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2015年5月29日金曜日

享楽への道とは死への道(ラカン)

享楽への道とは死への道でもある(ラカン、セミネールⅩⅦ)

――とは正確には、《死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance》 (S.XVII)である。

人生は、自己流儀self-fashionedの死への廻り道であり、大抵の場合、人生は、急いで目標に到達するものではない。(同セミネールⅩⅦ)

S・シュナイダーマン(『ラカンの《死》』)曰く、ラカンは精神分析理論の中心軸を、フロイトの「性」から、「死」へとずらしたい願望を密かに抱いていた。が、なんらかの事情があって(シュナイダーマン曰く、トラブルを回避すべく)、「死」ではなく「享楽jouissance」にすり替えるという妥協の道を選んだ、--とは、「ラカンの享楽の図とフロイトの三人の女」で見た。

この見解が正しいかどうかは別にして、冒頭に掲げたセミネールⅩⅦの見解に従えば、究極の享楽=死に急いで到達するものではない、ということになる。

「酒はきみをゆっくりと殺すらしいぜ」「そうさ、俺たちはそんなに急ぐ必要はないだろ?」

このアルコール中毒者の態度が享楽への「すぐれた」姿勢である・ ・ ・

本当を言うと、酒飲みというのはいつまでも酒が飲んでいたいものなので、終電の時間だから止めるとか、原稿を書かなければならないから止めるなどというのは決して本心ではない。理想は、朝から飲み始めて翌朝まで飲み続けることなのだ、というのは常識で、自分の生活の営みを含めた世界の動きはその間どうなるかと心配するものがあるならば、世界の動きだの生活の営みはその間止っていればいいのである。庭の石が朝日を浴びているのを眺めて飲み、そうこうしているうちに、盃を上げた拍子に空が白み掛っているのに気付き、又庭の石が朝日を浴びる時が来て、「夜になったり、朝になったり、忙しいもんだね、」と相手に言うのが、酒を飲むということであるのを酒飲みは皆忘れ兼ねている。(吉田健一『酒宴』)

さて話をもとに戻せば、我々は出産とともにあるものを失っている(フロイトが評価しつつも最終的には反撥したオットー・ランクの「出産外傷」概念)。このランクの概念とほとんど同様の見解を、ラカンはセミネールⅩⅠで言っている。

根源的な喪失とはなにか? 永遠の生の喪失である、それはひどく逆説的だが、性的存在としての出産の刻限に失われる、そのMeiosis(分裂)により。(ラカン、セミネールⅩⅠ)

この言明は、〈母〉なる大地からの分裂によって喪失したものが究極の享楽だという風に捉え得る。

とすればニーチェのお出ましを願っておこう。

ディオニュソス的密儀とは何か?……永遠の生であり、生の永遠回帰である。……死と転変を越えた生への勝ちほこれる肯定である。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」『偶像の黄昏』)

フロイト的には、この永遠の生とは、究極のエロスである。なぜならより大きな統一に到達することだから。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的欲動、エロスと破壊beiden Urtriebe Eros und Destruktionと同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』)

だが、ラカン派のなかでも享楽について、はっきりしたコンセンサスがあるわけではない。

享楽はラカンの最も札付きに難解な概念のひとつであり、それは、ことさらに彼の理論の発展に伴った変貌にもよる。基本的には、欲動から生じる統御できる快と統御できない快のあいだの限界領域を示す。そのためアイデンティティの感覚の喪失を伴って我々を脅かす(我々の想像力のなかで)ものである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains  2008 私訳)
では正確に、享楽概念は何を意味するのだろう? ラカンは決してはっきりとは定義しない。ただ漠然と示唆するだけだ。この不明瞭さは故意のものである。ラカンにとって、享楽は定義上、定義されない。それは象徴化を逃れるものだから(Lacan, 2006 [1969-70], pp. 176- 177)。もっともフロイトにも類似の概念を見出せないではないが。快原則の彼岸についての叙述に、ラカンは享楽の考え方の示唆を見出している。快原則の「彼岸」(jenseits) に何かがあるに相違ない。フロイトはそう結論する。…奇妙な反復があるのだ。奇妙なというのは、反復されるものが、快と呼ばれるものでは必ずしもないからだ。実際、享楽は快の反対物かもしれない。すなわち、"Unlust," あるいは" déplaisir"なのだ。 (Lacan, [1969-70], p. 77) (同上PAUL VERHAEGHE 2008)

とすれば、ニーチェにふたたび登場していただくことになる。《――享楽Lustはあまりにも富んでいるゆえに、苦痛を渇望する。地獄を、憎悪を、屈辱を、不具を、一口にいえば世界を渇望する、――この世界がどういうものであるかは、おまえたちの知っているとおりだ。》(『ツァラトゥストラ』)手塚富雄訳からだが、悦楽Lustとなっているところを享楽に変えた(悦楽はそもそもロラン・バルトの書のjouissanceの訳語でもある)。

さらに、もうひとつニーチェを掲げる。

人間は快をもとめるのでは《なく》、また不快をさけるのでは《ない》。私がこう主張することで反駁しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。快と不快とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である、──人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《権力の増大》である。この増大をもとめる努力のうちで、快も生ずれば不快も生ずる。あの意志から人間は抵抗を探しもとめ、人間は対抗する何ものかを必要とする──それゆえ不快は、おのれの権力への意志を阻止するものとして、一つの正常な事実、あらゆる有機的生起の正常な要素である。人間は不快をさけるのではなく、むしろそれを不断に必要とする。あらゆる勝利、あらゆる快感、あらゆる生起は、克服された抵抗を前提しているのである。──不快は、《私たちの権力感情の低減》を必然的に結果せしめるものではなく、むしろ、一般の場合においては、まさしく刺戟としてこの権力感情へとはたらきかける、──阻害はこの権力への意志の《刺戟剤》なのである」((ニーチェ『権力への意志』「第三書 原佑訳)

さて、ふたたび元の文脈に戻る。

原初の享楽とは〈母〉なる大地との融合だとしてみよう(参照)。これは死だ。そして、それへの廻り道三形態としてラカンによれば、まずは次ぎの三つがある。

①ファルスの享楽jouissance phallique
②〈他者〉の享楽jouissance de l'Autre
③剰余享楽Le plus-de-jouir

ーー②は女の享楽la jouissance feminineとされる場合もある。

ところが『セミネールⅩⅩ』(アンコール)には、〈他者〉の身体の享楽(他の享楽) la jouissance du corps de l'Autre (l'autre jouissance)ともある。

ラカンは、これを②の意味で使っているときもあるし、②③を含めてのときもあるように思える。

ここで、ヴェルハーゲの説明を聞こう。

ここでの中心概念は享楽となる。もっともそれは新しい意味をもつことになる。以前は、ラカンは享楽を、象徴化されない、主体を脅かす母なる〈他者〉the (m)Otherの欲動のリアルな部分として言い表した。

理論のその箇所では、危険な「〈他者〉の享楽jouissance of the Other」と「他の享楽other jouissance」は互いに混ぜ合わさっている。〈他者〉の享楽は、母の享楽であり、彼女の生産物(子どもoffspring)を犠牲にして得られるものだ。女性の享楽feminine jouissanceは、実は「他の」享楽an "other" jouissanceであり、それはファルスの享楽と対照されるものだ。(同ポール・ヴェルハーゲ PAUL VERHAEGHE 2008)
注)ファルスの享楽とはフロイトの快のことである。その意味は、緊張の解除と低下であり、最も目立つ例ならオーガズムである。このファルスの享楽は、男女ともにある。けれどもフロイトでさえ、ファルスの快原則の彼方に、他の快があることを認めていた。それは反対の目的に向かうもの、すなわち緊張を作り出すものである。私の読解では、これが、ラカンが「他の」享楽the "other" jouissanceと呼んだものである。

このヴェルハーゲの説明の前半では、「〈他者〉の享楽la Jouissance de l'Autre」と「他の享楽 l'autre jouissance」はときに同じものとして扱われたり、そうでなかったりするというふうに読める。しかも〈他者〉概念そのものもラカンの理論的推移にともなって、種々の意味で使われる、と。

ここでヴェルハーゲは、ラカンの「〈他者〉の身体の享楽 la jouissance du corps de l'Autre」 という表現(セミネールⅩⅩ)については触れていない。ただしそれはアンコールにおけるラカンの叙述なら、la jouissance du corps de l'Autre =l'autre jouissanceである。

ヴェルハーゲは《女性の享楽feminine jouissanceは、実は「他の」享楽an "other" jouissance》としており、このan "other" jouissanceがl'autre jouissanceであるとすると、ファルスの享楽/他の享楽(快原則の此岸/彼岸)の二項対立における後者だということになる。ただしヴェルハーゲの記述に沿うなら、ファルスの享楽/女性の享楽ということにもなり、剰余享楽はどこにいってしまうのだろうか? わたくしには女性の享楽のなかに剰余享楽が含まれるとは思われない。むしろ下の図の<他者>の享楽の位置に、女性の享楽があるという理解をしていた(だが、これも誤解があるのかもしれない、もしくはある時期だけのラカンの叙述に囚われてしまっているのかもしれない)。


(ラカンの享楽の図とフロイトの三人の女)


いずれにせよ、このあたりはわたくしにとって曖昧なままである。かつまたラカン派の論客のなかでさえ、はっきり言明している人はいないようにみえる(寡聞によるものかもしれないが)。

当面、ここでの理解は、「ファルスの享楽」と「それ以外の享楽」(他の享楽l'autre jouissance)があり、このそれ以外とされる享楽l'autre jouissanceは、<他者>の享楽jouissance de l'Autreとは異なる、ということは分かる。

そして「それ以外の享楽」には、「<他者>の享楽」と「剰余享楽」が含まれる。

かつまた「女の享楽」=「それ以外の享楽」という見解もあるし、いや「女の享楽」=「<他者>の享楽」とする見解もある。ーー当面、そういうことだけにしておこう。

いや、もうひとつつけ加えておこう。

ラカンが「〈他者〉の身体の享楽」ではなく、ただ「〈他者〉の享楽」と言うときさえ、それは実は「身体の享楽」を言っているのではないかと捉えうる場合もある(後述(引用):ヴェルハーゲの見解を見よ)。

※ジジェクは「享楽」をめぐって、主に「剰余享楽」と「女性の享楽」概念を多用する。しかし今は、彼の見解はそれ以外にも多岐にわたり一筋縄ではいかないので、今は敬して遠ざけておく(末尾にいくらかの叙述を附記している)。

あるいはまた、ラカンの最も厄介なマテームS(Ⱥ)(〈他者〉における欠如のシニフィアン)とは、ときには身体の穴のシニフィアンとすることもできるのではないか。

※S(Ⱥ)については、ブルース・フィンクの次ぎのような提案はある。

私は提案しようと思う、セミネールⅥとⅩⅩの間で、S(Ⱥ)は、〈他者〉の欠如もしくは欲望を意味するものから、“最初の”喪失のシニフィアンsignifier of the "first" loss.36を意味するものになっている、と。(ブルース・フィンク『後期ラカン入門: ラカン的主体について』第八章ーージャック・ラカンのS(Ⱥ)とブルース・フィンクのS(a)

この最初の喪失は、原トラウマ、あるいは原去勢(小笠原晋也氏独自のマテームφ barréを私はそう読む(参照))とも呼びうる。

かつまたフロイト概念、Fremdkörper( a foreign body異物)、ーーこの語は、元来、初期フロイトによりトラウマと関連づけられて使用されており、身体としての〈他者〉(原トラウマ)とも読み替えられ得るものだ。この読み方なら、Fremdkörperは、ラカンのマテームȺ、もしくはS(Ⱥ)とできないでもないに思える。

だがジジェクは、Fremdkörperを対象aとしている。

the ultimate cinematic expression of the ex-timate character of the objet petit a in me that of the “alien” in the film of the same name, which is quite literally what is “in me more than myself,” a foreign body at the very heart of myself.(ZIZEK 『The Puppet and the Dwarf』)

ヴェルハーゲなら次ぎの通り(これは「他の享楽(l'autre jouissance」のことを言っているはず)。

Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")

わたくしはこの点に関しては、ヴェルハーゲの見解を取る。それはラカンの「サントーム」のセミネールに、”un corps qui nous est étranger”とあるのを「異物としての身体Fremdkörper」として理解するためである。

l'inconscient n'a rien à faire avec le fait qu'on ignore des tas de choses quan qu'on sait est d'une toute autre nature. On sait des choses qui relèvent du signifiant. (...) Mais l'inconscient de Freud (...) c'est le rapport qu'il y a entre un corps qui nous est étranger et quelque chose qui fait cercle, voire droite infinie - qui de toutes façons sont l'un à l'autre équivalents - quelque chose qui est l'inconscient." (Seminar XXIII, Joyce - le sinthome, lesson of 11th May 1976

…………

さてややこしい話はやめ、ごく標準的な文脈に戻る。

そもそも〈他者〉とか大文字の他者と訳される”L'Autre”は、「大文字の他」であり、人でなくてもよい。ラカンはすでにセミネールⅩⅣで、《〈他者〉は身体である》と言っている。

L'Autre, à la fin des fins et si vous ne l'avez pas encore deviné, l'Autre, là, tel qu'il est là écrit, c'est le corps ! (10 Mai 1967 Le Seminaire XIV)

ラカンの使用法では、〈他者Autre〉が常に身体corpsではないにしろ、この観点は、日本語の訳語では見逃されがちだ。

しかしそれでは、享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「〈他者〉の享楽」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「〈他者〉の享楽」)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに汚染があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる〈他者〉the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介としての享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。これが説明するのは、なぜ母なる〈他者〉the (m)Otherが「享楽の席the seat of enjoyment」なのか、その〈他者〉に対して防衛が必要なのに、についてである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains  2008)

この記述は次ぎの文とともに読まなければならない。母は、子どもに享楽の刻印を捺すのだ(参照:子どもを誘惑する母(フロイト))。

ラカン的観点からは、我々はこう言うことができる、乳幼児を世話するとき、〈他者〉としての母(m)Otherは、子どもの身体に彼女の享楽を徴づけると。言い換えれば、初期の幼児の世話の経験ーーアタッチメント理論や発達研究などであんなにも焦点を当てられいるーーは、ラカン派の用語でも、まさに同じく、〈他者〉の欲望の経験である。

ラカンが適切に言ったように「人間の欲望は〈他者〉の欲望である」。母は「誘惑する女seductress」だというフロイトの仮定は、このレンズを通して眺めると意義深い。

この心理的な他者の表現-能印expressionは、幼児にとって印象-受印impressionとなる。他者の反応を通して、子どもは、身体のリアルにおいて何を経験しているかということに、メンタルな接近を獲得し得る。それと同時に、他者を通して、身体のリアルを取り扱う最初の方法を学ぶのだ。

快あるいは不快の時、親は「どうやって取り扱うか」というメッセージを鏡像化mirroringして伝える。ラカンをパラフレーズするなら、我々はこう言うことができる、〈他者〉の言説なのは無意識だけではない、実に意識も同様なのだ、と。この場なのである、我々のアイデンティティの基礎を見出すのは。

(そのうち続く)

…………

※附記

ジジェクの享楽の叙述の例(LESS THAN NOTHING、2012より)。

【剰余享楽】

まさに享楽の喪失が、その自身の享楽、剰余享楽(plus‐de‐jouir)を生み出す。というのは享楽は、いつも常に喪われたものであると同時に、それから決して免れる得ないものだからだ。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この現実界の根源的に曖昧な地位に根ざしている。それ自身を反復するものは、現実界自体である。それは最初から喪われており、何度も何度もしつこく回帰を繰り返す。

【見せかけ】――通常、見せかけsemblanceは対象a(剰余享楽)とされるが、このジジェクの文はそうであるかどうか保留しておく。

享楽自体の地位は、ある意味で、二重化された見せかけsemblanceの地位である。享楽はそれ自体としては存在しない。享楽は象徴的過程、その内在する非一貫性と反作用の過程の残余あるいは生産物として、ただ己れを主張するだけである。言い換えれば、象徴的見せかけsemblancesは、ある揺るぎない実体的な現実界自体に関する見せかけではない。この現実界は(ラカン自身が定式化しているように)、ただ象徴化の袋小路を通してのみ識別できる。

【女性の享楽】

女性の享楽Jouissance féminineは存在しない。しかしil y a de jouissance féminine、女性の享楽は「ある there is」。この"il y a"は、後期ハイデガーで鍵の役割を果たしたドイツ語の"es gibt"のように、存在とははっきりと対立する(英語では、曖昧になってしまう。というのは、翻訳上、動詞“to be” を避け得ないから)。このように、享楽は、象徴的ネットワークに捉えられるポジティヴな実体ではない。それは、象徴秩序の割れ目と開口部のみを通して燦めく何かである。それは、象徴秩序内部に住んでいる我々がその享楽を直接に獲得できないからではない。そうではなく、もっとラディカルに、それは割れ目と象徴秩序自体の非一貫性によって生み出されるものであるからだ。

ジジェクの主張のポイントは、「享楽」は快原則の彼岸にあるのではない、ということだ。象徴界(快原則の此岸)の非一貫性が享楽を燦めかすということであり、「享楽」は彼方にあるものではない、ということだ。

われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』)

これは一見ヴェルハーゲの見解と異なるようにみえる。だが彼は次ぎのように書いているのは、上に見た。

Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")

「現実界は分節化された象徴界の内部に外ー存在する」のである。これはジジェクと同じことを言っているはずだ。

ラカンのex-sistence (外ー存在)は、ハイデガーのSein und Zeit(存在と時間)の仏訳から。ドイツ語ではEkstaseであり、ギリシャ語ではekstasis(外に立つこと)(フィンク,The Lacanian Subject)

…………




※追記:上でジジェクの言ってることは意味不明かもしれない。わたくしも最近になって漸く彼ら(ジジェク組)が何を言わんとしているのか「朧げに」、僅かながら分かってきたところだ。

以下、「「波打ち際littorale」と「横棒としての象徴的ファルスΦ」」から補足資料。

人は言うことができる、セミネールⅩⅦのラカンにとって、享楽とはシニフィアンのそれ自身に対する不十分性inadequacyにあると。すなわち、無用な剰余を生み出すことなしに、“純粋に”機能することの不可能性inabilityであると。(ジュパンチッチAlenka Zupancic”WhenSurplus Enjoyment Meets Surplus Value")
“A = A”は、象徴秩序内においてのみ起こり得る。そこでは、Aの同一化は「唯一の特徴unary feature」によって支えられ構成されているのだ。その「唯一の特徴」は、その核心にある空虚を徴づけている(その空虚の代わりとなっている)。「あなたはジョンだ」が意味するのは次ぎのことである。あなたのアイデンティティの核心は、あなたの名前で示された言葉で言い表わせないje ne sais quoi深淵なのである。だからどのアイデンティティも、つねに挫折させられ、実質がなく、虚構である(ポストモダンの「脱構築主義者」の呪文のように)だけではない。アイデンティティそれ自身が、厳密な意味で stricto sensu、その反対物の徴、それ自身の欠如の徴、自己アイデンティティとして主張される実体は十全のアイデンティティを喪失しているという事実の徴なのである。(ジジェク LESS THAN NOTHING 私訳)

象徴界と現実界を分ける棒線は、厳密に象徴界の内部のものである。というのは、その棒線が、象徴界が「それ自身になる」のを妨げるのだから。シニフィアンにとっての問題は、現実界に触れ得ないことではなく、「それ自身に到達する」ことが出来ないことだ。シニフィアンに欠けているものは、特別な言語の対象ではなく、「シニフィアン」自身、棒線を引かれない、何物にも邪魔されない〈一者〉である。(ジジェク『為すところを知らざればなり』For They Know not What They Do; Enjoyment as a Political Factor - Slavoj Žižek 1996 私訳)

Levi R. Bryantはこの文を引用して次ぎのように言っている(The Democracy of Objects)。

要するに、現実界は象徴界以外の何物でもない。むしろ象徴界の一種の効果である。どのシニフィアンも、シニフィアンとその割り当てられた場所のあいだの分裂によって纏いつく相違による効果なのだ。シニフィアンは常にそれ自体と場所のあいだの相違を包含しているのだから、シニフィアンは常に-何処でもそれ自体との同一化を得ることに失敗せざるを得ない。しかしながら、それ自体との同一化が不可能だというまさにこの失敗が、そのアイデンティティの本質なのだ。(Levi R. Bryant、The Democracy of Objects、2011)

Bryantはこの後、ヘーゲルを引用して、こう記している。

ヘーゲルが『論理の科学』で、悪戯っぽく言ってる、もしAがそれ自体と同じなら、どうして反復する必要があるんだい?と。“A = A” のような同語反復の同一の反復は、実際はそれ自体との非-同一の徴を示している。(同上Levi R. Bryant、2011)

ドゥルーズやランシエールの研究者でもあるLevi R. Bryantのこの書の題名は「対象の民主主義The Democracy of Objects」であり、彼の論旨に従えば、デモクラシーのあり方を考えるためにも、あるいは現在猖獗するナショナリズムやレイシズムに思いを馳せるためにも、これらの「享楽」の論理を消化しなければならないということになる。