このブログを検索

2015年5月11日月曜日

「背後にさし迫った沈黙の深淵を忘れるために」

人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。それなのにわれわれは前者の半分のことしか考慮に入れない。その部分は外部であるから深められることがなく、したがってわれわれにどんな疲労を招く原因にもならないだろう。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)

プルーストのすばらしい文だが、 とはいえ、対象の鞘におさまっているものも、実は自分自身にすぎない場合が多い。対象aとは、究極的には、対象に自分自身が書き込まれていることだ。これに蓋をして、他人と湿った瞳を交わし合い頷き合うというのが、おおむね文芸愛好家のすがただろう。

いや文芸愛好家だけではない。

公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼は己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴーー大いなる個人的快楽ーーになぞらえるにいたるのだ。(ヴァレリー『テスト氏との一夜』)

《人がかくも熱心に言葉をとり交し合って止まないのは、背後にさし迫った沈黙の深淵を忘れるためではなかったか?》(浅田彰『構造と力』)

すなわち、われわれ自身の内部にのびているものを忘れるために、人は熱心に語る。

ところで「背後にさし迫った沈黙の深淵」にはなにがあるというのか、ーーラカン派的には、そこにex-timateがある(外-存在するintimacy(親密さ)のこと)。

要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にあるのです。ここで問題となっていることを示すために「外密extimité」という語を使うべきでしょう。(ラカンS16)

この"ex-timate"という用語は、"objet petit a","alien","a foreign body"(フロイトのFremdkörperであり、フロイトは内的トラウマに関連してこの語を使う)などとも言い換えられる。

ラカン派でなくてもよい。たとえば次ぎの文では、ニーチェもヴァレリーも「外密extimité」に近似したことを言っている。

真に自己自身の所有に属しているものは、その所有者である自己自身にたいして、深くかくされている。地下に埋まっている宝のあり場所のうち自分自身の宝のあり場所は発掘されることがもっともおそい。――それは重さの霊がそうさせるのである。(……)
まことに、人間が真に自分のものとしてもっているものにも、担うのに重いものが少なくない。人間の内面にあるものの多くは、牡蠣の身に似ている。つまり嘔気をもよおさせ、ぬらぬらしていて、しっかりとつかむことがむずかしいのだーー。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)
人皆の根底にはその人の「原則」が巨大な文字で彫りつけてある。それをいつも見つめているわけではない。一度も読んでいないことも稀ではない。だが人はそれをしっかり守り、人の内部の動きはすべて、口では何と言おうとも、書かれているところに従い、決して外れることはない。考えも行いもそれに違うことはない。心の奥のそこには傲慢、弱点、頬を染める羞恥、中核的恐怖、孤立、なべての人が持つ無知がきらめいていて、世にあるほどのバカげた行為をいつも今にもやらかしそうだ―――。

愛しているものの中にあれば弱く、愛しているもののためとあらば強い。ヴァレリー『カイエ』Ⅳ(中井久夫訳)

…………

ところで、以下のミレールの文にも、対象aのことが語られている。

五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を表白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。そこで彼は引き金をあらわにしました。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。

◆ミレール 「愛について」(Jacques-Alain Miller: On Love:We Love the One Who Responds to Our Question: “Who Am I?”)より。

――どうしてある人たちは愛し方を知っていて、ほかの人たちはそうでないのでしょう?

ある人たちは、他者、たとえば何人かの愛人に――男でも女でも同様にーー、愛を引き起こすやり方を知っています。彼らはどのボタンを押したら愛されるようになるのか知っているのです。けれど彼らはかならずしも愛する必要はありません。むしろ彼らは囮をつかって、猫と鼠の遊戯にふけるのです。愛するためには、あなたは自分の欠如を認め、あなたが他者を必要とすることに気づかなければなりません。あなたはその彼なり彼女なりがいなくて淋しいのです。己が完璧だと思ったり、そうなりたいと思っているような人たちは愛し方を知りません。そしてときには、彼らはこのことを痛みをもって確かめます。彼らは操作し、糸を引っ張ります。けれども彼らが知っている愛は、危険も悦びもありません。


――自分を完璧だとするなどは、ただ男性だけの場合のように思えますが…。

まさに! ラカンはよく言いました、「愛することはあなたが持っていないものを与えることだ」と。その意味は、「愛するということは、あなたの欠如を認めて、それを他者に与える、他者のなかにその欠如を置く」ということです。あなたが持っているものーーなにかよいものを与えるのではない、それを贈り物にするのではないのです。あなたが持っていない何かほかのものを与えるのです。そうするには、あなたは己れの欠如――フロイト曰くの「去勢」――を引き受けなくてはなりません。そしてそれは女性性の本質です。ひとは、女性のポジションからのみ本当に愛することができます。「愛する女性」 Loving feminisesとはそういうことです。男性の愛がいつもやや滑稽なのはその理由です。けれども男性がそのみっともなさに自身を委ねたら、実際のところ、己れの男らしさがさだかではなくなります。


――男にとって愛することは女より難しいということでしょうか?

まさにそうです。愛している男でさえ、愛する対象への誇りの閃きと攻撃性の破裂があります。というのはこの愛は、彼を不完全性、依存の立場に導くからです。だから男は彼が愛していない女に欲望するのです。そうすれば彼が愛しているとき中断した男らしさのポジションに戻ることができます。フロイトはこの現象を「性愛生活の(価値の)下落debasement of love life」と呼びました。すなわち愛と性欲望の分裂です。


――女性はどうなのでしょう?

女性の場合は、その現象はふつうではありません。たいていの場合、男性のパートナーとの同化共生doubling-upがあります。一方で、彼は女性に享楽を与えてくれる対象であり、女性が欲望する対象です。しかし彼はまた、余儀なく去勢され女性化した愛の男でもあります。どちらが運転席に坐るのかは肉体の構造にはかかわりません。男性のシートに坐る女性もいるでしょう。最近では「もっともっと」そうです。ひとりの男は、家庭での愛のため、そして他の男たちは享楽のために、インターネットで、街で、汽車の中で。


――どうして「もっともっと」なのですか?

社会と文化における女であることと男であることのステレオタイプが、劇的な変容の渦中だからです。男たちは感情を自在に解放するように促されています、愛すること、そして女性化することさえも。女たちは、反対に、ある種の「男性化への圧力」に晒されています。法的な平等化の名の下に、女たちは「わたしたちも」といい続けるようにかりたてられています。同時にホモセクシャルの人たちも、ヘテロセクシャルの人たちと同様の権利とシンボルを要求しています、結婚や認知などですね。それぞれの役割のひどく不安定な状態、愛の場での広汎な変わりやすさ、それはかつての固定したあり方とは対照的です。愛は、社会学者のジグムント・バウマンが言うように「流動化liquid」しています。だれもが己れの享楽と愛の流儀を身につけるため、それぞれの「ライフスタイル」を創り出すように促されています。伝統的なシナリオはゆっくりと廃れています。従うべき社会的圧力が消滅してしまったわけではありませんが、衰えているには相違ありません。


――わたしたちは偶然に彼や彼女を見出すのではありません。どうしてあの男なのでしょう? どうしてあの女なのでしょう?

それはフロイトがLiebesbedingung(愛の基本的条件)と呼んだものです、すなわち愛の条件、欲望の原因です。それは固有の特徴なのです。あるいはいくつかの特徴の組合せといってもいいでしょう。それが愛される人を選ぶ決定的な働きをするのです。これは神経科学ではまったく推しはかれません。というのはそれぞれの人に特有なものだからです。彼らの風変わりな内密な個人的歴史にかかわります。この固有の特徴はときには微細なものが効果を現わします。たとえば、フロイトがある患者の欲望の原因として指摘したのは、女性の鼻のつやでした。


――そんなつまらないもので生まれる愛なんて全然信じられない!

無意識の現実はフィクションを上回ります。あなたには思いもよらないでしょう、いかに人間の生活が、特に愛にかんしては、ごく小さなもの、ピンの頭、神から授かった細部によって基礎づけられているかを。とりわけ男たちには、そのようなものが欲望の原因として見出されるのは本当なのです。フェティッシュのようなものが愛の進行を閃き促すのです。ごく小さな特異なもの、父や母の追憶、あるいは兄弟や姉妹、あるいは誰かの幼児期の追憶もまた、愛の対象としての女性の選択に役割をはたします。でも女性の愛のあり方はフェティシストというよりももっとエロトマニティック(被愛妄想的)です。女性は愛されたいのです。関心と愛、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定する関心と愛ですが、女性の愛の引き金をひくために、それらはしばしば不可欠なものです。


――ファンタジー(幻想)の役割はどうなのでしょう?

女性の場合、ファンタジーは、愛の対象の選択よりもジュイサンス(享楽)の立場のために決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりすることを想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女だと想像したり、ほかの場所にいる、いまここにいないと想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。


――男性のファンタジーはどんな具合なのですか?

最初の一瞥で愛が見定められることがとても多いのです。ラカンがコメントした古典的な例があります。ゲーテの小説で、若いウェルテルはシャルロッテに突然の情熱に囚われます、それはウェルテルが彼女に初めて会った瞬間です。シャルロッテがまわりの子どもたちに食べ物を与えている場面です。女性の母性が彼の愛を閃かせたのです。ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を表白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。そこで彼は引き金をあらわにしました。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシスティックなイメージを愛するということです。


…………

附記:ロラン・バルト《長い間、私は早くから床についた》 より


私がこの講演の表題に選んだ文章が何であるか、おわかりの方は何人もいらっしゃるでしょう。《長い間、私は早くから床についた。時には、ろうそくが消えるとすぐに眼が閉じてしまうので、〈ぼくは眠るのだ〉と考える暇もない位だった。そして、半時間も経つと、さあ、いよいよ寝入る時間だという考えに眼が覚めてしまうのだった……。》これは『失われた時を求めて』の冒頭です。これは『失われた時を求めて』の冒頭です。ということは私がこれからプルーストに《ついて》の講演をしようとしているということでしょうか。そうでもあり、そうでもありません。プルーストと私、という題ならば、当たっているかもしれません。何といううぬぼれでしょう。ニーチェはドイツ人の《と》という接続詞の使い方を皮肉っていました。《ショーペンハウアーとハルトマン》といって、彼はからかいました。《プルーストと私》はもっとひどいものです。私は、逆説的ですが、語っているのが私で、第三者でなければ、うぬぼれは消滅すると申し上げたいと思います。なぜなら、プルーストと私自身を同列に並べたからといって、私は自分のこの大作家と比べようなどというつもりは全然ないからです。まったく違います。私は自分を彼と一体化しようとしているのです。実践の混同であって、価値の混同ではありません。説明致しましょう。具象的文学、たとえば、小説においては、読者は、多かれ少なかれ(時々という意味ですが)、登場人物の一人と一体化しているように思われます。こうした投影こそが文学の原動力であると私は思います。しかし、例外的な場合には、読者が、自分自身、作品を書きたいと思っていると、この読者はもう単にある虚構の人物に一体化するのではなく、とりわけ、この本を書きたいと思い、それに成功した者としての作者自身と一体化するのです。ところで、プルーストは、『失われた時』が書きたいという要望の物語である以上、このような特殊な一体化に特に好適な場であります。私は記念碑的作品を書いた高名な作家に一体化するのではありません。ある時は苦しみ、ある時は高揚し、しかし、いずれにせよ、謙虚に、計画の最初から絶対的な性格を与えた仕事を試みようとした職人に一体化するのです。



では、まずプルーストです。
『失われた時』の前にプルーストの書いたものは沢山あります。一冊の本、いくつかの翻訳、いくつかの論説。あの大作が本当に書き始められるのはようやく一九〇九年の夏のことと思われます。その時以来、御存知のように、本を未完成に終わらせるかもしれない死に対抗する馬車馬のような働きが始まるのです。一九〇九年には(ある作品の執筆開始時期を正確に定めるのは空しいことですが)、明らかに、逡巡する重大な時期がありました。プルーストは、二つの路、二つのジャンルの岐路に立っていました。どちらの《方》へ行くか迷い、双方が合流するかもしれないということはまだ知りませんでした。ちょうど『失われた時』の「話者」が、ずいぶん長い間、ジルベルトとサン=ルーの結婚まで、スワン家の方がゲルマント家の方につながるのを知らなかったのと同じです。つまり、「エッセー」(「批評」)の方と「小説」の方との間で迷ったのです。一九〇五年、母が死んだ時、プルーストは、意気銷沈の、しかし、また、不毛な動揺の時期を体験します。書きたい、作品を作りたい。しかし、どんな作品を? あるいは、むしろ、どんな形式の? プルーストは、一九〇八年十二月、ド・ノワイユ夫人に書いています。《私は、ひどい病身ですが、サント=ブーヴ(プルーストの嫌悪する美的価値の体現者です)について書きたいと思います。私は頭の中では二通りの異なった形で出来上がっているのですが、そのどちらかを選ばなければなりません。ところが、私には意志の力も先を見通す力もないのです。》

プルーストは自分の逡巡を、当然のことながら、心理的な形で説明していますが、それは構造的な二者択一に対応していることに御注目頂きたいと思います。彼が逡巡している二つの《方》はヤコブソンが明らかにした対立の両項です。つまり、「隠喩〔メタフォール〕」の項と「換喩〔メトニミー〕」の項です。「隠喩」は、《これは何か》、《これは何を意味するか》という問いを発する一切のディスクールを支えています。それはまさにあらうる「エッセー」の問いです。「換喩」は、逆に、別の問いを発します。《私が述べていることの後に何が続き得るのか》、《私の語っているエピソードは何を生み得るのか。》これは「小説」の問いです。ヤコブソンは小学校の教室で行なった実験を例に挙げました。《ヒュッテ》という語に子供たちがどんな反応をするか調べたのです。ある子供たいはヒュッテは小さな小屋だと答えました(隠喩)。他の子供たちは燃えたと答えました(換喩)。プルーストはヤコブソンの教室の子供たちが二つに分かれたように分割された主体なのです。彼は人生の出来事の一つ一つが註釈(解釈)を加える機会、あるいはまた、それぞれの物語的以前や以後を示したり、想像したりする筋書を作る機械となり得ることを知っています。解釈するとは「批評」の道に入ることであり、批評の理論を論じ、サント=ブーヴに反対の立場を取ることです。出来事や印象をつなぎ合わせ、展開するとは、反対に、たとえゆるみはあっても、少しずつ物語を織り上げていくことです。

プルーストの逡巡は、彼が新米ではなかっただけに(一九〇九年には、彼は三十八歳でした)深刻でした。彼はすでに書いていました。彼の書くものは(とりわけ、いくつかの断章レベルでは)、しばしば、小説的であると同時に論文調の、混合した、曖昧な、ためらいがちな形式に属しています。たとえば、サント=ブーヴについての考えを述べるのに(「エッセー」の、「隠喩」の分野)、プルーストは母と自分との架空の対話を書くのです(「物語」の、「換喩」の分野)。この逡巡は深刻でしたけれど、多分、大事なものでした。プルーストが愛し、賛嘆した作家たちは、ネルヴァルやボードレールといった、彼らもまた、ジャンルの間で何らかの逡巡を体験していることをプルースト自身が確認した作家でした。

この葛藤から彼のパトスを復元する必要があります。プルーストは苦悩を受けとめ(彼は母の死によって苦悩を、絶対的な苦悩を知ったばかりでした)、それを超越する形式を求めます。ところで、《知性》(プルーストの用語)は、『サント=ブーヴに反対する』の冒頭で、プルーストが批判するものですが、ロマン主義的な伝統に従えば、感情を傷つけたり、枯渇させたりする力です。ノヴァーリスは詩を《悟性の傷を癒すもの》として示します。「小説」にもそれができます。しかし、どんな小説でもいいのではありません。サント=ブーヴの考えに従っていない小説だけにできるのです。

プルーストがどんな決断によってこの逡巡から抜け出しだのか、また、(状況的原因があるとすれば)なぜ『サント=ブーヴに反対する』を放棄して(一九〇九年八月、『フィガロ』に拒否されたからでもありますが)、本格的に『失われた時』を書き始めたのか、われわれにはわかりません。しかし、彼が選んだ形式は知っています。それはまさに『失われた時』の形式です。小説でしょうか。「エッセー」でしょうか。どちらでもありません。あるいは、同時に両方でもあります。私が第三の形式と呼ぶものです。この第三のジャンルについて少し考えてみましょう。

私がこの考察の始めに『失われた時』の最初の文を引いたのは、それが五十ページにわたるエピソードの発端だからです。それは、チベットのマンダラのように、プルーストの作品全体を一括して視野に収めています。このエピソードは何について語っているのでしょうか。眠りについてです。プルーストの眠りには創基的価値があります。それは『失われた時』の独自性(《特有性》)を形成します(しかし、この形成作用は、やがて見るように、実は、解体作用なのです)。

もちろん、いい眠りと悪い眠りがあります。いい眠りとは、母親の夕べのキスによって開かれ、始まり、許され、認められた眠りです。「自然」の理にかなった(夜、眠り、昼、活動する)正しい眠りです。悪い眠りとは母親から遠い眠りです。息子は、昼、眠り、その間、母親は起きています。二人は正しい時間と逆転した時間とが交錯する束の間にしか出逢いません。一方にとっての覚醒が他方にとっての睡眠なのです。この(睡眠薬による)悪い眠りを正当化し、つぐなうには、作品全体をもってしても足りません。なぜなら、『失われた時』が、毎晩、夜を徹して書かれるのは、こうした逆転というつらい代価を払った上でのことだからなのです。

(幼年期の)いい眠りとは何でしょうか。《半覚醒》です。(《私は最初の章を半覚醒の印象の中に包み込もうと努めました。》)プルーストは、ある時、《われわれの無意識の深み》について語っていますが、この眠りにはフロイト的な所は全然ありません。夢幻的な所がありません(プルーストの作品には、本当の夢はほんの少ししか出てきません)。それは、むしろ、無秩序としての意識の深みによって構成されているのです。このことは眠りが書かれ得るのは眠りの意識があるからだという逆説によって説明できます。エピソード全体が(したがって、私の考えでは、そこから発する作品全体が)、こうして、いわば、文法的には許されない形で宙吊りになっているのです、《私は眠る》と述べることは、文字通り、《私は死んだ》と述べるのと同じ位不可能なことだからです。エクリチュールとは、まさに、このような、言語にーー言語の不可能性にーー手を加え、言述を生かす活動なのです。……(以下略)