが指摘した外-親密ex‐timateの核の周りに構成されている。この外-親密ex‐timateのラカンの名は、もちろん対象a、剰余享楽、欲望の対象ー原因である。

このパラドキシカルな対象は、〈大他者〉の内部で、一種のバグや欠陥として機能する。その十全な現勢化への内在的な障害物として機能するのだ。そして主体はこの欠陥のただの相関物である。すなわち、欠陥なしには、主体はないだろうし、〈大他者〉は、完成され滑らかに動き回る秩序となるだろう。ここにあるパラドックスは、〈大他者〉を不完全にし、非一貫的にし、欠如を与える等の、その欠陥自体が、まさに〈大他者〉を〈大他者〉にするのであり、別の〈一者〉に帰し得ないのだ。(ジジェク、LESS THAN NOTHING)

※カントの無限判断(柄谷行人によるブローウェル『論理学の原理への不信』を引用しての説明も含む)については、「人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない(ヴァレリー)」を見よ。


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もう一つの難解箇所は提示しないとしたが、英文だけでも(後のために?)貼り付けておくことにする。ジジェク自身、François Balmès,の”Dieu, le sexe et la vérité, Ramonville Saint‐Agne: Érès 2007”に依拠した記述である。

Balmès systematizes this paradoxical nature of sexuality in a Kantian way, enumerating a series of “antinomies” of sexual reason:

the antinomy of sexual enjoyment:

thesis—sexual jouissance is everywhere, it colors all our pleasures;

antithesis—sexual jouissance is not sexual.

The explanation of this antinomy resides in the overlapping of lack and excess: because it lacks its proper place, jouissance spreads everywhere. The two sides can be condensed in the tautology: “the sexual is defined by the failure to reach the sexual.”

the antinomy of the two and the Other:

thesis—in the real of sex, there are two, and only two, sexes, man and woman;

antithesis—from the moment we enter language, there is no second (other) sex.

Lacan insists here on “binary logic,” on the Real of sexual difference, and qualifies the denial of the Real of sexual difference as the (idealist) denial of castration. Retroactively, this diagnosis takes on additional weight today, in relation to the rise of what Balmès ironically refers to as “foucauldo‐lacanisme,” the celebration of the multitude of “sexes,” of sexual identities (e.g., Judith Butler's performative constructivism as an idealist denial of the Real of sexual difference). However, we should add that this duality of sexes is a strange one, since one of the two is missing; it is not the complementary duality of yin and yang, but a radically asymmetric duality in which the Same confronts the place of/as its own lack.

the antinomy of woman and Other:

thesis—woman is not the place of the Other;

antithesis—woman is the radical Other.

This antinomy is generated by the fact that the symbolic Other as a place emerges with the erasure of the feminine Other Sex.

the antinomy of Other and body:

thesis—one only enjoys the Other;

antithesis—there is no jouissance of the Other (objective genitive).

The explanation of this last antinomy is that enjoyment as Real has to refer to an Otherness; however, this Otherness is as such inaccessible, Real/impossible. The underlying matrix generating these antinomies is that, in the sexual relationship, two relationships overlap: the relationship between the two sexes (masculine, feminine), and the relationship between the subject and its (asymmetrical) Other. The Other Sex, embodied in the primordial Other (Mother), is evacuated, emptied of jouissance, excluded, and it is this “voidance” which creates the Other as the symbolic place, as the Between, the medium of intersubjective relations. This is the Ur‐Verdrängung, the primordial metaphoric substitution: the Other Sex is replaced by the symbolic big Other. This means that there is sexuality (sexual tension between man and woman) precisely because the Woman as Other does not exist.

この文の最後にある《the Woman as Other does not exist.》の註として、冒頭近くに掲げた文が付されている。

This is why, as Lacan put it, Woman is one of the Names‐of‐the‐Father (one of the names of the Divine): if the Woman were to exist, she would be the Other of the Other, the Subject which personifies, dominates, and regulates the very impersonal Between, the big Other as the anonymous symbolic Order.